DREAM NOVEL
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誰の手にでもなく委ねられ決められたものとは、果たしてそのままであるだろうか?


そのさがなるは


 神という存在に、人はどのような姿を思い浮かべるだろうか。非の打ち所のない見目か、畏怖すべき圧倒的力強さか、はたまた人知の及ばぬ御技か、いずれにせよ『この世にある当たり前の存在よりはるかに優れている』という一点は譲れないだろう。神とは祭りたてられる存在なのだ、そうでなくては誰も従うまい。オリュンポスに存在するあらゆる神はその項目に当てはまり、各々生まれ持った特別な能力と人々にもたらす恵と災厄を携えていた。と今は呼ばれる存在も、そんな神の一人である。正確には、そうであった。

「またこのようなところに引っ込んでいたのか。私に苦労をかけるほど姿をくらませるのはお前くらいよ、
「人間になってもできるせめてものことです、伯父上」

瞳を開けて草むらから起き上がると、は輝く全能の神ゼウスを眩しそうに見上げた。事実、全知全能なる主神は後光を背負っているので輝きが尋常ではない。の訴えに気づいたゼウスはその光を消すと、の横に腰掛けた。そう、このゼウスこそはの伯父であり、何を思ったのかを神から人の身へと変えた人物である。

「だからこそ、斥候に駆り出される訳か。どうだ、。人の身は」
「楽しいですよ。前と変わらないのに、ずっと生きている気がします……アレス様が気づいたら怒りそうだ」
「あれはあれで人間について見直す機会もあるだろう。全ては知らねば始まらないからな。ともあれ、お前が前よりも元気そうなのは何よりだ」

にとって、ゼウスは何もかもを見通しているが故に、少しでも捻って楽しもうと努める男だった。故にをいきなり呼びつけて人間の身に変え、混沌とした新しい世界に叩き落としたことは何某かの意味を持つだろう。しかしながらは意図を知ろうとも足掻こうとも思うことはなかった。神としては余りにも弱く、人に毛が生えたくらいだろうとして従兄弟であり、ゼウスの嫡子であるアレスからは何かと毛嫌いされていた程である。曰く、神の面汚しだと。

 投げつけられる言葉は全て事実ではあるので、は否定をせずに受け止めた。残念ながらこればかりは努力しても変わらぬものなのだ。一度決まってしまった神力を変えるならば、それこそ他者を取り込むより他にない。何より野心がなければならない。悲しいかな、には何もなかった。アレスのことは密かに憧れるものもあったが、自分を変えようともその先に何かがあるとも思われないのである。

「誰かに気づかれる前にお帰りください、伯父上。俺はただの人間で、誰にも影響を及ぼすことはありませんからね。仲間に知れたら余計な疑念しか抱かせない。ご存知でしょうが、俺の上司は傷つきますよ」
「お前が説得すればいいだけだろう。なんだ、気弱だな」
「死ぬかも知れないと思うようになったら、きっと伯父上もわかりますよ」

は現在、関銀屏の下で働いている。良い使い走りと言ったところか。気配を絶つことが上手いことが何より役に立っているらしい。実は神であった時のの司るものがまさに『隠れること』ただ一点だけだったので、習い性と言っても良かった。その気になったを探し出せるのは最も力が強いゼウスだけだろう。父親であるハデスも、の能力を上回る隠蔽神器・隠れ兜を持っているものの、隠れたものを探し出す力はない。そもそも、は父親に認識すらされていない可能性さえあった。

 明るい黄緑色の葉を柔らかく握り、その青さを楽しみながら、は穏やかな時間を過ごしていた。神の国よりも余程過ごしやすい。こそこそと無意味に隠れてはアレスに見つかって(何故か見つかってしまうのだ、間が悪いとしか言いようがない)しごかれるよりもずっと良い。幼少期は兄と慕って呼んでいたが、の能力が明らかになってからか兄と呼ぶことすら許されなくなってしまった。皮肉なことに、その時に抱いた悲しみがの隠れる能力を伸ばしたのだが、誰にも言わずに過ごしてゆくつもりである。

