阿蒙。
君の名を呼ぶ
パチリ、と対局相手が打った一手を見て呂蒙は顔をしかめた。
正直な所やや劣勢だった局面が、どうやら完全に劣勢になってしまったらしい。
勿論対局相手はそんなことは百も承知で、難しい顔をする呂蒙の顔を見てはにやにやと笑っていた。
「どうした阿蒙。ほれ、さっさと次の一手を打たんかい」
「ま……」
「待った、はなしだ。もう三回目になる。幾ら気の長い俺でもそう何度も待てんよ」
阿蒙。蒙ちゃん、と親しみとからかいを込めてそう呼ぶと、対局相手のはヒラヒラと扇をそよがせた。
川からの風が涼しくて気分が良い。久々の休暇に舟遊び、そして碁打ち。全く持って申し分の無い日だと言えよう。
もっとも良い年にもなってそう年の変わらない相手に蒙ちゃん、と呼ばれるのは余り面白くないことなのだが。
「次の一手が思いつかないんならもう仕舞いにするぞ。俺は眠いんでな」
折りしも下男たちには就寝するように申し付けたばかりであった。
丁度良いといえば丁度良い頃合だろう。
「それとももう一局打ち直すか?」
伸びをしていた手を止めると、は扇をこちらに向けて差し出した。
それをやや迷惑そうに避けると、その言葉に従うのは少々腹立たしいものの呂蒙はぶっきらぼうにああ、と答えた。
「いや、だが単純に打つのでは面白くないな……そうだ、何か一つ賭けるとしよう」
「賭け事は余り好かないな」
「それじゃあ俺は勝ち逃げさせてもらうぜ。良いだろうそれくらい。嫌ならお前が勝てば良い話だ」
「それはそうだが」
果たして勝てるか、と思うと呂蒙は途端に不安になった。何せ勝った験しがないのだ。
勿論ハナから勝てないと思って打つのは全く持って良くないとは解っている。
迷った。
「もし、お前が勝ったなら俺はお前を阿蒙と呼ぶのを止そう。もし俺が勝ったなら」
「お前が全部決めるのか?」
「良いじゃないか。どうせお前の頭の中に賭けるものなど思いついちゃあいないだろう」
「ぐ」
図星を突かれて呂蒙が押し黙ると、俺が勝ったなら、の後は言わずには石を片付け盤をきれいにした。
「おまけにお前に有利なようにしてやるよ」
五つの黒石を盤上に並べるとはお先にどうぞと譲った。
宵闇がとっぷりと辺りの川の水を得体の知れないほど恐ろしい色に変える。
世界が闇に包まれてしまったようで、夜の水は怖いとは思う。じっと見れば見るほど手が伸びてきて水底へと引き込まれてしまいそうだ。
「、お前の番だぞ」
「ん、ああ。そうだな」
「どうした?上の空だな」
「次の戦のことを思えば今ゆっくりしているのが少々居心地悪く思えてね」
「嘘をつけ。お前のお得意は臨機応変だろう」
「理詰めで責めるは阿蒙、と」
所詮自分は一武将に過ぎないさと言うとは止めの一手を打った。
当初は呂蒙にとって完全に有利だと思われていた局面は、今や完全にの手中にあった。
「確かにそうかもしれないね。これを見ていると」
だが数日後にはお前が勝っているかも知れんさ、と慰めを付け加える。
呂蒙は唸るばかりで次の一手を打つことが出来ないで居た。打っても所詮、焼け石に水というものだ。
最早、陣地は___の大軍勢によって押され、風前の灯となっている。
「投了するかい?阿蒙」
「悔しいがな。俺の負けだ。それで、お前は勝ったらどうするつもりだったんだ?」
「ああそういえば、そんなこともあったな」
今更思い出したように言うとはジャラジャラと碁石を片付け始めた。
綺麗に黒と白の石をそれぞれの入れ物に入れて蓋をぱちんと閉じる。
盤上に二つの石入れを置くとは呂蒙の額に嵌った環を指差した。
「それをくれないか」
「別に構わないが、そんなもので良いのか?」
値打ちものでも何でもないぞ、と呂蒙は環を外すとそれをに渡した。
「有難う」
心から嬉しそうにそれを受け取って懐に仕舞いこむと、は自分の佩玉を外して呂蒙の前に差し出した。
「これは?」
「持っていてくれ」
「意図がさっぱり読めんが……呪いか何かなのか?」
そういえばは道術に通じていたと思い返しながら呂蒙は佩玉を受け取り腰に下げた。
翡翠と瑪瑙の実に見事な細工物である。主君でもこれほどのものは持っていないだろう。
何年もの間、丁寧に磨かれてきたものであるらしくつやつやと光り、殆ど白いものが混じっていなかった。
自分の環など、金で出来てはいるものの細工はそこまで凝っておらず、おまけにそう古くないものである。
が自分に渡してくれたものの方が余程の値打ちものだった。
「違うって。愛の証」
「ぶっ」
真面目な雰囲気を覆すその一言に呂蒙は思わず吹いた。
汚い、と扇できっちり防御するとは立ち上がって窓から外に顔を出した。
