貴方を好きになってしまう、好きになったら愛してしまう、愛してしまえば逃げられない、ずっと、ずっと、ずっと!
違背人倫/4
趙雲は世話好きだ、ということは蜀の人間ならば誰もが知っている。誰にでも爽やかに、道義に基づいた行動をし、時に厳しく適切な優しさを向ける彼は正に貴公子と呼ばれるに相応しい人間のはずであった。はずであった、というのも彼は世話好き過ぎるが故に、その美徳を一挙に払底させてしまうからである。世の人はそれを、
「あのおせっかいやきめ」
と、罵る。まさにその言葉を吐いて天を見上げたのは誰であろう、馬超であった。先日従兄弟の馬岱から、自分と血の繋がった人間とは思えない様な人でなし発言を耳にする嵌めになり、以来随分と気分がめげている。だがそんな馬超のことなどおかまいなしに趙雲の世話好きは発動し、面倒なもめ事の種をばらまき始めていた。
「近頃、の様子はおかしくないか」
「そうでしょうか。私には普段通りに見えますが。何かあったのですか」
表情を曇らせた趙雲が不穏な発言をしたのは、穏やかな昼下がり、姜維や馬超、馬岱とともに暫しの休息を取っていた時だった。涼やかな風が吹き、過ごしやすいというよりも眠気を誘う中での台詞に、馬超は無表情を保っていたが心中穏やかではなかった。横に並んで寝転ぶ馬岱をちらりと見れば、至って平静そのものである。
「何かあったという訳ではないんだが。以前よりも笑わなくなったように思う」
「うーん、私はそれほど将軍と付き合いがある訳ではありませんから、解りかねますね。馬岱殿はどう思われますか」
「俺にもわからないよ。だってほら、最近は俺の誘いにも乗らないからね」
それはお前の行いが悪いのだ、と指摘したかったが、馬超はかろうじて堪えた。いけしゃあしゃあと言ってのける馬岱が信じられなかった。だが趙雲には違った感想を抱かせたらしかった。我が意を得たり、と言わんばかりに頷くと、趙雲はおもむろに切り出した。
「馬岱殿にも解らないと言うならば、きっと私達にも言えぬ悩みがあるに違いない。よし、宴会を開こう」
「ちょっと待て」
「なんだい、孟起」
目眩がするような展開に馬超は心底このお人好しを罵ってやりたくてたまらなかった。確かには悩んでいるだろう。それは海より深く山より高く悩んでいるに違いない。だが、それがどうして宴会に繋がるのか馬超には理解できなかった。ただ酒を飲みたいだけなのか、騒ぎたいだけなのか、はたまたをからかうつもりなのか、いずれにせよ余り良い予感はしない。
「宴会なんて開いてどうするつもりだ。悩んでいる人間を祝いでもするのか」
「まさか。酒を飲めば普段開かぬ心も開くと言うものだからな。皆で盛り上げて聞けば、さすがのも口を開くだろう」
「妙案ですね」
妙に目を光らせてのったのは姜維だ。単純におもしろがっているというのは表情からありありと伝わってくる。頼むから放っておいてやって欲しいと思うのに、理由も言えず馬超は歯噛みした。
「善は急げ、では二三日中に支度しよう。すまないが孟起、を誘っておいてくれないか」
「承知した」
苦々しい心持ちではあるものの、断るわけにも行かず、ただ馬超は頷いた。せめて、馬岱がその任に当たらなかった事を喜ぶべきだろうか。当の馬岱はといえば、何を考えているのか読めぬ表情で、鼻歌を歌っていた。本当に近頃は解らない事ばかりだ。今まで自分は馬岱の何を知っていたというのだろう。ふと不安に襲われ、馬超はもこのような気持ちなのだろうかと思料した。それは腹の座りの悪い出来事に違いなかった。
「宴会、」
「ああ。なんでも子龍が久方ぶりにお前も含めて皆で飲みたいそうだ」
馬超からの誘いに狐に摘まれた様な表情をすると、は一体何が起こったのだろうかと首を傾げた。趙雲と自分との仲は悪くはない。寧ろ仲が良い方だろう。だが、が男も相手すると知ってか知らずか、特段皆で集まる場以外で飲む事は無かった。多分に何か聞きたい事でもあるのだろうが、何を聞きたいかは不明である。聞けば、若手の武将は全て集まるらしく、特別な意図を持って集めたという訳でも無さそうだった。
