何れも遠く真遥かに
されど近しきその御姿よ
こいては泣き
泣いてはこい
汝が名は月
我が手より逃がるるもの
月になる
闇色の帳がなべて等しく家々を覆い、ただ丸い満月のみが一条の光を照らし出している。
呆然とする凌統を置き捨て、自室に引き下がったは月明かりの下さらさらと筆を進めていた。
勿論書いているのは明日孫策に直接渡そうと考えている辞表の書である。周瑜に渡すとなるとまた一悶着起きかねない。
さしものもそう手間をかけたいとは思わなかった。
「ずっと愛している、か」
ふと、は口元をほころばせると拙い、しかし何よりも心の篭ったその言葉を反芻した。
人間は不思議だ。やはり、自分は人間ではないのだとこんなときつくづく思い知らされる。
片一方でその心を持って相手を殺せば、もう片一方ではその心で人を包み込み、救おうとする。
もし、自分が人であれば。
道具のように思われずに同士として、仲間として周瑜は扱ってくれただろうし、凌統の他愛も無い言葉に捨て置かれる身を思うことなどないはずだ。
胸が痛む。化け物の心がいかほどなものだろう。
「様」
最後の行に差し掛かったとき、心地よい匂いのする茶を携えて元昊が部屋に入ってきた。
香りからして糀が含まれているように思って、はさらりと残りを書き上げくるくると書を纏めた。
「公覇か。丁度良い頃合だな」
「書き上げられましたか」
「……ああ」
「凌統様はお泊りになられるそうです」
「そうか。_____少し、厄介だな」
「何がです?明日の晩に発つのでしょう。何も差し支えないように思えますが」
小首を傾げるこの柔和な従兄弟に、はこんな風になってみたかったと嘆息した。
自分よりも化け物の血が濃いこの従兄弟は余り人間の機微を解さない。それがために自由であり、また無頓着であった。
は注がれた茶を一口口に含んで湿らせると張りのある声で説明した。
「明日辞めることを俺は既に周瑜殿に申し上げている。しかし周瑜殿としては機密を抱えた、その上何かと使える道具である俺を他所にはやりたくないだろう」
「反対なさっているのですか。ではそれを受け取ってもらえないのでは?」
「これは直接孫策様に渡す。が、周瑜殿もそれくらいのことは考えているだろうから、俺のことを殺そうとくらいは考えるんじゃないか」
「人間の身に何が出来ますか」
殺せるわけが無いでしょう、と元昊は何がおかしいのかころころと笑った。
少し人と笑いのつぼがずれている。も今ひとつわからなかったが、それを押し黙らせた。
「必死になった者ほど恐ろしい者はないぜ。まず、考えられることとして当然ここを周瑜は押さえに来るだろう」
「ああ、なるほど」
漸くが言いたいことが解ったのか、元昊はぽんと手を打って糸目を少し開いた。
さしもの彼も先ほどおそれ知らずに自分の主に愛の告白をした人間のことに気がついたらしい。
しかし納得したのもつかの間、直にですがと反駁した。
「様はこの国をお捨てになられるのでしたよね」
「ああ」
「では後のことなど気にする必要などないではありませんか」
それがたとえ親しいものの犠牲を意味するとしても。
正論だった。ましてや自身酷く人間に傷つけられた身だ。今更人など気にしてどうなると言うのだろう。
「気になるのですね」
「______そうなんだろうな」
困ったように呟いて、は額を押さえた。八方塞だった。
明日の晩に出ることはもう固く決めたことで、変更の余地は無いと思う。
が、しかし凌統をこのまま捨て置くことを思うとひどく胸が痛む。
「様。私は宮城で何があったのかは存じません。ですが、思いますに様はやはり人ですよ」
「人?この俺がか。何を言っているんだ、公覇。俺はれっきとした」
「心をお持ちの貴方が何を言いますか。私には余り解することなどできません。ですが様が心を持つが故に苦しんでいることくらいはわかります」
心を持つが故に苦しむのだ。
人と化け物の間に生まれ出るものの悲しさよ。
人になりきれず、化け物にもなりきれず、中途半端な業を負い、苦しみ傷つき果てに何を見るというのか。
「俺は人なのか、公覇」
「少なくとも私よりは」
ずっと人ですよと化け物が言った。
ひどく気分の悪い夢を見ていたような気がする。
目蓋がまだ重く垂れ下がっているかのような心持だったが凌統は何とか寝台から起き上がった。
何時ものように靴をつっかけ顔を洗いに行き、世話をする女官と会話をして始めてその奇妙さに気がついた。
「何で、俺は自分の家に居るんだ?」
そうなのだった。ほぼ無意識で全てのことをやりとげられたのもそれが自分の家だったからだ。
しかし昨晩自分は確かにの屋敷に行き、去ることを告げられ、そのまま彼の家に泊まったのだから、そんなことが起こるはずもない。
傍に居た下男に尋ねれば、夜のうちにお帰りになられたのだと思っていましたがととぼけた答えを返された。
つまり誰も自分の帰るところを目にしていないのだ。