「それは中々経験できないことだからな。楽しむと良い。……もちろん冗談だぞ?達者でな、甥っ子よ」
「ええ。伯父上もどうか楽しみすぎないように」

ふわりと空気の中に溶けて消えたゼウスは、さながら陽光が見せた幻覚だ。の心にも何も残すことがない。ちょっとした愛情のようなものはあったのかも知れないな、と期待させる罪深さだけが残っている。狂い咲いた蒲公英をいくつか摘むと、もまた人間らしく二本の足で今の居場所へと戻ることとした。司馬昭や竹中半兵衛とは異なり、策が概ね成り立った後に呼ばれる以外は市中の治安維持活動に勤めるより他に仕事がないとは言え、何か役に立ちたいと思わないではないのだ。今のにはできることがある。できないからこそできることがある、ただそれだけが嬉しくて心地が良かった。

「銀屏様に似合いそうだ」

幼い笑顔とほっそりとした姿に似合わず怪力の主人を思い浮かべると、は自然と頬が緩む。董卓の略奪から逃げる民と共に行動している中で、拾ってくれたのが銀屏だった。素性もしれぬような自分をあるがままに受け入れてくれるその度量の広さは神よりも優れているかもしれない。根が真面目な分だけ厳しく、のような不良品を許せなかったアレスが悪いとは思わないが、やはりは受け入れて欲しかったのだ。とはいえゼウスを継ぐものとしてアレスほど見込みのある神はいるまい。

 暗く冷たい冥府の末っ子として生まれた時から後継問題には興味がないが、どうして自分はこうも不出来なのかと思いはする。今、人間でいる姿は神界で過ごしている時となんら変わりはなく、畏敬も憧憬も感嘆も生み出せない、正真正銘のみすぼらしい痩せて小さなままである。銀屏と並んで同じ背丈であると知った時には少々物悲しかった。ほんの少しだけ、はこの少女に抱く思いがあるのかもしれない。道すがら蒲公英を花冠に仕立て上げたところで、丁度練兵場にたどり着いた。予定通りであれば彼女は目下、トウ艾と鍛錬中のはずである。

「銀屏様!、ただいま戻りました。鍛錬はいかがですか」
「おお、殿。丁度良いところに……いや、銀屏殿は素晴らしい成果をあげている。この調子で続くのであれば、戦場でも申し分ないだろう」
「本当ですか?豚足をあれだけ食べても筋肉がつかなかったから、非力でお役に立てないかと心配していたんです。けれど、トウ艾殿にそう言っていただけてちょっと安心しました。、ひょっとしてその花冠、私に?」
「はい。綺麗に咲いていたのを見ていたら、銀屏様を思い出したんです」

言いながら彼女の頭に被せると、銀屏はうん、と目を細めた。こうしていればごく普通の少女だと言うのに、いざ戦えばそこらにいる男どもよりも余程強いのだから世は不思議である。トウ艾は銀屏との鍛錬でだいぶ疲弊したのか、顔つきが冴えない様子だった。

「ありがとう。どう?似合うでしょうか」
「よく似合っていると思うぞ、銀屏殿」

トウ艾にもお墨付きをもらえて何よりだ、とは遠くから聞こえる早馬の音に眉をひそめた。もう新たな戦乱の足音が響き始めているのだった。




 卑屈は無意味だ。現在の自分を肯定できないのであれば、そこで充足するなり向上しようと足掻くなり落とし所があるというのに、変えようともせず満足できない現状を無理やり丸め込んだように感じられる。アレスは実にまっすぐな神であったものだから、事態をややこしくすることで楽しむ父親は理解できず、時にまた不快ですらあった。同じく、アレスの従兄弟である神も忌々しい。神だというのに能力も低く、見場が悪く、かと言って開き直ることもせずアレスの前で尻込みしてしまうのである。物言いは卑屈とまではいかないが、自分を兄と慕ってくる相手があまりにもトロくさいので『二度と俺を兄などと呼ぶな』と言い放ったほどだ。今では後悔していることに、その時以来弟が自分を兄と呼ぶことはなくなった。

 謝り許せば済むことだとは理解していてもどうにも言い出せず、放逐しておくこともできずに逃げ隠れる従兄弟を見つけ出しては構っていたのだが、どうにもここ二年程まるきり音沙汰がない。見つけにくくとも半月もかければ見つけられていただけに今回は異常で、お陰でゼウスに命じられて新たに作られた人界に降り立っても気がかりでならなかった。神とは、生来不滅のものである。他の神に取り込まれ、独自性を失うことはあっても本当の意味での死を迎えるとは余程のことが起きた時だけなのだ。ましてや、あの出来損ないの従兄弟を取り込もうなどという酔狂な神はそういないだろう。恐らくゼウスであれば居場所をすぐに突き止められるだろうが、問いただすのは癪なので結局解消しないままである。

「何故ここにいる」
「なんのお話でしょう?俺は、関銀屏様のために働くしがない一兵卒ですよ」

よもや開戦前の陣立てを検分している最中に、当の従兄弟を見いだせるとは思いも寄らない事態だった。空とぼける従兄弟は確かに人間による連合軍の一兵卒らしい服装をしており、もともとそうであったかのように似合っている。眠たそうな目は相変わらずで、どこかで逃げようとしている気配が感じ取られた。間髪入れずに腕を掴むも、霞のようにかき消えてその向こうでぶらぶらしている。お得意の幻技にアレスは歯ぎしりした。

「アレス様。貴方は綺麗なんですから、そんな怖い顔ばかりしない方がいいですよ」
「貴様!」
「呼ぶならか、と呼んでください。前の名前では質問にはお答えできません」

ふと、アレスは生まれて初めてこの従兄弟が心持ち堂々としていることに気づいて胸を突かれた。一体何が起きたのかはわからない、わからないがーーと名乗る従兄弟は現状に満足しているらしい。ついでに言えば、明らかに神気は消え失せ、人間としか言いようのない状態であることが感じ取れる。まさか。そんなはずなどあるわけもない。だが、だからこそ見つけ出すことができなかったのではないか?

。何故人間になっている!お前はそれでも神の端くれだろう。逃げるだけならば出来たはずだ、一体誰にされた?まさか人間ではないだろうな」
「流石アレス様。もちろん、伯父上の御意志ですよ。どういうおつもりかは知りませんが、結構楽しく過ごせています。元々、人間に毛が生えたようなものでしたし。死ねば冥界に戻るわけですから父上も受け入れてくれるかと」
「ふざけるな」
「アレス様?」

今度こそとなった従兄弟の腕を捕まえると、握る手にぎゅうと強く力を込める。神であった頃はなんでもなかったことが、脆い人間の身には相当こたえるのかの額に脂汗が滲み出た。多分、もう少し力を込めたならば折れてしまうだろう。引き寄せて抱きかかえると、アレスは周囲の様子を伺って誰も見咎めていないことを確認した。騒ぎ立てられては何かと面倒だ。

「来い。逃げようとしたら、お前の仲間を全員滅してくれる」
「……買い被らないでくださいよ」

俺にそんな価値はありません、という弟分がただ憎たらしかった。こんなにもか弱い、すぐに死んでしまう生き物に成り下がってしまった癖に楽観的すぎる。オリュンポスにいる頃からいつ誰かに害されはしないかとハラハラしていたが、もはや一刻の猶予もならない状況である。隠れることしか能のないを守れるのは気ままなゼウスではなくアレスしかあり得まい。ハデス含む他の神さえもあまりの安否には気を使っていないため当てにならないのだ。

「これから戦いになるのではありませんか?俺になんて気にせず、総大将は本陣にいた方がいいでしょう」
「まずはお前の安全を先に確保する。それくらいの時間はあるからな」
「敵の本拠地に置かれる方が余程危険ですよ」
「安心しろ」

言いながらも、アレスはの言い分が正しいことは重々承知していた。今の自分の行動は本来取るべきものでは一切ない。敵である以上、は部下に任せて煮るなり焼くなりさせたとて構わないのだ。しかし何か情報を持っているかもしれないし、なにがしか利用価値はあるだろう。散々迷った末に本拠地で仮の自分の部屋と決めた場所に放り込むと、アレスは何重にも神の力で封印を施して戦場に戻ることにした。呆れたように鼻を鳴らす以外には抵抗らしい抵抗も見せず、これでは出られないですねと冷静に感想を述べただけである。まるでアレス自体には興味がないと言わんばかりの態度は癪に障る上にどうにも物足りない。以前の、より耐久力のある神であった頃の方が余程アレスを恐れていた。更に時間を遡れば、わかりやすく懐いて甘えていたものだ。ほんのちょっとしたつまずきを修正しないままにズルズルと過ごしてきた結果がこれである。自業自得の分が多いとはわかっていたが、アレスは未だに謝る心持ちではなかった。

「戦が終わったら、お前には全て話してもらうからな。そのつもりで休んでいろ」
「大人しく寝てますよ」

肩をすくめたがどこかふてぶてしい長椅子の上でくつろぎだしたのを見届けると、アレスは大急ぎで戦場へと取って返した。時間で失った分は、時間さえあれば取り戻せるだろう。おまけに自分には有り余る程の時間があるのだ。




 荒々しくテュポーンに乗ったアレスが去っていくのを見届けると、は悠々と壁に手を伸ばした。いくつかの要所に触れると、それまでただの壁であった場所に窓が出現する。そう、は神の力でもって隙間という隙間に封印するアレスからこの窓を隠していたのだった。とっさの機転とはいえ中々の出来だ、との心は満ちたりしている。これまでは自分が隠れる事ばかり考えていたが、隠れられるということは死角や安全な場所を把握できるだけでなく生み出せるということであり、他のものをそこに引き込むことも可能なのだ。アレスの前には存在しなかった封印の穴を飛び出せば、鉤縄と軽巧で楽々と抜け出すことができる。見張りの兵士をだまくらかすなど赤子の手をひねるより簡単だ。

「少し遠いな。銀屏様が余計な心配をされなければいいが」

自分が抜け出したことを知ったアレスは相当怒るだろう。そもそも神として弱すぎるに不満を抱いていたというのに、彼が蔑視する人間になってアレス達神々に反旗を翻しているのだ。今のはアレスの御眼鏡にかなうとは到底言い難い。が今の自分は余程生きやすいのだと説いても無駄なことだった。出会い頭に殺されていてもおかしくはない。多分、次はないだろう。

「ああ良かった!、無事に戻ってこれたみたいですね。怪我はありませんでしたか?」
「銀屏殿は心配してあちこち探し回っていたんですよ。アレスに捕まったと聞いていましたがーー何があったのか、話してもらいましょうか」
「ご心配をおかけして申し訳ありません」

本陣に戻って早速銀屏に顔を見せに行けば、思いもよらぬトウ艾からの探りを受けては目を白黒させた。自分が捕獲された様を具に見ていた人間はいなかったように思っていたのだが、どうやらそうではなかったらしい。もちろん、アレス軍の中に間諜を仕込んでいるということも十二分にありうる話だ。はさてどう返すべきかと少しだけ迷い、放り投げた。信頼し、信頼されたいと望むのであればここで話した方が彼らは受け入れてくれるだろう。下手に嘘をついた方があとあと面倒になる。少なくとも、アレスは自分のことを忘れはしないのだから、再開すれば間違いなく一悶着起こすはずだった。

「これは少々信じ難い話だと思いますが、俺は元々オリンポスの神です。今は人間になったので、神様らしく見えないでしょうね」
「……今、その話をするということは間諜目的でここにいるという訳ではないと見て良いか。銀屏殿はどう思われる」
「私はを信じています」

