DREAM NOVEL
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自然と顔が向くのも道理。


陽を浴びて


 神とは人の理では計り知れない、奇妙な目的を持っている。例えば楽しければ人の命がいくら失われても良いであるとか、失くなれば元に戻せば良いだとか、そうした乱暴なものから、自分の代わりにあらゆる世界を滅ぼそうとするといったことだ。しかも実現可能であるところが恐ろしい。と名乗るようになった、神であることをとうに放棄したにとっても頭の痛い話である。振り回される側の気持ちにもなってみろと言いたい。

が、神々を動かすのは難しい。とすればひ弱であっても元々神であった自分ができるのは、少しでも火の粉を除けてやることくらいである。何よりも、は神々の間で暮らすよりもよほど今の環境が幸せだった。今、自分が存在する世界はゼウスが作り出した仮初の舞台であり、呼び寄せられた人間たちはいつか元の世界へと組み込まれる。これもまた神々の戯れの一種と言って良い。そして神から人間へと堕とされたがたどり着くのは仮初の世界と一蓮托生となった崩壊だ。けれども今は、それすら楽しみでさえある。

「体の軸が、前よりもずっと確りとしましたね」
「良かった。銀屏様ほどではないけれども、筋肉がついてきたかな」

文鴦の凛とした声に胸を弾ませると、は心持ちたくましくなった自分の腕を撫でた。人間となってからは一層貧弱で不格好な体となったに、何よりも必要なのは鍛錬だ。幸にして名だたる武将が集うこの場所には多くの師と仰げる人物がいる。とりわけこのところは趙雲に教えを乞うことが多い。数多の若手を指導したというだけあって、この爽やかな青年はに基礎的な鍛錬のやり方を手ほどきしてくれた。横に並んだ文鴦も同じで、目をキラキラと輝かせて趙雲の話を聞いていたものである。趙雲よりもさらに時代を降った青年は、幼少期からこの異国の猛将に憧れを抱いていたらしい。戦いのやり方から構えまで似せる文鴦を、は心底微笑ましくも愛しくも思った。

「文鴦殿も、太刀筋に迷いがなくなりましたね。俺如きが言っても説得力はないかもしれませんが、とても綺麗です」
「そんな言い方をなさらないでください。嬉しいですよ。殿は嘘をつけない方ですから」
「全くだ」

唐突に響いた声に振り向くと、は唖然としながらも文鴦と差し向かいになった状態を解き、鍛錬場の入り口へと目を向けた。神々しいばかりの姿が文字通り降臨している。憧れめいた思いに胸を弾ませながらも、は努めて冷静な声を返した。

「アレス様、驚かせないでください」

集団訓練を受ける雑兵たちが海のように立ちはだかろうとも、主神の嗣子であるアレスの存在は霞むことがない。正に次代を担う強さだ、とは眩しさに目を細めた。文鴦にとっての趙雲のように、が幼い頃から憧れと、さらには卑屈な思いを抱くのが従兄弟でもあるアレスである。先日長年の誤解が解けたものの、未だに体には緊張が走る。異様な空気に気を使ってか、文鴦は驚く兵たちをまとめてさっさと移動してしまった。数歩、歩けば手を繋げるほどに近い距離までアレスが迫り、は一歩退いた。

「『兄上』と呼べと言ったはずだ。物覚えは良いはずだろう」
「……だから、軽率に褒めないでください」

冗談にしか聞こえない台詞に、は酸っぱいものを口に含んだような表情を浮かべた。アレスの方は至って真面目な様子であるため余計にタチが悪い。この顔で何人の神や人を振り回したろうか、とその白皙の美貌に蕩然としかけては首を振った。自分にとっては太陽神のアポロンよりも、アレスの方がよほど輝いて目を逸らしたくなってしまう。

「俺は本気で言っているんだ」
「お、恐れ多すぎます」

嘘だ。未だ耳慣れない言葉に目を白黒させながら、は必死に隠れる場所を探した。このだだっ広い場所で隠れる場所などあろうはずもない。おまけにこの従兄弟は自分を探し出すのが恐ろしくうまいときている。ぐい、と腕を引っ張られ、は吸い込まれるようにしてアレスの腕の中に収まった。神気で頭がクラクラする。まるでディオニュソスが汲み出す杯を受け取った時のようで、は一人前になった証だと弄ばれた日のことを思い出していた。

