好きだ、好きだ、大好きだ
恥知らずでも何でも良い、自由で居られる限りに叫ぶのだ
貴方を好きです、大事にします、
だから一緒に居てください。
違背人倫/6
どうしようどうしようどうしよう。だらだらと汗を流しながら、馬岱は壁に背中をつけていた。ぬるりとした己の汗が気持ち悪い。掌の内側に至っては、もう滑りすぎて脂でも塗ったかの様だ。そういえばの中に塗り込めた時は楽しかったな、とすり切れすぎて現実か妄想か解らなくなった過去を振り返る。あれは美しい思い出だった。と、他所に想いを馳せていたのを見計らうかのように、耳元でヒュンと物騒な音が響く。一瞬で馬岱の皮膚という皮膚が粟立ち、ちろりと右耳すれすれに尽きたったものに目をやった。長い針だ。所謂、暗器というものだろう。
「いやあ、君がこれほど芸達者だとは思っても居なかったよ、茘花」
「あら。そんなことも知らなかったのかしら。私達、付き合いは長いと思っていたのだけれども」
まるで絹糸のようにしなやかな声で宮中随一の花にして、馬岱の恋人である阮茘花は笑った。目は少しも笑っておらず、暗い光をたたえている。さしもの馬岱でも相手の心情は痛い程に理解できていた。浮気がばれたのだ。否、浮気と言って良いのか、最早馬岱にはよくわかっていなかった。が、ともかく阮茘花は怒り狂っていた。自分の裏切りには大して怒っていないのだろうな、と馬岱は冷静に思いめぐらせた。彼女の事だ、きっと馬岱がに手を出した事に怒りを覚えているのだろう。彼女は何よりもが大切なのだ。もしが血族でなかったら、なんとしてでも結婚しようとしていたに違いない。彼女がの血族で、尚かつ女で良かった、と馬岱は薄く笑った。
「自分の立場が解っていないようね、馬岱様。否、このけだもの。よくも小父様を手込めにしてくれたわね」
随分とくだけた口調だ、と馬岱は目を細めてこの美しい生き物を見た。怒りで肩を震わせているが、実際は悲しみが大部分ではないかとふと思う。阮茘花が素の感情を馬岱に見せたのは、悲しい事にこれが初めてだった。彼女は自分を愛してくれたのだろうか。今も、愛してくれているのだろうか。では自分はどうか、と自問し、馬岱は首を振った。どう探しても彼女に対する愛情はなかった。申し訳ないくらいに機能的な面でしか阮茘花を見ていない自分に、馬岱は人でなしだと自嘲した。
選ばなかったことで目の前の人を悲しませてしまったのだと言う事は痛い程に理解出来て居た。に選ばれなかった自分がこれ程にも辛いのだ。誰も手に入れることができず、傍に居る事も許されない阮茘花にしてみれば踏んだり蹴ったりというもので、闇討ちという驚きの行動に出たとしても不思議ではなかった。勿論、そんなことを実行に移せるのも武門の誉れたる阮家の証なのだろうが。
だから、どんなに遅くとも選ぶのは今なのだ。行動しようと心に決めたのだから、やろう、と馬岱は自身に言い聞かせた。心臓がどきどきと早鐘を打っている。保守的に動き続けた自分が、策も何も張り巡らさずに正面から挑むというのはなかなか勇気が居る事だった。先日の窓辺に佇んだの姿を思い出し、馬岱はひどく胸が痛んだ。仮令彼が自分を選ばないのだとしても、好きで居続けたいと、愛したいと思ったのは初めてだった。
「ごめんね、茘花」
「謝って済むのならば、この世に罪人は居ないわ。二度と小父様に近づかないで頂戴」
「嫌だ」
「図々しいわね」
きりりと眉根を寄せると、阮茘花はきらりと銀針を取り出した。次はどこに飛ばそうというのだろう。流石の馬岱でもうまくはじき落とせる自信は無い。何が起こるかは解らないが、なんとかして大事な事だけは伝えようと馬岱は唇を引き結んだ。
「ごめんよ、茘花。君には申し訳ない事をしたと思ってる。でも俺はが好きなんだ」
「呆れた。私はまだ良いわよ。ええ、貴方を利用した事は事実だもの。けれどもね、貴方の行動で小父様がどれ程迷惑を被るか、考えた事はあるの」
「……俺が追い回して迷惑をかけてるのは解ってるよ」
阮茘花があっさりと自身の意図を吐露したことに、馬岱はおやと首を傾げた。聡明にして計算高い彼女がここまで感情を剥き出しにしている事も不思議ではあるが、それ以上に謎だった。問いかけの意味も不思議だった。馬岱はに迷惑だという事が解っていてもどうしても追いかけたいのだし、それは一種の誠意にも近いと考えて居たのだ。だが、どうやら馬岱の回答は不合格らしく、帰って来たのは溜め息と、左頬を的確に掠めた銀針だった。
「良い年の癖して、随分と我が儘なのね。まあいいわ、確かめてあげる。馬岱様、小父様は貴方の気持ちを知っているのかしら」
「うん」
「小父様は貴方の気持ちに対して何と言ったの」
「『ありがとう』って言ってたよ。……は、他に好きな人が居るからね。俺には応えられないと思うから、仕方ないのはわかってたよ」
「図々しいわね。最も、仮に小父様が貴方の事を好きだとしても応えないと思うわ」
「何でさ」
反射的に顔を上げると、馬岱は思いの外怒りの度合いを高めた阮茘花の目にぶつかって怯んだ。阮茘花ではなくを選んだ事に対して怒っていない事だけは解る。道義的にも、を選んだ事で馬岱が言う様な類いの非難は受けない筈だ。では何に対して怒っているのだろう。第一、何故が自分を好きだとしても断ると言いきれるのだろうか。ふと、そこまで考えて馬岱ははたと過去を思い出した。
『まずいだろう。少なくとも、俺はこんなことがばれたら親族連中に縁を切られるくらいの覚悟はしないといけないな』
『お前も少しは自分の体面ってものを考えろ。頼む、考えてくれよ。俺は茘花を裏切りたくないんだ』
はいつでも体面を気にしていた。道義的に正しい正しくないを述べる等、らしくもないと馬岱は鼻で笑っていたものだが、笑い事ではないのだと阮茘花の目は言っていた。
「俺が君と付き合っているから、が周りに責められるって言いたいのかい」
「正解。相変わらず何かが抜けてるみたいだけど、頭は良いわね」
ひどい言いようだ、と苦笑いすると馬岱は大人しく阮茘花のご高説を伺うことにした。何せ馬岱は実際世間一般に必要とされているものが抜けているのだ。欲しいものは欲しいし、絶対に手に入れたいものだし、楽しいものは仮令一時だけのものだとしても貪りつくしたいと思っている。だから後で問題になるのだ、と馬超あたりが文句を言いそうなものだが、馬岱は何ら気にしていなかった。だが、に何か及ぶようであるならば別である。
「自分で言うのは気恥ずかしいけれども、私は宮中一の花と呼ばれてるわ。一方、小父様はあんなにも素敵で可愛らしいのに、せいぜい武門の誉れと言われてるだけよ。宮中一の花を捨てて、武骨な男をとったということになれば、世間はまず貴方を非難するでしょうね。でも、小父様はもっと責められるのよ」
「そんな、」
「ただ好きなだけで許されるものなんてないのよ。小父様が今まで非難されなかったのは、宮城で誰かと関係を持ったりしなかったからよ。悲しいけれども、小父様は私達が知っている程に世の中で評価されていないの。親戚連中は小父様を閉め出すでしょうし、人気者の貴方を誑かしたとそこかしこで小父様は非難を受けるわ」
がん、と殴られた様な衝撃が馬岱を揺さぶった。思いも寄らない出来事だった。が周囲に不当な評価を受けているというのは僅かながらに記憶している。だが、それが障害になるどころかを苦しめるとは考えも及ばなかった。阮茘花が怒るのも最もだ、と馬岱は漸く納得した。こんな時であっても、相変わらず彼女は聡明だった。
「今はまだ良いわ。貴方がふざけていると思って皆おもしろがっているだけでしょうからね。でも、貴方が本気だと解ったらどうなるか解るでしょう。小父様は優しいから、貴方を好きでも嫌いでも拒むわ。貴方に非難が及ばないようにね。腹立たしい」
昼食の後の職務というものは得てして中だるみしがちだ。職務を抜け出したは、ぼんやりと川の流れを眺めた。川の流れが常に一方通行であることが不思議だった。勿論川に意思等無く、ただ高い場所から低い場所へと流れようとすること等理解している。だが、不変であるということはそれだけで十分不思議と思うに値する。
「はぁ」
馬岱も川の流れのように真っ直ぐだった。何も見えない、ただ洪水のように一時的に溢れたのだと思っていたが、急に澄み切った清流となってに飛び込んで来たのだ。好きだ、と馬岱が言う。あの美しく傲慢で寂しがりやの馬岱が自分を選ぼうと言ったのだ。思い返す度にの頬は熱を持ってしまう。部下達の前では厳しく凛としなければならないというのに、これではだらしのない緩みきった顔を見せてしまうことになるだろう。
一応、は武道に関しては一流で、武器を手にすればひどく格好良いと部下に評判なのだ。若かりし頃程の人気でないにせよ、しょっちゅう遊びに来ている王羽等には期待されただけの姿を見せてやりたいというのがの男心である。関索等は無理をしない方が良いと笑うのだが、はやりたいようにやるのだ、と常に返して来ていた。
好きになっては駄目なのだ。阮茘花の恋人で、諸将の信頼も厚く、女官からは引きも切らず人気となれば、何処にが入り込めるというのだろう。場違いなだけだった。親戚一同どころか、下手すれば蜀の人民全てを敵に回すことになるかもしれない。否、だけならば良いが、馬岱にも類が及ぶのは間違いなかった。
おまけに、は好きとなったならば、ずっと傍に居て欲しいと願ってしまう性質だ。結婚も出来ない男同士で、一体何を以て相手に縋れば良いと言うのだろう。女性になりたい、とは心底願った。
「忘れないとな」
好きなだけでは駄目なのだ。馬岱はきっと、もっと安全な人間と恋に落ちるだろう。は相変わらず適当に遊んでいる、ふしだらな中年と陰で呼ばれるだろう。それで良いのだ。何もこれまでと変わることはない。いっそ結婚でもしてみようか、とも思う。相手に不誠実であるかもしれないが、精一杯愛する努力はしよう。叔母辺りに頼んでみれば、漸くまともに当主としての自覚を持ったのかと喜んで縁談を持ってきそうだ。可愛らしい花嫁候補達に囲まれる自分の姿を想像すると、は首を振った。馬鹿馬鹿しい。
「駄目だな。それじゃ、幸せになれない」
「誰が幸せになれないんです」
「……関索。人の背中に貼り付くのはやめろ。あと、耳元で話すな」
びったりと貼り付かれたためか、背筋がぞくぞくと震える。は舌打ちすると、夢から覚めたように関索の腕を引きはがした。相変わらず穏やかな公子然とした青年は何にも動じない。どこか意地悪そうに目を細めると、関索は小さく笑い声をあげた。
「おや、気に入っていただけなかったみたいですね。残念だな。少しは喜んでもらえるかと思ったんですが」
「何でだよ」
「馬岱殿のことで悩んでいるのでしょう。また、何かあったんですか」
が何故解るのか、と尋ねれば、関索は顔に書いてある、と答えて横に並んだ。距離が近い。このところが感じていた事なのだが、馬岱の位置に関索がすげかわってからというもの、その距離感までも踏襲したらしかった。にしてみれば、自分好みの綺麗な顔立ちが傍近くにある訳で、どうにも落ち着かない。勿論馬岱が好きという気持ちに変わりはない。が、素敵なものを見て胸をときめかさない程には鈍感ではなかった。気持ちを切り替える為に一つ深呼吸をすると、は真面目な顔で告げた。
「大問題だ。馬岱に『好きだ』と言われた」
「ああ、意外と早かったんですね」
あっさりと返すと、関索は拍子抜けするように他には何も無いのかと尋ねた。何もある訳が無い。それよりも驚いていたのは関索の耳に既に入っていたという事実だった。と、するならばあんな夜更けに誰かが立ち聞きでもしていたのだろうか。馬岱があしざまに言われる事がなければよいが、とは不安を押さえながら努めて冷静に関索に問うた。
「どこで聞いたんだ」
「聞いた訳ではないですよ。知っていたんです」
「何をだ」
「貴方達の気持ちですよ。知らなかったのは馬岱殿と貴方だけです。私は、馬岱殿は最初から貴方の事が好きだったと思いますよ」
「まさか。あいつは茘花の恋人だぞ。大体、俺との関係だって事故のようなもんだ」
遊びだと、ただ目の前の快楽を貪りたいが故だと馬岱は繰り返していた。だからこそ、は彼を信用することができなかったのだ。だが、とははたと考えを止めて表情を曇らせた。いずれにせよ、と馬岱が結ばれることはない。
「私が思うに、馬岱殿はどうしようもなく鈍感で優柔不断なだけでしょうね。私だったら、こんなに面倒なことになる前にさっさと恋人になってしまいますよ」
「……事実かもしれんが、ひどい言われようだな」
「事実ですよ。それで、『好きだ』と言われてどうしたんです。良かったじゃないですか。ご自分の気持ちを伝えましたか」
「伝える訳ないだろう。確かに嬉しいには嬉しいけどさ、無理だ」
阮茘花や世間の自分に対する評価がの頭を過る。建前上の理由を一通り思い浮かべて、は心の中で自分を笑った。単に、障害を乗り越えてまで馬岱に愛していると、傍に居たいと縋る勇気が無いのである。口では綺麗な事を言いながら、臆病なだけであるなど恥ずかしくて誰にも打ち明けられない。馬岱にまっとうな道を選んで欲しいというのは本当だが、世間に自分が受け入れられないという事実を突きつけられるのが怖いだけなのではないかもしれなかった。頭の良い関索ならばそれだけで解ったのだろう、意味ありげに頷くとそっとの肩を抱き寄せた。
「じゃあ、私と付き合いましょう」
「唐突だな」
「良いじゃないですか。私は好奇心からですし、殿は馬岱殿から逃げる為に私を利用すれば良いんですから」
「やめとくよ。もう少しましな手を考える」
せめて、幸福になれないのならば自分だけに留めたかった。自分でさえも、きっといつかは忘れるだろう。忘れてみせなければならないのだ。だが、関索はそうではなかったらしい。もう片方の腕も伸ばすと、ぎゅうとを抱きしめた。先程よりも傍近くに関索の体温を感じ、の頬が熱くなる。耳元で関索の呼吸が浅く繰り返され、まるで熱風が吹き荒れているかのように錯覚させた。
「私がそうしたいんです。ただ、それだけですよ」
嫌なら逃げなさい、と笑いを含んだ声で関索が囁く。それだけで震える自分がは嫌だった。以前にも関索は同じ台詞を吐いてを逃がしてくれたのだ。別段を好いた訳ではないことを承知しているが、残酷な程の優しさに今はすがりつきたかった。視界の端で川がいつものように上から下へと流れていく。自分も同じだ、とは自嘲した。
転げ落ちる事しか出来やしない。
ここ数年、戦以外に取り立てた話題も無かった蜀の国で、阮家と家の珍妙な出来事が今や国を挙げての話題となっていた。まず一つ目は、あの阮茘花と馬岱が別離したというものである。理由は不明であるが、馬岱の行状に問題があったというのが専らの意見である。次に、と関索が情を交わすようになったことを公にした。元より急速に仲が良くなっていったこともあり、宮城ではこれといって真新しい情報とはとらえず、生暖かく見守る雰囲気が広がっていた。極一部の女官に至っては、奇妙にも黄色い悲鳴をあげて喜んでいる程である。
だが、勿論喜ばしいと受け止められる人間ばかりではない。
「どういうことよ、これは」
「お嬢様、お気を確かに」
「これ以上なく確りしてるわよ。何なのこれは。関索様に取られるだなんて、ああもう腹立たしいっ」
ぼきりと手にしていた簪を折ると、渦中の人物の一人、阮茘花は怒りを露にしていた。彼女が怒り狂っているのは自分自身が馬岱と別れたことが公になった事ではない。が、あのがよりにもよって関索にひっ攫われたという恐るべき知らせだった。下女の朱夏は慣れた様子で折れた簪を受け取ると、涼しい顔で新しい簪を阮茘花の髪にくるりと差した。
「馬岱はどうしてるのよ。あの男があんなに真摯に頑張ると言ったから離したのに」
「何でも、様は元より別の方に思いを寄せていたというのが専らの噂です。馬岱様は意気消沈されている様ですわ」
恐らく、ご存知だったのでしょう、という朱夏の台詞は阮茘花の耳を静かに通過していった。仮令事実だとしても、阮茘花には解せなかった。小父が関索を愛しているとは到底思えないのだ。ただ、馬岱よりも世間に受け入れられるという点だけは理解できる。ひょっとすると、ただそれだけを理由で、また忌々しくも馬岱を気遣って関索と付き合う事を決めたのやも知れない。
解らないのは関索だ。男色家でもなく、急にに取り入り、あまつさえ恋仲になるなど阮茘花の理解の範疇を越えている。邪推が大分混じっているのは解っていたが、阮茘花は勘ぐることをやめられなかった。元より、阮茘花は関索という胡散臭い好青年が嫌いなのである。どうにも裏を感じる、というか気持ちを上手く取り繕っているようにしか見えない。馬岱も似た様なものだが、こちらは阮茘花と似た様な部類のため、手に取るように読み取れた。おまけに、馬岱はどれ程阮茘花が責め立てようともびくともせずに言いきったのだ。が好きだと。どうしようもなく愛していると。
『今はまだ良いわ。貴方がふざけていると思って皆おもしろがっているだけでしょうからね。でも、貴方が本気だと解ったらどうなるか解るでしょう。小父様は優しいから、貴方を好きでも嫌いでも拒むわ。貴方に非難が及ばないようにね。腹立たしい』
『――――が俺を好きになってくれるなら、俺は他に何も要らないよ。と一緒に非難でも何でも受けるし、は俺が守る。がいやがっても、一度手に入れたら二度と手放さない。だから、俺を応援してよ、茘花。図々しいのは解ってるけどさ』
余りにもまっすぐで真摯な言葉に阮茘花は息を呑んだ。自分では小父を振り向かせる事はできないことを、阮茘花は痛い程に知っている。ならば、腹立たしい事だが勝手知ったる馬岱に任せても良いのではないかと思えた。人々が知る飄々とした馬岱ではなく、ただ一途で臆病で、不器用に愛する事しか出来ない姿は、阮茘花に感銘を与えるには十分な衝撃があった。仮に自分が男で、を愛することが出来たのだとしても明言する勇気を持っているだろうか。恐らく、無いに違いない。
が阮茘花に願う程に、阮茘花もの幸せを心の底から願っている。小父の心底にある寂しさを埋めることができるのは、未来永劫彼の傍に居て、愛し合う事の出来る人間が必要だった。だから、阮茘花は馬岱に、が馬岱を好いたならばひとまず見届けてやろうと言って解放したのだった。応援をするつもりはない。だが、候補として認める程度はしてやろうという訳だ。阮茘花としての自尊心と彼女なりの道義を折半した結果である。
しかし現実では信じられないことに、鳶に油揚げをかっ攫われるという事態が発生していたのだ。よりにもよって、あの胡散臭い関索に、である。手助けをするつもりはなかったが、何らかの落とし前と対策は必要だった。きりりと眉毛を上げると、阮茘花は泰然と朱夏に命じた。
「馬岱を呼んで頂戴」
「もうお呼びしてありますわ。――――馬岱様をお通ししてください」
「はい」
童女が短く答えると、扉の向こうからのそのそと動く男を連れて来た。馬岱である。常の自信に満ちあふれた輝きも、取り繕った優しさも欠片も無く、どこかうちひしがれた惨めな様相を呈していた。情けない、と鼻を鳴らすと阮茘花は馬岱に椅子を勧めた。何にせよ、ここは腰を据えて話し合う必要があるだろう。
「もう知っているとは思うけれども、小父様は関索様とお付き合いなさるそうよ。さ、馬岱様、感想を聞かせて頂戴」
「ちょい、傷口に塩をすり込む様な真似はやめてよ。見て解るでしょ、落ち込んでるし、悲しいし、嫌だし関索がむかついてしょうがないよ。嫉妬が醜いのは解ってるし、ここはの幸せを願うべきなんだろうけど、無理だよ」
「半分くらいは私も同感ね。どうもこれはおかしいわ」
「どういう意味さ。ここのところ、関索はにべったり貼り付いていたし、宴会のときだって嫌なくらいにを甘やかしてたよ」
ぼんやりとした反論に、阮茘花は舌打ちした。普段の馬岱は明晰この上ないというのに、何故こうもに関しては鈍いのか、阮茘花には理解できなかった。これが恋は盲目という巷で言われる現象なのだろうか。だとするならば、自分も相当小父に対して惑った気持ちを持っているだろう、と溜め息をつくと、阮茘花は少しずつ考えを整理することにした。
「小父様が、貴方を拒み始めたのはいつかしら」
「はっきりと態度で示したのは半年も前かな。確か、関索が初めてと呑みに行った日だ」
「成る程ね。おかしいとは思わないの。あの関索様が殿方と関係を持つのは私が知る限り初めての事なのよ。初めて呑みに行く日にいきなり小父様を襲うとは考え難いわ」
「そんなことまで知ってるのか。そうだよ、おかしいとは思ったよ。けど、あの日から急に仲良くなり始めたんだから、ひょっとすると今まで関索はを狙ってたのかもしれないじゃない。が俺との付き合いを断るようになってから、誰だって付け入る隙はあったんだよ」
今度は真っ当な反論だった。阮茘花は馬岱の頭脳が正常に動作し始めた事に安堵すると、畳み掛けるように続けた。
「そうね。けれども小父様はどうかしら。付け入られたからって関係は持たないでしょうね。これまで小父様が趣味を非難されなかったのは何故だと思うの」
「それは、宮城の人間とは関係を持たなかったから……まさか」
「そのまさかよ。これは一種の計略のようなものである可能性が高いわ。少なくとも、私が観察するには、二人とも互いを愛してない。今のところはね」
肩をすくめると、阮茘花は漸く真実の欠片を握りつつある馬岱を見遣った。見る間に顔色が紅潮して行く。
「解ったかしら。手を貸さないとは言ったけど、貴方には頑張ってもらわないといけないの。貴方なりに、これからもしつこく小父様を追いかける事ね。関索よりも魅力的だと小父様に理解してもらえなければ」
本当に奪われるわよ、と告げると阮茘花は満足げに笑みを漏らした。馬岱がごくりと喉を鳴らして頷く。この様子ならば、馬岱は開き直ってを追い回すに違いない。最早二人にどんな非難が降り注ごうとも、阮茘花は憂慮していなかった。これは阮茘花の擬似的な恋愛なのだ。馬岱が恋を成就させれば、阮茘花もまたを愛す事ができたのだと、どこかで錯覚することができる。関索ではできないだけだ。
ただ、が馬岱を愛している可能性が高いことだけは口をつぐんでおいたのは、阮茘花なりの意地だった。
〆.
後書き>>
開き直ってコメディタッチにしてみました。なんというか、似た者同士がごちゃごちゃ言い合って仲良くしているのが好きです。もし主人公を女性にしたならば、阮茘花にしている気がします。(え)気が強い女性が好きなのさ!
えー、馬岱の男子高校生の様な思いはなかなか成就しそうにないですが、裏なので次辺りはまた頑張ります。頑張りますとも。
最後まで読んでくださり、有り難うございました!