恐らく、馬岱と関索も来るのだろう。だがそこは二人のこと、他の武将の手前一悶着起こす筈も無い。が素知らぬ体で居れば良いだけの事だ。特段断る理由も無い。努めて平静を装うと、は僅かに笑みを滲ませて承諾した。
「構わないとも。参加させてもらうよ」
「良いのか」
「何がだい」
「いや、その」
自分から誘ったにも関わらず、馬超は気乗りがしない様子でもじもじと指を蠢かせた。矢張り何か裏があるのだろうか。目を眇めると、は相手を促すように続きを待った。暫く嫌な沈黙が続いた。は外に目を向けると、丁度昼時らしく、忙しく兵達が立ち回っている。空は嫌になる程に青く澄み渡り、雲がゆっくりと影を落としていた。雨は一滴も降りそうにない。だが、馬超の表情は今にも嵐を呼びそうに険しかった。聞いてしまったのだ、と小さな声が聞こえた。余りにも小さかったので、は羽音を聞いたように耳を傾けた。それほどに小さかった。
「すまない。……俺は、馬岱と殿がどうなったのか知っている。殿には、こちらから謝罪せねばならぬことにも関わらず、長らく気を使っていただき申し訳ない」
「謝る事でもないさ」
知っているのか。自分の罪を指差された様な心持ちで顔を強ばらせると、は首を振った。謝られる事ではない。寧ろ、こそが家・阮家に対して謝らねばならないのだ。馬超はどこで知ったのだろう。馬岱の性格からして、彼自身が語ったという可能性は高い。ならば、どこまで語ったのか。極々自然な興味が沸いたが、は矢張り待つことにした。無理矢理ではなく、馬超がゆるゆると解く結び目を見ていたかった。
「馬岱は、殿を自分のものにしたいそうだ。俺には到底理解できん。ただ、馬岱が我が儘だということだけは解る」
ぽつり、と漏らすと馬超はに向かって、貴方は優しすぎるのだ、と嘆息した。優しいとは何だろう。昼時に合わせて空腹を訴える腹を擦ると、は自分の思いを無視した。そうでなければ歓喜の声を上げてしまっただろう。忘れよう振り切ろうと努力を重ねて来ていたが、どうにもは馬岱を忘れる事ができないでいた。あの手を、あの声を、あの熱全てを忘れなければならない。愛だとか恋だとか、そういったものは馬岱に当てはめたくなかった。当てはめてしまったが最後、本当に執着してしまう。今ならば、は馬岱を手放す事が出来た。後は馬岱がを手放す番だ。頭の良い馬岱の事だ、本当はどうすべきかくらい解っている筈だった。それと、がどうにもならない堕落した人間だということも刷り込まれている筈である。
そうとも、誰だって良いのだとは黄忠の子飼将校を思い出した。何故か彼の青年には手を出さずに居る。以前のならば平気で好意を向けられた瞬間に獲物を捕らえて離さなかったろう。あのような初な手合いならばどれ程楽しめたろうか。だが果たせるかな、馬岱と寝て以来、は他の人間に対する興味というものを丸きり失ってしまっていた。恐ろしい事だった。
「……殿は、馬岱を好いているのだな」
「そりゃ、親友だからな」
「違うだろう」
言うと、馬超は泣きそうに顔を歪めた。泣きそうなのはこちらだ。ああもう、さっさと昼餉を食べに行けば良かった。このままでは食いはぐれてしまう。きっとの副官がを探している事だろう。
「殿には、本当に感謝している。……不器用な馬岱を許してやってくれ」
「ああ」
自分の感情は捻り潰せば良い。これまでもやったことだし、慣れたことだ。早く阮茘花と馬岱の婚姻をあげよう。そうすれば、自分も馬岱も越えられぬ関が立つ。過ちも、贖罪も全てを閉じてしまうだろう。は瞼を閉じると、考えを切り替えた。今日の昼餉は何だろうか。
「昼飯食べに行こうぜ、孟起」
「……そうだな」
一瞬目を丸くし、馬超は先に立って歩き出した。昼休みは終わりに近づいていた。