 盛大な茶番の根源であり、全ての世界を揺るがしかねないオーディンの野望を阻むという目的の下、再び真田幸村たち人間と共に歩むことを選んだアレスは以前よりもその率直さと生真面目さを柔軟なものへと変えていた。真意が分かりづらい傲岸不遜な物言いも、今では人間たちの間でうまい具合に翻訳されるようになった程である。にしてみればアレス元来の良さが浸透したということでもあり、嬉しくもくすぐったい気持ちだった。先日も、洗濯場で女性たちがアレスのぶっきらぼうさも良いと噂しあっていて静かにうなずいたものである。

「俺が許可したことだ。何を躊躇する必要がある。昔は呼んでいたろう」
「あれは子供のすることです」
「……俺のことが嫌いなのか?」

問題は、その柔軟さがに対しても適用されるようになった点だろう。従兄弟であることは既に周囲に知られているから問題はない。が、いくら従兄弟とは言え許される範囲というものがあるのだし、長年染み付いた姿勢を解くのは些か照れくさい。しょんぼりとした犬のような声音に、は仕方なしにその背を撫でた。

「嫌いになるはずがないでしょう。その、兄上と呼ぶのは恥ずかしくて。アレス様は俺が兄上と呼ぶにはかっこ良すぎるんです」
!」

ぎゅうぎゅうと抱きしめる力が強くなり、は内臓が飛び出るのかと思いながら苦しいと必死で訴えた。今の自分はただの人間であり、神の頃であっても死ぬかと焦ったアレスの馬鹿力を前にしては木の葉も同然のか弱さである。父親が待つ冥府の入り口が見えた、と後には文鴦に語った。ようやっと力を緩めたアレスの顔が火照った様子で、一層美しく見えるのは気のせいではないだろう。きっとまた多くの人間を虜にしたに違いない。誰にでも自慢したい気持ちと同時に、モヤモヤとしたものが胸に残る。晴れ間に雲が漂う様子にも似た気持ちの濁りに落ち着かず、は改めてアレスに用件を尋ねた。

「何か俺に伝えたいことがあるんじゃありませんか?会いに来るだけが目的ではないでしょう」
「会いに来るだけにしておきたかったがな。聞いて驚け。――伯父上がいらした」
「は」

冥府の入り口が見えたのは気のせいではなかったらしい。まさかの冥府の主人、ゼウスの兄でもあるハデスがこの世界に降臨したのだ。




 つくづく似ない親子だ。自分のことを棚に上げ、アレスはハデスとを見比べた。後者は目立たないようにといつも以上に息を潜めて部屋の隅に立っている。事情を知らない人間が見れば、ただ衛兵がいる程度にしか思わないだろう。それほどまでに、は神であった名残さえなかった。

「アレス。元気そうだな。相変わらず生真面目か?」
「伯父上もお元気そうで何よりです。失礼ですが、伯父上たちがもっと真面目でいらっしゃったらもっと気楽でいられるように思いますね」
「その物言い、ヘラにそっくりだな」

アレスの母の名を持ち出すと、ハデスは冥府の王とは思えぬほどに快活な笑顔を浮かべた。美しい金の髪に、褐色の肌。均整の取れた体つきに、青年のような見目を持った男は陰気な冥府とは似ても似つかない。彼の本妻であるペルセポネーは、その陰鬱さから地上に一定期間戻ると言われているのだが、アレスは別の理由からだろうと踏んでいた。伯父はゼウスとの血の繋がりを感じさせるほどになんというか――存在がうるさいのである。

 一方、と名乗るようになった青年の方がよほど冥府を想像させた。背は小さく、どんなに食べさせても飢えるかのように細い。あれで大食漢で、アレスに付き合って延々食事を取ることができる数少ない人物だ。ハデスの末子に生まれ、神気の弱さとその『隠れる』ことに特化した能力故に蔑まれてきたためか、性格はおどおどとして卑屈のきらいがある。陰気、という言葉はまさに相応しい。たまたま近くにいたこともあって、アレスが何かと構い、庇ってきたのはぴいぴい言いながらついてきた人懐こさ故だろう。一時期隔たりが生じたものの、今では以前よりもわだかまりのない付き合いができていると踏んでいる。

