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あなたを願いにできたなら
空蝉
夏の暑さが体に堪えるようになった。ジリジリと肌を焦がす熱であるとか、光の眩しさに己が負けているのを感じ、は首にかけた手拭いで顔を拭った。かろうじて背筋はピンと張ったままだが、いつまで保てるかは危うい。それほどまでに今日という日は暑く――否、老いたのだとは苦笑した。時間の経過は認識できなくとも、体は着実に月日を蓄積させ、こうして自然に応えている。何者も時には逆らうことができない。
「おはようございます」
はち切れんばかりの生命力を感じさせる声に、は、として顔を上げる。振り返れば、手に手に掃除道具を持った青年たちが綺麗なお辞儀をしていた。朝課の当番を担う学生たちだろう。幼い顔にまだ眠気を漂わせていることを見てとり微笑むと、は丁寧に頭を下げた。
「おはようございます。お勤めご苦労様です」
爽やかに去り行く彼らは、ちっとも暑さに堪えていないようだった。頭の中は、朝課に朝食、昨日学んだことやら今日学ぶことなどでいっぱいに違いない。平和な世に心身ともに健全な状態で生きることができる証と言えよう。自分が門番を勤める塾が、この国を変えてゆく礎の一つとなることを約束されているような気がしてじんわりと胸が温かくなる。
「良い時代になったな」
良い時代になろうとしている。学舎全体が朝を迎え、生き生きとし始める様子に目を細めると、は自分を通り過ぎていった遠い夏のことを思い返していた。
慶応二年(1866)五月、春はいよいよ盛りを過ぎ、夏の訪れを感じる頃である。諸外国と日本との関係は緊張感を増しており、全面的な開国へと地滑りのように崩れてゆく様は国力、もとい幕府の威力の低下を感じさせていた。少なくとも、惰弱な幕府では仰ぎ見るに足らぬと踏んだ人間が増えたことは確かで、京都祇園の一角では柳川鍋のどじょうよりもぐらぐらと熱く、客の血潮が煮えたぎっていた。
何故京都で江戸の名物が食べられるかというと、店主が野心的でわざわざどじょうを飼ってまで食べさせているからである。大博打に近い行動を取る店は、酒気を帯びた気焔を吐く客たちにうってつけと言えよう。風流な店の多い祇園にあって、柳川鍋一辺倒で鳴らすこの店は全てにおいて異様で物騒だった。店の二階で鍋を囲み大音声を発する集団は、正に代表すべき客である。
「聞いたぞ、蘭学者が吉田山の奥で何やら呪いをしているらしい」
「異国の学問に気触れたか!またコロリなぞが流行ったらばどうする!」
「全くだ、ああいう連中は二言目には開国だのなんだのと神国を穢すような意見を言いよる。胸糞が悪い」
そうだそうだ、と口盛んに語り合い、肩を叩いてどじょうと酒を楽しむ男たちもまた、幕府に負けず劣らず落魄した風体だったが、当人たちはわからぬままである。志というものを掲げている手元が暗くとも、目にする限りは明るいという気持ちだけで生きていた。あるいは、国許で燻る自身を抜け出した現実に酔っているだけかもしれない。いずれにせよ脱藩した浪人というバラバラの出自と事情を抱えた彼らを寄せ集める鍋は、尊王攘夷という志だった。
「件の蘭学者は大胆にも欧州帰りや。それだけやない。説得に向かった同志たちを力づくで追い返したとさ。長濱殿が嘆いちょった」
西の訛りが強い男がそう言い放つと、威勢が良かっただけの集まりに殺気が漲り出す。ただの思いは、想いのままだけでは煮詰まってしまう。彼らが何より必要としているのは結果を伴う行動だった。すっくと年長の男が立ち上がると、聴衆に向かって語りかけた。
「何を意気地のない。我々の手で早々に悪の芽を摘もうではないか!」
軽はずみに金打が鳴らされ、場の空気はもう十分という加減である。蘭学者の話を持ち込んだ男は、一人鍋を突いていた年若い青年――の脇腹を肘で突いた。
「。お主も何か成し遂げようという覇気を見せよ。お主の兄を忘れたわけではあるまい」
「無論です」
声ばかりは凛とさせたものの、は内心困惑していた。尊王攘夷という大きすぎる、未だ自分が咀嚼しきれぬ思想と、たかが市井の蘭学者を排斥しようという瑣末な行動は、どうにも釣り合いが取れないように感じられるのだ。ただ郷里から頼った鏑木誠一郎(かぶらぎ せいいちろう)に対する義理と、自分の兄を深く知る彼であればそう間違いはあるまいとは思う。何より、じわじわと広がりゆく自分が何かを成し遂げられるという予感は、例えようもなく甘美に響いた。
「自分も共に参ります」
「よし。善は急げだ、今から行くぞ」
年長者が酒の勢いのまま立ち上がる。たった一人を襲うに、この場にいる人間でも十分な手数と判じられたのだろう。本来一人を複数で襲うこと自体が士道にあるまじき野盗の如き振る舞いであるとは誰も疑いもしない。どうにも嫌な違和感を胸に抱えつつも、もまた、こっそり抜け出してゆく朋輩たちを目の端で見送って狂気に駆られた集団に付き従った。名残惜しくも卓を見れば、まだ鍋に残るどじょうと目が合う。でろりとした、生気を失った瞳が恨めしげで思わず足を止めた。無理やり東から連れ去られ、飼い殺しにされた末路が食べ残しとはなんとも哀れな話に思われる。どうするかも選べず、選ばず、されるがままで、
「どうした。怖気付いたか」
「ち、違います」
鏑木の声にすかさず返して店を出る。食い意地が張っていると思われるのも不味い。一人で動けぬことを詰るほど、自身に行動力はない。そうであれば、どうして鍋から抜け出せずにいるだろう?刀の鞘を軽く撫で、その冷たさに心を落ち着かせて夕暮れる祇園を足早に進むのは、何者でもないままでありながら何者かに溶け込んでいられて気が楽だった。
清国に伝わる古い話によれば、山中に住む仙人は居場所を知られると逃げるという。特に邪な人間が近づこうとすれば必ず気づき、煙にまく。古代の神仙に想いを寄せることは一度もなかった福沢諭吉だが、今では眉唾物の技であろうとも己を隠せる幻技の使い手になりたいと切に願っていた。誰だ、往時の力を失った古都の山であればおいそれと人も近づくまいと言ったのは。
「渋沢さんでしたね」
渋沢栄一は将軍の膝下で鋭意活躍中の切れ者だ。諭吉が国費で米国にとどまらず欧州まで出かけたこともあり、世のための研究とはいえ公務から隠遁するにあたって許可を取り付ける際、手伝ってくれた人物である。彼は彼で万国博覧会に向けて西洋の情報を欲しており、互いに助け合った仲と言えた。吉田山の土や植物が労咳研究にうってつけだと目をつけて申請するも、定期的に顔を見せて報告をせよだのなんだの、公儀は全くうるさくていけなかった。学問に邁進する人間を政治沙汰に巻き込もうとする連中の気が知れない。間を取りもつと栄一が太鼓判を押さなければ研究環境はいつまで経っても整わなかっただろう。吉田山の奥に真っ当な建物を確保できたのはひとえに栄一の支えあってのことだ。
しかし、情報が共有されるとはすなわち、どこからか漏れ出うるということでもある。諭吉が幕府の政務に協力的でないことも相まって、情報は中途半端な理解の下で歪み、誤った形で流布した挙句に豺狼たちの格好の餌になったらしかった。数日おきに歓迎すべからざる客人が訪れては、やれ天誅だのなんだのと騒ぐものだからたまったものではない。
「天意が本当にあるなら、悪人はすぐに死ぬだろうに」
かつて米国に共に渡った勝海舟は、江戸っ子らしいさっぱりとした物言いで吐き捨てたものだ。全くもってその通りである。先日ついに労咳に対する試作品ができたと安堵したのも束の間、集団で薩摩隼人に襲われ天に盛大に唾したことは、思い出すたびにげんなりとさせられる。あの時には別件で切羽詰まった隠し刀と長州人に救われたが、そう毎度都合の良いことが起こるはずもない。幸にして治療薬は、あともう少しで安心して投薬できるものになりそうだ。少しでも早く、しかし確かなものを作って仙人よろしく山小屋を畳みたい。
だが最後までのあと少し、は常と同じくひどく隔たりのある『少し』だった。何か足りないのか、間違っているかは定かではないが、納得のいく結果とは言い難い。隠し刀は投薬した相手が回復の見込みを持ったと伝えてくれたものの、偶然に頼る気はなかった。薬は翻って毒にもなりうる存在である。帳面をめくって材料の配合と睨め合うことしばし、耳障りな音を遠くに感じとって諭吉は眉間に皺を寄せた。
「ああ、また始まった」
葉擦れと言うには余りに大きく乱雑な騒音は、複数の人間が薮を突っ切って駆け上がる音に相違ない。石畳で転げたのか、ガチャンと硬いものがぶつかる音もする。あの鈍い響きは刀の鞘を意味するのだと、ここ数ヶ月で諭吉はいやというほど学んでいた。帳面や材料などを手早く鉄箱に納めると、床下に作った穴深くに仕舞い込む。もし何かあっても、小屋に火を点けて逃げる算段だった。議論も何も通じない相手に対し、単純に逃げ回っているだけでは守るものも守れない。腰に木刀差したところで、襲撃者たちも小屋まで辿り着いたらしかった。
「病を撒き散らす蘭学者め!そこにいることはわかっておる、大人しく観念せよ!」
少しばかり呂律が回っていないような名乗りが続けられたが、耳障りな雑音を聞いてはいられない。スーッと木戸を開けて出ると、諭吉は敵の様子をざっと観察した。全部で六人だろうか。身なりからして浪人崩れの志士まがいらしい。遠巻きに眺めているだけの人間が他に数人いるようだが、どれもゆらゆらふらふらと陽炎のように揺れており、だいぶ酒が入っている風だった。酔いに任せた勢いで盛り上がったというところか。貴重な研究を酒の肴にしようとするとは呆れ果てる。
「約束も無しに訪ねてくるには礼儀が足りませんね。私に何の用でしょう」
「問答無用」
年嵩の浪人が奇声を発してだっと距離を詰める。酔いが回っても動きは堂々たるもので、諭吉はすかさず建物の角を使って捌きながら舌打ちした。天誅だの志士だの何だの言っても、たった一人を大勢で襲う大義名分にはなり得ない。野党以下のごろつき集団にため息をつくと、諭吉は力のぶつけ先を失った浪人に足払いをかけた。途端湿り気を帯びた苔が男を受け止め、ずるずると急斜面を運んで行く。数では相手の方が勝っていようとも、地の利はこちらにある。
「とても話ができる様子ではありませんね。お帰り願えますか」
「神国を穢す外道にかける言葉などない!」
行くぞ、と声を掛け合って数人が一挙に前に出る。仲は良いのだな、と諭吉は無関係なことを思って居合を放つべく構えた。斬った張ったは苦手だが、相手と違ってこちらは木刀である。うまくやれれば、と思うは慢心かも知れないが、幾度も山中で無法者を相手にしていれば流石に慣れるというものだ。居合を放ち、距離をとってすり抜け、威嚇をしながら一つ一つ急所を狙って打って行く。丸腰に近い相手を襲うつもりであったためか、反撃を受けた男たちが狼狽の声を上げるのは何とも滑稽だった。
一斉に飛びかかる鍛錬を積んだ軍隊相手ではなく、所詮は烏合の衆、酔いも回っておめでたい。もし自分がもっと血気盛んで武勇を誇る人間であれば、つまみにもならぬと鼻で笑う手合いだ。今はただ、真剣な学問を邪魔されたという苛立ちしかない。覇気も意気地も挫けた攻め手が総崩れとなり、悲鳴をあげて逃げる取り巻きは泡沫の夢だった。うめいたまま動けぬ男に近づいて様子を伺うも、十分回復の見込みがありそうである。脱臼した肩を嵌め直してやると、諭吉はわざと痛くなるように叩いてやった。
「もう良いでしょう。……帰れ」
「ヒッ」
まだ無事な人間が、倒れた仲間を慌てて拾って山を降りて行く。比較的早く済んだと言えども疲れは拭えず、ふうと大きくため息が溢れ出た。無駄で効率の悪い運動だ――道場で向き合う方がまだ身になる。何かめぼしいものでも落ちてないかと周囲を見回し、諭吉はおやと首を傾げた。一人だけ、まるではぐれてしまったかのように藪の中でぼうっと突っ立っている。
「まだ、残っていましたか。お仲間はもういませんよ。それとも何です、あなたも私とやり合いたいんですか」
「……あなたは呪いの類をする人間では、ないのか」
「呪い?」
幼い物言いに心底蔑みを込めた目で、諭吉はじっと男を眺めた。まだ前髪が残っているかのような幼い顔立ちで、声からしても二十をいくらか過ぎたかどうかといったところだろう。ろくに思考することもせぬ若い人間が、勢いやもっともらしさを帯びた言説に振り回されるのは容易に想像される。かと言って、自分の教え子でもない他人の人生だ。わざわざ首を突っ込むほどお人好しではなく、今は労咳の治療薬を作ることに専念したい。ただ彼の純朴さに免じて、諭吉は真面目な答えを与えることにした。
「私がしているのは、労咳の治療薬の研究です。呪いなどという非現実的なものではありません」
「西洋の陰謀であるとか……」
「あるわけがないでしょう。くだらない」
考えるに値しない。そもそもこの青年は己の頭で一度でも真面目に物事を考えたことがあるかどうかも疑わしかった。よくある話ではあるが、昼行燈のようなうつけた様子は、あたら若さを無駄遣いしているようにしか見受けられない。非難する気持ちが自ずと表情に現れたのだろう、こちらを慎重に伺っていた青年がぎくりと体をびくつかせた。
「帰れ。もう私を煩わせるな」
これ以上相手をするだけで疲れてしまう。相手に戦意がないと判断し、諭吉は元のように小屋に引き下がった。ガサガサという葉擦れが、どんどんと小さくなり、全てが夜に吸い込まれていった。
山から降りた志士たちは死屍累々で、たかだか一人の男に打ちのめされるとは今だに信じられぬ様子だった。殆ど酒が入っていた人間も、流石の痛みに目を覚ましていたが、それでも自分は酔っているのだと言い訳をした。まるで夢で熟れきった果実が本当は腐っていたのだと思い知らされたような気持ち悪さが漂う。各々、何が諸悪の根源であるかはうっすらとわからないではない――何より、浮かれ騒いで鍋を突いた情熱は冷めきってしまっている。三三四五にそれぞれの収まるべき寝ぐらに去って行く様は惨めの一言に尽きた。
年少者として人々に手を貸して送り届けたの気分もしめぼったく、酒でようやく温まっていた体はしんと静まり返っている。あんなにも満たされ、高揚していた心はどこへ行ってしまったというのだろう?そんなものなど、最初から全てまやかしだったのかもしれない。兄のように思った鏑木の情けない姿が瞼の奥に沈む。肩を脱臼させて悲鳴をあげた彼を助けようとしなかったのは失態だった。豪放磊落な風を装っているが、あれは蛇のようにしつこく恨みがましい。
「面倒な」
それに比べて、たった一人で相手どって戦い抜いた蘭学者、もとい武士と言ったらば!得物は木刀であるものの、なかなかどうして戦物語のような武者ぶりである。郷里の者が見れば、天狗と呼ぶに相応しいと手を叩いたかもしれない。あんな山奥でたった一人、労咳の治療薬の研究をする孤高さと一本気は眩しく、自分が侮蔑されるのは当然のように感じられた。
名も知らぬあの人を前にした時、自分が腰に佩いているものが竹光であるような錯覚に陥った。出鱈目を言っているのは絶対に向こうであったはずなのに、これまで散々悪に天誅を叩きつけてきた朋輩たちがぼろぼろになって折れる様は至極当然だと受け入れられた。軽蔑されるのも道理だ、迷妄を吐いたのは自分たちの方なのである。
ちっぽけでつまらぬ物、取るに足らない存在への蔑みが籠ったあの眼差しが瞼に焼きついて離れない。全部見透かされている、そう確信できた。にも関わらず自分を無視せず問いに答えてくれたのは誠実さの発露だ。ついそこに甘さを求めるも、得られはすまいとは薄く笑った。誰よりも不誠実なのは自分自身である。
「兄上」
天狗の名を背負って大罪を成した兄ならば、きっと迷わずあの人を斬っただろう。ついで惰弱な朋輩共を叱咤し、彼らもまとめて斬って捨てたに違いない。のすぐ上の兄、利明とはそうしたわかりやすい男だった。誰よりも苛烈で理が勝り、虚勢でなしに威を張って己を害すことを少しも厭わない。いつ爆発するとも知れぬ兄は、既に家督を継いでいた長兄に諌められるも水戸藩を勝手に抜け出し――井伊大老を斬ったのだ。
とんでもない凶行であることを承知しつつも、は兄がやるならば正しいのだろうと漠然とながら受け止めていた。兄は考える人間だった。家督争いで醜くもめる藩内政治に唾を吐き、国政という大きな視野でどう生きるかが見えているらしかった。同じ地平を見ようと目を凝らしても、何も見えぬままのに述べるものはない。ただ、兄が語った言葉はいつまでも胸の奥深くに刺さったままである。
「『お前は飼い殺されて生きることを良しとするか』、など聞かれるまでもないよ」
三男以降で養子先もなければ才覚もない、そんな人間に行き場があるというのか。家を出、武士を辞めた先も想像がつかず、見えぬふりで見ずにオタオタしているうちに兄の方が先に逝ってしまった。正しかろうが間違っていようが、幕府の重鎮を斬った大罪人の先行きはどの道暗いのだ。それでも兄は幸せだろうと思う。正しくあれた人間は充足しているに決まっているのだと、今日のあの人の姿で確信を抱くに至った。
「良くない」
最初は、どんな形であれ行き場を得た兄が羨ましかった。兄が信じるものを信じれば、自分も狼狽まいと願って国を出た。兄の知人に、同志に出会って江戸に来て、京都に流れて尚迷っているのは正しくなかったからに相違ない。ならばあの人は何を持つだろう。あんな風に真っ直ぐに向かう道筋が見たい。
治療薬というものは、きっと作り上げるまでに時間がかかるだろう。あの場所に止まり続けている理由があると推察するに、彼はしばらく吉田山にいるはずだ。不味い話を肴に酒を飲んで下手な江戸料理を食べ、少しもわからぬ胡乱な話に相槌を打つよりも上等な見ものに違いあるまい。頭の中に始終漂っていた靄まで晴れてゆく気分が心地良い。酩酊にも似た高揚のままには荷物をまとめると、眠気を振り切って全てを捨てた。捨てるのはいつだって楽だった。
「先生」
うるさい。
「先生、お湯が沸きましたよ」
黙ってくれまいか。
「下鴨の婆様が先生に差し入れだそうです。腰痛が良くなったと感謝してらっしゃいました」
先生先生先生先生。世捨て人よろしく吉田山に籠ってからというもの、もう随分長く聞かぬ単語に苛立ちを覚え、諭吉はぶすりとした表情で声の主を睨んだ。自分と研究の蜜月を邪魔するのは、先日襲撃してきた浪人集団の一人だった。覇気もなければ意思もない、どうしようもない愚物に対して自分は相当に冷たく当たったはずなのだが、頭の回りが胡乱な青年は不思議なことに足繁く山登りを続けている。当初は密偵の類かと疑うも、あまりに裏表のないやり口に疑う方が馬鹿馬鹿しくなってしまった。とはいえ、存在を許しているわけではない。しかるべき面罵悪罵痛罵でもって迎え撃ち、居合をちらつかせても尚向こうが折れず、その上お使いなどを勝手にこなしているだけのことである。
「私はあなたの先生ではない」
「ならば、お名前を呼んでも宜しいと?そちらは、お許しを得てからと思いまして……先生は自分よりも学がありますし、先に生まれたのは確かですから、この呼び方が適切ではありませんか。それに、先生は自分に十分道を教えてくださっています」
図々しく言い放つ青年がきらきらと瞳を輝かせる。何ら疑うことない純粋無垢な眼差しに、諭吉は怯んで小さく唸った。胡乱な言説を鵜呑みにしてのこのこやってきた通り、この青年――小山利明と名乗った――は危うい純粋さがある。行く道を示せば、より良い方に伸びるのではないかという兆しがチラつくと、世話をしたくなる心地になってしまうものだからずるい。今の自分には余裕がないのだ。余裕がないから、身の回りの用事を勝手にこなしてさっさと去ってゆく利明は極めて有用だった。
「小山君、下鴨のご婦人には厚くお礼を伝えてください」
「はい!」
花火が上がるようにパン、と元気が弾ける。そうだ、遠くで聞こえる鳴物同様、どうにもできぬと受け流すのが相応しい。もはや蔑みの眼差しを向けることも難しく、諭吉はくすくすと笑った。
一度割り切れば話は簡単で、諭吉は利明を使い倒すことに決めた。通いの老女は足腰に不安があったことも理由の一つで、その点利明は健康そのものだった。浪人崩れらしく、糊口を凌ぐために細かい雑用をこなす以外は暇なのです、と利明は笑って使い走りをする。生薬の材料が欲しいと言えば、当初は知識が不足しており苦労したようだが飲み込みは良く、終いには何が足りないだとか市中では何が安くなっているだとかまで把握するに至った。
「この分では、薬種問屋でも勤められそうだ。君はなかなか優秀ですよ」
「興味深い生き方ですね」
一考の価値があります、と頷く利明の本意はどこにあるか掴みどころがない。元は水戸藩士なのだと聞いたきりで、それ以外の話は言わないものだから諭吉も尋ねずにいる。山小屋の中で作業する分には不都合がないのだし、自分が山を降りたらば道が分かれるだろうという予感があった。利明も諭吉の名前は知っているようだが、あれこれ事情を尋ねることはしない。ただ西洋については深く興味があるようで、留学で見聞したものを食事時に話せば、もっともっとと幼い雛よろしくぴいちく催促する。
「いつか西洋に行きたいとまでは思いませんが、先生の仰るようにこの国が開花する姿は見たいですね」
「ふふ、天誅をしに来た頃の君がその言葉を聞いたらば、さぞや驚いただろうな」
「意地の悪いことを仰らないでください。時代は変わるものなのでしょう?」
そう、時代は変わるものだ。利明は過去の関係を全て断ち切ったらしかった。反対に、脱藩したつもりが脱藩できていなかったそうである。生家が世話をしてくれていたのだ、と珍しく己の出自を語った利明は面映そうだった。とはいえ飼い殺しの身分に戻っただけだ、と乾いた口調で続ける温度差が物悲しい。自身がしがらみを壊そうともがき、脱却した身の上である諭吉としては僅かに同情心が芽生えるというもので、かといって彼の人生の面倒を見る余裕はなかった。
未来の空手形を出すのは幻想を与えるようなもので、得られぬ人生にとっては毒だ。しかし情が湧いたのか、ただ打ち捨てるには口惜しい。自分に余裕が生まれたらば機会を与えてやりたいといつしか思うほどに、利明は諭吉の研究生活に馴染んでいた。
夏の陽がいよいよ暑さを増した頃には二十四孝よろしく団扇で涼を与えられ、忘れがちな食事や風呂の支度が言わずともなされ、『雑用』のために利明が来ることの叶わぬ日は不便を覚えるようになった。先生先生という呼び声は雑音の域を超えている。研究も順調で、もう山小屋を出て実証段階に移れそうだ。あれ以来襲撃者に襲われることもなく、全てが順調だった。
人生万事塞翁が馬だ、と鼻歌まじりに言えるほどに夏は熟れようとしていた。
予想違わず、『先生』の背中を眺めるのはにとって有意義だった。太陽は日々熱を増してゆき、それに合わせるようにして研究も進んでゆく。福沢諭吉という人は、本当に一心不乱に労咳という治療不能と言われた疫病と戦おうとしていた。実際、多少なりとも試験段階で快方に向かった人がいるらしく、わざわざ礼を述べに来る浪人に出会った時にはまで嬉しくなってしまった。
堂々と隣で眺めるために始めた雑務もすっかり板につき、いくらか諭吉の薫陶を受けていると、自分もまんざら捨てたものではないと思えて来るから幸せなものだ。無闇矢鱈に鰯の頭を崇めるのとは異なり、今度こそ実がある――何より、は影を抱きしめることさえできぬ遠い理想を支えるというのは悪くない。気が楽になったついでに生家に連絡を取り、少し『先生』の近辺を快適にした時には至極満足した。
何も知らずに研究に専念していた諭吉は二ヶ月ほど気づかないままであったが、蝉が存在を主張するようになった頃に思い出したように問うてきた。
「このところは、望まぬ訪問客がすっかり鳴りを潜めましたね。諦めがついたのだと良いのですが。その……小山君の周りは相変わらずですか?」
「残念ですが、縁を切った先のことは知りませんよ」
珍しくもこちらに興味を抱かれて頬が緩む。煩わせるな、から随分と進歩したものだ。諭吉の瞳からは侮蔑の色が消え、心持ち情が滲むようにも見える。さりとては、彼の手を煩わせるつもりはなかった。これは見世物、どうしたいかが形になろうとしている己のための束の間の関係である。だからするすると偽名を名乗って、素知らぬ体で襲撃者を追っ払うなどしている。深刻な疫病が発生したと噂を流しただけで萎んでしまう『志』の弱さには、つくづく落胆した。
耳障りの良い言葉で燃え立った時にはあれほど輝いて見えたものが、全て写し絵に過ぎなかったと知った時、人はどんな顔をしたらば良いだろう?ああ目が覚めてよかったと安堵すべきか、騙されたと憤るべきか、気づかせた相手に幻想を壊したと恨むべきか、答えは十人十色だ。の胸を去来したのは寂しさで、ついで面倒臭いな、という生来の物臭さが浮上した。
けれども、今は少し事情が異なる。諭吉は願望ではない、願望足り得ない姿だ。願望になれたらどんなに楽だったろう。近づいた時には彼の正しさについて行けば己の正しさを得られるかとも思ったが、とんだ見込み違いだった。ただ、自分はどうにでもできるという妙な自由さがひたひたと染み込みつつある。吹っ切れて仕舞えば走るのはすぐで、蝉が断末魔の悲鳴を上げる頃にはもまた仕上がろうとしていた。
掃除、洗濯、食事の支度。今日は良い鮎が手に入ったから、じっくりと塩焼きするとしよう。茹だるように暑い日に七輪前に張り付くのはなかなか忍耐を要するが、これも諭吉の身になると思えば苦ではない。美味しいものは美味しい、と素直に舌鼓を打つ諭吉の表情がは好きだった。煮炊きに通っていた老女が太鼓判を押すまで信用されなかったことが、嘘のような変化である。じりじりと焦げて浮かび上がる焦げ目を注視していると、背後からガタガタと音がしては振り向いた。
「随分機嫌が良さそうですね」
「当然です。先生が自主的に食事に来ましたからね。……治療薬が完成するのでしょう?」
出来上がったばかりの鮎の塩焼きを皿に載せて渡すと、諭吉がゆるりと頷く。昨日も帳面をつけながら寝たためか、額に机にぶつけたあとがついたままなのが可笑しい。他人の健康に貢献しようという人間が、己の体を顧みないというのはつくづく不思議な理屈だった。
「明日から荷物を片付けて、残りの作業は藩邸で行います」
いついつには向こうに帰るつもりで、という諭吉の頭は相変わらず研究でいっぱいである。つまり仮初の日常も終了というわけだ。他の食事も運んでやると、諭吉はいただきますと言って忙しく箸を動かす。塩加減がちょうど良い、と空になった皿にもう一尾載せてやるとは心の底から笑みを浮かべた。
「では、片付けもお手伝いさせてください」
「小山君は、」
「今日は蝉が一段と煩いですね」
「……ええ。もう終わりなのでしょう」
蝉は死に際が一等力強く鳴くと言ったのは、兄だったろうか。さようならを叫ぶ命に耳を傾けるふりをして、は乱雑に串から鮎を取り外した。
「では、行ってきます」
研究成果を取りまとめ、諭吉はすっかりもぬけの殻となった山小屋を後にした。塵などの後片付けは全て利明が行うと言って譲らなかったので、最後くらいはと思うも結局彼の好きに任せた。全身で嬉しそうにする人間から取るにたらぬ玩具を奪う気にはなれなかった、とも言える。何者であるかも、何を目的にするかもわからぬ青年は最後まで謎のままで、ついでこれから先も有耶無耶になるのだろう。
煩わしさがない、実に自然な縁の切れ目だった。今時、人と人との縁は結んでしまうとなかなか解けないというのに、彼との関わりは結んでいるようでただ近くに並んでいるだけのような、よそよそしさと慕わしさの双方を孕んでいたように思い返される。居心地が良く、浮世離れして肩の力が抜けた時間は嫌いではなかった。だから少しだけ欲をかいてみたのだが、結果はご覧の有様である。
長らく戻っていなかった藩邸に荷物を運び込むのは、仙人が現界に戻る気分にも似ていた。合議でもあった後なのか、随分多くの人が藩邸内をうろつき回って物々しい。自然挨拶回りをする羽目になり、辟易しながら諭吉は俗世をやり過ごした。
「福沢さん!お戻りでしたか」
「お久しぶりです、渋沢さん。ええ、先ほど戻ったばかりなんですよ」
と、のっぺらぼうのような人々の群れから懐かしい人物がひょいと顔を覗かせ、諭吉は丁寧に頭を下げた。何が用件かは知らないが、自分ではなく誰かに会うついでに声をかけたのだろうと思ったのだ。今日帰ることは特段触れ回ることはなく、後日こちらから報告書と意見書を出しがてら会えれば良いと思っていただけに幸運である。だが栄一の意図は異なるらしく、良かった、と大きく安堵のため息をついて見せた。
「良かった、とは?どういう意味です。まさか、僕が山奥で倒れたとでも聞いたんですか」
「当たらずとも遠からず、と言ったところですね。実は、吉田山を襲う不穏な計画が今日にも実行されると耳にしまして、藩にも協力を仰ごうとしようとしていました。ですが、こうして戻られたからには無用の心配でしたね。本当に良かった」
「今日」
ふ、と頭をよぎったのは、今朝自分に行ってらっしゃい、と言った人物の顔だった。利明はまだいるのではないか?襲撃者が諭吉の外見を知っているとは限らないし、いずれにせよ関係者としてまとめて乱暴に取り扱われても仕方がない。利明が居着くようになってから長らくご無沙汰であったために忘れていた危機感がむくむくと起き上がり、諭吉の顔がさあっと青ざめた。
「どうしました。何か山に大事なものを忘れでもしたんですか?」
「似たようなものです」
「福沢さん!ああもう、どこへ行くんです!」
「吉田山ですよ!」
口よりも先に体が動いていた。栄一に対して失礼になると解りながらも横をすり抜け、藩邸の外へと向かう。人を押し除けかき分け歩む背を、なんとか追いつこうと慌てふためく栄一が続く。彼は以前にそれこそ志士として刀をとったこともあると聞くから、役に立つかもしれない。頭の中で算盤を弾くと、諭吉は京の街を直走った。
吉田山はこんなにも遠かっただろうか?先ほど歩いたはずの道は随分間延びしたらしく、走っても走っても、心ほどには自分を目的地へと連れて行ってはくれない。
「一体何を置いてきたんです?あなたが必死になるならば、相当な値打ちものでしょうね」
「値打ちをつけるものではありませんよ」
人です、と言えば栄一は少し中空を見つめるとああ、と小さく声を上げた。
「ひょっとすると、あなたの身の回りの世話をしていた青年のことですか?水戸藩士の」
「知り合いでしたか」
「一応、あなたの近辺は気にかけていたので」
その割には幾度も招かざる客人たちの熱烈な訪問が頻発していたではないか。恨みを込めて睨むも、幕府には今予算がないもので、とけろりと返すのだから困ってしまう。現在、倒れかかった幕府の財政を切り盛りしている中心人物は栄一で、諭吉の不十分な研究費も彼の采配あって得た果実である。あまり多くは言えない。
「話してみれば、問題もなさそうでしたから放っておいたんです。睨まないでくださいよ、彼と協力して余計な人間が現れないように工夫を凝らしたのは他ならぬ私なんですから」
「……仲が良いんですね」
「利害の一致とも言いますね」
おあいこです、と抜け抜けと言い放つ栄一は少しも良心の呵責を覚えないらしい。それくらいの太々しさがなければ今の危うい政情下を渡ってはいけぬのだろう。好意的に解釈するも、諭吉は自分の知らぬところで費やされた時間に雑味を感じ取った。煩わしさを避けるため、水よりも清くさらりと交わした関係を選び、心地よささえ覚えた端から不満を抱くのは傲慢だろう。
街中を突っ切り、ぐねぐねと曲がった階段を飛ぶようにして駆け上がる。蝉の鳴き声を雨のように浴びて突き進むうち、ようやっと醜い怒号が耳を打つようになった。全身汗みずくだが、頬を伝う汗を拭うことすら惜しい。
「待ってください」
ざざっ、という音と共にばらばらと人影が降りてくることに近づき、諭吉は栄一と頷きあって草陰に隠れた。利明であってほしい――しかし期待は常に裏切られるというもので、火薬の匂いを撒き散らす男たちは誰ともつかぬ浪人たちだった。
「あいつも物の道理がわからぬ阿呆だったなあ!『先生に害をなすような真似はおやめください』だって?ませた口をききやがって」
「兄貴は気骨がある誠の志士と聞いていたんだがな。死んだ人間のことだ、どうとでも言えるさ。井伊大老を斬ったなんざ嘘だろうよ」
「ほんに死人に口無しじゃ!」
わいわいと上機嫌に騒ぐ男たちは、諭吉たちには丸切り気づかず愉快に去っていった。兄が志士で、井伊大老を斬った?なるほど、利明はただ思想を鵜呑みにしただけではなく、何がしかの素地があったらしい。近親者の強い影響下にあれば、素直な利明が水を吸う海綿の如く受け止める可能性は高いだろう。だが、今の彼が戴く思想は『先生』にあるのだ。先生。煩い、と斬って捨てた呼びかけを思い出して、つい今朝方のことだというのに懐かしさで胸がいっぱいになる。
「剣呑ですね。急ぎましょう」
「ええ」
山小屋は、もうすぐそこだった。
捨てるのは楽、ではなかったか。額に浮かんだ汗を手拭いで押さえて、はざっと積み上げた塵の山を目算した。一日かかって終わるかどうか危うい。古い書き付けの類は全て燃やすよう言いつけがあったので、三ヶ月足らずの思い出を灰燼に帰す意を込めて門前で焚いた火が熱い。ただでさえ今日は暑いというのに、一気に片付けようとしたのは軽挙だったかもしれない。責務のある諭吉と異なり、自分には時間がいくらでもあるのだ。
火をつければすぐに燃えて消えるだろうと思った紙束は存外しぶとく、ばらすなり千切るなり手を加えてやらねば禅僧のように火の中に居座ったままだった。古紙の買取に来させるには、重要かもしれない情報が多すぎる。結局この手で消え失せるまで見届けるのが最善だろう。全部片付けた頃には思い出も消えて、きっと自分も次に行けるはずだ。
「面倒な」
その次、を考える時間はもしかしたらないかもしれない。蝉時雨の向こうにカチャカチャと金属が擦れる音を拾って、はゆるりと立ち上がった。腰のものを手で確認し、山の斜面に目をこらす。一人、二人、三人、もっとだ、ああ随分多い。相変わらず群れることだけは一級品だ。出がけに食べたのは何だろう。鮎の塩焼きかな、と想像して鮎が可哀想になった。風流も味わいも解さない人間に消費される食べ物は哀れさを催す。ぬ、と木偶の坊が一人焚き火の前に進み出た。
「福沢諭吉はどこだ、」
「ここにはいませんよ」
じとりと湿った鏑木の声音に答えると、嘘をつくなと静かに返される。肩をすくめて、は燃やす作業を続けた。念の為に危険度別に分けておいたことが功をなした。緩慢な動作に見せつつ、価値のわからぬ人間が無用な騒ぎを起こしかねない火種を焚き火に放り込む。
「本当ですよ。お疑いならばご自身の目でお確かめください。ああ、疫病にかかった人間はいるかもしれませんよ?」
さらりと返せば、遠巻きに様子見をしていた人間がぴたりと足を止める。自分が栄一と組んで流した飛語はまだ有効であるらしい。
「ただの出まかせだ、恐れるな。様子を見てこい」
「お、おう」
鏑木の叱咤に従い、おっかなびっくり三人ほどが山小屋に入ってゆく。残念ながら中には何もない。好きなだけ見れば良いと思うも、ガチャンと物が割れる音を聞くのはここで流れた自分の時間を土足で踏み荒らされたような心地にさせる。今朝まではそこに日常の営みがあった。溢れてしまう記憶を次の焚きつけに回して、鏑木の動きに注意を向ける。かつて情けない悲鳴を上げた男は、いつの間にかごろつきの指導者となったらしく、不恰好なほどにふんぞり返っていた。
「長らく顔を見ないと思ったら、ここにいたとはな。申開きを聞こう」
「聴かせるほどの話はありませんよ。自分は学がありませんし……どんな話ならば満足していただけるものか」
「生意気な奴」
どん、と背後で爆発音が響き、は咄嗟に耳を塞いだ。背後で山小屋が揺れ、ばんばん、どんっと次々に轟音が破裂してゆく。火をかけられた時を想定して埋め込んでいた火薬の数々が狼藉に報いを与えたようだ。諭吉が言うには、彼自身が逃げる際に火を点ける想定だったそうだが、強化するべく働きかけて実行に移したのはである。諭吉の教え方が良かったのだろう、不出来な生徒は無事に課題をこなせたらしい。
「お前がやったのか、」
「やったのは鏑木さんのお仲間です。自分はずっとここにいるだけでしょう」
「西洋の奇術か武器の類を使ったならば可能ではないか」
つるりとした顔立ちをした浪人が胡乱な発言をするものだから、は笑いを堪えるのに苦労した。西洋に対して彼らが抱く漠然とした恐れに、尊崇の念を感じられるのは何故だろう?どうして脈絡のない言説を少しも疑わずに口にできたものか、同じ立場であった身の上ながら理解できない。目が覚めた分、この三ヶ月足らずは有意義だったと言えよう。諭吉であればあの冷たい蔑みの眼差しで斬り捨てただろうな、と出会った時の場面が懐かしく思い出される。
「先生に害をなすような真似はおやめください、鏑木さん。一人や二人斬ったくらいで世の中が何一つ変わらないことは、とうにわかっていらっしゃるでしょう」
「『先生』だと。やはり西洋気触れになったのだな、」
「烈士の弟が聞いて呆れる。本懐を忘れたか」
次から次へと罵詈雑言が投げつけられる中、山小屋から這い出た人間たちが血を流して現れたのは不運な巡り合わせだった。彼らが抱く理論は単純明快なものである。この世には敵か味方しかおらず、は味方ではなかった。
「せめて目を覚まさせてやる」
焚き火を越えて刃が煌めく。迷わず刀を鞘から抜きながらも、は自分が諭吉ではないことを知っていた。確かに自分はいくらか芯と呼べるものを持つに至ったかもしれない。されどあの真っ直ぐな背中は所詮他人のもので、怜悧さも果断さも遠い夢の果てだ。概ね燃えたから良いだろうと塵を撒き散らし、背後からの突きを捌いて目潰しを試みる。開けた庭先で相対したのは手痛いが、一人ずつを意識すればいくらか様にはなるだろう。多勢に無勢で、ただ逃げるのも難しい。過ちを上手く捨てられなかった、身から出た錆だ。鏑木の目が煙の隙間からこちらを睨んでいる。
「先生、」
逃げることも下手な人間は弟子失格でしょうか。ぬるい風が頬を撫で、汗と共にだらりと血が流れた。
山小屋近隣はもうもうと上がる煙と炎とで敵も味方も判然としない有様だった。自分が逃げる際に思い浮かべた情景がそのまま現実になっていることに、諭吉は思わずため息をこぼした。利明の熱心な勧めにより、火薬の類を大量に仕込んだ効果は歴然としている。煙に乗じて逃げ出してくれたと信じたい。
「小山君、無事ですか!」
もうもうと立ちこめた煙から人影が這い出し、ハッと栄一と顔を合わせる。たまらず駆け寄るも、煙が見せたのは荒い息を吐く浪人だった。恐らく襲撃した人間の仲間なのだろう。微かに見覚えがある気もしたが、下賎な手合いの顔は一々記憶に留めていない。一方相手はこちらの姿を認めるなり、ぎしりと体を強張らせた。
「福沢諭吉だな」
「お知り合いですか?」
「いいえ。私の知り合いでは……やめろ!」
茶々を入れる栄一に心中密かに舌打ちしていると、浪人の方が先に手を出してきたものだから言葉が乱れてしまう。目を丸くした栄一を面白がっている場合ではない。木刀で相手の一撃を逸らすと、諭吉はすかさず栄一にその刃先を向けさせた。
「後は頼みますね」
「ちょっと、福沢さん!私に押し付けるだなんて……一つ貸しですよ!」
軽口に返事をしなかったのは焦ったこともあるが、ここでうんと頷けば地の果てまで追いかけて取り立てられそうな嫌な予感があった。あんな口を叩くくらいだ、恐らく存分に任せても問題ないだろう。それよりも問題は利明の方だ。数人すれ違うも、逃げるのに手一杯という様子で諭吉に構う余裕はないらしかった。
「小山君、返事をしてください、小山君!」
書き付けの束がくしゃくしゃになって足元に絡まる。手遊びで利明に教えた英文字の手習が炎に舞い上がり、調合に使った数字の連なりが渦を巻く。煙を吸い込まぬよう袖で口元を押さえながら呼びかけるのはひどい苦行で、火消しが如何に優秀で勇気のある存在かを思い知らされた。山小屋は焼け落ちてしまって近づくこともできない。仕方がなしにもう一度庭の縁を這うようにして歩むと、ようやっと目当ての人物らしき人間が崩れた帳面の山に横たわっているのが目に入った。
「ああ、ここにいましたか。良かった」
「……先生?何故いらっしゃったんです」
ゆるりと起き上がろうとするもべしゃりと崩れ、利明は盛大に顔を顰めた。肝を冷やして近づこうとするも、血の匂いが目眩を催させる。ふふ、と力の抜けた笑い声に揺さぶられるも、目の前まで辿り着くのが精一杯になりそうだ。
「小山君、笑い事ではありませんよ」
「嬉しかったものですから、つい」
ありがとうございます、と笑った口から血がだらりと溢れる。溢れた先も真っ赤で、一層強く脳が揺さぶられた。視界が歪む。駄目だ、駄目だ、こんなところで?せめて応急手当てくらいはしなければ、先生、先生、先生、そう無邪気に慕ってくるんじゃない。自分は今他のことに専念すべきなのだから、お前に感ける時間はないのだ。本当は何を考えているのか、何も考えていないのか、それさえ判然とせぬ青さを見せつけず、あたら慕わず一人で生きていくが良い。今の自分は先生と呼ばれる余裕はなくて、だが少しくらいなら――良いか。
「……さん、福沢さん」
「なんです」
名前を呼ぶことは許していないはずだが。そろそろ許してやっても良い気はしていた。全く図々しい、だが元気さ故だろう。うう、と呻くと諭吉はうっすらと目を開けた。
「やっと起きましたね、福沢さん。貸し二つですよ」
「え?」
視界に飛び込んできたのは、またも栄一だった。利明はどこへ行ったのだろう。ぐるりと目玉だけを動かすと、どうやらここは診療所の類であるらしい。説明を求めて貸しを増やした男を見ると、常と変わらず爽やかな返事があった。
「藪の中に倒れていたんですよ。あなたを運ぶのには随分苦労をしました。ああ、狼藉者はあの後私が無事首謀者を捕まえましたからね、一件落着でしょう。襲われる心配は、もうせずに済みますよ。良かったですね」
「それはお手間を取らせました。ありがとうございます。昔から血を見るのは駄目なもので……そんなことよりも、小山君は?僕の側に倒れていましたよね」
「いいえ」
即座に明朗な答えを発した栄一の表情からは、他の感情は読み取れない。重ねて死んでいたのかと慎重に問えば、やはりこれまたすぐに否定が返された。
「あなたは一人で倒れていました。血溜まりが大きかったので、最初はあなたが斬られたと思って焦りましたよ。もし、彼があの場にいたとしたら、恐らく自分の意思で去ったのだと思いますよ」
「……僕が藪の中に倒れていた、と仰りましたね」
「ええ」
つまり、ひどい怪我の中で利明はわざわざ自分を火の及ばない辺りまで移動させてから姿を消したのだと推察される。手負いの身では栄一以上に苦労しただろう。自分の情けなさにぎりりと奥歯を噛み締めると、諭吉はようやっと口を開いた。
「そう、ですか」
いつかは別れる身だった。今朝山小屋を出た時点で二度と交わらぬ人生で、縁の切れ目は清々しいまでにあっさりとしていた。無理やり繋ごうとした結末は苦く、こんな思いをするくらいならば行かなければ良かった、という深い後悔に身を包まれる。
「そうでしたか」
『先生』。今はあの煩い声を、蝉より負けずに大きく力強く聞きたかった。
はひとしきり思い出に耽って現実に帰ると、講義の始まりを知らせる鐘の音を聞いた。ガヤガヤと若い声が話し合いながら、時に笑いを交えて建物中を移動する様子が遠くに聞こえる。門前からは中の様子はわからない。ただ、今日も塾が活気を呈していることが解ればそれで十分だった。小山利明もも、あの場に参加することは叶わない。
「先生、頑張ってくださいね」
あれから散々な目に遭いつつも、自分がどうにか自分らしさを保って生きることができたのは、全てあの夏のお陰だ。その果てに、再び諭吉が新しい国の支えとなるための教育に邁進する姿を目にできたのは、ちょっとしたご褒美かもしれない。無論、一門番のことなど知らぬ諭吉は気づくまい――縁は切れたのだ。
門扉に蝉の抜け殻が張り付いているのを指先で摘むと、はぽい、と外に放り投げた。
〆.
あとがき>>
ゲームをプレイし始めた頃は、きっと夢小説を書くと思っていたらばまるで書かず、ひょんなことから結局書くことになるのは面白い流れですね。諭吉に蔑まれたい!というネタをフォロワーさんが出した(最高のFAでした)ものから想像を巡らせた内容です。プロットメモまで書いたんだし、きっとちゃちゃっとまとまるだろうと鼻歌を歌っていたらば手痛い目に遭いましたが、好き!をいっぱい詰め込めたので良かったんだ……辛くとも、結構この手の結末を書くのも楽しいので、良い機会でした。普段では書けない諭吉の様子を書くことができたのも嬉しかったです。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!