星が瞬いている。対照的に相変わらず川の水は底知れない闇を孕んでいた。
「お前に妻がいることも、子が居ることも知っている。けど、少しくらい証を分けてもらっても良いだろう?」
「。お前はまたそんな」
「こんなことを言ったらお前を困らすってことはわかってるよ。だから賭けたんだろう」
手に入らなかったら、それはそれ。縁が無かったというものだ。
「まあ少々小狡い手だったことは認めるよ。だからお前を阿蒙呼ばわりするのも止そう。子明」
「ばかもん」
「そういうところが可愛くてさ。つい、ね」
「違う。俺が言いたいのは、お前はそんなものがなくちゃ俺を信用できないのかということだ。」
「まさか」
大袈裟な身振りをすると、はそういう意味では呪いに近いと笑った。
「俺も一応人の子だからな。一人前に悋気くらいは持っている、そういうことだ」
「全く事態が読めないんだが」
「わかる奴に自慢くらいさせろ、そういうことだよ」
ぱしゃん、と魚が川に跳ねる音がした。
翌々日。錬兵場に呂蒙が顔を出すと、の周りに人だかりが出来ているのが目に入った。
兵卒達は基礎鍛錬をさせられているようだが、どうにも将軍格の人間ばかりが集まっているだけに気になって仕方がないらしく集中力を欠いていた。
呂蒙がそちらに足を向けるも、たちは気づく様子もなく熱心に話している。
「つまり、呂蒙殿は殿に、これを?」
「そういうこと。わかったか陸遜。これが年の功だ」
「親友の間違いじゃないかねぇ」
「それじゃあお前が俺よりもあいつの心を手に入れているとでも?凌統、それじゃ呂蒙の腰の辺りをよく見ておくんだな」
「おっさんの?何でまた」
「そうだ。なんでまた俺の腰なんぞを見なくちゃならんのだ」
「うえっ」
漸く口を挟む機会を得た呂蒙が発言するなり、その場に居た陸遜、凌統、甘寧、の四人が飛び上がった。
が、以外の三人は早速呂蒙の腰の辺りを見ることにしたらしく視線は一点に注がれている。
「もしかして、この綺麗な佩玉は……」
「なーんか見覚えがあるんだけどね」
「簡単に言やぁ、のなんだろ、なあおっさん」
「そうだ。が、時に何処へ行く」
人の首を狩るために作られた武器、戈を器用に操ると呂蒙はその場をそそくさと後にしようとしたを捕まえた。
さしものもこうなってはどうしようもないと思ったのか、ぐるりと方向転換をすると取り繕うような笑みを浮かべた。
「昨晩言っていたのはこういうことか?」
「んん?何のことかな?」
「可愛い子ぶっても俺には効かんぞ。吐け」
ぐい、と切っ先を寄せればの口先が引きつった。
「そうでーす」
「素直に言えば良いものを。別に俺は責めておらん」
「え?」
ぽかんと口を開けるをぐいと引き寄せると呂蒙は他の三人に見せびらかすようにつきつけた。
「良いか、お前達。はこれでも俺のものだからな。わかっているとは思うが」
「ええっ。どういうことです呂蒙殿。お二人がくっついてしまわれたら、私たちには選択権がなくなるじゃありませんか!」
「どういう意味だよ陸遜」
がぎょっとなって言えば、凌統がやれやれと髪をかきあげて説明をした。
「今まで気づいていなかった、ってのがの良いところだよな。俺達は呂蒙殿もも好きなんだよ」
「正直くっつかれるとつまんねぇよな」
甘寧の場合はさほど身が入っているようでもないようだが、陸遜と凌統はそれなりに本気であるらしかった。
口をパクパクさせて愕くに呂蒙はため息をつくとその額を弾いた。
「あたっ」
「、俺はあの時一応賭けるものを考えていたんだ」
「何を?」
「お前の佩玉を、俺にくれてほしいと」
照れくさそうに言うその顔を見上げて、はああこの人を好きになってよかったのだと心から思った。
「お前に先を越されて言われたのが悔しくてあんなことを言ってしまったがな。___俺にも、嫉妬心くらいはある」
「子明」
「だから賭けは無いも同然だ。俺は阿蒙で良い」
「でも、お前は嫌がっていたはずじゃ」
「お前には」
お前には、お前だけには阿蒙と呼ばれても構わないんだよと呂蒙は言った。
馴れない台詞なのか耳たぶまで朱に染まっている。
阿蒙。蒙ちゃん。
そんな二人を若い三人が困ったように眺めていた。どうにも入り込む隙間が見当たらないのだ。
「阿蒙」
「ああ」
ずっと好きだよ。
何かが跳ねる音がぱしゃん、と耳に響いた。
きっとそれは心の中で響いたに違いない。
[終]
後書き>>
紅無姐さんに捧げる気持ちで。呂蒙夢をいかに我が家のおっさん主人公と絡ませるかがテーマでした。
なんだか乙女チック……!もう若い子には入り込む隙間も無い。
阿蒙というように『阿〜』と呼ぶのは好きです。可愛らしい。
最後まで読んでくださり、有難う御座いました!