そして親子の仲は、と言えば、まるで他人のように何もない。ハデスはひょっとしなくとも、数多の子供の最後の一人であるを忘れているし、はそれを理解して距離をとっている。二人は会話したことがあるだろうか、とアレスは今更のように疑問に抱いた。少なくとも今、同じ空間にいるにもかかわらず二人はなんの触れ合いもしないままだ。先ほどにいち早くハデスの到来を知らせた際には一瞬緊張したものの、それ以上の様子を見せなかったので気にしなかったが、この様子では自分とゼウスの方がよほどまともな親子だと思わずにはいられなかった。

「あの、伯父上」
「うん?」
「フィリッポスのことですが、」

の元々の名前を持ち出すと、アレスは久方ぶりに口にした単語を愛しく転がした。馬を愛するもの、と名付けられた少年は母親が馬好きであったことからこの名前を父であるハデスに貰ったと言う。さすがにその程度のことは覚えているだろう。ハデスは首を傾げるようにして、ああ、と軽くうなずいた。

「ああ、あの子か。もう大人になったと思ったが、今はどうしているやら。お前は昔からよく世話をしてくれていたな」
「ご存知ないのですか」
「妙に気にかけるんだな」

すぐそばにいても尚気付くのことのない父親に、それを当たり前のものとして受け止める子供。否、は最初からこの父親から向けられるものなど諦めているのだろう。自分だけが、気にかけている。今では友人も多いようだが、結局この世界がなくなっても覚えているのは自分ばかりだ。密かに暗い喜びを得たことに顔をしかめると、アレスは取り繕うように首を振った。

「俺の子供だ、好きに生きるさ。大丈夫だとも。冥府には来ていないはずだが、もしかしたら見過ごした可能性もあるな」
「伯父上!」

無関心であることを殊更に主張するような物言いに、アレスは思わず声を上げた。ハデスの目がからかいを孕んでいることが一層腹立たしい。だ。こんな男の横っ面を叩くくらいのことはしても良いだろう。手をわななかせていると、ゼウスがス、と間に割って入った。

「そうかっかするな、アレス。……、こちらに来るように」
「ゼウス様、あの、俺は」

さすがは父親と言うべきか、自分の思いを汲んだかのように動くゼウスに、アレスは久方ぶりの感銘を受けた。困ってしまったのはで、ハデスの目が自分に向かないように下をむいてやり過ごそうとしている。かと言って、自分がここで動くことは彼のためにもならないことをアレスはよく承知していた。子供の頃であればいさ知らず、大人になったの意思は尊重すべきだろう。


「はい」

ゼウスの呼びかけに、渋々ながらが近寄る。一歩、また一歩。ハデスは一体何が始まるのだろうかという表情でを眺めるばかりで、やはり気づきもしない。引き合わせるだけ不幸な話だ。後で目一杯甘やかそうと心に決めると、アレスは哀れみを込めた目で親子の対面を見守った。

「ハデス。気づかんのか?今はと名乗っているが、こいつはフィリッポス。お前の息子だ」
「ほう、こんな子供だったか。俺に似ないな」

ゼウスに誘われるようにして我が子の顔を見るハデスは、少々落胆した風であった。はひ弱だ。美しさや雄大さ、圧倒的存在感や能力といったものは持ち得ない。神としての彼を求めるのは間違っている。ハデスの記憶にあるが、『神であるハデスの息子』であるならば、人間になった子供は尚更不合格というわけだ。ゼウスとてこの展開はたやすく想像できるだろうに、目元は楽しそうに歪んでいる。我が父親ながら実に度し難い。不躾な視線に晒されたは、きっと顔を上げてハデスの目を払い除けるように正面から言葉を返した。

「……子供ではありません。ゼウス様、御用事はこれだけでしょうか?以上でしたら、俺は任務に戻ります」
「まあまあまあまあ!そう急くなって」
「わっ」

にしてはよくやった方だ。じん、と胸が熱くなったのも束の間、がガッチリとハデスに捕まり、アレスは思わず目を見開いた。ハデスの迫力に押されて、がはくはくと唇を開閉させているのが忌々しい。間抜けとも言える表情は妙に愛嬌が出て良くないのだ。実際、はあの締まりのない顔が和んで良いのだと方々で耳にもする。ハデスはの頭を撫で、ほっぺを突きながらあくどい笑顔を浮かべた。