これまでもなんども私たちを助けてくれたもの、という銀屏の純粋さには目頭が熱くなった。誰かに信頼され、頼りにされることは悠久の時の中でまずありはしなかったのだ。役立たずで中途半端な存在であってもできることがある。どうか身を粉にして働かせて欲しいと叫び出したい気持ちだった。アレスは鼻で笑うだろう。だが、は漸く欲しいものを手に入れようとしているのである。

「俺はアレス様の従兄弟で、ゼウス様が俺を人間に作り変えた上でここに送り込みました。なんの使命もなしで、自由に動いて良いとね。ですから、残念ながらゼウス様が何をお考えかはわかりません。それに……今回、アレス様は俺をすぐに処分しませんでしたが、次に捕まったらあの方は俺を容赦無く殺すと思います。神であった時から俺は力が弱くて、アレス様には散々嫌われていましたから」
「そんな」
「たまたま今回は事情を聞こうとして俺を生かしておいたに過ぎませんよ。生きて銀屏様たちにお会いできてよかった。その、次の戦の陣容もわかりましたし」
「ふむ。では、それについては軍師殿たちに聞かせておく必要があるな。……同行しよう。来ると良い」
「ありがとうございます」

どこまでも礼を尽くすトウ艾に、は深く感謝した。最終的な判断は各君主たちが決めるだろう。だがお陰で信頼に足る土台は得たのだ。トウ艾や銀屏のお墨付きがあればなんとか生き抜けるように思う。死にたくないな、とは冷や汗の浮いた額を袖で拭った。人はすぐに死んでしまう。死んだことがないのでわからないものの、うっすらと恐怖はあった。死んだらば父の住まうあの世とやらに行くだけだが、裏を返せばもう人々が与えてくれたような温もりを永劫失うということである。誰も見向きもせず、見たいものもない暗い冷たい世界に何を求めよう。しかも出口はどこにもありはしない。

 ふと、冥界に堕とされた自分をアレスは見つけに来そうだと思っては首を振った。お邪魔虫が漸く目の前から消えるのだ、わざわざ顔を見に来るほど彼は酔狂ではなければ暇でもない。きっと清々するだろう。愚か者にふさわしい末路だ。寂しさで舞い上がっていたはずの胸がズンと重くなったものの、は連れて行かれた先で諸葛亮を始めとした軍師たちと君主たち、そして主だった仲間たちに事情をつまびらかに話した。まるで自分が他人であるかのような客観的な話し方は一旦信用できると判断されたので安心しきりである。あとは再び信頼を積み上げるだけだ。

「それで、貴方は一体何を得意としているのですか」
「隠れることと、隠すことを」

諸葛亮からの問いに、は胸を張って答えた。アレスから逃げ出すために窓を隠した瞬間、は初めて自分にできるかもしれないことを確信したのである。多分、次はもっと大きなものを隠せるはずだ。どうか次の戦では試させて欲しいと話せば少し考え込まれた後で諾と返される。有難いことで、は早くも次の戦に思いを馳せた。兵の数は限りがある。少しでも無事に生きのびられればその分だけ人間側が勝利する確率が上がるのだ。改めてはここにいる人々の未来が続くことを願っていた。

は人間なのだ。もう神であったことなどどうでも良いではないか。人間らしく生きて、この世界という幻想が崩れ去ったら共に失われるまでなのだった。もはやの頭の中にはゼウスもアレスも何もなく、ただ目の前の人々の笑顔だけが存在していた。




「誰が手引きをした」

アースガルズと人間とオリュンポスという入り乱れた戦場で散々翻弄され、負けてボロボロになったアレスは誰もいない居室にあんぐりと口を開け、ついで怒りで我を失いそうになった。のほほんと寝転んでいたは影も形もない。呼びつけた見張りのゼフィロスに問いただしたが、結界が破られた気配はなかったと言う。神としての力であれこれ探し周ったが、やはりは人間たちの元へとのうのうと帰りおおせたのだった。伏兵に翻弄されたと戻ってきた敗残兵が報告してきたのである。

