貴方が悪人であるのと同じくらい、私もまた悪人であることをお忘れなく。
悪逆非道
何時までも夜が明けなければ良かったのに、という願いは報われること無く絶望的なまでに晴れやかな朝が再び顔を覗かせている。忌々しげに寝台から這い出たは記憶が抜け落ちている以外はまるきり健常な己の肉体の頑丈さを呪った。いっそ鬼の霍乱と呼ばれても良い、今はただ考える時間という名の先延ばしがしたかった。
こういう時に限って、普段ならば呼びもしなくとも現れる薫児は探せど影も形も見えない。だが思えば薫児は例えて言うならば主君の窮地を救うどころか常に崖っぷちのの背を谷底へと押す様な部下である。有体に言えば今最も相応しく無い相談相手であるやもしれなかった。ただ、不幸にも他に捌け口というものをは併せ持っていないという、それだけのことである。
「……丞相、も駄目だろうな。趙雲殿や姜維殿……は駄目だな、多分一発で皆にばれそうだ」
人々は皆自分が何をしでかしたのかを知っているのだ。何れは起きたであろう決壊をどう見るのかは自由だが、その反応を目の前で明らかにされるというのも恐ろしい話だろう。ああいっそ自分ではなくこのこと全てを知る人物全てが記憶を失っていたのならばどれ程楽だったろうか。ありもしないことを逃避するように思うとは粥を啜ると身支度を整え宮城へと向かった。
往来は朝市の物品の行き交いのためだろうか、早くも喧騒を呈している。鶏の鳴き声が矢鱈とすると思えば闘鶏も始まっている。城壁の上から見る人々の熱気もまた心地良いものであったが、こうして身近に感じる彼らの生きる力というものは何処と無くを元気付けた。彼らと共にある主を尊敬し、慕っているからこそ自分はここに居るのである。断じて他所事のためではない。ならばやっていけるのではないか、と半ば上向きに考え始める頃には既に宮城の中であった。
「お早う。今日も早いな」
「お早う御座います、趙雲殿」
入って直ぐに目に入ったのは趙雲であった。流石に年がら年中阿斗を抱いているという訳では無いらしく、颯爽とした物腰は何時に無く身軽である。
「子龍で良いと言ったろう。妙なところで堅いな。もうそろそろ十日だろう?何か思い出したりはしないのか」
「いえ。残念ながら、何も」
強いて言うならば知っただけである。それも断片の切れ端の様に知らされたのみだ。出来れば知らされた以外の部分では自分を嫌悪しなくとも良いといいのだがと思いながらはそっと趙雲を見遣った。何か手がかりを得られるだろうかと思ったそれはだがしかし、興味深げに此方を見つめる趙雲の目に見返されただけに終わった。
「以前の俺はどういう人間だったのですか」
「……誰かに何か聞いたのか?」
す、と影が射したと空を見上げれば丁度太陽に雲がかかったところだった。同時に趙雲の顔にもゆっくりと影が射してゆく。顔色が変わった訳でも何でも無いことにも拘らず、何故だかは即座に否定することが出来なかった。穏やかな趙雲の笑みは少しも変らぬままである。だが俄雨の前兆のようなものを感じては急いで首を振った。
「思い出せないものですから、お話をお聞かせ願えればと思いまして。何か良い切欠になるかもしれませんし」
「どうかな。私が知っているのはあくまでも私から見たに過ぎないだろうから」
参考にはならないだろう、と何処か安堵したように言うと趙雲はそれきり話を打ち切り、調練の段取りの話をし始めた。どうにも彼はこの話題を続けたくは無いらしい。恐らくはそれもまた、自分の罪と関わりがあるのだろう。拳を握り締めるとは他人の口を噤ませるほど自分という人間はどうしようもなかったのかと酷く沈む思いを押し込めて応じた。
人に嫌われることは恐ろしい。自分が傷つくだけではなく周りの人間をも傷つけるその恐ろしさをは随分前に身を以て知っていた。
誰に嫌われても良い、自分は自分の生き方を貫くのだと言い張ったのはもうどれ程前のことになるのだろう。全ての人に好かれること等途方も無い嘘だとは知っていたが、それでもはあの恐怖を再現したくは無かった。_______もうあの頃の様に守るもの等傍に何一つ無いのだが。
趙雲と別れると一度自分の執務室へと入る。薫児は矢張り姿を消したままで、代わりの待童が頭を下げて今日の予定についてを口頭で告げた。記憶を無くしてからというものの立場は半ば閑職にも近い扱いである。
今日も今日とて仕事らしい仕事は無いことに溜息をつきながら、は何故自分が馬岱にあれ程蔑まれても尚、馬超に付きまとったのかが解る様な気がしていた。拒絶され、嫌われることが恐ろしくて堪らなかったのだろう。そんなに恐れるならばいっそ口に等出さねば良かったのに、とはため息をついた。丁度今の自分の様に、いっそ何も口に出さなければ安寧だけが続いていたことだろう。安寧は変化を生むことは無い、微温湯の様な心地良さを呈してくれるだけである。だがそれは拒絶という恐ろしい冷たさを自分から隠してくれるのだ。
「……それ程までに好きだったのか?」
好き、という単語一つで全身の血の巡りが急速に速くなる様な錯覚を覚える。耳元で血が滾る音が煩くて仕方が無かった。人を自分が好きになることなど、今のにとっては不可能ごとの様にすら思える出来事である。いつかは何れ失われていくものを再び手にしようとしたかつての自分が我ながら不思議で仕方が無かった。
では今どう思うのか、と言えば確かに好ましさを抱いているのは事実である。だがそれは自分を嫌っている筈なのに何故こうも親しくするのかという困惑も混じったものであった。今となっては困惑は益々深まり、どうすることも出来ないほどである。現に雑用のような仕事であるにも関わらず少しも捗っては居なかった。
「どうしようもないことばかりだな」
ふ、と自嘲気味に笑うとは少しも進まない筆を傍らに置いた。例え今、仮に馬超のことを再び好きだと思い始めていたとしてもそれは不毛な感情なのである。馬超が自分を愛することはけして無いのだ___________こうして近頃自分に接してくるのも恐らくは彼自身の優しさからの行為だけに過ぎないのであって、こちらが向けるものの欠片も持ち合わせても居ないだろう。第一、馬岱とも約してしまったのだ。他人のために態々悪役を買って出た様な人間をは憎むことも恐れることも出来ず、ただ敬意だけを持っている。
距離を持って離れていれば良いのだろう。そうすれば少なくとも今のがこれ以上の感情を抱くことは無いのだ。記憶が戻ったならば戻ったでそれはその時にするしかあるまい。否、その時は恐らく深い後悔に包まれているだろうから丁度良い程だろう。一頻り自分で納得してしまうとは雑用もそのままに部屋を抜け出、日当たりの良い南園へと向かった。気分転換がしたかった。
銅鑼の音と共に分かれた隊列が鮮やかに動き、陣形を作る。呼吸の如き自然な一連の動きを鋭い眼差しで観察していた趙雲は、目の端で何かがちらと動いたのを捉えてそちらに少し注意を向けた。誰かと思えばである。手ぶらであるところを見るに、大方南園にでも向かうのだろう。暢気な今のらしいことだった。
正直なところ、趙雲は以前のが余り好きではなかった。人と壁を作るように打ち解けずらい人物であったこともあるが、何よりも打ち解ける相手を選んでいるらしいところが気に食わなかった。恐らくはその中に自分が居なかったことが理由なのだろうが、今の趙雲にとって重要なのは今のを好ましく思っているという一事に尽きる。
記憶を失ったことを喜ぶというのは不謹慎な話であるが、あんなにも素直で礼儀正しく、それでいて愛嬌がある人物に一夜にしてなったのだから感謝せずにはいられないだろう。小動物のように自分を伺う目を思いだして趙雲は薄暗い笑みを浮かべた。いけ好かなかった人間が自分の意のままと言えるほどに落ち込んでしまうのは中々面白い。
何を思っているのかこれまで振り向きもしなかった馬超が散々に構っているのは知っていたが、趙雲は出来うることならば馬超にはこれまでどおりに彼との間に距離を持って欲しかった。何かの弾みで彼が記憶を取り戻してしまったならば、折角のこの喜びは全て藻屑と消えてしまうだろう。要はが永劫このままであるならば良いのだ。
「_______これより休憩とする。半時後再び行う。それまで休養せよ」
通常よりもやや長い休息時間ではあったものの、疲れ切った兵士達は不審に思うことなどなく唯無邪気に喜びの声を上げていた。その様子を満足そうに眺めると趙雲は副官に監督するよう伝え、身を翻して調練場を出た。
「」
「趙……子龍殿。調練をなさっていたのでは?」
南園を覗けば、予想に違わず菊畑の中に埋もれる様にして彼の人が横たわっていた。慌てて起き上がろうとするのを留めて横に並ぶと、一瞬警戒する様に影が差す。その表情をもっと歪めたらば、自分はさぞかし快哉を挙げることだろうと暗い笑みを浮かべると趙雲は何をしているのだ、と極当たり前の様に尋ねた。
「何、ちょっとした気晴らしですよ。こうしていれば何か思い出すかもしれないと思いまして」
「思い出したいのか?」
無くしたものを取り戻そうとするのは人間の性の様なものであるのに、趙雲は何か許し難いものを聞いた様な心地で思わず問うていた。案の定は困惑した様な_______否、困惑だけではない、何か辛いものを抱えた様な表情でこちらを見遣るばかりだった。何が辛いのだろうか。あるいは既に何か記憶の片鱗を彼は掴んでしまったとでも言うのだろうか。今朝方の遣り取りが脳裏を過る。あるいは、あるいは既にもう彼は
「何を思い出したんだ、」
「……何も思い出してなど」
「思い出したんだろう」
逃げる様に身を捩るの肩を抑えると、信じられないものを見る様に瞳が見開かれる。その目一杯に尋常ではない様子の自分が映っているのを見てとって趙雲は微笑んだ。今目の前に居る自分を差し置いて捨て置いた過去に戻ること等許し難い裏切りとしか言いようが無かった。こうして彼は自分を見てさえすれば良いのだ。他のこと等考える余地はない。
「言って御覧、。何を思い出したのか」
「……は、酷い人だな。どうせ貴方は知っている癖に、これ以上俺から何を引き出したいんです?俺は思い出したんじゃない、ただ知っただけだ」
「知った?」
誰がそんな余計な真似をしたのだろうか。思わず舌打ちするとが隙を突いて抜け出ようとしかける。素早く掴んで引き戻すと、暴れた反動で菊の花が宙を舞った。
だがは趙雲の反復を別の意と捉えたらしく、顔を歪めると自嘲するように叫んだ。
「俺が嫌われているのを解っていながら散々馬将軍に付き纏っていたことですよ!貴方だって知ってる筈だ、俺が録でもない人間だったことくらい」
「録でもなくは無いさ」
そっと耳元に囁くと、の身体がびくりと震える。うっすらと涙の滲んだ瞳が一体何をされるのだろうかと縋るように此方を見るのは趙雲の心の琴線に触れた。弱くも脆い人の心が簡単に自分の掌の上に落ちてきたことに、背筋が震える様な喜びを感じる。後一歩、もう少し追い詰めてしまえば良いのだ。
「今のは違うだろう?それとも、今でも馬超が好きなのか」
余所余所しく馬超、と呼んだ言葉だけにも関わらずは泣きそうな程に顔をくしゃくしゃに歪めると解らない、と小さく呟いた。どうやら心底混乱しているらしく、それは恐らく今の馬超の態度も相俟って彼を苦しめているのだろうことを窺わせた。相手の弱みを突くことこそが戦の勝利を決する道である。趙雲は益々笑みを深くすると、そっとの頭を撫でた。
「は馬超のことが好きではないんだな」
「でも俺は、」
「もう二度と同じ過ちは犯したくないだろう?」
罪の意識があるならば、それを避けたいと思うのは普通だろう。趙雲の問いかけにがゆっくりと唇を開き、今当に陥落せんとした瞬間、雷鳴の様な声が辺りに轟いた。
「何をしてるんだ、そこで!」
「っ」
振り向かずとも声の主は解っていた。馬超だ。何もこの時でなくとも良いだろうにと趙雲はつくづく彼の間の悪さを呪った。仕方無しに力を緩めると脱兎のようにが逃げ出してゆく。あの様子では暫く自分のことを警戒して捕まらないだろう。
「だと?一体どういうことなんだ、子龍」
「……人の逢引を邪魔するとは無粋じゃないのか?」
わざとらしく唇の端を歪めて言い放つと、真正直な馬超らしく目を見開いて押し黙る。咄嗟とは言え、我ながら上手いことを言ったものだと趙雲は心中ほくそえんだ。恐らく馬超は先程遠目から見た判然と着かぬ様子が明瞭に恋人達の逢瀬へと摩り替わったところだろう。案の定数瞬後に頬を思い切り朱に染めると、彼の人は消え入りそうに頭を下げた。
「悪かった。てっきり俺は喧嘩をしているものかと……だが、お前達が付き合っているとは、その」
言い辛そうに言葉を濁す馬超に趙雲は我が意を得たりと大きく頷いて見せた。
「意外なんだろう?まあ、以前のはああだったしな」
「……そうだな」
仄めかしに対し明敏に反応して馬超の表情が曇る。と言い馬超と言い、どうしてこうも簡単に翻弄されるのだろうか。全てが思惑通りであるにも関わらず、何処か不愉快なものを覚えて趙雲は眉根を寄せた。
話はそれきり沙汰止みになって、お互い調練について話し合って終わった。再び錬兵場へと足を向けながら、趙雲は振り返って散らばった菊の花弁に目を向けた。さながら今の三人の心を描いた様な惨状が、噎せ返るような香とともに散じていた。
赤黒い空に綿を千切ったような雲が浮かんでいる。ゆっくりと漂う様は開放的で、自由を象徴しているかのようだった。あるいはただ風に流離う事しか出来ないというのは真逆のものを象徴しているのかもしれなかったが、気もそぞろなにとっては最早どちらでも良いことであった。
仕事を早めに切り上げ逃げるようにして帰ってきた火宅には矢張り薫児の姿は無い。ひょっとすると猫のように気侭な彼女のことであるから、何処かに旅に出かけているのやもしれなかった。何れにせよ不甲斐ない主である自分には止める理由も無い。寧ろ自分も何処かに逃げ出したい心地であった。
「過ち、か」
その一言で趙雲が以前の自分をどんな目で見ていたかが解ろうというものだった。彼は一言も語らなかったし、寧ろ今のを持ち上げるような物言いすらしたのだが_____________実際は唾棄すべきものであるかのように取り扱っていたのだろう。だからこそ今の白紙状態の自分を肯定するのだということまでは理解していた。
彼の問いかけに頷くことが出来なかった理由をは端的にそう解釈していた。馬超を好く好かないとはまた別の問題なのだ。すっかり冷めてしまった白湯を煽ると、は心の中にすうっと冷たいものが入り込むのを覚えて苦笑した。一人になってしまってもう何年、何十年と経っているというのに、何処かでこの状態を寂しく思うことを止められないで居る。
否定されることを、拒絶されることを、自分が社会の異端であるという事実を突きつけられることを、その全てを恐れるものには何も与えられないことを知っているにも関わらず求める自分の浅慮に反吐が出そうだった、こんな自分を見かねて誰かが手を差し伸べてくれることをただ待っているだなんて一体誰が知るというのだろう。
発せられぬものを悟ってもらえるだなんてそんな優しい生き方をは知らない。知らないからこそ求めているのかもしれなかった。もし自分が同じ立場に立てばけして与えないだろうことも容易に想像出来る。結局自分は、自分だけが可愛くて仕方が無いのだろう。いっそどん底にまでたたきつけられて傷ついてしまえば良いのだ。
そうすればもう二度とそれ以上傷付かなくて済む、きっと誰かが自分を、そう自分を哀れんで______________根底は少しも変わらず腐ったままの思考に呆れて湯呑を床に叩きつけると、ばらばらに飛び散った欠片が自分の心の様で変に胸が痛んだ。
「誰にでも良いから縋りたいかい」
「え、」
突然振った柔らかな声に驚いてそちらを向けば、あれ程探したにも関わらず見当たらなかった薫児が猫の様に窓枠に腰掛けていた。暮れなずむ空を背にしているにも拘らず、奇妙に瞳が獣のように光っている。
「願って御覧よ、様」
釣りあがった唇は何処かで見た覚えがあるのに、それが何処であったのかを思い出せずには唇を噛んだ。確か掌が広がって、何処までも自分を包み込んでゆくようだったことを覚えている。しかしそれは一体何時の出来事だったろう。
「……願えない」
「どうしてだい?あんなに寂しがってた癖に」
「寂しいからだよ」
笑っては一歩退いた。薫児の影が見る間に広がり、部屋を漆黒に染め上げて行く。この生き物に願ってはいけないのだ。否、誰に対してでもけして願いなどしてはいけないのだということをは既に理解していた。それは正しい道ではないし、自分は結局そこまで堕ちる勇気すらないのだ。ならば残された道は唯一つだろう。
「俺は諦めたいんだ」
願うことも奪うことも出来ないならば、いっそ手放してしまえば良い。の答えに夜の眷属は赤い口を開いてにやりと笑った。
「良いだろう」
生臭い風が吹いた、と思うと部屋の闇は取り払われ、嘘のような静けさと赤黒い夕闇が充満していた。薫児の姿は疾うに無い。あるいは最初から存在しなかったのかもしれなかった。椅子から立ち上がった拍子にこん、と音がして床を見れば、自分が叩き付けた筈の湯呑が綺麗な形のままで落ちている。
「……夢か」
拾い上げると、は夢の中でそうだった様に床に向かって思い切り叩き付けた。______________割れたのは湯飲ではなくて別の何かである様な心地がした。
〆.
後書き>>
ブラック趙雲降臨。何故私が書くとこうも黒い人間が増えるのか……それは私も黒いからなのか。一番最後の着地点がまだ定かではないのでふらつきつつ、次も痛い感じで進んで行こうと思います、よ……!(おい)
最後まで読んでくださり、有難う御座いました!