日も暮れぬ内から趙雲邸はやんややんやと大騒ぎだった。次々と酒瓶が酒屋から運び込まれ、種々の料理が酒幕から届けられる。何せ歴戦の諸将が飲むだけあって酒瓶も大きく、大人の男二人で漸く持ち上がる程だった。食事が輿に載って運ばれる様は、さながら祭りのようである。道行く人々は足を止めて、何の祝い事だろうかと瞳を輝かせた。何にせよ、祝い事は良いものだった。
大広間では楽団が賑やかに盛り上げ、美しい西域の踊り手達が花を添える。ここまできらびやかな宴会は久方ぶりのことで、宮廷で行われる宴会には及ばないながらも、華やかさは招待された客人達の心を沸き立たせた。馬岱は口笛を吹くと、横に並んだ馬超とともに感嘆の声を上げた。贈り物を家人に渡すと、案内されるままに席に着く。ぐるりと周りを見回せば、嫌なことに関索と目が合った。あの夜以来、関索とはまともに顔を合わせていない。会釈をすべきか迷っていると、先に関索がにこやかに会釈をした。を得た余裕とでも言うのだろうか。反射的に会釈を返すと、馬岱は唇を噛んだ。気に入らない。
更に頭を巡らせて会場を見遣ったが、はまだ来ていないらしかった。また、女性の武将が一人も来ていないことから、猥雑な会話も可能という事かと馬岱は納得した。招待主の趙雲の前に出ると、馬岱は馬超共々形式張った挨拶をした。今日は幾分緩い形での宴会と聞いていただけに、趙雲の衣装も勿論甲冑等ではなく、簡易な礼服である。少し様相を変えれば部屋着と言っても差し支えない。馬岱もまた、北方民族の影響を受けた胡服を身につけていた。漢服と異なり、胡服は下履きが別れているので動きやすい。
「殿はまだ来ていないのだな」
「いや、もう来ているぞ」
にやりと笑うと趙雲は踊り手の一群を指差した。赤い鮮やかな衣装の間に、一点だけ青い衣装が混じっている。まさか、と目を凝らしてみれば、にぎやかな踊り手に混じって華麗に舞うのはだった。しなやかに動くその様は一分の隙も無く美しい。惜しみない賞賛を関索と関平が仲良く捧げ、はとんぼを切る事でそれに応えた。の容姿は普段通り、特段美しくもなく、ただの中年男性であるし、貧相この上ない。だが、確かに美しいと呼ぶに値した。
音曲が一区切りつき、踊り手達が優雅に頭を下げる。最後にに踊り手達が群がり、口々に褒めそやした。はにかみ、照れる様な笑顔を浮かべるに馬岱はきりりと頭が痛んだ。何故、どうしてその笑顔を自分にはくれないのだろう。女であろうと男であろうと、快楽を得られるものはなんだって良いと言うくせに、何故自分だけは駄目なのだ。阮茘花のことがあるといっても、自分は惜しみなく彼に与えようと思っているのに、が拒む理由が思い当たらない。
「おーい、。そろそろ座らないか」
「承知した」
煌めく汗までが見えるようだった。軽快に近づくに、馬岱は思わず息を呑んだ。これほどまでにに近づいたのはいつだろう。もう十日は傍近くに寄ることさえ出来なかったように思う。まともに会話したのも一体いつが最後なのか、馬岱には解らないでいた。が馬岱には一瞥もくれずに趙雲の傍に立つ。青鈍色の少数民族の衣装が翻り、馬岱は犬のようにそれを捉えたくてたまらなかった。思わず手が伸びそうになったところで、横合いから馬超の静かな声が響いた。
「馬岱、道々言ったかと思うが――――殿に手を出すなよ」
「嫌だなあ若、わかってるって。流石の俺も皆の前で妙なことはしないよ」
「皆の前でなくともだ」
ぶすりと釘を刺され、馬岱はへらへらと笑いながら内心舌打ちをした。先日馬超に相談、もとい懺悔を行って以来、この家長でもある従兄弟は馬岱を制している。を見るな、に手を出すな、阮茘花に専念しろ、婚姻はまだなのか、など小言はつきない。一応言いつけに従い、馬岱はにちょっかいを出さずに居る。阮茘花とは相変わらず冷めた様な関係を続けていた。これは勘に過ぎないのだが、阮茘花は自分のに対する思いに気付いているのではないだろうか。
「良いものを見せてもらったな。もっと早くとこのような場を設ければ良かった」
