こんにちは、お化けさん。
東京府特別署異聞〜置行堀〜
東京は新宿の外れ、こんな場所に山林があるのかと驚くのほどの山ぶかい場所に、新たな警察署が設けられることとなった。警察署と言っても名ばかりで、抱える課はたったの二つ、それも遠方に存在したものを丸ごと移動させたという乱暴ぶりである。要するに島流しと捉えられてもおかしくはない。他の警察組織がまるで感知しない秘密めいた存在は、憶測に憶測を重ねて巷間に流布していた。
大手町という、現代の魔所にして守護の要に所属するもまた、所詮御伽噺だと右から左に聞き流していたクチだった。この街は静かで心地が良い。多少の諍いはあるとは言え、体裁を気にする紳士方は表向きことを荒立てないことに執心している。故に裏手を使って呪い師の類が跋扈するのが難点だが、ここは宮中と目と鼻の先である。所詮宮内庁お抱えの面々に叶う相手ではない。つまるところ、人間相手の仕事は比較的楽であった。そうでなければこの国は終わりだ。暴動に戦争にと、火種は存在してはならない。そうならないようにするのがの仕事だった。
「……本当にあったんですねえ」
署長室に呼び出され、署長自らより内示を受け取ったは顔を顰めた。珍しくもその場で読むようにと促された際には、すわ厳重処分が降るのかと身構えたものである。もとより品行方正な自分が何か懲罰を受けることは考えられなかったが、署内の政治に疎い自分が何かに巻き込まれる可能性は存在した。君子、危うきに近寄らずを信条にのらりくらりとかわして来た自信もある。今回ばかりはそれが裏目に出たらしかった。
指示されたのは、東京府特別署なる奇妙な場所への転属である。東京『府』。既に失われた名称を使っている時点で怪しい。返却を求められて署長に渡せば、書状はすぐさま手のひらの上で燃やされた。署長にまで上り詰める人間にとって、この程度は朝飯前である。瓜実顔とでも称すべき、やや雅な顔を歪めた署長は君だからだよ、と無責任な言葉を続けた。
「くれぐれも内密にするよう」
「話しても誰も信じてくれませんよ」
「君は話が早くて助かる。すぐに異動してくれたまえ。『いつでも連絡を待っている』」
「……ご心配いただき、ありがとうございます」
なんとくだらない話!とうとう自分は政治的配慮なるものに巻き込まれたのだ、とは悟った。どうやら件の署は出世街道においても要所であるらしい。まさか同胞内で腹の中を探り合うに当たって、スパイまで仕込もうとは大掛かりな話である。なんの色もついていないは確かに最適だった。頭の中身までは保証できないが、その辺りは使い捨てには程よいという判断だろう。係長までなんとか這い上がり、あとはなんとなく上がるか、現状維持で夢の年金暮らしに励もうなどと描いていた自分はすっかり間抜けていた。誰にも拠らないならば、切り捨てられるのもまた容易だろう。
「君ならば引き受けてくれると思っていたよ」
「はは、買い被りですよ」
その逆もまた然りだ。余り情もない相手に心の中で舌を出すと、は長年掴んでいたものの全てを手放した。
「趣深い景色だこと」
電車を降りたらばバスに乗り、あとは歩きしかないよと運転手に言われ、放り出されたはポカンと口を開けていた。都内とは思えぬ山野の只中である。寮に引っ越せとも言われたので、登山用のリュックとトランクに私物を詰め込んだのも運が悪かった。引越し業者もあのあたりには行きたがらないんです――などという説明が人事よりされたのは、流石に悪意ではないかと疑ってしまう。数年前にスピード違反で目こぼしをした人間を通じての圧力(この程度の芸当はもできるのだ)も無意味だった。
異動先は異動先で、人手は割けないので自分の足で来いという始末だ。誰も自分を歓迎してはいない。数年前にそんな言葉が流行ったような気がするな、とは深呼吸をした。森林浴とやらに言われる通り、肺の中が澄んだ空気で満たされるような気がする。肩が楽だ。道はかろうじてアスファルトで、電波が入ることに心から感謝をして歩き始める。簡単な山登りか。自分の荷物を頭の中で並べ、あれとこれは捨てても良かったな、と四十路近くの腕が泣く。最低限以上の鍛錬を積まなかった罰だ。同期連中がストレス発散も兼ねて柔道やら剣道やらに邁進するのを横目で見るばかりだったのは間違いだったかもしれない。あの手合いは暑苦しくて苦手だった。
「あとどれくらいで着くのかねえ」
一本道のつもりで登っているが、ひょっとすると間違っていたかもしれない。自分の中に正解はないものだから、暗くならぬうちに何としてでも探り当てねばならなかった。近くかどうか、それだけでも教えてもらえまいか。空が段々と茜色に染まってゆく。スマートフォンの地図アプリを閉じると、電池残量が30%を切っていることに気づいて舌打ちした。近頃どうも減りが早くていけない。ズボンのポケットに入れておいた紙片を取り出すと、乱雑に書かれた電話番号が目に入った。
「どれどれ」
電話をかけるなど慣れた手順のはずなのに、体に緊張が走る。熊が出てきてもおかしくないような、鬱蒼とした木々のせいかもしれない。針葉樹林が落とす影は、始まったばかりの夕焼けを無視してとうに夜を迎えていた。1、2、3。コール音が鳴った事に安堵するも、いっかな取られる気配がない。ひょっとすると、自分は間違った番号を手渡されたのだろうか。他に連絡手段を教えてもらわなかった自分の失態に苛立ちが募る。
『……はい、こちら東京府特別署です』
「良かった!」
一体どれほど待たされたのか。神頼みもし始めた頃になってようやく他人の声が響いた。落ち着いた男の声が心臓に良い。一呼吸すると、は相手の呆れを感じ取って慌てて継穂した。将来の同僚となるのだ、良い印象を与えておくに越したことはない。電話に出なかったのはきっと忙しかったからなのだ。
「あー、すみません。今日付でそちらに異動になったです。実は、バス停からずっと歩いているのになかなかそちらに辿り着けなくて。良かったらもう一度場所を確認させていただければ、と思って連絡した次第です」
『お前の名前は聞いている。……御山に入ったのか?バス停で連絡するように先方に伝えておいたはずだが』
「え」
迎えはよこさないという話ではなかったのか。遠回しの嫌がらせの気配を感じ取り、はますます沈鬱な気持ちになった。この異動が無事に終わったとしても、大手町には戻るまい。いっそのこと沖縄とか――もっとゆっくりできそうな場所への転属を希望しよう。御山、という大層な物言いが妙に引っかかる。ひょっとすると、ひょっとするとだ。ここは禁域の類ではあるまいか。ならば、なかなかたどり着けないこともまた一理ある。同じく禁域であった皇居周辺の迷路のように畝った庭を思い出し、はあそこにも二度と行かないと改めて胸に誓った。宮内庁お抱えの陰陽師が作り出した結界は、只人には不向きだろう。どこかでボー、ボー、と不気味な鳴き声が聞こえる。
『仕方がない。金時が迎えに行く。良いか、そこから動くな』
「わかりました。……それで、あなたの名前は?伺っても良いですかね」
『俺は渡辺綱だ』
短く答えるなり電話が打ち切られる。愛想のかけらもない態度に、はこれから先を思い遣ってため息をついた。とっつきにくいにも程があるだろう。丸ノ内警察署にも妙な人間は多かったが、少人数らしい特別署で果たしてうまくやっていけるだろうか。宮内庁から出向していた、蘆屋道満の顔を思い浮かべては首を振った。あそこまでの変人はいるまい。そう言えば、自分は綱に居場所を教えただろうか。動くな、と言われるままに安請け合いをしたが、わかるはずもない。もう一度電話をかけねば――スマートフォンを再度弄り始めた時、異音が耳を貫いた。
山林には似つかわしくない、ブォォン、ゥォォンというモーター音が響く。発生源へと顔を向けるも、どうにも闇が深くなってきているせいで見通しが悪い。霧も出てきたようだった。小さな光がチラチラと目を突く。段々と大きくなるそれはバイクのヘッドライトだと気づくまでには時間がかかった。迎えだろうか。確かにこの道では車は往来し辛いに違いない。ヘルメットを被った大柄な人間が片手を挙げる。がひらひらと手をふり返すと、ドン、っと飛び上がったバイクが目の前で停止した。
「すまねえ、待たせたか?」
「いや、全く。迎えに来てくれてありがとさん。場所を教えていないのに、よくわかったな」
「ああ、そりゃ簡単だ」
ヘルメットを脱いだ運転手は、の地元暴走族も真っ青になる程美しい金髪だった。目も青いことからして、おそらくは混血なのだろう。
「御山のことなら、御山に聞けば教えてくれるからな。本当はもっと早く気づけば良かったんだが。すまねえ、心配したよな。坂田金時だ。よろしくな、さん」
「よろしく頼むよ」
言っている話の半分も理解できないが、この青年は悪い人物ではなさそうだ。渡されたヘルメットをかぶり、どうにか荷物を荷台にくくりつける。バイクが倒れないかという心配は取り越し苦労で、今まで見た中でも最大級に入る金時のバイクは易々と二人と大荷物を運んだ。風が顔に当たって心地が良い。ぎゅっと金時の大きな背中にしがみつくも、振り落とされないか気が気ではなかった。慣れればもっと早く走りたいと願うようになるだろうか。いずれにせよ、そもそも免許を取るところから始めねばなるまい。
「アンタが来るって聞いてさ、楽しみにしてたんだ。新しい奴が来るなんてオレっち以来だ」
「そ、りゃ、っ、も、」
「おっといけねぇ、舌噛むから黙ってくれな。行くぞ、ゴールデンヒュージベアー号!」
金時の掛け声に応えるようにしてエンジンが唸りを上げる。確かに金の熊、という名が相応しい。言われるままに口を閉じて、はじんわりと広がる闇から逃げるようにして目を瞑った。何もかもが残像のように千切れて飛んでゆくようだった。
一体いくつの雲を振り切り、山を越えたのだろう。そんな錯覚を抱かせるほどに早く駆け抜けた先は、山の麓であった。どうやら本来は山になど入らなくとも辿り着けたらしい。最初から間違った道のりを歩んでいたというわけだ。
「着いたぜ。ここがオレたちの東京府特別署だ。二階から上が寮になってる」
「……裏からなら車でも来れたのか」
「ああ。だから本当は斎藤の旦那がアンタを迎えに行くって手筈だったんだ」
どうして手違いが起きたんだかねえ、という金時はどこまでもお人好しである。特別署が、そのまま育っていける場所ということだ。金時が連絡をしていたのか、赤髪の青年が建物の入り口に佇んでいた。さながら武士のような覇気と鋭い気配に怯むも、は何を考えているのかと自分を叱咤した。武士など見たこともないというのに、勝手な憶測で怯えていては積み上げた日々が泣く。
「無事に辿り着けたようで良かった。ご苦労だったな、金時」
「良いってことよ。御山が暗くなる前で良かった。さん、綱の兄貴だ。対怪異の専門家なんだぜ」
「それはお前もだろう。……」
「あ、はい」
対怪異。なるほどそう来たか、とは一連の出来事がつながった思いだった。対怪異の先陣を切るともなれば、物々しい雰囲気であってもおかしくはない。では自分は?綱が静かに手を差し出す様を見つめ、迷いながらも同じく差し出す。がっしりと握ってきた手の皮の厚さに息を呑んだ。燃えるような髪にばかり目が行っていたが、この男は腰に刀を帯びている。特別署の署員は帯刀許可が降りているのだと聞く。ならば今感じているのは剣だこだろう。反対にただ歳を重ねただけの手を綱はどう思うだろうか。程よく力加減がされた握手を終えると、ようやっと綱の口元に笑みらしきものが浮かんだ。
「良い気だな。これから宜しく頼む」
「宜しくお願いします。その、怪異とかはさっぱりわからないのでお手柔らかに頼みますよ」
「ああ、それは安心して良い。斎藤」
「もうちょい早くに声かけてくれると出やすいんですけどねえ」
「な、」
『それ』は奇妙な現象だった。まるで空間が切り取られて無理矢理縮められたように、一人の男が視界の端に映ったかと思うともう目の前に立っていたのである。これを驚かずに何としよう。丸ノ内警察署に勤めて長く、宮内庁がらみのいざこざも目にしてきただが、まだまだ自分は井の中の蛙だったと思い知った瞬間だった。いくらか年下らしい青年は、表面ばかりは人懐こそうな表情を浮かべているも、目に色がない。腹を探られている気持ち悪さに、は自分が配属される先を悟った。
「ええと、俺を迎えに来てくれるはずだった斎藤さん、ですかね」
「そう。お迎えに失敗した斎藤一は僕のこと。こっちは人相手が専門でね。あんたは今日から俺の部下だ。ま、硬くならずに気長に頼むよ。ここに来るやつはすぐに出て行きがちだからさ、人手不足なんだよね」
「はあ」
暗に試されているのだろうか。先程の動きと良い、どうにも掴めない。ともあれ人間は人間だ。は精一杯の笑顔を浮かべようとして失敗した。腹が痛い。ぐう、と大く鳴った音が恥ずかしく、耳まで真っ赤に染まったかと思う。三人は虚を突かれた様子だったが、顔を見合わせて笑い声を上げた。
「す、すみません……」
「半日近く迷ってたんだ、腹が空くのも道理だ。頼光サンが沖田ちゃんと準備してるから、まずは腹を膨らませるとしようや」
自然な仕草で金時が荷物を取って歩き出す。なんだ、居心地が良さそうな場所ではないか。安堵した気持ちのままに後ろを振り返ろうとすると、ぐいと強く肩を抱かれた。ほんの少しで触れ合えそうなほどに近くに斎藤の顔が現れ、度肝を抜かれる。色を映した目は鋭く、先程の綱と遜色ない。低い声が湿り気を帯びて耳を打った。
「振り向くな。ここに来たら前だけ見ろ」
背後がざわざわと喧しい。前を見れば、綱が怖い顔をしてこちらを見ていた。どうやら御山、はやはりただの山ではないらしかった。逆らうほどの好奇心もなく、は小さく頷いた。そうでなくとも、自分は山を登る前に諸々全てを捨ててきたのだ。後のことなど未練はなかった。
怪異だ人だと剣呑なことを言っても腹は減り、御馳走を前にすればまっしぐらに向かう、それが特別署の人々であるらしい。当たり前の人間模様を目の当たりにしたは心底安堵すると同時に、ここに自分をねじ込んだ人間の手口を疑った。中央への野望があるとは知っていたが、何も辺境の部署に人を置くほどの意味があろうか。自分ならばあから様に九段下の連中を気にするだろう。旧日本軍の遺した数々の霊異を手中に収めているともっぱらの噂である。永田町がその先にあるのは言うまでもない。
「驚くよね。急に怪異とか、人とか言われても」
「まあ、面白いですけどね」
簡素にも程がある自己紹介だけの人々を尻目に、丁寧に説明を始めたのはこの特別署の署長である藤丸立香である。幼い少女にしか見えないが、どうやら相当の力の持ち主、らしい。物々しい面々が一様に忠誠を誓っている風からして疑いようがないだろう。立香が言うには、怪異担当は源頼光を長とし、俗に四天王と呼ばれる綱や金時、現在関西に出向中の卜部季武と碓井貞光の五人で構成されている。人担当、もとい怪異の背後に存在する人間を始末するのは近藤勇を隊長と仰ぐ土方歳三に沖田総司、そして一の四人である。ここにを足して五人と五人というわけだ。
「怪異の裏に人あり、ねえ。そりゃあ今時はそう言うもんでしょう。怪異になるのも大変な世の中になったもんだ」
「不思議に思わないんだ?」
「まあ、大手町にもいましたから」
変な奴が。言いかけ、は背中にぞわりとした気配を感じて身を捩った。何かが這い回っているような、自分のものではない感覚に目眩さえ覚える。立香が小さく息を呑むなり、素早い仕草で背中をタシッと叩く。たったそれだけで驚くほどに晴れやかな心地になり、は目を丸くして少女の手元を見やった。ぎょろりとした目のついた紙人形がジタバタしている。
「御山に入ったって聞いたから探したのに、なかなか見つからなかったのはこれのせいだったんだね。見覚えはある?」
「署長のお役に立ちたいのは山々なんですが、そんな心当たりはありませんね。誰が考えたんだか、嫌がらせするにも手が混みすぎてますよ。どこで恨みを買ったんだか」
ここに来るまでの道中然り、辿り着いた後のやり口然り、まるでにのたれ死ねと言っているようなものである。そうまで他人の恨みを買うような馬鹿な真似をした記憶はなかった。丸ノ内警察署の署長を思い浮かべても、煮ても焼いても食えなさそうな顔が浮かぶばかりである。紙人形は頼光の手によって一刀両断され、千々に分かれても蠢くそれを綱や金時によって検分されているらしかった。彼らの方が専門家なのだ、おいおい答えはわかるだろう。『連絡』には及ばないな、とは心の中で苦笑した。何がいつでもだ。最初から要らなかったのではないか。
「ささ、疲れたでしょう。もお食べなさい。金時がそれはもう楽しみにしていたのですから。どうか仲良くしてやってくださいね」
「ありがとうございます」
まるで母親のような甲斐甲斐しさで頼光が煮物やら焼き魚やらを大皿から取り分けてゆく。実家の母親にさえもこうも過保護に扱われたことはなく、郷愁と憧憬がわきおこったのはここだけの話である。味付けは好みの柔らかな口当たりで、こだわりを感じる沢庵も白米によく合う。その旨を伝えると、食事を用意してくれたらしい総司の隣にいた歳三が当たり前だとふんぞり返った。
「沢庵に関しては、土方さんに任せてあるんだ。気に入ってくれたみたいで良かったよ」
「なるほど」
人の趣味は見かけによらないものだ。そうして食事が進めば酒も進むと言うわけで、朱塗の大きな盃がぐるりを回る。回るのはきっと自分の目の方が先だろう。今時の無礼講でもここまで過度ではない。この場所自体が異界めいている。まるで水のように飲む人間たちが鬼の類に見えてきた。こうやって、段々自分の体の中身が取り替えられていくのだ、と馬鹿げた考えが頭を渦巻く。
誰かとこうして飲んで騒ぐのはいつぶりだろうか。何故か、ここ数年のことがうまく思い出せない。部下たちと飲み屋街に行く日もあったはずである。自分は石部金吉ではないし、独り身なので財布の紐は比較的緩い方だった。仕事に根を詰めすぎて、加齢が加速したのかもしれない。老いを感じ、は苦笑した。新天地に来たばかりだというのに情けない。
一人一人の名前を覚えて、飲んで、食べて、また飲んでを繰り返し、順繰りに風呂へと人々は消えていった。上階が寮とは誠に都合が良い。は片付けを手伝おうと申し出るも、立香と頼光の二人に断られてしまった。それよりも自分の部屋に入り、明日に備えて欲しいとのことである。一が案内を買って出てくれ、は再び大荷物を手に階段を上がった。四階建てにも関わらず、古い建物のためかエレベーターの類はないのだという。四階ならば自分の体力作りも兼ねてどうにかなるだろう。よくよく見れば、階段室を飾る窓ガラスは歪んでいた。
「あんたの部屋はこっち。簡単に掃除はしておいたから、大丈夫だとは思う。風呂は突き当たりを右に行ったところで、時間で男女を分けてるから確認してくれ」
「わかりました」
「言っておくが、覗いたら命の保証はできないよ」
「肝に銘じておきます」
自分から進んでしようとはチラとも思わないが、万が一の事故は避けたい。酒で霞んだ頭のままはっきりと答えれば、一がケラケラと笑って肩を叩いてくる。どうやら合格らしい。去りゆく背中を足音だけで判断しながら、自室としてあてがわれた部屋に入る。二階の上り框で靴を脱いだためか、旅館にでも来たような気安さが漂った。六畳一間に、予想外にもベッドがでんと置かれ、洋服箪笥と書棚に机と椅子と最低限のものは揃っているようである。一度改装工事でもしたのか、フローリングの床は澄んだ色をしていた。
登山リュックから生活用品の類を取り出して並べ、必要書類や僅かな娯楽用品を机の上に放り出す。普段着も制服も何もかもが小さく収まっているのは、ものを持つ習慣があまりなかった為だ。部下たちが押し付けてきた餞別の品は全部捨てた。では――このトランクの中に、自分は何を入れたのだろう?制服の皺を確認し、吊るしておけば問題ないことがわかり安堵した。こんな場所ではクリーニング屋に頼むのも一苦労に違いない。
「なんだっけな……」
ただ、とても大切なものを入れておいたのだという記憶はある。開ける気だけがいっかな起きない。しばらく生活に必要なものは揃っていることだ、気が向いた時にでも開ければ良いだろう。それよりも、意識がはっきりしているうちに風呂に入って寝なければ。窓ガラスの向こうに一面ずらりと目玉が覗いているような気持ち悪さがずっと体にまとわりついている。眠れば大概のことは過ぎ去り、忘れゆくだろう。大丈夫だ。
そして、本当に忘れて夜は終わった。
どう見積もっても子飼いの狸にしては間抜けている。切り紙遊びに興じていた一は、まるで数年間部下であったかのように馴染んだ新入りを観察した。朝食は洋食派らしく、トーストにチーズを乗せて焼いた上に、さらに杏ジャムを塗りたくるという背徳的な組み合わせを楽しんでいる。年齢からしてそろそろ避けるべき習慣だが、他人の寿命に興味のない一は無視を選択した。昔の知り合いに、餡子を寸胴鍋いっぱいに作って一度のおやつとしてかっこむという傑物がいたためかもしれない。
総じて和食派の多い中で、の食事は興味を引いたのか、立香がそばに張り付いてあれやこれや質問を重ねている。来たばかりの人間を少しでも引き止めようという涙ぐましい努力と優しさの発露だ。素養があれば残り、駄目ならば去るだけだと言うのに、父親から地位を引き継いだばかりの少女は心底この特別署を快適な場所にしようと試みている。だからこそ、胸を打たれた強者たちが残り、ある種くだらない巷間の騒ぎを治めているとも言えた。
「今日は一ちゃんと一緒に街に出かけてもらおうかな。確か錦糸町で『出た』って話があったよね」
オートミールの利点についてから聞き出していたはずの少女がくるりとこちらを向く。おそらくは自分の視線に気づいたのだろう。の方はと言えば、昨日と同じく灰色の目をしている。どうにも印象が薄い顔だ、と今更のように一は頭の中に新人の顔を焼き付けることに失敗した。特徴はある、あるはずだが霞んでしまう。犯人ではなく、味方の側であったことを感謝すべきだろう。
「うん。まあ、それなら大丈夫。あ、本当だって!信じてよ、署長ちゃん」
「もちろん、信じてるよ」
真っ直ぐな瞳に息を呑むと、一は柄にもなくまごついた。立香の率直な言葉は、いつも一番心の深いところまで易々と突き刺す。本当は自分など、全幅の信頼を寄せられるには値しないのだということは誰よりもよくわかっている。普段バディを組んでいる綱は、お前は考えすぎなのだと言うが、過去はそう簡単には消せない。一方、は果たして自分が信頼するに値するだろうか。
「さんも、ドーンと大船に乗ったつもりでいなよ。怖いことは何もないからさ」
「はい。お願いします」
遠足にでも行くかのようなのんびりとした返答に、一は心の中で鼻で笑った。その余裕がどこまで保つのか見ものだろう。汁物、ご飯、おかずを三角に均等に食べ進める。徐々に、だが確実になくなってゆく様は胸が空く。箸先を遊ばせていると、今度は向かい側から視線を感じて一は顔を上げた。だ。自分が観察するならばともかく、他人に観察されると言うのはいささか居心地が悪い。目だけで問えば、得体の知れない男は穏やかに失礼を詫びた。
「すみません、あんまり綺麗に食べてるんで。斎藤さんは、俺が見てきた中で一番綺麗に食べる人かも知れません」
「……そりゃあどうも。って、あんたもう食べ終わったのか?」
「普通でしょう」
早くなんかありませんよ、と言うが、の前に並んだ朝食はそれはそれは多かったのだ。甘ったるくて大量で、となれば当然将来の道筋は成人病である。知ったことではないが誰しも想像しそうなものだ。ヨーグルトにたっぷりのジャム、先程のべたチーズトーストにジャムが2枚、サラダ、ふわふわのスクランブルエッグ、ソーセージにベーコンと見るだけで胃もたれがしそうである。一の疑問に釣られるようにして他の面々もの手元を見て小さく声をあげているから、何も自分の勘違いではあるまい。
「今まで俺がいたところは――と言うよりは、俺が雑用係みたいになってたせいで、ゆっくり食べる時間がなかったんです。もし早いとすれば、そのせいですね。ここはいいなあ」
「いいんだよ、さん。ゆっくり食べな!飯はじっくり味わうもんだ」
「ありがとさん、金時」
情の深い金時のセリフに、が掛け値なしの笑顔を浮かべる。妙に馴れ馴れしい口利きはどうしたものだろう。昨日知り合ったと言う点では自分と変わらないにもかかわらず、気安い様子がどうにも引っかかる。不要な考えを始めた自分に気がつくと、一は首を振って再び食事に集中した。おかず、ご飯、味噌汁。沢庵、ご飯。箸が動く。日々刻む規則正しいリズムが躓いたような、嫌な予感が漂い始めていた。
いつ来ても変わらぬ、独特の匂いに一はスン、と鼻を啜った。東京都は錦糸町の南側とは、人形焼で有名な店を構える昔ながらの町であり、現代では夜も賑やかな繁華街である。一足踏み入れれば、異国の言葉が飛び交い、道ゆく人々を目にすればここは異国だろうかと首をかしげもするだろう。なんら不思議ではなく、所謂夜のお店に異国の女性たちが集っているからであった。鵜飼たる黒服連中は普段から特別署の厳しい監視下にある。それこそ、問題を起こせば人専門である一たち新撰組の出番となる。
路肩に車を止め、一はまだ眠りについている長閑な街の風景と手元の報告書とを比べた。夜にこそ華やぐ街の昼時はいつも化粧が禿げたように物寂しい。どこにでもありそうな景色を見せておきながら、夜になって豹変する。その落差もまた、人を魅了して止まないのだろう。歌舞伎町、六本木、銀座・五反田・鶯谷と、この手の街は数え上げればキリがないが、どの街にも熱心な常連客が半ば住人然として通うのだという。
「ここ一ヶ月ほど、『置行堀』が出現するらしい。あの後ろから置いてけ、って声をかけてくる奴だ。古臭い話だよ……ホテル帰りの人間に被害が出てたんだが、如何せんタイミングがタイミングなだけになかなか申告がなくて調査が遅れたってわけ。取られたものも財布だけ、って言えば聞こえは悪いが、小さく収まってる内に片付けないとな。今日は現場の調査だ」
「ああ」
報告書をに回せば、眉一つ動かさずに頷いて見せる。否、無表情というよりは青ざめた様子だ。そういえば車に乗り込んで以来、寡黙に拍車がかかったような気がする。おしゃべりな男は好きではないが、だからと言ってだんまりではコミュニケーションの取りようがない。ひょっとすると持病でもあるのだろうか。事前に回された履歴書にはおかしな点がなかったと記憶している。
「大丈夫?理解できてるか。金融街とこっちじゃずいぶん様子が違うだろう」
「……すみません、ちょっと良いですか」
言うなり車を降りると、は少し先の排水溝のあたりで蹲った。やはり体調が悪いのだろうか。そんな不衛生そうな場所で何もしゃがまなくともと思うのは一だけではないらしく、昼間から飲み歩いている風の中年男性たちがジロジロと見ている。背中が震え、嗚咽が漏れる頃になってようやく事態は判明した。車酔いだ。脳裏に道中の会話が蘇る。
『斎藤さんは運転、結構……』
『土壇場になると車で逃げる奴が結構いてさあ。ちょっと荒っぽいかも知れないけど、まあ我慢してよ』
もとより気にかけるつもりはなかったが、それにしても思いやりの少ない物言いだったと反省するも、自分がしてやれることは大してない。ひとしきり吐いた後、近場のコンビニエンスストアにしれっと入り込むのは目を瞑っておこう。案の定、ミネラルウォーターのペットボトルを手にして現れたは、すっかり晴れやかな顔つきになっていた。
「恥ずかしいところをお見せしてすみません。もう、大丈夫です」
「良いよ。慣れるまでは仕方ないさ」
暗に運転態度を改めるつもりはないと伝えれば、の頬がひくりと引き攣る。そうだ、人間らしさをもっと見せるが良い。優等生ぶった態度はまっぴらごめんで、一は早くの本音が見たかった。車を降りると、頭の中の地図と報告書とを重ね合わせる。大通りから一歩入ればもう街は眠っていて、ピンクサファイアにマリンドリーム、ホテルドルフィンなど一昔前の響きが残る看板が光を失って空っぽに佇んでいた。物珍しいのか、は目だけでチラチラあたりを伺っている。物見遊山の学生を連れているのではなく、四十路に近い男相手なのだが、からかってやりたいような気持ちで胸がくすぐったい。
「こっちの方は国際色豊かなんですね。前のところも多少はありましたけど、もう少し値段が高めだったかな」
「客層が違うからなあ。さっきも見た通り、昼から飲んでるおじさんが多いよ。場外競馬場もあるしさ」
「いつでも息抜きができるって意味では良いですね」
物は言いようだ。前向きなセリフにギョッとして見返せば、ニヤリと人を食ったような笑みを返される。どうやら一本取られたようだ。狸め。心中密かに舌打ちすると、報告書の中にあったアドベンチャーランド三号館前で足を止めた。ご休憩と宿泊の金額がデカデカと壁を飾る。自動ドアの向こうにはカウンターがある風で、事情聴取にはうってつけだ。
「行くぞ」
「はい」
おっとり刀で新人がついてくる。いつかその化けの皮を剥がしてやろう。吐瀉物ではなく抹香臭い匂いがから漂うのが不思議で、同時にひどくイラついた。自動ドアを潜れば、街を凝縮したような籠った空気が襲い来る。全く大した街だ。カウンターに座って競馬新聞を読んでいた男がこちらを見とめ、客ではなく面倒が来たという調子で乱雑に新聞を伏せる。最初から協力的であれとは思わないが、あからさまな態度は一の気持ちを固めるには十分だった。
「やあ。僕は東京府特別署の斎藤一って言うんだ。悪いけど、ちょいとばかしお兄さんの時間を借りてもいいかな」
「見ての通り、今は営業中なんで忙しいんですよ。上と約束してもらってから……っ」
チャキ、と刀の鯉口を切れば瞬く間に下っ端の口が閉まる。そもそも帯刀が許可されている警察官は少ないのだ、目についた時点で大人しくしてほしいと願うのは欲張りだろうか?は、と言えば自動ドアの前に静かに立ったままこちらを観察していた。出入りを警戒しているのだろう。警察官としての経歴はあちらの方が長い。場数を踏んだ人間らしい動きに満足すると、一は至って協力的な市井の人間にここ一ヶ月ばかりの業務実態を問いただした。
「よく覚えてますよ。お陰で商売上がったりなんです。面白がって来る客も増えましたけどね、そんな客は碌でもないし、使い方は荒いわで赤もいいところです。こっちは人が辞めたばっかりで新人研修もしてるって言うのに」
「どこも大変なもんだねえ」
どこが困ろうが自分には関係のない話だが。続きのセリフを飲み込んで同情を示せばころりと男の心が靡く。不意にが動くと、カウンターに寄りかかった。
「なあ、その新人さんってどんな奴?あんた、見た感じだいぶ苦労してるみたいだ」
「全くその通りだよ。若いのは良いんだが、つべこべ文句が多くてな。大して難しい仕事じゃないってのに」
柔らかな狸の声に、場末の男は素直に疲れを滲ませた。が履歴書を見せてほしいと尋ねれば、まだアルバイトの段階なのでないのだという。本来ならば揃えておくに越したことはないが、社会保険料(この制度を適用する企業かは定かではない)に引っかからないため諦めたらしい。否、今はこの業態に働き手として来たいと言う人間はその程度の者しかいない故の諦めだった。
「今の仕事をクビになったら、あんたのところで働くのも良いな。親身になって教えてくれそうだし」
「おい、」
その言い方はないだろう。まるで自分を駄目上司とでも評するような物言いに、の目を見――納得した。この新人は、一の仕事を黙って見守るでなしに『役割分担』を買って出ているのである。押し売りもいいところだが、今は便利に使うに越したことはなかった。
「体力は……ありそうだな。良いぞ、いつでも来ると良い」
「ありがとさん。それを聞いて安心したよ。シフトはどういう組み方をしてるんだい?ほら、働くなら知っておきたいしさ」
取り出されたシフト表はまだら模様で、は一々アホのふりをして聞いて回る。一も大概似たようなやり口で聞き出すのだが、今回はがいる手前、知らず気負っていた節があった。少し冷静になるとしよう。民間人相手にすぐ鯉口を切るようでは新撰組の名折れ、二重橋に駐在する市中見廻組の連中に嘲笑われるのが関の山である。まだ都心部のビル街に特別署があった頃、何度となく繰り返した小競り合いを思い出せば唇が歪んだ。
「いい人で良かったですね」
シフト表の丸写しが終わり、なんと割引券まで手にしてホテルを出る。これでは一体どちらが先輩なのか分からなくなってしまいそうだった。見知った街に、紙一枚ほどの違和感が滑り込んで勝手に馴染んでゆく。背広の内ポケットに割引券を丁寧に仕舞い込む相方の姿に、こいつはプライベートで利用するアテがあるんだろうかと要らぬ想像が働いた。同じことを綱がやれば、捜査に役立てるつもりなんだろうと思い、他の特別署の面々にしてもそうだろう。だが、となれば余計なことばかりが頭を賑やかせる。何もかもが余計で、邪魔で、こそげ落としたかったが、何故かはわからぬままだ。
あやふやな回答をしながら他の事件現場もめぐり、どうにか調子を取り戻した一は鯉口を切ることもなく滑らかに聴取を終えた。やはりこの事件の裏には人間の存在がありそうだ。一度署に戻って情報を整理するとしよう。車に戻るも、は突っ立ったままだ。まさか、帰りは歩いて帰りたいなどと言い出すつもりか。御山に迷い込んでしまった初日を思い出し、一は物知らずの危うさを呪った。
やはり足手まといだ。こんな人間はさっさと都心に戻すに限る。大体丸ノ内警察署から島流しで特別署に来るとは胡散臭くていけない。金融関係の呪術合戦が白熱する場所は、日本橋から雪崩れ込んだ古い怪異と、京都から皇居を通じて移動してきた歴史ある怪異、そして近頃増えつつあるIT絡みの怪異で三つ巴の泥沼戦争を繰り広げていると聞く。人間の本性と欲望が剥き出しとなった場所から、市井の人々のささやかな暮らしの場所に商売を変えても水は馴染むまい。一がいいかげん声をかけてやろうと窓を開けた頃、ようやっとが口を開けた。
「斎藤さん、今夜って空いてます?」
「は?」
なんだそれは。周囲を取り巻くピンクに当てられたのか、突拍子もないセリフにドスを効かせて返してしまった。大人気ない態度も気に留めず、は手帳に書き留めた複数のシフト表を組み合わせてパズルを解き始める。もし、この十件に共通点があるとするならば――淡々とした説明は紛れもなく真剣なものだった。
「渡辺さんもいたほうが良いんでしたっけ」
「……張り込みなら張り込みって、先に言ってくれないかな」
「それ以外に何があるんです」
要するに、また一本取られたのだ。灰色の目玉がぎょろりと蠢き、不気味さを増す。昨晩捕まえた紙人形――形代も全く同じ目をしていたと思い出し、背筋がゾッと震えた。
夜の街は、どうしてこうも射干玉色に映えるのだろう。昼間と打って変わってぎらつく街に、は人の営みの底力を感じていた。運転手が一ではなく、スピードこそ出せどもブレーキが穏やかな綱であるためか、心持ち景色もゆっくりと目に入るようである。歓楽街で遊んだのは一体いつが最後だったのか、もう覚えてはいなかった。朋輩に無理矢理連れて行かれ、誰が好みなのかと下世話な品評会に参加させられた嫌な記憶が蘇る。他人を商品として見るのはどうにも苦手だ。ならば人間でなくても良いだろうと思ってしまう。
「。お前の見立てによれば、今日ここに『出る』んだな」
「おそらくは」
目的のアミューズメントホテルに数メートルほどまで近づき、綱が車を止める。後部座席からはわかりにくいが、一も綱も緊張感を漂わせているようだ。彼らの清廉潔白な雰囲気と夜の街は不釣り合いで、B級映画さながらの醜悪さを醸し出す。女遊びは、少なくとも綱は無縁だろう。二人とも黙っていれば放っておかれはすまいが、どちらかと言えば一は遊んでいそうだった。遊ぶならば、どんな顔をして遊ぶのだろう?昼間に散々からかった限りでは、十二分に楽しめそうだとは舌なめずりをした。
さて、話は戻って事件である。既に起きた事件たちに共通点があるかもしれないと推測するのは容易な話で、聴取後に一に考えを説明すれば、彼もまた同じ結論に至った。身元不明者が出入りしやすい環境は、まさに怪異にうってつけだ。折り紙付の極上の怪異がたむろする永田町界隈では到底考えられぬ低俗さである。名刺がわりに呪詛を送りつける連中の話は枚挙に遑がない。その点、今回は可愛らしいもので、それだけに一般市民にとっては迷惑な話だった。
「新人バイト君が同じ人間だったらば、今日はトロピカルリゾート・シルクで受付をしてるでしょうからね。それこそ、いちゃついたちょうどいいカップルでもいれば検証できるかと」
「じゃ、行こっか」
矢庭に車を降りるなり、一が後部座席の扉を開ける。引き摺り出されるままについて行きかけ、は腰に力を入れて踏みとどまった。
「こういうのは先輩方だけで行くもんじゃありませんかねえ」
「何言ってんの。自分で言ったことくらい、自分で確認するのが一番でしょ。それに、綱さんには現場を押さえてもらう必要があるからな。つべこべ言いなさんな」
「……上司命令です?」
少しは絵面というものを考えてくれないか。一と自分では一層本物らしく見える――見えるのは確かだが、どうにもこそばゆい。せっかく割引券ももらったのに(そう、この店でもはせしめていた)二度と使えないかもしれない。何よりも恥ずかしいという気持ちが渦巻いて、は縋り付く思いで最後の切り札を取り出した。
「あんたが望むなら、命令するとしよう」
一巻の終わりである。寮を出る際、リラックスをした格好で来いと示唆されたのは、なるほどこのためだったのだと気づいてももう遅い。ジーンズに柄シャツの自分に対し、仕立ての良いオーダースーツを身につけた一は卑怯だ。よく似合ってかっこいいなどと見惚れている場合ではない。ぎりりと歯噛みし、はせめてもの反撃を試みた。
「それじゃあ『一ちゃん』、悪いけど遊びに行くならその物騒なものは置いてってくれよ。俺は遊び慣れてないんでね」
「言うねえ」
それもそうだと、あっさり大事な刀を綱に渡す。運命は決まった。項垂れるの手を、今度は優しい手つきで一が握る。もう逃げないとわかっているのだろう、上機嫌な風がまた恨めしい。知り合いがまず存在しない地域で本当に良かった。掃除が行き届いていない自動ドアを潜ると、黄色がかった二日酔い明けの太陽のような照明が目を穿つ。もっさりとした、どこを見ているのか不安になる目つきをした青年がカウンターからこちらを見て、ついで一とを見比べた。何を考えているのか目つきでわかって体が火照る。違うんです、と叫んで逃げ出してしまいたい程に恥ずかしい。今更何をと言われるような人生を歩んできたと言うのになんてザマだろう。怯んで体を離しそうになったが、かえってぐいと引き寄せられて息を呑んだ。
「恥ずかしがるなよ、チャン。今更だろ?たまには外でしたいって言ったの、君なんだからさ。あ、お兄さん休憩でお願いね。休憩で終わるかなあ」
昼間の意趣返しだと言うのはもはや疑いようもなかった。弄んだ自分もいけないが、存外子供っぽいところがあるらしい。演技をするのは簡単なはずが、一層恥ずかしさが増しては頭が茹だる心地だった。正常な考えが一つもできない。カウンターの中の青年は嫌悪の情を目一杯瞳に表していて、ひどく陰気なままである。彼の目に、自分たちはどう映っているのだろう?恥ずかしげもなくいちゃつくカップルの一組に見えるのだろうか。札束がチラ見える財布を開き、はまごつくままに前金を支払った。何故だか、一を買い上げたような背徳的な満足感が胸に広がる。
「……休憩ですね。どうぞ」
渡されたカードキーは擦り切れて、数多の真偽不明の愛が通り過ぎて行ったことを思わせる。肩口に一の頭が埋まり、擦り寄せられて気が気ではない。エレベーターに乗り込んでも尚続くのは、監視カメラで見られている可能性を考慮してのことだろう。ならばと自分の頭を一の頭に乗せれば、びくりと相手の体が震えた。絡み付いた手が湿り気を帯びる。機械音だけの箱に熱が籠ってはち切れそうだ。相手の剣だこを意識して、記憶の中の綱の手と一の手とを比べる。的外れなことを考えなければ、道を踏み外しかねないと理性が警鐘を鳴らしていた。一の手の方が少し大きく、ついで指が長い。きっと器用に動き回るのだろう。どんな風に肌をなぞって、
「着いたね」
「っ」
思考が再び混濁し始めた矢先に箱が止まり、は心底安堵した。心臓が痛い程に高鳴っている。自分は今何を考えた?何をしようとした?これはただの捜査の一環で、自分は駒に過ぎない。いくら異常な状況とは言え、飲まれるとは言語道断である。クスクス笑う一に自分から腕を絡ませ、部屋に向かう。監視カメラがあるとしても廊下までだ。もう少しすれば息がつける。
「こっち向いて」
ようやく部屋の前に辿り着いたと言うのに、艶めいた一の声が後ろ髪を引く。何とはなしに嫌な予感を覚え、はカードキーを素早く滑らせた。古めかしくも埃っぽい匂いが歓迎の意を伝えてくれる。トロピカルリゾートの名前が泣くな、とは当たり前のことを皮肉った。今時、名前通りのものなどそう多くはない。
「なんだよ」
「良いから」
「ぁ」
苛立ち紛れに振り向けば、頬に柔らかな感触が当たる。すっとした眼差しに、は口付けられたのだと知った。からかいに成功したとばかりに一が笑い、思わず唸り声が出る。破廉恥にも程があると言うようなおぼこではないが、行き過ぎなのは確かだ。開いたドアに滑り込もうとする相手の肩を捕まえ、無理矢理にこちらに向ける。勝負は一瞬だ。
「え」
「よし」
唇の端に口付けられた、と思う。ぽかんとした一の顔は、年下の可愛い男に見えなくもなかった。こちらの勝ちだ。チラリと視界の端で監視カメラを確認し、部屋に一を押し込む。あとはだらだら時間を過ごせば良い。
「は?しんっじられないことしてくれたなあ、おい」
「先に仕掛けたのはそっちだろ」
どこで口調を戻すか迷いながら、はベッドの上にゴロリと横になった。柄シャツで来るんじゃなかった。皺だらけになっても良いような、それこそおじさんスウェットでも構わなかっただろう。スマートフォンのアラームを設定し、安っぽいシーツを撫でる。何度洗ったか知れないシーツは、おろしたてから随分と薄くなったようだった。乾燥した指先の感触に夢中になっていたらば、足元が沈む。アメニティを引っ掻き回した一が、遊びにも飽きて戻ったらしい。
「……いっぱい楽しんで帰ったら、財布を取られたなんて可哀想だな」
「どうかなあ。本当に楽しんでたのかはわからないでしょ」
「俺たちみたいにか?」
「あはは、僕は結構楽しんでるけどね」
ここ、泡風呂ができるんだよ。うっそりと笑う男は完全にふざけていて、馬鹿にされる身にもなってみろと言いたくなる。がばりと起き上がってスマートフォンで残り時間を見ると、まだ20分以上は間があった。ベッドから降りてシャツのボタンを外し始めると、一の顔色が見る間に変わってゆくのがおかしくて仕方がない。そんな顔をするくらいならば何もしない方が良いのだ。シャツを脱ぎながら捨て、浴室に向かう。ジーンズを捨てて、靴下を捨てて、腕時計も捨てる。寮の風呂と比べるのは間違っているが、一人で伸び伸びと入れる風呂というのも良いものだ。第一、お遊びの帰りには何か変化がなければ不審だろう。蛇口を思い切り捻って遊んでいると、ごん、と軽い痛みが後頭部に走った。
「泡風呂の素。全く、本気で入る奴がいるかよ」
「入ったことがないからな。役得だ」
服を脱いだことも手伝ってか、未だ口調は戻せない。ただの上司と部下に戻ったら笑ってしまいそうだ。湯船に暖かさが満ちてゆく。夢のようなキラキラとした粉を振りかけて、は扉の閉まる音を聞いた。現実を締め出して、一人きりの空間を楽しむとしよう。最後にパンツを脱ぎ捨てて、は高らかに鼻歌を歌った。
「お楽しみだったようで」
散々楽しんだ後、元通りに一つ一つ服を拾って身に着けるへの一の反応は実に冷ややかだった。予想通りの物言いにニヤけが止まらない。自分が風呂に入っている間、この男はどんな時間を過ごしただろう?テレビのスイッチが入っていたが、ポルノではなくバラエティー番組が流れていた。浮世離れした向きのある男が、俗っぽい番組を眺めていたというのは妙に可愛らしい。
「おかげさまで。楽しいもんだな、泡風呂っていうのは。寮でやったら怒られるかね」
「んー……最後に入る時ならいけるかもな。今度は俺にも楽しませてくれよ」
「今入れば良いんじゃないか?」
「時間がないだろ」
暗に誘っているようなセリフが混乱を誘う。自分も相手もその気はないだろうに、危うい遊びを続けるのは危険だった。アラームが鳴るのに合わせて部屋を出て、背中に一が張り付くに任せる。首筋に顔を埋めるのはやめていただきたい。いくら洗ったとは言え、中年男性の体臭など嗅いでも不興を買うのが関の山だ。そう言えば、彼の中では二人の役割はどういう設定なのだろう。自分が抱かれる側だろうか。悪くはないと思ってしまう自分の節操のなさに笑ってしまう。くすくすと笑い合いながらエレベーターで突き合い、カウンターでカードキーを返す。バチン、と目が合った男の表情を自分は決して忘れないだろう。これは恨みを孕んだ目だ。まるで見当違いな、行き場を失った者の絶望。上唇を舐めると、後ろ手に一の尻を叩いておふざけをやめさせる。一歩、二歩。自動ドアから足を踏み出せば、じわじわと夜空とは違った闇が迫り来る。
『置いてけ、置いてけ』
粘ついた、ヘドロのような声がどろりと追いかけた。生臭さは正に噂通りで、は洗ったばかりの体を恨めしく思った。腰に伸びた闇が財布を探すように肌を撫で始める。触られた端から服が、肌が汚れていった。もう一度入らねば匂いは取れないだろうし、場合によっては服も捨てねばなるまい。アスファルトが溶けたように泥沼に変わり、何者かが足を掴んだ、ような気がした。
「っ綱さん!」
「承知した」
一の鋭い声に呼応するように青黒い靄が切り裂かれ、真っ赤な髪が躍り出る。その先にある刀が煌めくたびに沼から飛び出た手が斬られ、ひらりひらりと花弁に変わった。
「斎藤、そっちだ」
「はいはい」
花弁の一つを一が手に取れば、瞬く間に刀へと姿を変える。なるほど、この男はどんなものでも武器にしてしまうらしい。泥沼をかき分けて花弁を踏み散らし、闇が夜空に跳ね飛んだ。千切れた中には人があり、よくよく目を凝らせば先程カウンターにいたアルバイト青年だということが知れる。自分の当て推量はあながち外れてはいなかったらしい。まるで曼荼羅を描くような美しい剣技をただ眺め、は頬を撫でる感触に目を細めた。紙人形が目を細めて笑っている。昨日背中に張り付いていた輩に相違なかった。
「誰だか知らんが、俺はまだ死なないらしいぞ」
『貴君の生死なぞに興味はありませぬ』
聞き覚えのある声を確かめようにも、ひらり、と舞った紙人形は綱の手によって細切れにされてゆく。
「振り向くな」
振り向く先も知らぬ人間に無茶を言う。両手で顔を覆うと、は深呼吸を繰り返した。すえた匂いが肺深くまで染み込んで、当面抜けそうになかった。
憎悪。嫌悪。嫉妬。今回の事件は至って単純にして簡潔なわかりやすい話だった。犯人の青年から一通り話を聞き、そのあまりにもくだらない(と言ったらば激怒されそうだが)事情にため息をつきながら一はに調書をまとめるように指示を出した。曰く、犯人は恋人という名のストーカー相手に幻滅し、世の恋人まがい達を恨んだのだという。どんな感情を抱くのも自由だが、危害を他者に向けるとなれば話は別だ。問題点は何の呪術の素養も金もない青年が、低レベルとはいえそれなりの怪異を操った点である。
怪異は人が操る。そして人は怪異を渡すこともできるのだ。青年に入れ知恵した何者かの存在は頼光も懸念とするところで、どうやら他の軽微な事件にも繋がりがありそうだという。事件はまだ始まったばかり、と言えそうだった。一にすれば変わらぬ日々の一部である。否、少し変わったことはあるか。
「斎藤さん」
「ん?」
目をしょぼしょぼさせながら調書をまとめていたに、一は心臓が跳ねるのを覚えた。ホテルでの憎たらしい口の利き方やら、大胆な仕返しが頭をよぎる。あの日から自分はずっとこんな調子で、風邪をひいたように何かがおかしい。
「今日の風呂、最後に入りましょう」
「……あんた、その言い方わざとだろう」
「さあ」
泡風呂の素が手に入ったのだと、無邪気にキラキラしたボトルを見せるのをやめてほしい。どうせこの男は何か考えているようで、大して考えてはいないのだ。たぬきなんて、皮をめくったところで出てくるのは古びた肉がせいぜいだろう。の肌は年齢相応の様子だったように記憶している。否否。
「入らないんですか?」
「入る」
ボンクラどころか、とんだ飛び道具だ。誰かに聞かれてやしないかと周囲を伺って、一は深くため息をついた。この怪異ばかりは、まだ当面祓えそうになかった。
〆.
あとがき>>
某所で拝見した警察パロに感銘を受けて〜お借りして良いとのことでしたので、一部設定を拝借して書きました。年末書き収めに相応しい幸せです。ハジメチャンと綱と冒険がしたい!怪異と戦って欲しい!なんて美味しいんだ……大満足です。一部回収していない謎は、次があればのまたの機会のお楽しみとさせてください。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!