「!」
胸騒ぎを覚えて着替えもあわただしく馬に飛び乗り駆ける。
こんな夜盗まがいの芸当が出来るのは勿論彼らしかないない。
そして彼らがそんなことをしたのには勿論理由があるはずだった。
小路を抜け、角を曲がり、城外にほど近い位置にあるの屋敷の前に着けばそこには人だかりが出来ていた。
どうやら渦中となっているのはの屋敷のようである。凌統は馬から降りると天秤棒を担いだ男に尋ねた。
「なぁ、一体何があったんだ?」
「詳しくは知りませんが、どうも将軍が昨晩城門を突破したそうで。今お役人様方が検分にいらっしてるんですよ」
「将軍が?」
行ってしまった。今晩発つはずではなかったのか。
いや、何れにせよ自分は彼を止めることなどできなかったのだ。
愛する人はもはや遥かに遠くへと旅立ってしまった、というそのことがひどく凌統の胸を痛ましめた。
急ぎ屋敷にとって返し、衣服を改め宮城に入る。
だが予想していたほどの混乱は起きていないらしく、将軍達も召集されては居ないようだった。
謀反ではないことが明らかだからだろう。それは奇妙な行動だった。
裏切りを意味するのか逃亡を意味するのかそれとも別の何かであるのか、それを判断することは誰にも出来まい。
「凌統」
甘寧か陸遜は何か知っているだろうか、と居そうな人間を探していると背後から声がかかる。
振り向けば、ここのところ容態の悪化していた周瑜がその顔を更に蒼白にさせて立っていた。
「何ですか、周瑜殿」
「殿が昨晩未明に城門を突破したことは既に耳にしているな」
「はい」
何の挨拶もなくずばりと用件に踏み込んでくるのは余り周瑜らしくないように思えた。
近頃矢鱈とことを急いでいるようにも思えるのだがそれと関係があるのだろうかと凌統は首をかしげた。
「今朝方、私の屋敷にこれが投げ入れられていた」
「これは……の辞表の書、ですか」
「まだ承諾はしていないが」
そうだろうと思った。一国の将軍にそう簡単にやめられてしまっては困るだろう。
しかし周瑜の言いたい所は別にあるらしい。美しい顔を歪めると苦しそうに続けた。
「殿がこんなことをしたのは私の至らぬためだ」
「どういう意味です」
答えて凌統は自分の言葉の間抜けさに舌打ちをした。
どういうもこういうもなく、そのままの意味なのだろう。
が恐れた『人間』、その根源はここにあったのだ。昨晩は周瑜と会い、そして何事かを言われたのだ。
勿論その言葉は何かの思いが裏打ちされていて、けして一辺倒なものではなかっただろうけれども彼を決意させるに充分なものだったに違いない。
「それは……いや、止そう」
言いよどんで周瑜は目を地に落とした。
彼なりに悔恨しているのだ、と凌統は自分自身を落ち着かせるためにそう思い込むことに決めた。
そうでなくては目の前に居る尊敬する人を憎んでしまいそうだった。それでは悲しすぎる。
「追わなくていいんですか?」
だから務めて何もない振りを装って極事務的に尋ねた。
勿論既に答えは知れている。知っているから尋ねたのだ。
「いい。好きにさせよう」
「そうですね」
「凌統、私を恨むか?」
瞬間息を呑む。それからひどい葛藤が自分の中に起こり、ほんの僅かに額に熱が灯った。
何でも無い様に言うのがひどく辛い。
「恨んでも仕方がありませんよ」
「そうだな」
胸焼けがするような返事に聞こえた。
遥か遥かに草原を駆け、崖を抜け谷を越えて山に行く。もう都を出て何度目かの夜であった。
馬に乗らずともさながら馬の如き速さで黒い影が飛ぶように移動していた。
「様」
「うん」
「追っ手がかかりませんね」
先頭を切るにぴったりと寄り添うようにして走っていた元昊が囁いた。
瞬きもせず呼吸を荒げるようなこともしない。皆市井に出ていた頃とは打って変わってその本性を露にしていた。
「そういうこともあるかもしれないとは思ってたよ」
「何故です?」
「周瑜殿は人だからさ」
もとから、と付け加えては空を仰ぎ見た。
天はひどく広く何処までも何処までも連綿と繋がっているらしい。漆黒の中に月が浮かんでいるほかその調和を崩すものは一つとしてない。
地はこんなにも割かれており、ましてや人の心などそれに輪をかけたようにばらばらにも拘らず、それは一つの形となっていた。
「なぁ公覇」
「はい、様」
「次に生まれるときはこの地上ではなく、あの月に生れ落ちたいものだな」
なあと夢見るような調子で言っては微笑んだ。気のせいか少し泣いているようだった。
元昊にはその心持が理解できない。理解できないが受け入れ頷いた。
人の夢は儚いものなのだから、少しくらいは良いだろう。
「私も共に」
山が冷えていた。
[NEXT.]
後書き>>
更新お休みでかなり間が空きましたが、多分これで次が最後です。
タイトルは余り聞かないくせにシロップ16gの曲からもらってきました。
最後まで読んでくださり、有難う御座いました!