「久しぶりの親子の対面じゃないか。もっと馴れ合ったって良いだろう。、フィリッポス、どちらで呼んだ方が嬉しいか?こうして見れば、お前の母親によく似ているな」
「あ、あの、」
「しかもここで働いているだなんてなあ。役に立ってるのか?ゼウス」
「勿論だとも。人の身になっても尚お釣りが出るほどの活躍ぶりだぞ」
「なら良いんだ。俺も鼻が高いってね」

んー、とハデスが盛大にの額に口付ける。撫でて、髪やら目やらあちこちに口づけを降らせる様は、まるで赤子に対するものと同じだった。にわかに緩んだ態度に、さしものもついていけないのか、真っ赤になって固まっている。何せ、この男は人に愛されることに慣れていないのだ。ましてや生まれてこの方、甘やかしてくれることもなかった父親にされたのであればどれ程意外で嬉しいだろう。

「少し、親子水入らずで話そうか。聞かせてくれよ、お前の話をさ」
「に、任務に行くまでならば」

だからと言って、それほど蕩けられても面白くはない。強引にずるずると連れられてゆく姿を目で追って、アレスは眉間のシワを深くした。




 親子とは、このようなものか。生まれて初めて父親と間近に接する機会を得て、の頭は飽和状態だった。故郷のことなどもう遠い過去のこと、今この時を人間として生き切ったらば大満足だとさえ思い始めていた頃に過去に呼び覚まされたような心地である。隣に並ぶハデスの端正な顔立ちをちらりと見ると、は深くため息をついた。神とはかくあるべし、を体現した存在は我が父ながらに心臓に悪い。

「尻込みをするな。俺の息子なんだ、ちっとは胸を張れ。要は気の持ちようだ」
「はい」

ゼウスを前にした時であっても、これほどまでに緊張することはなかったように思う。実の父親よりもよほど自分を気にかけてくれたこともあるし、何より人間臭い。さすがは兄弟と言うべきか、ハデスもゼウスと似た空気を持っているのだが、どこか暗い影を帯びた凄まじさがある。冥府の匂いだ、とは懐かしく思った。暗くて冷たくて静かで、土の匂いがする場所で、あまり長く身を置かなかった場所だが記憶の底に住みついている。思えばこんなにも陽光眩しい中に佇むハデスという絵面は非常に珍しいものだった。自分よりも余程太陽が似合う。顔が熱い。真っ赤になった顔を恥ずかしく思いながら、は自分の一番好きな場所――泉のそばで父親に来し方をかいつまんで語った。

「つまり、今のお前は人間というわけか。道理で神気を感じられなかったはずだ。ゼウスの気まぐれにも困ったものだな。一体何が目的なんだ?」
「さあ。気まぐれに目的は不要でしょう」

恐らく、主神は自分にもっと自由な生き方の可能性を示したかったのではないか、と深読みをすることがある。神として生きていた頃、はいつだって自分が割り振られた役割をこなせない不出来さに気が塞がっていたものだ。主神の兄でもある、ハデスの末子に相応しくないと言われてぐうの音も出ず、かといって自分が他になれるものがあるかを考えることさえ放棄していた。半分は周囲から寄せられる見えない枷のためだが、残り半分は自ら楽をしようと逃げ回っていたためだから自業自得である。多分にアレスは自分のそんなところが嫌で、いつぞやを神の面汚しであり、兄などと呼ぶなと明言したのだ。

 今でもあの頃のことを思い出すとキュ、と胸が痛む。突き回してくる暇で嫌な連中から逃げ出すたびに探し出し、ああしろこうしろと言ったアレスの優しさを知り、同時にもう二度と手に入らないことを知った瞬間だった。全ては誤解だとあのアレスが素直に語らってくれた際には耳を疑ったものである。おまけに兄と呼べとどこでも気にせず言うものだから、しまいには上司である関銀屏にまで心配されたほどだ。アレスもまた、ハデスと同じく緊張感をもたらすが、温かさを感じるのは人柄を知っているからだろうか。心中首を傾げるを他所に、ハデスは憤懣やるかたないと言った調子で口調を荒げた。