「あれはという男でした」

そう言えば誰かに似ていた気もしますが、と兵が首をかしげることまで苛つく。結局、を認識しているのは今現在アレスのみなのだ。は影が薄い。神としては塵芥のように価値が低い。だから自分が目をつけていたかったというのにこの体たらくである。今頃彼は人間たちと戯れているのかと想像するだけで怖気をふるった。誰だって、暖かい場所の方が好ましい。その暖かさをこれから与えようとしていたのだが、するりと逃げ出されてしまった。原因はもちろんアレス自身にあるのだが悔しくてたまらない。人間なぞ!をよく知っているのはアレスなのだ。

 テュポーンを呼び出すと、アレスは考えなしに外へと飛び出した。必死での気配を探る。飛び込むならば戦勝して人間たちが気を緩めた今が好機だ。が隠れることを得意とするならば、アレスは彼を見つけ出すことが得意なのである。どこまで探しても見知らぬ人間、人間、人間の気配だと舌打ちしつつも敵の領分のギリギリで見聞を続け、アレスはようやく野原で無防備にも寝こけるを見出した。あんなにもか弱い人間になったというのに警戒心がないとは愚かではないだろうか?だが万が一囮役になっているという可能性も考えて冷静に探ったが、特段問題はなさそうである。要するに、の命はむき出しになっているのだ。

、こんなところで寝るな。人間になったとは言え、お前はオリュンポスの神だったのだぞ」
「んー」

側近くに寄って揺すってもこの態度である。連れて帰ろうか、と考えてアレスはを抱き上げて棄却した。また逃げ出されて自分が翻弄されることが落ちだ。悔しいことに、この従兄弟はいつの間にか逃げ隠れすることの腕を上げたらしい。第一、今連れて帰れば間違いなくを尋問にかけねばならなくなる。十二分に役立つ情報も持っているは有用性が高い。だが抵抗し尽くすには加減せずに当たる必要が出るので、結局アレスは彼に辛く当たるより他なくーー冷静に理解していたつもりだったが、アレスはを傷つけたくはないという思いが強いことを認めた。アレスはを大切に思ってきていたし、これからもそうでありたいのである。ムニャムニャというの頬を軽く叩くと、ようやっとの目が開いて驚きで瞬いた。

「アレス様?」
「貴様の寝ぼけた顔を見にきただけだ。連れ去りはしないから安心しろ」
「……そのよう、ですね。てっきり貴方は俺を殺すんだと思っていました。ここは冥界にしては明るすぎます」
「殺すだと」

全く想像もしていなかったの発言に、アレスは目を剥いた。何をどう捉えればとんでもない考えに至れるのかと頭が痛い。オリュンポスでも散々身を守ってきたというのに、今のはアレスに対して警戒心を抱いているらしい。とは言えは目を少し細めただけでアレスの腕の中から逃げ出そうともせず、ええとですね、と鷹揚に指を折り始めた。

「まず、今の俺はアレス様の敵ですよね」
「ああ」
「次に、捕虜になったのに逃げ出しました。今回はアレス様が監視していたわけではありませんが、相当苛立ったんじゃありませんか?ネビロスあたりだったらすり潰されていたと思います」

自分がそこまで狭量な男だと思われていたとは心外である。アレスは鼻を鳴らしつつも、ネビロスがを逃したとすればすり潰すことを心の中では認めた。今回が単独で逃げ出したらしいことだけがアレス軍の兵士にとって救いだろう。

「それにアレス様は俺のことが嫌いでしょう」
「誰が言った」
「え?」
「誰がそんな考えをお前に吹き込んだ」

あまりにもひどい話に、アレスは思わずを抱きしめる腕に力を込めた。オリュンポスでを一番心配し、彼の安全を図ってきたのはアレスである。他の者たちはどれほど力があろうともの存在すら認識しないでいた。ゼウスの嗣子であるアレスに傾倒する者は客観的にも多く、故になどに関わらないようにと遠ざけようとされたこともある。アレスに訴えかけても駄目ならばに働きかけることは大いにありえた。誰であろうとそれ相応の報復を果たすことを誓っていると、パチパチとは眠そうな目を瞬かせて信じられないと訴えてきた。

「ええと……アレス様が俺に話したことをお忘れになったんですね。長い時間生きているとどうでもいいことは忘れると伯父上が仰っていましたが、まあ確かにアレス様にはどうでもいいことですよ。アレス様は俺の能力がこそこそとして、自分の身を守ることもできない、神を名乗るにも相応しくないから兄とも呼ぶなと仰いました。事実を仰っただけなので、嫌いとさえ思わなかったとしても不思議ではありません」

大したことではないと言いながらも、全て事実であるとわかっている風を装いながらもは泣きそうだった。この男は幼い頃から我慢していたな、とアレスは過去を見出して思わずの頭を撫でた。それも自分が泣くなと言ったからだとありありと思い出している。は聞き分けが良く、素直で、だからこそ目が離せなかったのだ。

「どうでもいい話ではない。俺が間違っていた、そうだろう
「アレス様、ヘルメス様にでも何かされましたか?そうでなければアフロディーテ様とか、それこそゼウス様とか!」
「違う」

ずっとわかっていたのだ。今となってはよくわかるが、自負心故に、ついで言うならばの飲み込みの良さに甘えていたのである。時間をかけてどうにかしようと思い立ったのはつい先ごろで、にはもう時間がない。痛いです、とアレスが抱きしめる力で悲鳴をあげるほどに弱い男は人間なのだ。あれほどまでに鼻についていたの卑屈さなど少しも気にならず、アレスは元のままで良いから神に戻って欲しいとさえ願った。今のアレスではもちろん叶えられず、あのゼウスが敢えて行ったのだからそう簡単には戻してくれはしないだろう。自分が主神であれば、こんな茶番でイラつくこともない。

「お前は先の戦いで俺を出し抜き、戦場でも見事に働いたと聞いている。やればできるではないか。……お前にはひどいことを言ったな。訂正させてくれ」
「あんまり褒めないでください」

褒められ慣れていないんです、と言うをアレスは心底連れて帰りたいと思った。だが、の意思を尊重するならば彼が自らこちらに来ると願わなければ叶わない。それもこれも、自分が今度こそ信頼に足ると見せつけなければなるまい。

「……次に会う時、お前が相応しいと思ったらまた俺のことを兄と呼んでくれるか?」
「えっ」
「覚えておけ」

遠くから人間たちの近づく気配がする。アレスはテュポーンを呼び出すと、彼らの気づく前に立ち去ることを選んだ。かつての自分では考えられもしない行動である。は聡いため、おそらくはアレスの願う通りに再び出会う時まで生き抜くだろう。それが今のアレスに唯一できるお守りだった。

「だが『兄上』か……悪くはないが、少し惜しくもあるな」

背徳感めいたものはあるか。ひとしきり唸ると、アレスは先ほど思いついたこと、ついで先日差し込む影のように現れた申し入れを思い出して答えを出した。正しく前へ進むためには犠牲がつきものだ。致し方あるまい。父はどのような顔をするだろう。あれは面白がるだろうか?何より、は自分を見て喜ぶだろうか。

完璧であること、それが神であるアレスの本質であり性である。人間たちに見せつけるため、アレスはテュポーンにひときわ大きく吠え立たせた。


〆.


あとがき>>
 ずっと書きたいと思っていて、三分の一程度まで書いてどう転ばすのか迷い、ずいぶん仕上がるまでに時間がかかってしまいました。アレス〜!好きです。プライドが高いけれども育ちが良くてまっすぐ!でも発言は少し翻訳が必要という典型的完璧思考の貴公子ですね。曹丕との違いは奥さんがいるかどうか、父親がちゃらんぽらんかそうではないか、たったそれだけのようでとてつもなく変わるのだから世の中は面白い。この後は本編の流れ通りに進むので、再び合流するときのものを書けたらなあとうっすら思っています。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました!