知ってますか、男ってのはどうしようもなく、どうしようもなくその場限りの雰囲気って奴に弱いんです、流されてしまうんです、弱いでしょう、どうしようもないでしょう、
だから許してくださいね……ずるくなんかありませんとも
違背人倫
下手を打ってしまった。目覚めて真っ先にを襲ったのは、どうしようもない焦燥感である。どうもこうもない。我ながらどうしてこんなことを、と思い――――真横に眠る人物を見遣って嘆息した。彫刻かと見まごう程に整った美貌の持ち主をは不幸にして一人しか知らない。錦馬超の従兄弟にして、蜀が誇る名将・馬岱、その人である。
ただ隣に眠っているだけならば勿論問題ない。友人同士で共寝することは、別段珍しい事ではなかった。敷布を捲ると、は思い切り顔をしかめた。全裸だ。隣の人間は、といえばこちらも全裸である。ついで、あからさまに事後の様な様相を呈している。
さて、このような場合にが取るべき行動はいくつかある。一、何も無かったかのようにやり過ごす。二、ひとまず馬岱に事情を聞き、反省会をして終える。三、折角だからとこの機会を利用して馬岱と関係を持つ。
三はない、とはすぐさま却下した。馬岱には非常に高名な相手が居る。後宮に咲く花々の中でもとりわけ美しいと褒めそやされる阮茘花、その人である。ついで、にとっては母方の縁者でもあった。要するにがこのような事態に陥ってしまったのは、家名に泥を塗ったと言っても過言ではない。
馬岱の性格からして一も難しい。多分、彼は考え過ぎで妙な方向に突っ走りかねない。ともすれば、取るべき道は二である。因に、にしてみればこれは偶発的な事故であって、意図したものでなければ、普段から馬岱のことをこのような意味で意識した事も無い。ましてや、男同士の行為等腐る程慣れている。嘆息すると、は隣人の肩を優しく揺すってやった。
「おい、馬岱。馬岱ちゃんよ」
「ん」
鼻に抜ける声が妙に色めいている。罪作りな男だなあと苦笑すると、はもう一度揺すった。
「起きろよ、馬岱。今日は調練があるんだろう」
「そうだ、調練っ」
「うわっ」
ばっといきなり上体を起こされ、は煽られて後ろに倒れた。枕が無ければ確実に痛い目にあっていただろう。馬岱と言えば、暫しどうしよう、急がなくちゃあと騒いでいたものの、不意に我に還ったように大人しくなっている。調練というのは勿論の冗談だった。今日はも馬岱も休暇を取っている。
「……なんだよもう、冗談も大概にしてよね。今日はゆっくり休もうと思って、たの、に……ごめん、俺、」
「やっと気付いたか」
枕の山から起き上がると、は混乱しているらしい馬岱の顔を見詰めた。窓から差し込む陽が綺麗な陰影を落としている。北方の、肌が白い人々の地を引いているという噂がある馬岱の顔は、自分のそれとは違って魅惑的に感じられた。なるほど、後宮の女官達が馬超と馬岱、甲乙付け難しと褒めそやす訳である。齧りつきたくなる様な鼻に、摘みたくなる様な頬、加えて舐めたくなってしまう程に澄んだ瞳を順に見遣って、は自分の性を呪った。
「とりあえずだ、馬岱。風呂に入ろう。さっぱりしたら落ち着いて話そうぜ」
「そうさせてもらった方が良いみたいだね。でもさ、」
「なんだよ」
「君、立てるのかい」
「立てないよ」
腰が痛くて仕方ない。自分は風呂に入るのではなくて、身体を拭くくらいで良いのだと返すと、馬岱はひどく申し訳なさそうな顔になった。なんやかやと言いながら、よりも十以上は下なのだから、体力が有り余っている。正直な所、のような老骨にしてみれば辛いことこの上ない。
「気にするなよ。亜孝にでも手伝ってもらうさ。お前はさっさと風呂に行ってこい」
「ううん、理屈としては通るんだけどねえ」
「理屈が通れば十分だろう。ほら、行けよ」
「嫌なんだよね、なんていうかさ。俺ってば紳士だし」
ずいと近寄られ、は思わず唾を飲み込んだ。息がかかって熱い。生き物だな、と思う。自分とは全く違う生き物。
「手伝わせてよ」
嫌だ、というあらがいの言葉がどうしてもの口をついて出なかった。
の邸の家人は主の不貞など心得たもので、手早く準備をすませると、人形のような顔でさっさと姿を消した。居たたまれない顔をしているのはだけだ。
正直なところ、馬岱はひどく落ち着かない心地だった。男と寝るのは別段初めてではない。だがと、というのは正直な所意外な気持ちだった。それも別段、酒に酔った勢いでという訳ではない。
どうしようもなく心が惹かれてしまったのだ。あるいは誘惑に負けたとでも言うべきか。目の前の中年男性と寝ることに対する欲望が肥大してしまった理由を思い返して、馬岱は首を傾げた。なかなか思い出せない。元々馬岱とは仲が良い。阮茘花のことが無くとも気さくなの人柄は好ましいものだったし、安心して背中を預けられる様な大らかさは見習うべき点が多い。酒を二人だけで酌み交わすこともさして珍しい事ではなかった。
ではこれまで、を性的な目で見た事があるか、と問われれば、応えは否である。これまでそんなことはなかった。例えば、意外と高い声であることや、実は女性経験よりも男性経験の方が豊富であることは知っていたが、気にも留めていなかった。のような男に食指を動かした事もない。
昨夜は、なんら特別なことなどない、普段通りの酒宴だった。話す事すら少なく、殆ど黙っていても心地良かった。隣に座り合って、ひどく体温が近かった事をよく覚えている。いつものように相手の肩に頭を預け、半ば抱きつくようにして酒を飲んでいた。は子供にするように馬岱の頭を撫で、馬岱はそれを甘受していた。傍から見れば危うい関係に見えたかもしれないが、二人にとってはいつもの酒宴である。
先に仕掛けたのは馬岱だ。なんのてらいもなく口付け、驚いた様子のが面白くて、もっと見てやりたくなって、気付いたら後に引き返せなくなってしまっていた。勿論、手に入れた機会をみすみす逃す馬岱ではない。見た事の無いの様子に気持ちが昂って仕方ない自分に戸惑ったが、それもほんの少しの事で、躊躇い等なかった。
しかし酔いが醒めてしまえば、戻って来るのは常識という名の二文字で、恋仲の女とひどく顔立ちが似た(勿論は男であり年をとっているが、系統として似ているのだ)の顔を見て、困惑以上の後悔未満というべき気持ちが沸き起こっていた。矢張り意外だった。
均整な肉付きをしたの身体を拭うと、緊張のためかの身体が強ばる。昨晩はあんなにもしなやかに動いたのに、と言えば耳まで赤くして押し黙った。ひげ面の中年男がそんな顔をしても全く可愛くはない。嫌いではなかったが、それだけのことだ。強いて言うならば、昨晩思ったように、面白みがある。
盥に張った湯に布を浸して絞り、再度広げての肌を拭く。うっすらと汗をかいた肌のあちこちに自分がつけた痕が残っていて、どうしようもなく欲していたのかと馬岱は苦笑した。およそ性欲の対象とはなりえないだろうを相手にして、こうまで出来るのは昨晩の自分くらいだろう。
もし、他の誰かがこの肌をなぞるとすれば、と想像して馬岱は渋面を深めた。理屈としては理解できるかもしれないが、靄がたれ込めるような心地が胸に降りる。
「おい、そんなに嫌なら止せよ」
「違うよ。別の事を思い出してただけ。ほら、足開いてよ」
「……あのなあ、俺にも尊厳ってものがあるってことを少しは考慮してくれないもんかね」
「考慮してるよ。だって、出さなきゃ辛いでしょ」
「そうだがな」
「はい、大人しくしててね」
「わっ」
ぎゃあともわあともつかない、全く色気の無い叫び声を無視して馬岱は無理矢理の足を開いた。自分と同じものがついている。毎度男とする度に思う事なのだが、正直な所見たい絵面ではない。散々弄っておいて何を言うのかと指摘されそうだが、要は気分がのっているのかのっていないかの違いである。
弄りすぎて少々赤く腫れてしまっているのは痛々しいが、綺麗に拭き取ったのでひとまずは良いだろう。そのまま性器を持ち上げると、濡れそぼった窄まりが目に入った。が呼吸をするたびに穴が僅かに開閉し、白い液体を零している。確かに昨夜は随分とここに突き入れ、思うままに動かしたものだった。まるで馬に乗るようだった、と快感を思い返すと馬岱は小さく笑った。相手を馬になぞらえる等、これまで一度も無かったのだ。我ながら下品な例えだった。
鼻歌でも歌うようにそのまま指をつき入れると、いきなりのことにが小さな悲鳴を漏らす。あの将軍・が男に尻を指で犯され悲鳴をあげるなど、誰が想像できるだろうか。指どころではなく本体まで入れてしまったのだが、馬岱は小さく笑って作業を続けた。
「今更だけどさ、ここに入るだなんてすごいよね。男同士でやっても子供もできないし、意味なんかないのに入っちゃうだなんて罪だよねえ」
「……それ以前に、そこに入れようと思う方がおかしいだろ」
「入れられて喜んだには言われたくないかな」
ぐい、と指先で穴を広げると、人の身体で遊ぶなとの怒声が飛ぶ。だがそれも少しの間の事で、もう片方の手を使って本格的に掻き出し始めると、蚊の鳴くような掠れた喘ぎ声が漏れ始める。全く以てこの男はこらえ性の無い身体を持っているのだ。危うくまた入れたくなってしまうではないか。
あらかた掻き出した所でまた拭い、たちあがってしまった性器を無視して足を拭く。がどうしようもない様子でもじもじとしているが、馬岱は努めて無視をした。別段焦らそうだとか、いじめようだとか、そういう意味ではなくて、布が使い物にならなくなると困るので最後にするだけである。
「お待ちどうさま。すぐ良くなるからね」
「頼むから、弁当でも届けるみたいに言うな。悲しくなって来る」
「でも、気持ちいいでしょ」
「や、」
気持ちいいのだからそう言えば良いのにはなかなかうんとは言わない。昨晩もそうだった。お陰で自分はめんどうにも何度も何度も聞いてやらねばならなかった、と馬岱は思い出した。この手の行為は、自分ばかりではなく、二人とも気持ち良くなることを馬岱は信条としている。
昨晩学習した成果のお陰で、さほど時間をかけずには達し、本人はいたく自尊心を傷つけられた様だが、身体はさっぱりしたようである。家人に着替えを頼むと、馬岱はひとまず風呂に入る事にした。簡単に服を羽織りながら思うに――――自分も一度は落ち着かねばならない状態なのだった。
惨めだった。叫び出しそうになる自分を必死で押さえて着替えると、は非常に悔しい思いに満ち満ちていた。膏薬を塗ったお陰で腰の重さが抑えられ、立ち上がれるようになったが、腹立たしさはいっかな消えない。
良いように馬岱に遊ばれた様な気がしてならなかった。確かに気持ち良いのだが、あんな風に機械的に扱われる等どうにも堪え難い。これも含めて反省会が必要だろう。馬岱には、将来茘花を幸せにしてもらわねばならないのだ。いくらといえども、自分の妹分が散々な目に遭うのは忍びない。
家人に食事の準備を申し付けると、さっさと食堂に向かう。今日は庭でも見ながら心を癒すのが一番だろう。冬の間に干していた菊の花を浮かべた湯を飲んでいる内に、段々と荒んだの心も落ち着きを取り戻しつつあった。蜀を象徴するような桃の花が美しく咲き乱れている。甘い香りがたまらなく優しい。
家人が食事を運んで来たのと、湯上がりで鼻歌混じりに馬岱がやって来るのはほぼ同時だった。相変わらず丁度良い所に来るものである。感心していると、馬岱がほんの少しだけ申し訳なさそうに眉を顰めて囁いた。
「腰、大丈夫かい」
「……御蔭様で最悪だが、なんとかやってるよ」
「そうだよね。月並みで悪いんだけどさ、ちょっとやりすぎちゃったなあとは思うわけよ。ごめんね」
「いいさ」
自分も悪かったのだ、と言うと馬岱は意外なものを見るようにきょとんとした。昨晩はお互いに酒が入っていない状態で行為を始めてしまったのだ、まさかそれを忘れた訳ではあるまい。ひどく心が惹かれたのは間違いないのだけれども、矢張り良くないことだとは眉間に皺を寄せた。
「それよりもだ、反省会をするぞ、馬岱」
「反省会ねえ……なんのためにさ」
「過ちを二度繰り返さない為だ」
きっぱりと言ってのけると、は馴れ馴れしく隣に座る馬岱からそっと距離を置いた。今更のことなのだが、この男は矢鱈と近すぎる。相手の体温が感じ取れる場所に座るというのは中々無い事ではないだろうか。気持ち悪い訳ではないが、昨晩の出来事のせいか、は変に意識してしまっていた。
だが、折角気を利かせたつもりのの動きに合わせるようにして馬岱がもう一歩近づく。長椅子の端までそうして移動するとすれば馬鹿馬鹿しい事この上ない。嘆息するとは努めて意識をしないよう、自分に強く言い聞かせた。まだ酒が抜けきれないのか、馬岱の身体からは仄かに昨晩の酒の匂いが漂っている。
「確かに意外だったけど、過ちだの何だのっていきなり判断するのは早計じゃないかな」
「茘花の前でも同じことが言えるなら、俺も別の方向から考えたかもな」
「まずいかな」
「まずいだろう。少なくとも、俺はこんなことがばれたら親族連中に縁を切られるくらいの覚悟はしないといけないな」
「そりゃまずいね」
「ああ」
重々しく頷くと、は菜に手を伸ばした。馬岱がさりげなく皿を寄せる。阿吽の呼吸で皿に菜を盛ると、は馬岱に与えた。その間に馬岱は茶を注ぐ。全てがいつも通りだが、どこかぎこちないとは感じていた。否、ぎこちないのは自分の気持ちだけなのだろう。馬岱は嫌になるほど自然体だった。まるで、昨日のことなど無かったかのようだ。
「……昨日、お前から始めたと思ってるんだが、合ってるか」
「合ってるよ。こんなこと言うのもおかしいんだけどさ、正直なところ、俺もなんでしたのか解らないのよ」
もぐもぐと口を動かしながら、馬岱は心底不思議そうに首を傾げた。この男が突然口付けをしてきた瞬間の驚きをは未だにありありと覚えている。余りにも柔らかかったのだ。そうして、やけに嬉しそうに馬岱が笑うので、咎める気持ちが飛んでしまって、ずるずるとことはなし崩しに進んだのだった。
「そういうは、何で抵抗しなかったのさ。手を出した俺が言うことじゃないけど、今思えば不思議だよね」
「お前が嬉しそうだったからな」
本当に嬉しそうだった。がこれまで見たどの表情よりも嬉しそうで、まるで子供のようだった。一瞬茘花のことが頭をよぎったが、それよりももっと見たいという欲求が勝ってしまったのだ。故に、性的な意味で相手の行為を受け入れたわけではない。多分、もっと些細でありきたりなことだってはやってみせただろう。
そんなことをつらつらと言っている間、馬岱は終始無言だった。説得性がないと思われたのか、興味が無いのか、あるいは考え込ませているか、にはわからない。箸を動かす音さえしないから、一応こちらの言っていることは聞いているのだろう。
が話し終えても、馬岱は静かなままだった。二人で居る際に、話もせずにただじっとしているということはもの珍しくもなんともなかったが、今回ばかりはひどく落ち着かなかった。物音を出すことさえ憚られる様な緊張感を感じ、は唾を飲んだ。馬岱の顔を見遣って、どうしたのだと聞けば良いだけのことが、何故だかできなかった。
一瞬、耳が爆発してしまったのだろうかと馬岱は混乱した。の言葉が耳に入る度に、顔が熱くなって仕方が無い。こんなにも情の深い台詞を聞くのは子供の時分以来で、あの阮茘花ですら馬岱に告げていない。冗談で言うならばまだ混ぜ返す余地もあるというのに、は至って淡々と、だがどこか嬉しそうに口元を緩めて言うものだから、馬岱はどう返せば良いのか見当もつかなかった。
有り難うと感謝すれば良いのだろうか。そんなにも嬉しい顔をしていたのか、と聞くべきだろうか。こちらの沈黙が伝染ってしまったのか、今ではも黙りこくってしまっていた。こうなれば益々口が聞けなくなってくるというもので、軽妙洒脱な物言いを褒めそやされる馬岱としたことが、吐息すら出せずに居る。
そうして黙って、黙りに黙って黙りこくって、ようやく馬岱が口に出せそうかと思えたのは、昨晩の行為が過ちなのかという疑問だった。確かに馬岱はの親戚とつき合っているが、何も結婚している訳ではない。婚約すら交わしていないのだ。仮令交わしていたとしても、面倒に思うことこそあれ、罪悪感はちらりとも沸いていなかった。
当代において、男がたった一人の人間のみを相手にすることの方が余程珍しいというのが、馬岱の至極真っ当な意見だった。特別貞節で名が通っている訳でもなく、と戯れたことがばれてなんになるというのだろう。は義理堅いのだな、と結論付けると、馬岱はちらとを見遣った。難し気に唇が引き結ばれ、僅かながらに頬が震えている。不安を感じている際の癖だった。
そんな様子からして、少しも可愛らしくも愛しさも芽生えそうにないものが、馬岱にはひどく美味しそうに見えた。たまらなく滅茶苦茶に舐めて齧って味わい尽くしたいという凶暴な思いをに対して抱くのは、昨晩から二度目である。良いではないか。美味しそうなものを食べずに放っておく方がどうかしている。
だからこの行為は正しい正しくないの問題ではなく、機を捕らえたか捕らえていないか、ただそれだけの事象に過ぎないのだ。恋愛だの何だの余計なことを考えるから難しくなってしまうのであって、この戦乱の世に何が役立つというのだろう。ひどく腹立たしくなって、馬岱は勢いのままに乱暴にに口付けた。呆気にとられたようにの目が開かれ、ついで罵倒しようというのか唇も開く。それを逃す馬岱ではない。すかさず唇を重ねると、守りを忘れた咥内を蹂躙する。
濡れた音が耳に心地良い。の手が懸命に馬岱を引きはがそうと試みているが、手心が加えられた抵抗など、無いに等しい。嘲笑うと馬岱はの漏らす喘ぎ声に満足した。先程飲んでいた菊茶の味がふわりと広がる。花の香りがする等物語のようで、馬岱は鼻を鳴らした。の顎を掴んで顔を下げると、額と言わず瞼と言わず、あらゆる場所に口付けを振らせる。最早どう反応すれば良いのか困っているらしいの動物のような声が聞こえる。偶には動物のように本能のまま振る舞ってみてはどうなのだろう。逸脱した行為で有名な割には覚束ないが可笑しかった。
「そうだね、俺は今すごく嬉しいよ」
「……笑い事じゃない」
「楽しいんだもの、仕方ないじゃない。理由なんかなくたって、余程のことじゃなければやりたいし、俺は断然やるね。我慢は身体に悪いんだよ」
「身体を損ねても我慢しろ。しつけの悪い犬か、お前は。ああもう、どうしてそうなんだ……ともかく、お前とは金輪際こういうことは無しだ。俺は茘花に極普通の幸せを掴んで欲しいからな」
お前にも、と言うとはひどく寂しそうな顔をした。もう一度顔を寄せれば、問答無用で撥ね除けられる。どうやら本気らしかった。同じ男でありながら、他人のためにかくも忍耐強く振る舞えるとは呆れたものである。馬岱が知る限り、そんなことをやってのけるのは伝説上の聖人君主としか居ない。
仕方なしに沸き起こった気持ちをなだめると、馬岱は朝食に箸を伸ばした。馬岱にしてみれば、茘花もも食卓に上ったおかずに変わりはないというのに、不可思議なものである。食べたいのだから仕方が無い。
「どっちも美味しそうなのに」
「おい、俺の肉まんを狙うなよ」
「肉まんなんか狙ってないさ。狙ってるのは……って、お皿を投げないでよ。怖いなあ、全く」
「俺じゃなくて、茘花に言ってやれ。とんでもなく可愛いからさ」
「言ってるよ」
に対する台詞程獰猛ではないが。相手が男であるためだろうか、に対する感情というものは実に荒々しかった。ねじ伏せても壊れない安心感がいけないのだろうか。ややもすると昨晩のことを思い返して身体がぞくぞくしてしまう。今にも飛びかかってしまいそうだ。何故こうもは美味しそうに見えてしまうのだろう。くたびれた中年の男で、美しさも可愛らしさも感じられはしない。其の癖実際美味しいのだから手に負えない。魔性の人とはのような者を指すのだろう。
「でも、今はが食べたいんだけどな」
「気持ち悪いことを言わないでくれ」
言いながらも馬岱が欲しいと思った菜を傍に置いてくれる辺りが、の詰めの甘さだ。付け入る隙等いくらでもあるではないか。全く、世の人々はをどう見ているのだろう。空心菜の炒めを口にすると、あまりの辛さに馬岱は口を曲げた。出身地の塩気を中心とした調理と異なり、ここ成都では色とりどりの唐辛子を使った目にも鮮やかな辛味を極めた調理を行う。以前、に唐辛子の市場へ連れて行ってもらったことがあるが、入り口近辺で既に鼻がおかしくなりそうだった。細かな唐辛子の粉が宙を舞っているためだろう。はといえば、生まれながらにして舌がしびれる様な菓子を食べていたこともあり、けろりとして笑っていた。
今口付ければ、舌が痺れてしまうだろうか。山椒粉をふんだんにかけるを横目に、馬岱は辛味のためかやけに赤いの唇に焦点を当てた。昨晩あんなにもあの唇から吐息を漏らして馬岱を求めた癖に、今更拒むというのは不条理だろう。だがそれ以上、馬岱は何かを追求することは止めてしまった。
何をしたってが解ける気配を少しも感じられないというのに、攻めるというのは愚かな将のなすことである。
〆.
後書き>>
愛が余り余って、馬岱を書いてしまいました。しかも続き物です。今まで、紙にしてみれば非常に短い掌編ばかり書いていたのですが、今回は紙にしても十分な厚みのあるものにしたいと考えて居ます。続きも大体書いてあるんだぜ……!なので、見切り発車ではないのだよ。(何)
今更のように、人のなすことには正解がないと思いながら、それなりの答えを出す事ができれば、という希望を込めて書いています。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました!