DREAM NOVEL
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子供は一週間で
自分を変えることができる
大人は一週間たっても
もとのまま


大人の時間


 ふわりと湯気が揺れている。慌ただしい夏が終わり、空気に幾分何処か物寂しいものが混じるようになった。それは屋内であっても同様で、寮の中にも最早夏とは言えない、どこか斜に構えた陽射しが窓から降り注いでいる。厚手のマグカップを手にしたはテーブルの上にカップを置くと、向かいに座っている少年に出来るだけ柔らかく声をかけた。

「今日もブラックなんだな」
「あ、はい」

飲み物の苦さには不釣り合いな幼い表情を警戒する様に歪めると、少年___天田乾はお返しとばかりにの置いたカップを伺った。なかなか減らない天田のカップの中身とは対照的に、ほんの少し近付いただけで解る中身は大量に砂糖が投入された熱々のカフェオレである。ほんの一瞬、天田がひどく羨ましそうな表情を見せたのをは見逃さなかったが、敢えて黙って見守った。不可思議なまでに徹底しようとする天田の背伸びは何よりも興味深い。黙って手元のアメリカンコミックを捲っていると、焦れた様に今度は天田が口を開いた。

「……さんは、不思議ですね」
「うん」
「いや、そこは『うん』って答える所じゃないですよね。大体、大人なのに、なんでそんなに甘いものを飲んでるんですか?それに、新聞とか読まなくても良いんですか?」
「そんなに不思議かな」

ぱたんとアメリカンコミックを閉じると、はテーブルの上に肘をついた。にしてみれば、見たいにも関わらず特撮番組を見るのを我慢したり、嬉しそうな顔をする癖に無理矢理顰め面をしてけなしだしたり、飲みたくも無いブラックコーヒーを飲んだりする方が不思議だった。自分にとって生きたい様に生きられないこと等、他にいくらでもあるのに、僅かな自由を満喫しないことの方が難しかった。

「不思議ですよ。まあ、理事長も大分不思議な人ですけれども。さんの様な大人の人を僕は見たことがありませんから」
「幾月は変だよな。高校の頃から変わってないんだぜ、あの寒いオヤジギャグ」
「全く変化が無いんですか?その、面白くなっていたり、とか」
「無いね」

ばっさりと切り捨てるとはカフェオレを傾けた。煮えたぎる様な温度から段々と人に馴染む様な温度に変わって行く、その最中がは好きだった。数秒遅れて、笑っていいのか戸惑っていた天田が本題を煙に巻かれたことに気付いて唇をへの字に曲げる。機嫌も曲がってしまう前にはうむ、と小さく唸った。

「逆に聞こうか。天田君の言う普通の大人っていうのはどういう大人なんだい」
「…………」
「コーヒーのブラックを飲んでいて、新聞を読んでいたら普通かな」

誰にでもできることだろう、と言わずにはちらりと天田のカップを見た。ちびちびと不味そうに飲まれるコーヒーは哀れにも冷え、更に受け入れ難い物質へと変容しかけている。

「これは個人的な考えだけどな______俺は普通の人間なんて、何処に行っても居ないと思うね」
「何でそんなにはっきりと言えるんです」
「皆違うからさ。カフェオレやブラックコーヒーがあるように、見た目も中身も違うだろ。別に同じでも良いんだが、種類が多い方が面白いと思うね」

寧ろだからこそ意味があるのだろうとは思っていた。そうでなくては、人一人が生まれることになんの意味があるのだろう。勿論、意味等ない。だがそこに意味を相対的に持たせるのは違いだろうとはそれとなく感じていた。

「大人が何かの手本になると思うなら、止めた方が良いし、目指すものでもないだろうな」
「……それでも、僕は大人にならないといけないんです」
「ふうん」

言い切った天田の瞳には某かの決意のようなものが滲み出ていた。嫌いな瞳ではない。だが、高僧の様な徹底した振る舞いは、既に彼を子供から切り離していることには一切気付いていないらしかった。子供特有の大きな瞳に、不確かな表情をした自分が映る。はカフェオレをもう一口啜ると、何の感情も滲ませずに続けた。

「なら、何にでも学んで、天田君が目指す大人になるといい。そうだな____俺でも幾月でもない、素敵な大人になると良いな」
さんは普通じゃありませんけど、十分素敵ですよ」
「なっ」

不意に背後から襲った気配に、はびくりと身体を震わせると声の方向に振り向いた。がっちりと腕を絡ませて離さない体勢を取るのは紛れも無く真田明彦その人であった。憧れているだけあってか、天田の瞳がに向けるものとは比べるべくもなく煌めいている。整った顔が近い。耳元に息づかいを感じると、は柄にも無く顔を赤らめて真田を睨んだ。

「止せよ。天田君が俺を見習う様になってみろ、世も末だぞ。大体後から来る時は声をかけてくれよ。寿命が縮むだろ」
「声をかけたら避けられるじゃないですか。……天田」
「はい」
「確かにさんは捻くれているし、その辺に居る”普通の”大人とは違う。だがな、本当は照れ屋で優しもごがっ」
「……頼む真田、恥ずかしくて死にそうだから止めてくれ」

何を言うかと思えば、言葉の凶器としか言いようの無い発言に、は耳まで顔を赤らめると確りと真田の口に蓋をして天田に忘れる様にと告げた。不満気に真田がこちらを見るも、そんなことは全く意に介したくは無い。

「良いか、今のは真田の勘違いだから気にするなよ」
「解りました。でも、照れ屋っていうところは当たってますよね」
「当たってない」

ぴしゃりと言い返すと、は顔から火が出る様な熱を感じた。恐らく自分は恥ずかしい程に赤くなっているのだろう。そんな様子で反論した所で無意味なのは解り切った話だった。実際、天田は微笑ましいものを見る目でを見返し、ついで成る程という様にあぜんとしたからすり抜けた真田に目配せした。

「真田先輩がさんを慕う理由が何となくですけれども、解ったような気がします」
「だろう。だが、俺が先だ」
「真田、御願いだから余計なことを言わないでくれ。な?人として悪影響だ」
「大丈夫ですよ、さん」

またぞろ余計な物言いをする真田にが肝を冷やしていると、天田は至って平然として上目遣いにこちらを見詰めた。背の高低差故に、黒目が酷く大きく見えてより幼く感じさせる。まだ小学生なのだ、と今更の様に感じては自然と背筋を歪めた。

「僕、頑張って早く素敵な大人になります」
「おう」

一体何のつもりの宣言なのだろうかは解らなかったが、の鷹揚な頷きに天田は満足したらしかった。何事か真田がまた言っていた様だが、最早にとっては肩すかしを食らった様な虚脱感しか無く、早々にカップを持って退散してしまった。カップの中身は既に冷えていて、まるで冷蔵庫に間違えて入れてしまったろうかと思った程だった。勿論、レンジに入れて温め直したのは言うまでもない。




 チン、と可愛らしい音を立ててレンジが時間を告げる。慌てて料理雑誌から顔を上げると、荒垣は駆け寄りほかほかと湯気を建てているジャガイモを取り出した。予めレンジにかけておけば、下茹でをする時間を短縮出来るのである。コロッケを作る手順を手際よく進め乍ら、荒垣はがたんがたんと波の様な音を立てる列車を遮る様に台所の窓を閉めた。

 複雑な事情から、先日荒垣は再び寮に入ったため、既に今居るの部屋から引き払っていたのだが、今日は居間でぼんやりと寝転がっている大人の事情によって、この駅前の雀荘の上という最悪の立地を持ったアパートで夕飯を作っているのだった。夕飯のリクエストはコロッケ、ゼリーフライにメンチカツという、少々手の込んだものである。さりげなくゼリーフライが紛れ込んでいるのは透けて見えるの幼少期によるものなのだろう。

 は不器用な大人だろうと荒垣は思う。自分も大概不器用な生き方をしているという自覚はあるが、はその上を行っているだろう。何かの不意に嗜めた荒垣に対し、中途半端に賢いのだ、と自嘲する様に言ったの表情は記憶の端にちらついて何故だか薄れることも捨て去られることも無かった。

「俺はね、真次郎。一人の人間の中途半端な部分を全部詰め込んだ様な奴なんだよ。もう少し賢いか、もう少し馬鹿だったら良かったと思うんだけどさ、もう手遅れなんだ」

普段の荒垣ならばそうか、と捨て置く所だが、の台詞には不覚にも違うと言ってやりたかった。結局言わず、話はそれきりだったが、今でも荒垣は言うことができるものなら言ってやりたいと思っている。確かに手遅れだと足踏みすることはできるだろうし、実際荒垣自身もそう思い詰めていることがある。だが、もし人生という道のりが長いのであるならば、可能性というものは限りなく広がるのではないかという絶大な楽観が脳裏に浮かんでいた。

 は、多分誰よりも開けた未来の明るさというものを感じているのだろう。だからこそ彼は自分の将来が閉ざされ、分断され、崖っぷちの向こうの様な途方も無い墜落の果ての様に捉えているのだろう、と荒垣は勝手な想像を巡らせていた。こうまで他人のあれこれを憶測するということは、荒垣にしては珍しいことで、正直に言えば絆されているのやもしれないと荒垣は考えて居る。は孤児であった自分以上に、何者にも守られずに、ただ突き放されて育って来た寂しさにすらならない寂寞とした思いを他人に喚起させるのだった。

 手の中で手頃な大きさに潰したジャガイモを丸めてゆく。ああ一度崩れてしまった組織すらこうも簡単に結びついている様に見えるのにもかかわらず、人の駄目になってしまった部分は何故再生出来ないのだろう。が紙片から顔を上げると、何も言わずに洗面所に向かった。多分、こちらが捏ねているのを察して手伝う気なのだろう。後を向いているくせによく解るものだと荒垣は密かに感心していた。

「おう、良い捏ね具合だな相変わらず。本当、嫁さんにしたいねこりゃ」
「軽口叩いてるなら手を動かせよ。熱いから気を付けてな」
「はいよ」

小器用に丸めると、は黙ってゼリーフライの下ごしらえも行う。ゼリーフライとは要するにおからフライのことなのだが、は何も聞かずともメンチカツの準備は既に終っていることに気付いているのだった。冷蔵庫の中身を見ている訳でもないにも関わらず、毎度のこと乍ら既に阿吽の呼吸ですらある。不思議と言えば、は一人で料理をすると必ず味だけは確かで他は全く不確かな料理を完成させるにも拘らず、こうして荒垣の手伝いをするだけならば全く完成された料理を作るのだった。

 料理をするのは昔から好きだった。しかし荒垣は生きる為にするこの行為を、一時期は全くやりたいと思えず、そもそも生き延びることに罪悪感を抱き、かと言って死ぬことも出来ないというまさしく中途半端な生き方をしていた頃があった。命は何かの形で償わなければならないと思うが、人生経験の浅さか、方法は杳として知れない。否、大人になっても解るものなのか荒垣には解らなかった。

 再び料理をするきっかけを与え、ひょっとすると将来という地平は無限に広がり行くのではないかと明るく考えることが出来る様になったのは全てだった。は何も与えてくれなかったが、何もしないでも居られる環境を与え、何かしなくてはならない対象を荒垣に提供していた。

 今では荒垣も、実はが言う程だらしない訳では無く、人並みの生活を送ることが出来る人間であることに気付いている。ただ、敢えてしないというだけだった。現にこうしてつくりあげられてゆくゼリーフライは見た目も味もまともなものである。多分も偽っているうちにどこまで本当でどこまで演技なのかが解らなくなっていってしまっているのだろう。それは病気だった。

「なあ、真次郎」
「うん?」
「素敵な大人ってのはどういうもんかな」
「随分唐突な質問だな。しかも、素敵って一体どういう規準なんだよ」
「まあ、色々と突っ込むとろこはあるわな」

かち、と換気扇を回すとは慎重にコンロに火を点けた。温度を測る目は真剣そのもので、ふざけた口調には全く似つかわしく無い。

「……毎日過ぎて行ったら大人になってた、ってのは駄目なのかね」
「良いんじゃないのか、別に。あんた前に言ってたろ」

人それぞれだ、と続けるとは遮る様に衣をつけたコロッケを油の中に投入した。小気味の良いじゅわっという音が立ち、見る間に鍋の中で黄金色のコロッケが出来て行く。手早く頃合いを見合って引き上げると、はそうなんだ、と小さく呟いた。

「自己満足できれば良いもんだ」

瞬間、荒垣は堪え様の無い程に身体が軋むのを覚えた。そうではない。が思うよりも多分彼自身も、世界も、人生も違っているのだと反射的に口を開けた荒垣に、ただは掌を差し出した。

「メンチカツ、取ってくれ」
「あ、ああ」

気勢をそがれた形のまま、冷蔵庫から寝かせておいたメンチカツを取り出す。一種うやうやしさすら漂う仕草で受け取ると、は薄い表情を引き延ばす様にして微笑んだ。

「有難うな、真次郎」
「……どういたしまして」

矢張りは何もかも解っているのだろう。誤摩化す様にキャベツを千切りしながら、荒垣は寂しさを感じていた。あるいは真田ならば、違うのだろうか。が見ようとしない地平を認めさせることが出来るだろうか。階下の雀荘では賭けの結果に不満があったのか、喧噪がより一層酷いものとなっている。こんなにも傍近くに居ても、喧嘩すら出来ないのは矢張り寂しかった。

 炊飯器が炊きあがりを告げ、が温め直した味噌汁の鍋のガスを消す。静かな団らんの始まりは、ただ静かな予定調和に重なってひそやかに食卓に並んだ。


〆.

後書き>>
 天田パーティIN、荒垣パーティINということで二人と主人公の話です。天田にとって主人公は奇妙で理解出来ない大人であるのに対し、荒垣にとっては一種傷を舐め合うことしか出来ない間柄とでも言う様な想像をしています。位置的には荒垣の方が近いのに、天田の方が余程素に触れられるというか。多分、天田は成長したら戦略的な攻めになると思いますよ、恐ろしい子!(何)

最後まで読んでくださり、有り難う御座居ました!