「そうだとしても、人の息子を弄るのはやめて欲しいものだな。すぐに戻してもらおう。なあに、おばあちゃんだっているんだ、ゼウスだって承知してくれるさ」
「い、いえ!俺はこのままで良いんです。大丈夫ですから、」
「心配するな」

ギラリとハデスの瞳が獰猛に光る。その目はのことなど見ておらず、ただ不快な現象――ゼウスが自分の持ち物に手を出した、ということにのみ向けられていた。思い返せばハデスとゼウスは兄と弟という関係にありながら、立ち位置としては弟のゼウスが上である。オリュンポスが現在の形に落ち着くまでの経緯で、最も強い力を得たのがゼウスであったからだとは聞いていた。しかし兄弟であるハデスにしてみれば忸怩たる思いだったろうことは察してあまりある。

「俺が守ってやる。だから無茶はしないように。何かあったら、いや、何もなくても全部俺に話すんだぞ」
「ありがとうございます」

父上。呼びかけは心の中にしまって、はハデスからそっと目を逸らした。




「よく帰ってきた、。無事か?五体満足で帰ってきたんだろうな?さすがは俺の息子だ!」
「苦しいです、ハデス様」
「父上と呼べと言っているだろう。ほら、高い高いだぞ」
「しししし死にます死にます死にます!」

陣中の騒がしさがまた一つ追加された。最早恒例行事となった、親子の心温まる触れ合い――もとい、神による人間の弄び時間を視界の端で捉えてアレスはぐ、と眉間にシワを寄せた。豪快な声を上げながら振り回しているのはハデス、哀れにも脆い人間の体であるにもかかわらず死の淵に立たされているのがである。当たり前のように余人の入る隙間はない。文字通り親子水入らずというわけだ。とは言え、長らく離れていたためか、の態度は臣下のするそれに等しい。ハデスからもがいて逃げ出そうとするを見るに忍びず、アレスはテュポーンを飛ばしてを救い上げてやった。

「ありがとうございます、兄上」
「礼には及ばん。……伯父上、は見ての通り人間です。もう少し力を加減していただけませんか」

兄上、とはにかみながらも呟く従兄弟は幼い頃と全く変わらない。ちょっとふやけた肉まんのように柔らかそうな頬を突いてやると、アレスは瞬く間にそば近くに迫るハデスを睨みつけた。

「俺の子だぞ?限界くらい、見極めているさ。それに、冥府に来たら来たで戻してやるのも簡単な話だ」
「簡単におっしゃらないでいただきたい。冥府から好き勝手に蘇らせた結果は承知していらっしゃるでしょう」
「ま、自分で撒いた種は自分で刈り取れば良い話だ。、今日の話はまだ聞いていないぞ。疲れただろう?茶でも飲もう」

あまりにも無責任な物言いに呆れを通り越して感心してしまう。アレスの父であるゼウスも適当で気まぐれだが、なんやかや最後には彼の計画通り丸くおさまるのだから主神が務まるのだろう。方やハデスは、本当にただの気まぐれで神としての力を振りかざしているように見受けられる。簡単に言えば、気に入らない。答えが出れば簡単な話で、アレスはハデスに捕まるよりも素早くを背中に隠した。途端、ハデスを纏っていた気配が一挙に冷えたものへと変わる。ジメジメとして薄暗い。なるほど確かにこの男は冥府の王だった。

「なんのつもりだ、アレス。そいつは俺の子供だぞ?とって食うんじゃないんだ、親子のじゃれあいくらい、お前とゼウスもしょっちゅうやっている癖に、今更何を気にするんだ」

まるで物扱いだ。は、フィリッポスは、ハデスにとっては被造物の一つに過ぎないらしい。はと言えば、こちらはいつものようにそれを当たり前として受け止めている様子だった。親子とは程遠い姿である。恒のように眠たげな目をアレスに向けると、はようよう口を開いた。

「申し訳ありません、『父上』。今日、兄上と約束があることをすっかり忘れていました。兄上がご立腹であるのも仕方ありません。……後で、お伺いしてもよろしいでしょうか」

