DREAM NOVEL
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例えばここに愛があったとしよう。だが、それが一体何になるというのだ。


暗雲低迷


 人にとって、記憶とはどういうものであろうか。生まれてから死へと向かう道程の中、それは一体何を意味するのであろう。より長く生きるための学習過程なのだという話もあるが、それならば生きることの意味とはなんであろうか。

「それを探すために居る、か」

先日丞相に諭された言葉を思い出すと、は頬杖を外し、再び筆を取って机に向かった。宮城の一日は忙しい。目が廻るほどの日程に、は以前の自分は一体どうやって切り盛りしていたのだろうかと首を傾げる程だった。

記憶は相変わらず戻っていない。毎日諸葛亮の診察を受けているのだが、彼の人をしてもこの奇病はなかなか治せる代物ではない様である。勿論専門が医術ではないためもあるが、華陀に診察を頼めるほどに余裕がある内証でもない。

また覚え直せば良いことだ、とこのところは何処か諦めた気持ちで居る自分に気付いては苦笑した。覚え直すだけではどうにもならないものがあることを思い出したのである。

、居るか」
「、はい」

ほんの一瞬、緊張感を漂わせるとは穏やかに返した。応じるように執務室の扉が開くと秀麗な顔立ちをした武将が顔を覗かせる。他でもない、このところの執務室では常連となりつつある馬超その人であった。

慣れた様子で入り込むと、馬超は薫児に茶を頼んで手に提げ持っていた茶菓を手渡す。彼が携えてくるそれが何時も名品と呼ばれるものばかりであることを知ったのはつい一昨日のことであったろうか。

「本日のご用件は今度の偵察の話ですか?それとも調練場の融通の一件でしょうか」
「いや、特に用事は無い」

あっさりと言ってのけると馬超はの手元を覗き込む様にして顔を近づけた。近くで見れば見るほど恐ろしい程に整った顔立ちに、は思わず感嘆を漏らしそうになるのを飲み込んだ。

「ではお座りになられると良い。もう少しで此方も終わるので」
「解った。……
「はい」
「俺がここに来るのは仕事がらみで無ければいけないのか」
「……いいえ」
「なら良いだろう」

不満げに呟くと漸く馬超は離れて椅子へと腰掛けた。同時に扉が開いて薫児が茶を置いてゆく。今日の茶菓は糖蜜で落花生の粉を固めた飴の一種である。幼い頃を思い出させる甘さを舌で味わいながら、はすっすと筆を運んでいった。

運びながら先程の馬超からの問いに何故躊躇ったのだろうとは眉を顰めた。大して迷うべき問いでもないはずである。だが躊躇したことよりもが感じていたのは、自分が本当は逆の言葉を答えたかったのではないかということだった。

そもそも馬超は自分を嫌っていた筈なのである。記憶をなくしてしまった今では確とした答えではないものの、何かしら自分との間にいざこざが生じていたというのは事実だろう。周囲の人間も何か知っているらしく、馬超と共に居る際に意味ありげな目を向けているのが痛くて仕方が無かった。

問うても答えが得られないのは恐らく自分にとっては不利な事実だったからだ、というところまでの確信は固まりつつあった。唯一その考えを揺らがせるのはこの馬超の態度だけである。

「ん?終わったのか」

ちろりと視線を向けただけで反応すると、馬超は椅子ごと傍近くへと寄ってきた。何故こうも親しげなのだろう。最後の一筆を入れ終えると、は書簡を傍に避けて馬超の方へと向き直った。

「毎度のことながら馬将軍がくださる菓子は美味ですね。本当に有難う御座います。薫児も喜んでいるんですよ」
「そうか。はどう思っているんだ?嬉しくないのか」

不意に目を覗き込まれは喉が絞まるような感覚を覚えた。以前にこの様な目を見返したような記憶があるのではないだろうか。だがそれはもっと悲しいものであった筈だ、と不確かな記憶の中で断ずる自分が居るのをは不思議に思った。

何故馬超を見ると自分は否定的になるのだろう。それは自分のしでかした何かに関係するのか、それとももっと根の深いところにあるのかには判然としなかったが、ただ胸がひどく痛んでいた。気を紛らわせるように口中の甘味を嘗め回すと、は少し間を置いて口を開いた。

「……まさか。嬉しいに決っていますよ。ただ、」
「ただ?」

何故自分になのだろう。何故親しげに自分を呼ぶのだろう。何故、何故、何故なのか。考えれば考えるほど取り繕った表情が引きつり、は馬超から目を逸らした。

「毎度頂くばかりで申し訳ないと、そう思っては居ますが」
「なんだ、そんなことか」

拍子抜けしたように肩を竦めると馬超は気にしなくても良いと茶を啜った。今日の茶は西方諸国から届いたという蓮茶である。何処か俗世を離れた佇まいがの気に入っている代物でもあった。

「俺が好きでやっていることだからな。気になるのならば、今度はが俺を訪ねれば良いだけの話だ」
「はは。お気持ちだけ受け取っておきます」

試されているような心地にはやんわりと断りを入れた。矢張り何かがおかしいのだ。そうでなければこんな極普通の申し入れに対してすら胸が軋むのを覚える訳は無い。だからこそはあの日以来馬超に対して丁寧語を崩す様な真似はしないで来たのだ。

これは自分の城壁だ。取り繕った表情も礼儀正しさも丁寧な言葉も何もかもが偽りであり建前である。以前はもっと別の方法で矢張り壁を作っていたような気もして居たが、今のの壁は間違いなくこの礼儀正しさで彩られた仮面であった。

「……兄上、このようなところで何をなさっていらっしゃるんです」

気持ち悪さを抱えたままつらつらと記憶に留まらない様な会話を暫く続けていると、再び扉が開いてひょこりと銀髪の青年が渋面を覗かせた。

「岱!」
「こんにちは、馬岱殿」

この馬超の従兄弟だという冷たい目をした青年がは馬超に輪をかけて苦手であった。恐らくは彼も自分と馬超の以前の出来事を知っているだろうに、物言いたげに此方を蔑むばかりで少しも答えの切れ端を寄越そうとはしない。努めてにこやかなの挨拶に、馬岱も表情を崩さず返すと真っ直ぐに馬超の元へと歩み寄った。

「……ご機嫌宜しゅう、殿。兄上がまた執務の邪魔をして居た様で」
「別に俺は邪魔等していないぞ。なあ?」
「さあ」

小首を傾げると馬超が悲痛な叫び声の様なものを上げる。そうして馬岱に引き摺られて部屋を出るところまで何もかもが何時も通りでは苦笑して馬岱に頭を下げた。皮肉気な表情の青年の姿が扉の閉まる音と同時に消えるのを見届け、はぼそりと呟いた。

「嫌われているもんだな、全く」
「だね」

暢気に間延びした声が聞こえるかと思うと何処に潜んでいたのか、薫児がひょこりと姿を現した。流石は楡盜を得意とするだけはある。は妙なことに感心すると机に肘をついた。

「……好い加減お前も教えてくれないか。十歩譲って俺が記憶をなくした理由は聞かないから、せめて俺がどういう人間であんな目を向けられているのかくらいは教えてくれ」
「さあ?そんなことより、お仕事進んでないんだろ。ほら、さっさと手を動かす動かす」
「じゃあお前が何でここに居るのかくらい教えてくれよ」

溜息交じりに筆を取ると、薫児がにやりと猫の様な笑みを寄越した。その笑みに何処か引っかかるものを覚えて、脳裏に糸が絡まったような感覚が湧き上がる。そうだ、これと同じものを何処かで自分は見たではないか。一体何処であったか。何処か、そう遠くは無い昔に何処かで______________

「私がここでせっつきでもしないと様は録に家に帰ろうともしないからね。一応部下なりの心遣いって奴だよ」
「そいつは健気なこった。有難いね」
「感謝なさい」

何時も通りの高飛車な台詞に釣られるようにして笑うと、は先程までの疑問を放り投げて書簡を広げた。やるべきことが山積みだった。




「……全く。どうしてあれ程申し上げたにも関わらずあそこに行くんですか。以前に私が申し上げたことを覚えてらっしゃいますよね?兄上」
「さあな」

掴まれ引き摺られた後、自分の執務室へと収納された馬超は従兄弟の問いかけにぷいと顔を背けた。折角の楽しい一時を邪魔されたのだ、気分が悪くない筈も無い。頑なな馬超の態度にさしもの馬岱も諦めたように溜息をつくとやれやれと首を振って作業へと戻った。仕方無しに自分も作業に戻ると、馬超はこのところ自分でも不可思議な行動についてつらつらと考え始めていた。

はかつての自分にとって目の上のたんこぶとしか言いようの無いほどに邪魔ッ気な人間であった。馬超が嫌いであったことは言うまでも無い。が記憶を失って当初はただ、この状況から逃げ出したような彼に苛立ちを覚えていただけであった。それが何故こうも親しげなものへと摩り替わったのだろう。

あるいは同情かもしれない、と馬超は馬岱の報告を聞きながら瞼を軽く揉んだ。事実趙雲や姜維のへの接し方は同情と好奇心が綯い交ぜになったものとしか言いようが無い。あのが全く別人の様になった上に何も知らないことに対してひどく戸惑いを覚えているらしい姿は格好の標的と言えた。

だが自分も同じ気持ちを抱いているのか、という問いに馬超は首を振った。確かに好奇心はあるだろう。そうでなければ疾うに遊びに行くことなど止めてしまって居た筈だ。は警戒しているのかあの城壁での遣り取り以来自分を崩す様な真似を見せないで居る。恐らくは彼も自分が何を思ってこんなにも接近してくるのか疑問に思っているのだろう。

何の益も無い。意味も無い。目的も無い。無い無い尽くしの上にの記憶が戻れば再び不愉快なことになるだろうことは目に見えていた。半ば聞き流す形になっていることが見透かされたのだろう、鼻白んだ様子で馬岱が冷たい目を此方に向けてくる。椅子に座り直す振りをすると、馬超はそれでも止めようという気は起きないのだ、と自分に呆れた。

「________兄上。これ以上執務に障りが出る様であるならば、私が直々に殿に掛け合いに参りますよ」
「止めろ!」

反射的に立ち上がると、馬岱の目が驚いた様に見開かれたのが目に入り、馬超はしまったと顔を顰めた。勿論馬岱のこと、単なる冗談では済まされないだろう。だが彼も人の子である。無体にもに彼が失った記憶を思い出させる様な真似はしない筈だった。にも関わらず生傷を無理矢理割り開く様な錯覚を覚えたのも確かである。ぱちぱちと何度か瞳を瞬かせると、馬岱はやれやれと呆れたような笑みを浮かべて頬を掻いた。

「そんなにもお嫌でしたら真面目に執務に当たってくださいよ。第一、こうもちょくちょく邪魔していては殿も執務が進まないというものでしょう。ご自分のことは元より、あちらの都合も考慮してください」
「……は何時も俺を無視して仕事をしているぞ」
「ならば余計でしょう。迷惑がられているということではありませんか」
「ぐ」

瞬間、どう扱ったら良いのか戸惑うの姿が脳裏をちらつく。これではかつてのの行動そのものではないか。否、少なくとも自分に好意は無いのだから違うだろう。答えの見えない迷路のような思考の渦に、馬超は考えることを放棄した。今はそれよりも執務を行った方が良いだろう。積み上げられた書簡をうんざりと眺めると、馬超は一度大きく伸びをして取り掛かり始めた。

_____________考えたくは無いと一心に筆を運んでいたためだろうか、自分に懇々と説教を続けていた従兄弟の姿がするりと部屋から出て行ったことに馬超が気付くことは無かった。




 執務を終え、が薫児に肩を叩かれて部屋を辞す頃には既に月が中天に昇る頃であった。薄寒い風が服の隙間から入り込んで背筋が震える。そろそろもう一枚羽織るべきだろうか、と考え始めて廊下を曲がると、月を見ているのか柱に凭れかかる人物が居るのが目に入った。折りしも月の光が差し込んで銀髪が美しく輝いている。単純にそのことに溜息をつくと、風雅な人物はゆっくりとこちらを振り返った。

「今晩は、殿。遅くまで執務為された様でご苦労様です」
「……馬岱殿でしたか。月見でもなさっていたのですか?」

早く通り過ぎてしまおう、と当たり障りの無い言葉を投げかけたに、馬岱はただ何時ものように侮蔑の目をくれただけであった。そんな目をするくらいならば最初から声をかけなければ良いというものなのだがそこはそれ、彼なりに礼儀正しさが抜けないのだろう。は心の中で舌打ちをすると、仕方無しに一礼をして脇を通り過ぎようとした。

「つれないですね、殿。そうお急ぎになられることもないでしょう」
「ご冗談を。馬岱殿こそお忙しい身ではありませんか。俺などに時間を割かなくとも、」
「直ぐ済むことですから」

ぞっとするほど艶やかな笑みを一つ作るなり馬岱はずいとに近付いた。気圧されるようにしての足が自然と一歩退く。危険だ、と頭のどこかで警鐘が鳴るのをは聞いたような気がした。掌の中で汗が滑る。必死で逃げ出したくなる足を堪えると、は真っ直ぐに馬岱を見返した。

「私は悪い芽は早めに摘むことにしてましてね」
「何の話でしょうか。俺には解らないのですが」
「昔話をしてあげましょう」

くいと馬岱の口角が上がる。警鐘は益々激しくなり、は握りこんでいた手を滑らせて柱についた。

「貴方は兄上に嫌われているにも関わらず、自分の気持ちを押し付けた上に付き纏って居た様な最低の人間だったんですよ」
「……俺が」

がん、と頭を殴られたような衝撃が走り、頭がぼうっとしてゆく。心理的衝撃が大きいと人の感覚は麻痺するものなのか、とは自棄に冷静なことを考えた。

「人を好きになるのは構いませんが、迷惑になることは仁義に劣る真似だとは思いませんか?ねぇ、殿」

耳元で反響する馬岱の声すら遥かに遠い。何故自分は同情と好奇心と何か含みを持った目で見られていたのか。何故馬岱が自分を蔑むのか、全ての記憶の断片が繋がり、は足元から積み上げてきたものが崩れ去ってゆくのを感じた。たった一言、否定の言葉を吐けば良いだけにも関わらずははっきりとそれが自分の過去なのだと認識していた。

覚え直したところで過去の塗り替えは出来ないということなのだろう。記憶が蘇ることは無かったものの、胃の腑から込み上げて来る酸い物に顔を顰めるとは柱に凭れた。

「俺は、どうしたら」
「簡単なことです。兄上に近付かないで頂きたい」
「……わかった」
「では、これで」

の返事に馬岱は満足そうに頷くとそのまま振り返ることも無くすれ違っていった。恐らくは執務に戻るのだろう。は背中をずるずると滑らせると床に足を投げ出した。胸の辺りに重苦しいような息苦しさが漂っていて煩わしくて仕方が無い。それが自分の罪を知った所以なのか、馬超を好きだったことを知ったが所以なのかは判然としなかった。ただどうしようもないほどの感情が渦を巻いていた。

「好き、だったのか」

ぽつりと哀しげに呟いた言葉は誰に聞かれるでもなく霧散し、それはまるで今のの心の中を映し出すかのようであった。とりとめもなく今まで覚え直してきた記憶と実際に自分がしでかした過去とが交錯し、懸命に一つの形と作ろうとするのだがどうしても的を射ない。たった一部分を知っただけでこれ程の衝撃を受けるのだ、全てを思い出した時には一体どうなってしまうのだろうとはぞくりと背筋を冷やした。

もし、自分が今知った以上に罪を犯していたならば自分は耐えられるのだろうか。自分は自分に違いないにも拘らず、まるで他人に操られているかのような錯覚に陥っては両目を覆った。瘧にかかったかの様に頬が熱い。

「俺は」

その感情を何と呼ぶのか解らず、は熱を持った目で月を見上げた。冷たい光は何も答えず、ただ迷い人を照らした。


〆.


後書き>>
 展開が速いです。め、めまぐるしい……本当はもう少し丁寧に馬超がちょっかいを出すところを書きたかったんですが、キリが無いのでやめたという。。。

解っていてもどうにもならない嫌なことに直面した時の人間の心境の変化とかが好きなので割りと痛い感じに進んでいく予定です。(え)

最後まで読んでくださり、有難う御座いました!