「いや、こちらこそ、勝手に楽しませてもらってすまないな、子龍。勿論、次のお誘いも行かせてもらうよ」
「勿論だとも。そうだな――――まずはここで飲み交わそうか」
「ああ」
やけに親しげな調子の趙雲の台詞に馬岱はおやと首を傾げた。確かに趙雲との仲は悪くない。だが、自分程に近い関係ではないし、ましてやこれまで彼を飲みに誘うこともなかった。男色家ではないと記憶しているが、やけにに近づき過ぎではないだろうか。気を揉む馬岱を他所に、は趙雲と姜維の間に座り込んだ。さりげなく趙雲の手がの太腿を撫でた様な気がして、馬岱は瞳を瞬かせた。は平然としている。ならば気のせいだろう。そうかと思えば今度は姜維が横から乗り出しての杯に酒を注いだ。他の武将もこの宴会の趣向については承知しているのだろう。あからさまではないにせよ、好奇の目がに向けられているのを馬岱は不快に思った。
「ささ、どんと飲んでください。今日は趙雲殿が奮発してくださったんですから」
「伯約殿に勧められると悪い気はしないね。……いつも報告書の提示が遅れてごめんよ」
「けれども、近頃は少し早くなったではないですか。関索から伺いました」
杯を飲み干したに、今度は後ろから関平がやって来て酒を注ぐ。無邪気この上ない様子だが、着実に目的を果たしている辺り、大事な使命として趙雲に言い含められているのだろう。全く暇な事だ、と馬岱は趙雲を見遣った。首謀者は唇の端をつり上げ、更に酒を勧めた。一杯、二杯、五杯、十杯と杯は重ねられ、傍らで諸将も飲んではいたが、ただの全身を朱に染めて酔っていた。上気した頬に潤んだ瞳、口の端から溢れる酒に、純真そのものの笑みを浮かべる様はどこか危うい魅力を放っている。そう考えるのは馬岱だけではないらしく、隣に佇む馬超もがごくりと喉を鳴らしていた。
「そろそろ良いか。」
「んー」
武将としては余り酒に強くないのとろんとした瞳が趙雲に向けられる。思わず杯を強く握りしめたせいか、びしりと嫌な音が手元で響いた。音曲は止まらず、踊り手は狂ったように踊っている。食事も酒も切れる事無く、酌をする女性でさえも優美であるというのに、馬岱の心はから離れなかった。
「風の噂では、は男色もたしなむと聞いているが、本当か」
「うん」
こくりと頷くと、は子供のようににこにこと笑った。これで問題なし、と見たのだろう、姜維が畳み掛けるように続ける。
「私は経験が無いので解らないのですが、何故男性なのでしょう」
「んー、何でだろうなあ。あまり考えてなかったけどさ、そうだなあ」
頭が重いのか、姜維に背中を預けては頬を摘みながら考えあぐねている。その頬に触れてみたい自分に馬岱は苦笑した。ここに居る誰があの頬の柔らかさを知るのだろう。自分と関索だけだろう、と思いめぐらせて途端に気分が腐る。関索の方を見れば、何が可笑しいのか哀れみの様な目を向けられ、余計に苛立たしさが募った。そうだ、は関索のものなのだ。自分のものではない。
「求められてることに安心できるかな。ほら、女の子とつき合うのは当たり前だろ。そこで敢えて自分を選んでくれたっていうのは嬉しいね」
「ほう。中々理に適った話ですね」
姜維が納得したように頷く。一方、馬岱は少しも納得いかなかった。自分は阮茘花とつき合う身でありながら敢えてとの関係を望んだというのに、何故は嬉しくもなんともないというように突き放したのだろう。畳み掛けるように趙雲の問いが続く。
「だが、それだけではなく――――はその、女性の様な役回りをすることも楽しむと噂に聞いたな。本当なのか」
「ああ。本当だよ」
にこにこと上機嫌のままには頷いた。思わずつられてか、趙雲が自然と手を伸ばし、頭を撫でる。そうすれば子供のように笑みは満面に広がり、もっとしてくれとでもいうようには目を細めた。そんな顔は自分の前だけでしてほしかった。他人になど見せないでほしくて、馬岱は煩悶した。関索は何故止めないのだろう。自分が関索の立場であれば、を攫ってこんな宴会などさっさと後にし、大事に閉じ込めて誰の目にも触れさせやしない。男達の目が次第に爛々と獰猛な光を放っている。何せ皆若いのだ、未知の物に対する好奇心はまだまだ強い。そしては格好のえさというわけだった。趙雲が半ば上ずった声で問いを続ける。
「それは何故なんだ」
「相手に求められていることを実感できるから。それに、ぎゅって抱きしめられるのが好きなんだよ。……ね、俺のこと抱きしめてくれる」
ふ、と笑った瞬間にから艶めいた気配が漂う。無邪気なふるまいから一変したを中心として、じわじわとおかしな気配が集団を包み始めた。相手が誰かわかっているのかわからないのか、はとろんとした表情のままである。馬岱が飛び出そうとした瞬間、関索がすっとの後ろから抱きしめた。
「駄目ですよ。誰でも良い訳ではないのでしょう」
「ん」
「ね、大人しくしてください」
「わかった」
にこにこと微笑むの様は無邪気そのもので、関索が優しく頭を撫ででやると子供のように喜びの声を上げていた。その立場をするのは自分でありたかったのに、信じ難い光景に馬岱はこのまま目が見えなくなってしまえばいいのにと呪った。隣では馬超が息を呑んでいる。
「参ったな。あれではなんというか、こちらまで当てられてしまいそうだ。……馬岱、俺はお前の趣味が悪いと思っていたが、そうでもなさそうだな」
「残念な事にね」
肩をすくめると馬岱は自然な様子でに近づいた。背後で馬超がうろたえた声を上げているが無視する。とがめは後で受ければ良い。関索が意味ありげに唇の端をつり上げる。つくづく気に入らない男だった。苛立たしさを封じ込めてなんとか笑みをつくると、馬岱はじろりと趙雲を睨んだ。
「ほら、趙雲殿。そろそろに聞きたかった事を聞いてもいいと思うよ。このままじゃ、寝ちゃうよ」
「ん、ああ、ああ、そうだな」
しばし残念そうに趙雲は瞳を瞬かせると、を自分の方に向かせた。関索がなだめるようにの頭に口付けする。途端にとろけるが腹立たしくて、馬岱は今直ぐにでも攫ってしまいたかった。自分には許さないというのに、この憎たらしい若造に許すとはどういう腹づもりなのだろう。
「なあ、。今はそうでもないが、近頃ずいぶんと沈んでいるだろう。何か悩みでもあるんじゃないのか」
「悩み、悩みねえ」
ううんと唸るとは困ったように関索に背を預けた。何を考えているのかまるきり読めない関索は慈愛に満ちた様子でを支えている。ひどく自然な振る舞いで、誰もが違和感を覚えない程であった。
「ね、何に悩んでるのさ。言っちゃいなよ、大丈夫だから」
馬岱が空約束を出してやれば、がうろんな目で馬岱を見た。焦点が合っていないその目はまるで閨に居た時の様だ。思えば、今日初めてと目が合った。べろりと舐めたならばどんな表情をするだろう。獰猛な衝動を押さえながら、馬岱はあやすようにの頭に触れようとした――――だが、その手は素早く関索の光速の手さばきにより撃ち落とされた。
「……さっきからどういうつもりかなあ、関索君。俺はの親友として気持ちをほぐそうと思っているだけなんだけどねえ」
「何をおっしゃいます、馬岱殿。私は何もしていませんよ。ねえ、殿。お話しできそうですか」
しれっと返しての耳元に囁く関索に馬岱はぶちりと頭の中で何かが切れる音を聞いた。全く以て、全く、全体、少しも、面白くない。あの軍神関羽の息子である事がどれほどだというのだろう。
「ちょい、あんまりべたべたして見せつけないでよ。大体、そんなに貼り付いたらだって言えるものも言えないよ」
「おい、馬岱っ」
慌てた馬超が引っ張るのも振り切り、馬岱は今度こそを関索の手から奪い取った。呆然としたように関索が目を丸くする。まさかここまではっきりと態度に示すとは思わなかったのだろう。は酔っているためか、平素の抵抗は一切無い。久方ぶりに触れたに、馬岱はこれまでの焦燥感が一挙に収まるように感じた。少し痩せたろうか。
「だって、俺の方が安心できるよね。ほーら、何でも言っちゃってよ。何でも聞くよ、俺」
どうしようもなく嬉しく溜まらない。はどう思っているのか、抵抗も無ければ何の物言いもない。正面から抱きかかえているせいで今ひとつ表情も見えないが、今は手に入れた事で十分だった。このまま持ち帰りたいところだが、流石にそうは問屋がおろさないだろう。今ならば行き過ぎた友情を見せつけただけに留められる。巫山戯た様子での頭に口付けると、馬岱は頬が緩むのを止められなかった。
改めて思うに、は美味しそうだった。一生傍に留められるならば阮茘花も何も要らないのだと馬岱は確信した。第一、慣れぬ異国の地に来た自分を誰よりも迎え入れてくれたのはではないか。が屈託なく自分を受け入れてくれたからこそ、今の自分が明るく振る舞えると言っても過言ではない。だと言うのに、今更突き放されてしまえばどうなると言うのか。
「……うーん、関索だろうが馬岱殿だろうが、やっていることに変わりはないように見えるな。俺の気のせいかな」
「いえ、趙雲殿。我が弟のことながらお恥ずかしいですが、正直な所、拙者にも差がいまいちわかりません」
「ひどいな、兄上。私はあんな風にやにさがったりしませんよ。私の方が紳士です」
「関索、拙者は何にせよ破廉恥だと思う」
「私も同意ですね。第一、阮茘花殿とおつき合いされているのではなかったのでしょうか。あんなにも美しい方とおつき合いされているというのに、これではまるで裏切りではありませんか」
「伯約の意見も最もだな。しかし馬岱、随分と羨ましい……いや、けしからん」
人が悦に入っているというのに、周囲のしようもないやりとりに馬岱は鼻を鳴らした。何が紳士だというのだろう。全く腹立たしい小僧だ。だがまあいい、と馬岱は腕の中のを撫でた。奪い返せたのならばもう良いのだ。
「馬岱、いい加減に殿を離せ。そう抱きしめては窒息してしまうぞ」
「嫌だな若、折角良い所なのに水を差さないでよ」
「ん」
初めてもぞもぞとが動く。鼻から抜ける様な声に、馬岱は背筋が痺れるものを覚えた。もしこの場に他の人間が居なければとうに押し倒してしまっていただろう。少し腕の枷を緩めると、が真っ赤になった顔を上げた。相変わらず酔いが抜けていないらしく、子供のようにあどけない表情のままである。素材そのものは少しも良いとは言えないというのに、動き出せば鮮やかに人の目を引くということは、矢張りには魅力があるということだろうか。
「どうしたの、。もう寝るの」
先程関索がやったように耳元で囁けば、がびくりと震える。どうせならば、このまま寝てしまえば良いのだ。否、もうこの場はさっさと立ち去ってに自分を教え込んでやった方が良い。人の悪い笑みを浮かべていると、の薄い唇が誘うように開いた。
「……好きになったら駄目なんだ」
「え、」
「それが悩み事かい」
このままと二人きりになってしまえば後はこちらのもの、と思っていた矢先に趙雲が抜け目無く入り込む。確かに誉れ高き武将だけあり、場の流れに聡いのだろう。馬岱はあからさまに眉根を寄せると、虫のように近づいた趙雲を睨んだ。だが、場の流れは読めても空気は読まないことで知られる趙雲には無効である。寧ろ朗らかにを馬岱の手から引きはがし、話の続きを引き出し始めた。
「どうして、好きになったら駄目なんだい。相手の方は他に想う方でも居られるのかな」
「居るよ。それに、俺が駄目なんだ」
にやりと笑うとは趙雲の唇に指を押し当てた。いちいち所作が艶めいているように見えるのは馬岱の欲目だろうか。
「好きになったら執着するだろう。そうなったら、離れられやしないのさ……元々、一緒になれるような相手でもないしな。たとえなれたとしても、一生一緒にはなれないんだ」
「事情はよくわかりませんが、必ずしも共に添い遂げられないとは言えないのではないでしょうか」
姜維の台詞に、馬岱は違うのだ、と心の中で否定した。たった一晩で自分と馬超以外の一族全員が皆殺しにされた馬岱には、の言葉の意味が痛い程に理解できていた。今は戦乱の世だ。この場の平穏無事な楽しみさえ、いつまで続けられるとも知れない。ましてや人の心というものは移ろいやすいのだ、どうして生涯添い遂げられるなどと言えよう。
その点、物や契約ならば確実に側に留め置く事が出来た。文字通り、いつまでも自分のものにすることができるのである。だから馬岱は阮茘花を手放そうとしないのだし、阮茘花もの傍に居たいがため、心底好いている訳でもない馬岱と共に居るのだ。が自分の部下ならばまだ良かった。が女であるならばもっと話は簡単で、ものであればより良かった。
はといえば、姜維の台詞に寂しげな表情を浮かべて小さく首を振っていた。
「言っただろう、俺は求められたいし、安心したいんだよ。だから、好きな奴にはずっと傍に居て欲しい。それが無理なら――――好きにならない方がまだましだ」
「なるほど。それでも好ましい方が居るから悩んでおられるのですね」
姜維の相づちに、そうだ、とが頷く。馬岱はを愚かだと思うと同時に、そうまでして思う相手とは誰なのだろうかと腹の底が落ち着かない心地になった。諦める事も出来ないのならば、先の事など考えずにただ今だけを、その瞬間だけを愛し、流され、楽しめば良い。馬岱はそうしてこれまで行きて来ていたし、快楽に従順なもそのように生きていたと推測された。ただ、馬岱にとっては今だけの対象ではなく、傍に留め置きたいと強く願う相手になっただけのことだ。
では、が悩み苦しむ相手とは誰なのだろうか。誰にせよ、馬岱は相手を知り次第、闇に葬る事を心に決めていた。誰かを真似する様で気分が悪いが、馬岱は王道に興味は無い。自らの目的の為には、誰もがやりたがらないことをやることも必要であるし、覇道を以て制することも必要なのだ。
「……ね、相手の人はの気持ちを知ってるのかな」
「知らないよ。それに、そいつは知ったとしても、俺の気持ちは理解できないよ」
驚く程にすらすらとは答え、もう良いだろうというように立ち上がった。急に立ち上がった為だろう、ふらつく身体を馬岱は慌てて抱きとめる。矢張り少し軽い。もしそれが相手の人間のせいであるならば、尚更闇に葬らねばなるまい。
「趙雲殿、悪いけど部屋借りてもいいかな。を寝かせてあげたいんだ」
「構わないとも。誰か、馬岱殿を案内してくれ」
「はっ」
気軽な主人の求めに応じて現れた家人と同時に、馬超と関索が不気味に立ち上がった。
「俺も同行しよう」
「奇遇ですね。私も同行させていただきます。……如何されましたか、馬岱殿。私達が居る事で何か障りでもあるのでしょうか」
「ないよ、勿論」
馬超は元より釘を刺されていたから仕方が無いとして、腹立たしいのは矢張り関索である。最後まで立ちはだかるこの男を先に闇に葬るべきか、と思案しつつ、馬岱は笑顔を引きつらせた。
結局その夜もまた、馬岱の欲望が果たされることはなかった。
〆.
後書き>>
またエロがないです。(挨拶)何故だ。馬岱の脳内は男子高校生並みに炸裂してるというのに、発散させてやれなくてごめんよ。そして久々にコメディパートも書きました。わいわいしてるのを想像するのも書くのも楽しいです。でも馬岱の心はダークでブラックなんだよ!公式の台詞集で「本当は根暗で孤独、でも剽軽な三枚目を演じてる人」が全面ににじみ出てるので、ままとも言えます。
相変わらず大事なものが抜けている馬岱と、敢えて抜けさせた主人公の根は一緒なのかもしれません。そしていつの間にかブラック関索が保護者になりました。これが(闇の)軍神の息子の力!関平は純情派なので(光の)軍神の息子です。馬超と関索の鉄壁の守りに、馬岱はどう立ち向かうのか!?次回、こうご期待です。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!