そうでしょう、と物語る目にアレスも頷くと、ハデスの険がゆるゆるとほぐれた。何しろおそらく方便とは言え、が彼の管理下にあることを表明したのである。言うなれば、他人の目を窺うことに長けたならではの一流のやり過ごしだった。

「なんだ、そんなことか。構わないぞ。せいぜい楽しく遊んでこい」
「ありがとうございます」

小さく手を振りさえすると、普段とは逆にがアレスの手を引いた。骨張って薄い、だが力強い手だった。




 やってしまった。ハデスから逃げ出すためとは言え、だしにしてしまったアレスを見やると、は顔から火が出る思いだった。恐れ多くもこの従兄弟を利用するとは、身の程知らずにも程がある。早く手放して謝らねば、と理性がせっつくもまるで神力で結ばれたかのように解けない。泉を過ぎ、森に入ってお気に入りの昼寝場所――ここを知っているのは司馬昭と竹中半兵衛だけだ――にたどり着くも、は未だ魔法の只中にあった。

「お忙しいでしょうに、言い訳にしてしまって申し訳ありません、兄上」

掴んだままの手が熱い。小さい頃からいつでも逆の立場で、妙に新鮮に映る。がっしりとした、戦を勝利に導く者の手は自分と対極で、その癖触れた皮膚は絹地のように滑らかだ。もとよりアレスはオリュンポス十二柱と呼ばれる主要な神の中で1、2を争う美貌の持ち主でもある。隅々まで行き届いた美だ、と今更のようには惚れ惚れした。しどろもどろの弁に返されるのは無だ。やはり図々しかったのだろう。仕方なしにゆっくり手を離そうとすると、逆の手でがっしりと捕まえられ、は思わず目を剥いた。

「あ、兄上?」
「迷惑ではない。伯父上はやり過ぎだ。それに、嫌ならとうに振り払っている。ここは初めて来たな」
「……俺が一人になりたい時に来る場所です。と、言っても先に昼寝に来ている人がいたりもしますけどね」

どうやら機嫌を損ねてはいないらしい。ほっと胸を撫で下ろすと、はいつも自分が寝転ぶお気に入りの場所へと向かった。手は繋いだままである。迷惑ではない、のさらに上を深読みしてしまっても良いのだろうか?こんな場面を女性陣に見られたらばこそばゆい思いがするに違いない。この手が心地良いからいけない、と勝手な文句を頭の中で並べながら柔らかな草地に座る。異世界であっても自然とは力強く存在するらしく、今は花の時節か黄色い小花が咲き乱れていた。

「実は、ハデス様が苦手なんです。殆どお会いしたことがないからかもしれませんが、立派過ぎて。変ですよね、わかってるのに。あんな風に気にかけていただいているのは感謝するべきなんでしょう」
「嫌なものは嫌なままで良いだろう。俺も父上の全てを良しとてはいない。第一、立派と言うならば主神たる父上の前では平気そうだが」
「兄上に似てるからかもしれませんね」

的確なアレスの物言いに胸のうちが整理されてゆく。昔から主神の嗣子はまっすぐで、今でもそれは変わらない。自分もそんな風に生きれたならばと憧れていた頃を思い出し、は苦笑した。今でも憧れは憧れだが、自分の生き方は別の場所にある。それでも、背筋くらいは真似したって罰は当たるまい。ぎゅ、とつながった手に力を込めると、アレスが無言で引き寄せた。自然、相手の肩口に頭を預けることになり、間近に迫る熱にくらりとする。

「今日からしばらく、俺とお前には用事がある」
「はい」

太陽が眩しい。この気持ちはなんだろう?優しさを受け取って、はうっとりと目を閉じた。


〆.


後書き>>
 ultimateを進めていくうちにどうしてもどうしてもどうしてもハデスが頭をちらついて止まず、ついでもっとアレスも出て……という衝動と反動から久々に続き的なものを書きました。まさか自分の書いた設定が生きるとは思わなんだ。主人公はぼんやり気持ちに変化が出てきましたが、二人の進展は相当に時間がかかりそうです。このあとは本編を受けて、衝動が強まったらば後一個書けたらなあと思いつつ。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました!