気づかぬ内に日は暮れて
月ぞ我らが道照らす
山月記
ころりと転がり行く小石の行く先を目で追ってゆくように、するりするりと月日は暮れていった。
次の戦に備えての下調べにと、辺りの地理を調べながら凌統は右手に見える切立った山を見上げた。
月が、丁度その頂上にまるで引っかかるようにして円やかな線を描いている。
「残すはあの山のみか」
「はい、そうです」
脇に控えていた、案内役を買って出たこの麓の村の純朴そうな青年を振り返れば、どこか畏敬の念の篭った目とぶつかった。
自分に向けられているのか、と当初思ったものの、どうもそうではないらしく、青年の目はひたとその険しい山に注がれていた。
どうも、近隣の住民の信仰の厚い山であるらしい。仙境とでも言われているのかもしれない。
所定の日数どおりにことは進めてあり、別段急ぐ必要も無い。加えてこの闇路を辿る気はいっかな起きなかった。
凌統はくるりとあたりを見渡すと、副官に向き直った。
「_____もう遅いな。あの山を調べるのは明日にしよう。宿営の手配は」
「既に済ませてあります」
「そうか。行こう」
馬首を廻らせて村に帰る前、案内役の青年がぺこりと山に向かってお辞儀をしたのがやけに印象的だった。
今日調査したことに更に情報を加えるため、凌統は村長を訪ねた。
本来ならば将軍である自分の元に村長を呼びつけることもできたのだが、いらぬ反感を買う必要は無いと判断した。
実際宿営に関しても主な将校は全員村の何がしの家に泊まっている。人数が多くないのが幸いだった。
「それで、明日はこの山を見るつもりです」
手土産の酒瓶を置けば年をとっても尚好きと見えて村長の目が細まる。
が、凌統が指差した先を見るとすぐさまそれは難しいものに代わった。
「___どうしても、見ねばなりませんかの」
「そりゃあ、そうに決まってるでしょうよ。もし、この先戦が起きるとすればあの山は要害となりますからね。あそこを防御の拠点とするにしても、なんにするにしても見ないことには何にも始まりませんよ」
答えて何故、そんな風に嫌がるのかと尋ね返せば、思ったとおりあそこは皆の信仰の中心なのだという答えが返ってきた。
こういった民間信仰の類を嫌がったのは孫策が有名だが、現在君主となっている孫権もそう良い顔はしていない。
先だっても左慈という仙人に散々振り回された挙句、放逐するより他にないとなったばかりである。
凌統自身は彼自身そういった類に親しんでいることもあり、人が何を信じようが国に影響が出さえしなければ良いと考えていた。
こういった、折に触れて現れ出る弊害を除いては、だが。
軽く額に指を置いて、凌統はさてどうしたものかと思案した。
ここの近隣まで陣地を広げることはまず、ないだろうとは思っている。
しかしその万に一つの可能性さえも考慮に入れなければならないのが戦であり、下準備が物を言うのもそれである。
長年の経験から凌統は恐らくあそこを補給ないしは防御の拠点を置くに適していると判じていた。間道を利用して伏兵を置くのも良い。
だがそれはあくまでも実地調査のない机上の論に過ぎない。百聞は一見にしかずという。ならば蓋を開けるより他は無い。
そこまで考えて、凌統はどういった謂れで山が信仰の対象になるのだろうということに気づいた。
気分は少々悪いが____それを利用するのもまた、手では有ろう。
「何故、皆はあの山をそんなにも信仰するんです?確かに霊験新たかな風ですけど」
「霊験とは少し違いますな。あれには虎のような狼のような、不思議な獣が居るのですよ」
「獣?」
何故かかつて聞いたことの在るような形容に凌統は訝しげに片眉を上げた。
「人に会った、という者も居ります。何れにせよあの方々は我々を実際に守ってくださっているのですよ」
御蔭で近隣の山賊は皆掃討されたのだという。確かに大した兵も居ないにも拘らず、この辺りの治安は良いのだということを部下から聞いていた。
そのからくりはどうやらその義賊のような連中の御蔭であるらしい。
「義賊のようなものですか」
「いいえ。彼らは大商人たちが我らを侵害するようなことこそあれば襲いますが、武のみで我らを守るわけではないのです」
それに、襲っても何一つ、彼らの分け前を持ってゆくことはないのだという。
村の者が祭祀をしようかとしたときも断ったそうだ。聞けば聞くほど不思議であり、その無欲さは確かに神のようなものを感じる。
一人間の出来ることではない。
「山に入れば、彼らに俺達が襲われるなんてことはあるんでしょうか」
「それはどうでしょう」
何故なら何も村の住民に害を及ぼすことはしていないのだ。軍隊だからという理由で襲われた者も居ない、と村長は首をかしげた。
今だ。ピン、と感づくと凌統は畳み掛けるように村長に願い出た。
「では、都への土産話に一つ、彼らと会ってみたいのですが」
「しかし……」
「この話を聞けば殿もお喜びになられることでしょう。あるいはここを特別区とし、祀ることを条件に税を軽くなさるやもしれません」
「本当ですか?」
税が軽くなる、と聞いた瞬間村長の目が輝いた。やはり彼らにとっての最大の関心ごとは実際の生活なのだ。
利用していることを苦々しく思いながらも凌統は軽やかに弁舌を続けた。
「会わなければわからないことですが」
「そういうことでしたら」
話が決まった。
翌朝、部下を数人連れて凌統は険しい山の中に足を踏み入れた。勿論案内役に一人、村の青年がついてきている。
青年自身この山に入ることに大層興奮しているらしく、小鳥のように数々の奇跡を語らってくれた。
少々、煩い。が、凌統は黙ってそれを聞いておいた。彼らが意思疎通を図ることの出来る人であるならば、その彼らを懐柔するに必要な情報は得ておくべきだろう。
「あれは?」
山の中腹辺りに差し掛かって、そこに小さな東屋のようなものがあるのを目に留め青年に尋ねれば、ああと流れるような話をせき止めて青年は説明した。
「山神様たちがお休みになられる場所です。他にもいくつかこの山の中にはありますよ」
「獣だって聞いてたぜ?どういうことだ、一体」
「さあ。俺は見たことがないんですけれども______人の姿をした方も居られると聞きますし。第一、これを建てたのは俺たちではなく山神様ですよ」
いつの間にか建っていたのだという。勿論村のものも利用するが、それに対しての反応もなく、共生は上手くいっているのだと青年は言った。
東屋は奇妙なことにこの辺りの物とは異なった形をしており、寧ろ都にある東屋によく似ていた。
存外その山神と呼ばれているものは都の者なのかもしれない。獣というのは大方それが飼いならしているものなのだろうと凌統は判じた。
そう考えれば、彼らが人の形をとったり獣の形をとったりするのも理解できるし、武のみではなく知恵も働かせるという点にも納得がいく。
青草のにおいが鼻を突く。そろそろ頂上が近づいてきていた。
「ここが頂上です」
ひどく広い広間のような空間が広がっていた。丁度大樹が枝葉を広げて一つの城のようになっている。
要塞にするならばここだな、と冷静に頭の中に書き入れながら凌統はそれで、と促した。
「彼らには何時、会えるんだ?」
「それが……お答えできれば良いんですが、何しろ俺達も困ったときにしかお会いできないもので。あちらが将軍にお会いしたいと思わなければ、どうなるかはわかりませんや」
「そうか」
ちらと、ここでこの村人を斬るような真似でもすれば直に来るかという思いが過ぎる。
が、結局凌統はそれを辞めた。そこまで悪辣にせねばならぬほどこの地が必要なわけではない。
本当に駄目だったら、やはり潔く引き返そう。そこまで決めて凌統は今晩ここに宿営する旨を青年に告げた。
「運が良ければ会えるだろうさ。帰りは自分たちで帰れるから、あんたは帰って良いよ」
「でも」
「大丈夫だよ。あんたらに害が及ぶような真似はしない。約束しよう」
そこまで言うと根負けしたのか、それとも暗くなってゆく様子に恐れを覚えたのか、青年はこくこくと頷くとまっしぐらに駆け下りていった。
部下もそう必要ないと判断し、ついでに二人ほど残して村に帰らせた。糧食を無駄にする必要もないだろう。
残ったものに宿営の準備に当たらせて、凌統は少しこの頂上近辺を探ることに決めた。
何しろまだ夜まで少し時間がある。日のあるうちに見ておきたかった。
「一年、二年、三年……」
指を折って数えながら、凌統は自分の元を去って行ってしまった人が離れて幾程の年月が流れたのだろうと考えた。
「六年……いや、五年半になるか。」
その名を呼べば、今でも胸が酷く締め付けられる。あれから自分は周囲の勧めもあって極普通に身を固めるに至ったが、彼の人への思いというのはそう消えるものではない。
ずっと探し続けていた。しかし、願い虚しくあの出奔した日以来何の情報も入って来はしなかった。
あの時あの事件を目の当たりにした人々はもう大分消えてしまっていて、恨むか、と尋ねてきたあの周瑜でさえももうこの世には居ない。
生きては居るのだろう。何せ彼は死ぬような運命は持たない。死ぬかもしれないが、自分よりも遥かに遠いということだけは確かだ。
この国の、この大陸よりも遥かに果てに居るのだろうか、と思うことがある。彼ならば確かに仙境にでも住めるだろう。
ならば二度とは会えないのだろうか。そう思うとまた疼痛が走る。せめて会えたならば。
「おや、人ですね」
「!」
がさりと近くの繁みが揺れた、と思うと辺りの暗闇に同化するような影がそこに立った。
どうやら考えに没頭しているうちに世は完全なる闇に包まれたらしい。目が慣れずに全てのものが曖昧に溶け合っていた。
影は人のようにも思えるが、ともすれば獣のようにも見える。これが山神なのか、と凌統はほうとため息をついた。
しかしこの雅な声には聞き覚えがある。一体何処で聞いただろうかと自分の記憶を訝しく思っていればあちらから声がかかった。
「______ああ、こんなこともあるものですね。どう致しましょう」
「どういう意味だ?」
月明かりで薄く見えてくるものの形に凌統が目を凝らせば、それは段々と人の形をなしてきた。
都人のようなゆったりとした衣装が涼やかな青年である。どう見ても近隣のものではない。
もっと何か尋ねよう、とそのやはり見覚えのある青年の姿に戸惑いつつ凌統が口を開けば、後方の繁みががさりと動いた。
「おい、公覇。何してるんだ?そろそろ帰って来いと、彩萌が________っ!」
「!」
凌統が其方を向いて絶句するのと、繁みから現れかけた”山神”が慌てて踵を返すのはほぼ同時だった。
ついで、青年の声が飛ぶ。
「様!」
様。その言葉に、全ての凌統の記憶が色鮮やかに蘇った。
今、呼びかけたのは元昊。あの日初めて名を知った、よく見知った人である。
そして将に呼びかけに足を止めた人物こそ________、凌統が長年捜し求めた唯一の人であった。
「、なんだな!良かった、もう二度と会えないかとばかり思っていた」
「公績」
確かに返ってきた声は紛れも無く懐かしい彼の人のもので、凌統はそれだけで胸が一杯になり直にでも捉えようと手を伸ばした。
が、確かに影を掴んだはずの手は空を切り、それよりも後方の繁みが揺れる。
「駄目だ、公績。こっちには来るな」
「何でだよ!漸く会えたっていうのに_____それなのに、どうしてそんなことを言うんだよ」
もう一度近寄ろうとすれば影が飛翔しくるりととんぼを切って今度はあちらの繁みに隠れた。
姿は少しも見えない。あるのは影と同化する闇ばかりだ。薄暗がりの中はっきりと見えているのは自分と元昊の姿、それだけである。
「俺はお前の目の前に姿を出すわけにはいかないんだ。頼むから解ってくれ。姿さえ会わせなければ、暫くはこうして話すことも出来るから」
「」
哀願するような声に言葉を失う。こんなことを言うことは滅多に無いことだった。
暫しの沈黙が流れた。
「しかしお前にもう一度、こんな風に会って話すとは思っても居なかったよ公績」
「俺もだ」
全く予想だにしていなかった、と言いながら凌統は仕方なく近くの切り株に腰掛けた。
いつの間にか元昊の姿は消えて居り、そこにも闇だけが広がっている。
「最もお前の噂だけは風の便りに聞いていたけどな。偏将軍に出世したんだってな」
「ああ。最も忙しいのだけは変わんないけどね______は、どうしてここに?」
「成り行きさ」
せせら笑うような答え方だったが、付け加えるようにしてぽつぽつとは説明をしだした。
宮城を抜けた後、一度失った故郷へと戻ったこと。一族の残りと決着を着けたこと。
その帰り道にこの村で山賊と出会い、それが縁でここに居ついていること。
ひどく厭世的な調子で、それでいて寂しげな語り口に凌統はの心が透けて見えるような気がした。
「人がどんなものなのかもう知っていても、人を捨てることが出来なかったよ。駄目だね、俺は」
「駄目なんかじゃないだろ。のしていることは間違っちゃいないじゃないか」
現に村だけではなく近隣の人々はによって救われている。たとえその受け取り方が何であるにせよいいことには間違いない。
「中途半端は駄目なのさ。俺は一度捨てただろ」
「……周瑜殿が亡くなったことは知っているか、」
「ああ。惜しい人を亡くしたな」
「惜しい人?あの人はでもに、確か」
何かを言ったのだろう。それゆえに出奔したのではなかったのか?
しかし対するは飄々としたものだった。
「けれども国としては必要な人だった。そうだろう?」
「そうだけど、はそれで良いのか?なあ、______もし、もし良かったら呉に戻ってこないか」
そうして自分と暮らせないか。妻のことをわざと失念していることはわかっていたけれども、凌統はそう言わずには居られなかった。
この瞬間全てを繋ぎとめておきたいほどにに焦がれている。もし、の話ではない。今すぐにでも取りすがって、連れて行きたいほどなのだ。
「有難う、公績。その言葉だけで俺は充分だよ」
「それじゃあ」
「あの時と同じだよ。お前の気持ちは嬉しい。でも俺は行かないんだ」
「何でだよ!あの時と今とでは状況が」
違う、と言おうとした瞬間ふわりと暖かな風が吹いて目の前が真っ暗になった。
正確には誰かに抱きしめられているのだとわかって凌統は柄にも無く緊張した。
「余り、言うなよ________切なくなるだろ。まあこんなことを俺が言っても詮無いことだけどな」
「」
ぽつりぽつりと濡れた感触が首筋に当たる。何だろうと注意して聞いていれば、の声が酷く震えていた。
雨か、と思うような暖かな雫はこの人にはなりきれない人が零しているのだった。
何だ、やはり人ではないか。
人などではないとよく言うけれども、はひどく人間くさいと思う。
傷つき笑い、泣き怒り_______そこらに居る者よりもずっと人間的だ。それなのに人ではない、とは。
「ああもう時間だ。俺は行かないと」
「何処へだよ?もう行くなよ何処にも。このままずっとここで暮らしたって俺は構わないんだぜ?なあ、」
「何処にも行けなくたって行かずにはいられないんだ。お前は良い奴だったよ、本当に」
「!」
掴もうとした体は陽炎のように歪んですり抜けていった。そうして抜け出たそれがとんと地面を叩くといつの間にか道が出来ている。
どうやらこれで帰れと言いたいらしい。実際部下が自分を探し始めたのか、道の向こうから呼び声が聞こえていた。
「そうだ、離れていて一つ解ったことがあるんだ、公績」
満月にほんの少しだけ影が払われて形を取る。ひどくのんびりとした、かつてと全く変わらぬ姿をしたがそこに居た。
触れようと思えば、掴もうと思えば直に掴める様なそんな間合いの中に居る。にも関わらず凌統は手を出せずに居た。
きっと、掴もうとすればまた消えていってしまうのだろう。ならばここでこうして見ている方がましだった。
そんな心を知ってか知らずか、はようやっと微笑んで見せると囁くような声で言った。
「俺もお前のことをずっと愛しているよ、公績」
「________それを聞いて、ほっとしたよ」
「何でさ?」
「俺の独りよがりじゃなくって、良かった」
「うん」
凌統がやっと作った笑顔に、が寂しげに手を振って姿を消した。
光る道筋だけが残っている。呼びかけても、もう返事は返ってこない。
「」
空に浮かぶ月に、何かが横切ったように見えた。
結局凌統はそこを拠点として扱うことを取りやめた。が何れにせよこの地は守るだろう。
村長に多額の謝礼を施し、凌統はこの地を去っていった。以降彼は数度この地を訪れ、山に登ったという。
山神はそれからも変わらぬ加護を施していたが、ある年を境にぱたりと奇跡は消え、山にあった東屋も朽ち果てるに任せられた。
それは237年、凌統公績が病没した年のことであるという。
[終]
後書き>>
漸く完結です。結構長かったなー。
実際始めた当初はここまで引くことは考えて居なかったのですが、どんどんと話が繋がっていてここまで来ました。
人と人との感情のぶつかり合いが好きで、不器用なぎこちないその接触点が書けて楽しかったです。
心残りは早々に消えてしまった馬超……何故なんだ!多分、彼のところで本当は一二本ギャグを書くべきだったように思います。
まあ済んだことは済んだことで。
ここまでお付き合い頂き、本当に有難う御座いました!