DREAM NOVEL
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まあ内々にしておきましょう。


東京府特別署異聞〜片葉の葦〜



 世に怪異の種は尽きない。心底呪いたいと願って御百度参りするような直向きなものから、うずたかく金を積んで手短に欲望を叶える類もある。かつて多く自然に存在していた怪異は今やすっかり狡猾な人間に飼い慣らされ、有害無害問わずに漂う。呪い師に陰陽師に各種神官の類は絶えず蠢き、人の感情が赴くままに巷間を行き交うと聞けば、何と恐ろしい世の中になったものよと嘆く向きもあるかもしれないが、爾来人は人である。どうしようもなく悲しく、哀しく、愛しい。

「とは言え、気軽に使って良いものではないんだよな」

大都会東京は特別署、自席の上に堆く積まれた書類の山をせっせと崩しつつ、はつくづく世の業は凄まじいと嘆息した。かつて丸ノ内警察署に所属していた頃も見知った怪異たちだが、政府や大企業の間で切った張ったを繰り返すものと、ここ東京府特別署で取り扱う市井の人々に密着したものとでは凡そ天と地ほどにも性質が異なる。こちらはなんと言うか――もっと感情的だ。

「全くその通りさ。最近は流行の巫蠱だなんてデマまで出てるらしい。知らないってのは怖いね」

のぼやきに、少し先輩である坂田金時が請け合う。金時は事務仕事ではなく、に資料を渡す係を担っていた。これはとんでもない話なのだが、が来るまで特別署は報告書を溜めに溜め込んでいたらしい。ざっと半年分かな、と署長こと藤丸立香がさらりと述べた瞬間には青ざめかけた。予算を削られる云々を懸念するならば、何よりも先にすべきがお役所手続きの完遂だろう。

「あんまりみんな器用じゃなくてさあ。それに忙しかったじゃない?ついつい溜まっちゃったんだよね」

直属の上司たる斎藤一に至っては完全に開き直っていた。薄っぺらい笑顔を浮かべてもそれなりに見場が良いのは狡い。先日、が初めて出会った怪異事件の報告書を手早くまとめたのを良いことに、どんと未提出の書類を出してきたのは卑怯ではないだろうか。幸い、事件を大まかに知る金時が手伝いを申し出てくれたので、今日は過去の事件を知る研修代わりとしてこうしてせっせと書き上げている。

「流行りねえ。不気味可愛いって奴?金時はさ、好きな怪異ってあるかい」
「好きな怪異?んー。怪異には散々遭ってるが、どれも好きになれる気がしねぇ。そう言うサンは何か好きなモンでもあるのか?」
「狸囃子」

あれは賑やかだからね、と言えば金時も頷いた。狸囃子は、真っ当な使われ方をする数少ない怪異である。元々は賑やかな音頭を囃して人を惑わせる怪異だったが、現在ではその場の賑やかしや客寄せとして利用されていた。の故郷でも引っ張りだこで、狢使いは飯綱使いよりも儲かるともっぱらの噂だった。結婚式や新規開店には欠かせない。昨日、久々に山を降りて新橋に遊びに出かけた際もパチンコ屋の前でポンポコ親子が働いているのを見かけたものだ。

「あれは憎めないな。世の中もっと平和でありゃあ良いのに」
「……ま、その頃は人間もいないと思うがね」

丸ノ内警察署然り、特別署然り、どこを見ても人間の業は恐ろしい。ややもすると人は争い、妬み、羨み、誹り、詰る。行き場を失った感情は渦を巻いて本人も他者をも害する。そうでない場合もあるだろう、その方が多いだろうと信じても尚、全てが平和で覆い尽くされる日は来ないように感じられた。金時の髪が、古びた蛍光灯の光で一層輝いて見える。昔の人間は欧州から来た人間に神を見出したと聞くが、なるほど金の輝きには神々しさがある物だとは納得した。何より、金時は心の底から明るく一本気だ。物語に描かれる英雄とはかくあるべきだろう。

「なんだ、しけた面して。サン、意外と暗いんだな。考え過ぎは体に毒だぜ」
「大して考えちゃいないよ。素直に現実を見ているだけだ」

どうして、を問うことはもう随分前にやめた。どうして、自分は巻き込まれねばならぬのか、良いように使い走りにされていたのか、死にかけねばならぬのか、ここにいるのか、何一つとして解決しない。抗う術はあるのだし、人によってはの行いは怠惰に映るだろう。されど現実はより非情だ。抗ったところで羽虫の行いに意味などない。最終手段は逃げ出すことだが、今となってはそれすら無価値のように思われた。他者の掌の上でいいように転がされているというのが現状だろう。

 ならば可能な限り、目の前に広がる現実から一つずつ打開していく方がまだしも未来はある。例えば目の前の書類もそうだ。出したところでまともに読む人間はそうおるまい。どの程度手を抜いたものかと首を傾げ、はゆっくりと算段をつけ始めた。




 郵便物が紙から電子へと変換され、音も映像も何もかもが瞬時に移動できるとはなんと便利だろう。手軽で気軽故に、横合いから盗み読みをするのもまた容易だ。故にセキュリティには万全を期して挑む必要がある。いつでも不利であるのは追いかける側、守る側であってこじ開けようとする側ではない。盗人猛々しいとはまさにこのことで、肩で息をするようになった政府機関が下した決断はなんとも簡素なものだった。

 すなわち、重要書類の紙での提出だ。ホチキスは錆の原因になるので不可、糊も使用せず、千枚通しを使って開けた穴に糸を通して閉じることが求められている。保管期間は最低三年間、怪異に基づく報告書は事件の重要性に応じて五年から無期限、となれば重要そうだが、多くはただの棚の肥やしであって誰にも知られることはない。確認する側も一番上の表紙と、いくつか興味深いと担当者が感じた部分のみを検分して良しとする。お役所仕事は末端まで深く根を生やしているのだ。おかげさまで書類提出は気楽なものである。

「ちょっと量は多いけど、まあなんとかなるな。行ってくるよ」
「本当に送らなくていいのか?ゴールデンヒュージベアー号ならすぐに飛べるぞ」
「気晴らしも兼ねてだから良いさ」

築き上げた紙の城に、前回の事件の報告書を積み重ね、が最初に考えたのは輸送方法だった。車で運べるのであれば最適だが、沖田総司と斎藤一、そして渡辺綱の三人組が使って出払っている。おまけに土方歳三と源頼光は市中見回り中、となれば署に残るのは立香のみとなってしまう。部下を束ねる力に長けているとはいえ、有事の際には無力な少女であることに変わりはない。が驚いたことに、彼女は正真正銘の未成年であり、魔を祓う力も武力も持たないのだった。もっと必要なものを持っているから良いんです、とは総司の言で、不覚にも四十路近くまで生きたに羨望の念を抱かせた。ともあれ、金時は置いていくべきだろう。

 心配する金時に手を振り、長く伸ばしたトランクの柄を握るとずっしりとした重みが襲った。さすがは紙、薄いが故に空間の占め方が濃密である。肩が壊れないように交互に持とうと決め、は慎重に道路に転がした。特別署を訪れた初日と異なり、アスファルトで舗装された裏手の車道は車輪が滑らかに回る。バス停まで問題なくたどり着けるだろう。

「ちょうど良い大きさのトランクを持ってきてよかったな」

到底紙袋に収まる量ではなかったものの、さて何に入れようかと悩んだところで思い出したのがこのトランクだった。が特別署に転属されるにあたり、引っ越し道具を入れて運んできた大事な相棒である。にも関わらず持ち込んだきりで開けてすらいない。開ける気も起きなかった。ほんの少しも、である。御山で迷って死にかけても尚手にしていたというのに、どうして自分はどうでも良いものだと思っていたのか、さしものも思考停止に陥るのを踏みとどまった。

 開けるのは怖い。まるで自分のものではないかのような忌々しさを纏っていたトランクを開けた時はひどく緊張もした。金時を事務所に置いていったものの、一緒に来て欲しいと頼めば良かったかとさえ悩んだ。一に知られたらば相当揶揄われるのは目に見えている。上司との掛け合いと駆け引きは嫌いではないが、弱みを握られるのは話が別だ。相手の弱みを握っていない限りにおいて、そう簡単に知られては困る。

 滅多に出ない長期休暇を取るたびに出かけてきた、バリ、プーケット、ハワイ、シンガポール、数々の南国の思い出がこのトランクと共にあった。眺めに出かけたカジノで八百長に気づき、余計な煽りを喰らって逃げ出した時にもトランクは一緒に橋の下で夜を過ごしてくれた。いわば、友人も家族も余り親しくないの友人もどきのようなものである。それがこれ程までに他人のような距離感を抱いたのは初めてだった。

「俺って意外と寂しがり屋だったのかもねえ」

結論から言えば、トランクの中身は空っぽだった。数枚のTシャツがくしゃくしゃになって入っていただけで、全くの空虚である。虚無を抱えて山道を行くなど、さながら詩の一行のようだがは自分は阿呆だったのだと冷静に判断していた。半友人といえども、は現実的な人間であって、死にかけてまでただのモノに執着しない。執着しないことこそが、このを生き延びさせているのだと信じている。転属を申し渡され、冥土の土産に持って行けとあれこれ渡された記念品を全て真っ直ぐゴミに捨てた。ましてやトランクに意味などない。

 自分はトランクに何を入れて運んだのだろう?お願いだからずっと空っぽで、自分は阿呆のままでありたかった。特別署の人間は誰か気づいただろうか、何かに気づいただろうか?気づかなかったならば何も起こらなかったのだと安堵すべきか、その程度で済むのかもにはわからなかった。怪異が視えて、聴こえて、ただそれだけの人間に何がわかるだろう。一皮剥けば大人というだけであって、立香と大差ないのだ。

「仕事、早く終わるといいな」

坂道を降り切ればバス停が目に入る。人生もそうあって欲しいものだ。




 交通事故。凡そ人が他の力を持って移動する術を得た瞬間から始まった、原始的な出来事である。古馴染みであり、決して絶えない。故に難所と呼ばれる場所にはまま怪談がつきまとう。怪異の存在とはまるで関係のない、ただの人間の集団心理――もとい思い込みと言っても良いだろう。やれどこのカーブはきついだの、壁が死角になって見えにくいだの、聞くだけでもうんざりするほどの注意点が山ほどある。そしてその理由を怪談に押し付けるのだ。事故とは現実の出来事であり、怪談はただの茶話である。そうした場所の一つにたどりつき、一は綱のキリリとした声を聞いていた。

「ここで事故なんて起こるのか?ただの坂道にしか見えないな」
「そのあり得ないが15件もあった場所なんですよ。運転と言えば、斎藤さんの運転でどうして事故が起きないのかが私は不思議です」
「さりげなく僕を批判するのはやめてくれないかなあ、沖田ちゃん」

とばっちりを受ける形となった一はげんなりしながら現場を見やった。深夜でも騒がしい六本木周辺で、ここ一ヶ月の間で立て続けに交通事故が15件余り発生したのだという。六本木署からの報告によれば、どの事故も深夜における車同士の接触及び衝突によるものであり、双方の運転手が大怪我を負っていた。怪我をするのは決まって右脚。事故の当事者及び車体の大きさや種類に共通点はない。誰が呼び始めたのか、『片端の脚』なる都市伝説が形成されつつあった。

 当初はただの交通事故と判断し、取り締まりの強化に努めた六本木署が匙を投げたのは言うまでもなく、何度取り締まろうとも必ず起きてしまう事象を防げなかったからである。怪異は、視ることができなければ不可解な現象であり、祓えなければ解決しない。異邦の妖異が住み着き始めているという報告もある六本木署だが、まだまだ人間同士が直接ぶつかり合う場所なのだ。餅は餅屋と、特別署に話を回したのは賢明な判断だろう。

「帰りは綱さんに運転、お願いしても良いですか?早くて助かるんで」
「構わない。全力を尽くそう」

勝手なことを言うだけ言って、総司たちは軽い身のこなしで車を降りてゆく。事故現場である坂道の両脇には見事なまでの桜並木が作られていた。桜坂、歌にも歌われた赤坂の名所である。現在は秋風荒ぶ頃故、目に映るものは真っ赤な葉だけだが、春衣装の豪奢さは容易に想像された。花見の頃は怪異も人間も活発であるため、仕事に邁進する一が目にすることはきっとないだろう。あの男――はちゃっかり自分の用事もこなす余力がありそうだが。置いて来た新人を思い出し、一は低く唸った。そばに居れば目に入って思考を邪魔する。ならば物理的に置いて行くならば良いだろうと身を離した矢先にこれである。

 あの男には呪い師の素質も素養もないはずだと言うのに、自分に何か呪いでも送ったのではないかと思えるほどに存在が脳みそに絡みついてくる。印象の薄い顔立ちで、特別署の人間たちを前にすれば霞む個性の何に自分は引っ掛かりを覚えているのだろう。自分が理解できる程度の範疇でしか思考せず、行動せず、その癖一本取られてしまうことは確かにムカっ腹が立つが、いやそうではない。ハンドルに額を押し当て、一はそのまま寝入ってしまいたい気持ちに襲われた。

「斎藤さん、どうしちゃったんです?早く車停めて、一緒に現場検証しましょうよ」
「今行きますって。ここまで運転してきた僕を少しは労ってよね。人使い荒いよ?」

総司の明るい声に尻を叩かれ、ようやっと車の外に出る。車中から見たのと同じく、大きく湾曲した坂道で、賑やかな六本木通りから見上げれば坂上の様子はまるで見えない。存外きつい勾配の上に右手に大きなホテルが鎮座するため、うっかり事故が起こる可能性はありうる。だが、やはり一ヶ月の間で15件も起こるような場所には思われなかった。ちょうど坂下から見切れる地点に立つ綱が虚空を眺めている。

「綱さん、何か視えましたか」
「何が視えると思う」

試すような口ぶりに意外さを覚えながら、一はそっと綱の視線を辿った。坂の中央、道路に白いもやのようなものが見える、ような気がする。かつては一切見えなかったものだが、近頃では目が鍛えられたとでも言うのか、何となくは感じ取れるようになっていた。その旨綱に伝えると、満足そうな頷きが返された。どうやら合格点らしい。

「流石斎藤だな。コツを掴むのが早い。あそこには今、葦原が広がっている」
「どうも。俺はまだまだですよ。あし……あ、もしかして片端の脚って、それと掛けた名前なんですかね」
「可能性はある。言葉に掛けて話が広まれば、一層力が増すからな。俺の目には、あの葦はどれも片側にしか葉がないように見えている」
「うーん。私には何も見えませんね」

総司も真似し始めたが、目を疲れさせただけで終わったようだった。近くに寄って触るような真似をしても、何も感じないらしい。綱が止めないことからするに、ただ触れるだけでは発動しない類のものなのだろう。即ち、怪異は常に同じ帰結に至るわけだ。

「術者がどこかにいるってことですね」
「ああ。俺は一部持ち帰って、痕跡がないかを調べてくる。沖田」
「はい」

柔らかな声を聞いて、一は綱の不器用な優しさを感じ取った。表情筋が乏しいためにわかりにくいが、他者を思いやれない男ではない。初めて相対した際には鉄面皮でやりにくいと感じたものの、今では顔の皮一枚めくった先に人間らしさがあることをよくよく理解している。そうでなければ何年もバディを組んで事件を渡り歩けなかっただろう。

「帰りの運転はできない。次の機会にしてくれ」
「わかりました。約束ですよ?」
「ああ」

冗談混じりの言葉にも真剣に返すところが綱らしい。一方であからさまに落胆してみせる総司には、一度自分の運転技術の全てを披露してやる必要があるだろう。も一が運転すると聞いただけで青ざめる節があり、それはそれで面白いから良いのだが、綱がハンドルを握った途端に安堵することは腹立たしかった。別段張り合うつもりはない。断じてない。

「それじゃ、俺たちは術者がいそうな場所を探しに行くとしますかね。毎回居合わせてる奴がうまく見つかってくれるとありがたいな」
「確か、この辺りに監視カメラがあったはずです。ドライブレコーダーと合わせて確認すれば何か出てくるかもしれません」

問題は事故がどれも深夜に起こったため、闇に紛れがちということだ。四つの手練れの目にうまく引っかかってくれることを願い、一は総司を車へと誘った。




 役所につきものの出来事として、いくつか挙げられるだろう内の一つは嘆かわしいことに『たらい回し』である。これも立派な怪異ではないかと、歯車に組み込まれた自身も疑問を抱かずにはいられない。専門化と細分化により最高効率が生み出されるはずだと理想を打ち立てた頃は、きっと人間がもっと少なかったのだろう。今は何もかもが多すぎた。例えば、警視庁本部まで報告書を持ち込んだらば、簡易チェックの後で国会図書館に運べと命じられるなど、人間同士の事件で手一杯の現状故だ。嫌がらせではない、と信じたい。

 国会図書館に出かけることは何度かあったので近場と心得ている自分ならばまだしも、地方から出向いてきた人間であれば途方に暮れたに違いない。行き先の場所を教えてくれるほど担当者は親切ではなく(恐らくが特別署の人間だからだ)、仕方がなしにトランクを引いて坂道だらけの冷たい街に戻った。本部や国会図書館のある霞ヶ関や永田町は、本来人が住むような地域ではない。警備の人間がそこここに立ち、要塞もかくやという物々しい建物を守っている。生活感は皆無だ。

この辺りを何度伝書鳩代わりに飛び交ったことだろう。仮にも機密文書を運ぶのに新人下っ端の類に任せるのは不向き、と建前を並べて押し付けられた使い走りの仕事は、悪いことばかりではなかった。何より丸ノ内警察署の気詰まりな空気にも染まらずにやり過ごせるのは楽で良い。どこに行っても他人扱いされるとは即ち、面倒ごとに巻き込まれにくくなる保証だ。

「そのはずだったんだけどな」

それがどこを間違ったのか、今のにはよくわからない。トランクの中身が一層重みを増したような心地だ。銀杏並木を横目に巨大な図書館に近づくと、封じられたものたちを押さえつけるべく張り巡らされた結界で皮膚がチリリと痺れる。確かに怪異を記した書物はこちらに納めた方が安全だろう。関係者専用の受付で手続きを終え、長椅子に腰掛け担当官を待ち侘びる。役所につきものの出来事その二、矢鱈と長い待機時間の登場である。

自由に飲み食いもできない場所柄、午後休憩を取りに行けないことはを落胆させるに十分だった。特別署では立香が甘いもの好きということもあり、午後に一度息抜きの時間がある。昨日綱が調査の帰りに買ってきてくれた切腹最中は名前こそおどろおどろしいものの、パリパリとした皮と溢れんばかりに詰め込まれた餡子が絶妙なハーモニーを奏でて美味だった。もう一個食べられたらな、と物寂しく思った時に一が譲ってくれたのは良い思い出である。

「七十五番、来てください」

囚人さながらの番号呼びは、何度聞いても耳慣れない。仕切られた窓口に向かえば、柔らかな物腰の淑女――紫式部が待ち構えていた。の姿を認めてにこりと微笑むのは、恥ずかしがり屋な彼女にとって顔見知り程度には位置付けられているためだろう。椅子の下でトランクを開き、どんどん報告書を積んでも動じず、紫式部は一つ一つを確認して入れるべき書庫へと導いてゆく。彼女の書物を慈しみ、あらゆる文字を愛しむ様は見るものの気持ちを解してくれるもので、は束の間何もなかった頃の自分に戻れたような居心地の良さに浸った。

「特別署に転属されたんですね。このところいらっしゃらないので、案じておりました」
「紫式部さんにそう言ってもらえるなら幸せ者だな。受付が君でよかったよ」

社交辞令も含んだ言葉に涙が出そうになる。自分自身さえも気にしない行く末を案じてくれる他人がいるとは全く僥倖だ。次にここに来る際には、彼女が好きなツッカベッカライのクッキーでも手土産に持参するとしよう。何より、紫式部が淹れてくれる紅茶は絶品だった。

「私でよかった、とは?な、なんでしょう」
「んー、少し見て欲しいものがあって」

書類を出し切ったトランクを机の上に置くと、は相手の反応を伺った。どうしてこんなものを、という怪訝さと、が言うからには何かあるのだろうと真摯に受け止めようとしてくれる向きが見て取れる。紫式部は、かの安倍晴明に師事したこともある陰陽術の使い手である。例え宮中の陰陽師に及ばぬとて、何某かの助けにはなるだろう。もし彼女が駄目でも、悪手の当てがいくつか残っている。にとって、紫式部は最も問題が軽いと認めてもらうための縁だった。

特別署の面々が無反応であったように、パッと見ただけではこのトランクに問題はないらしい。ふむ、と一つ頷くと書を捲るようにして丁寧な指さばきでトランクの内側を撫で始めた。噂によれば紫式部は書から、文字から物語を『聞く』のだという。トランクとも会話もどきをするのだろうか、物いわぬモノたちの道理はにはわからない。しばらく待っていると、紫式部が内側からするりと何かを取り出した。

さん。こちらに見覚えはありますか?」
「……あるな」

紫式部の白い指先に挟まれたのは、幾度か目にしてきた紙人形だった。ジタバタと暴れているところからすると、まだ機能しているらしい。胴体に描かれたギョロ目が必死になってこちらを睨んでくる。まるで数年来の知己を前にするような心地にさせる奇妙な目だった。触れようと手を伸ばすと、紫式部がすいと避ける。

「出元を確かめます。結果が分かり次第、ご連絡しますので今はお待ちを」
「せめて害のあるなしくらいは今わかったり……」
「わかりません。私が今言えるのは、まださんが生きていらっしゃることだけです」

害をなすならばいつでもできたはずだ、とは道理である。これ以上は友誼のみで頼むには図々しい。大人しく引くと、はトランクも全て置いて身軽に仕事を終えた。時刻はちょうど夕方の五時に差し掛かる頃で、知覚した後から追いかけるようにしてあちこちで鐘が鳴った。真っ直ぐに帰っても良いが、外で食べて帰るのも魅力的だろう。昔は気晴らしを食い道楽で満たしていたことを懐かしく思い出し、は待っている金時に夕飯はいらない旨のメッセージを送った。

「俺も律儀になったもんだ」

誰かを気に掛けるようになった、と昔の自分に話せば不思議がられるだろう。それこそどうして、と尋ねてくるはずだ。他人なんて所詮他人じゃないか。ましてやそばにいた期間が一ヶ月に満たない連中相手である。正気ではない。だが、今は正気を放り出しても気分が良い。特別署の人間たちであればもしかしたらと、生ぬるい感情が身を包む。

 出かけると決めた次の悩みは、どこへ行くかだ。赤坂、日比谷、四谷、かつての本拠地大手町、行こうと思えばどこへでも行けるが、今日のざわついた気持ちを落とすには、俗っぽい街の空気がちょうど良い。六本木などどうだろう。思い返せば、一たちは事故現場の検証で六本木に出かけると話していたことだし、場合によっては合流することもあるかもしれない。紛れ込むのは期待だ。誰かが何をしているかがこんなにも気になるのはいつぶりか、もう思い出せなかった。




「斎藤さーん!私、目が乾いてシワシワになりそうです……」
「気持ちはわかるけどね、あと二件分で終わるからもうちょい頑張ろうよ」

赤坂警察署の一角、2台のPCを並べて総司と一は動体視力の限界に挑戦していた。既に自分たちは確認済みだと、資料を引き渡すだけ引き渡して去っていった赤坂警察署の人間が憎たらしい。自分たちの領域を冒されたと思うのは勝手だが、一番重要なことは事件の解決ではないだろうか。こうした小競り合いが煩わしくて、京都府警を出た記憶が一を突く。あの頃自分はごくごく普通の警察官で、そこそこの立場を満喫していた。腐った上司はいたが部下はそれなりで、働きではあった、かもしれない。ただ方々の警察署の間でくだらない手柄争いをするのは嫌いだった。

車で逃げ出す犯人が良い例だ。各警察署には領域というものがある。境界線を越えたらば自分たちの獲物ではなくなってしまうため、自然荒っぽくもなれば境界線でグダグダ警察官同士で争うことまで起こり得た。中には常習犯的に境界線を目指す小狡い人間もいて、お役所仕事もこれ極まれりと呆れたことは幾度もある。東京府特別署の人間たちを交えた剣道の交流試合がなければ、きっと今でもあそこにいてだるい気分になっていたに違いない。その点今は幸せだ。

 画面の中で暗闇がザアザアと流れてゆく。ある日は雨が降り、ある日は曇る。電灯の明かりが景色を歪ませ、彼我の境目を見失わせようとしているようだ。一が見ているのは街頭に設置された監視カメラで、性能があまり良くないのかどうにも不鮮明で困ってしまう。設置する角度はもう少し考えた方が良いと遠回しに伝えた方が良さそうだ。もしがいれば、丸ノ内警察署にいた誼でうまく話してやるだろうから、彼経由で伝えるのも良い。記録を切り替えながら、一は自分の思考に苦笑した。すっかりを部下として使いこなすことが身に染み付いている。丸ノ内警察署では便利使いにされていたと聞くが、そのせいだろうか?

「あ、見えましたよ斎藤さん!」
「どれどれ」

総司が自分の見ていた画面の隅を指差し、動画を切り替えてさらに示してゆく。レンズについたゴミのような点だが、動かしてゆくとそれ自体が動いているとわかるので違うと知れた。把握できる目を持つ人間はそういまい。相手の剣筋を見抜くことが一流の、総司ならではの芸当だった。小さな点を拡大させ、ぼんやりとした形にまで引き伸ばす。自動車に取り付けられたカメラの限界だろうが、十分見返りはあった。

「これは……ドローンだな。道理で聞き回っても無駄だったわけだ」

赤坂警察署とて無能ではない。特別署に任せるまでの間は近隣への事情聴取と現場検証を嫌になるほど行っていた。その上で、不審人物も共通点になるような人間も見当たらずにお手上げとなったのである。普通の人間相手では十分すぎるほどの捜査だ。原因が怪異でなければ、問題なく収めたに違いない。そして怪異の元である人間についての情報が得られなかったのは、結論遠隔操作で発動された怪異であるためだった。

 ドローン自体も、近場にアメリカ大使館、さらに足を伸ばせば総理大臣官邸までもあとわずかの場所で動かすには相当の努力が必要となる。昨今はドローンを使ってのテロも起きていることから飛行物への警戒度合いが上がっているはずだが、まだまだ人の目が追いついていないらしい。どこから飛ばし、操作したのかは自然と絞られるだろう。それこそ赤坂警察署に任せたほうが良い。

「型番が分かれば精度を上げられそうですけど、この映像からじゃあ難しいですね」
「……張るしかないか」

綱の調査結果待ちではあるが、勝算はあると一は考えていた。犯人は既に赤坂警察署の捜査を掻い潜り、事故の再発に成功している。一たちが張ったところで警戒せずに堂々と行動を起こすだろう。場合によってはかえって気分が盛り上がるかも知れない。さっさと終わらせて帰れるならば御の字だ。一度で現場を抑えてお縄頂戴と行こう。苔が生えるのではないかと思うほど座り尽くした椅子から立ち上がり、一はうんと伸びをした。

「帰ろう、沖田ちゃん。綱さんと合流だ」
「えー、もう帰るんですか?俺も連れてってくださいよ」
「あ?」

疲れて幻聴を起こしたのか。耳を疑い、ついで顔を上げて一は目を疑った。山に捨ててきたはずの男――がのほほんと立っている。総司が嬉しそうに手を上げると、持っていたビニール袋からペットボトルの茶らしきものを渡してきた。書類仕事を任せたというのに、どうしてのこのこと現れたのか見当もつかない。今朝方、六本木に出かけると話した記憶はある。だからと言ってわざわざここへ来る意味があるだろうか。

「心配しなくて大丈夫ですよ。報告書は全部作成して提出しました。無事受理もされています。俺がここへ来たのはなんとなくですね」
「なんとなく、ねえ」

そう悪びれもせずに返されれば、半年余り溜め込んだ報告書を、金時をつけたとは言えよくぞ片付けたと褒めてやるべきか、どう見繕っても寄り道を楽しんだらしいことを咎めるべきか迷ってしまう。憎めないのだ、この男は。取り立てて愛嬌のある人間でもない癖に、会えて嬉しいという気持ちさえ沸き起こっている。しょぼくれた目に力を入れようと眉間を揉むと、一は壁にかかった時計を見つめた。定時をとうに過ぎ、早七時である。優に四時間は動画を見続けていたならば、道理で目が疲れるはずだ。

「良かったらこちらの事件について伺ってもいいですか?あ、ダメならダメでいいです」
「しおらしいフリなんて似合わないよ、。あんた、どうせ他所で聞き出すつもりなんだろ」
「あ、わかります?」
「なんとなくね。沖田ちゃん、説明お願いするよ」

先程のセリフを繰り返すと、総司に説明を促せば、面白いほどに顔が顰められた。面白がって高みの見物をしていたツケくらい、多少払わせてもいいだろう。面倒くさがりですねえ、とぶつぶつ言いながらも淀みなく流れる総司の説明はわかりやすく、初めて聞くも恙無く噛み砕けているようだった。そうでなくては困る。勘の悪い部下は使いにくく、一はどちらかと言えば余計な手間をかけるよりも自分で動く方がましだと考える性質だ。は一にとって最低限必要な部下としての条件を備えていると言えよう。勘が良く、人が良く、余計なことをこちらに聞かない。毎日使うハサミは華美な装飾など不要である。

「なんとなく、は半分嘘です。実は同じような話を聞いたもんで」

一通り聴き終えたはしばし目を閉じた後に短く述べた。話の続きは車でしましょう、と暖簾のような男が誘う。




 怪異は互いに呼び合うらしい。これまた勝手な人間の思い込みだ。事故が起こりやすい場所の近隣では連鎖するように事故が起こり、侵食してゆくなど、そんなことが叶うのであれば今頃この国は荒野に変わっているだろう。だが、人間の手によるものは複数の箇所で起こすこともまた可能だ。強引に運転席に座ったにハンドルを任せ、一は仕方なしに隣で外の風景を眺めていた。他人にハンドルを任せるのは久しぶりだ。おまけにこの男、法定速度を守っているくせに泳ぐように近道を走らせるので実に早い。総司がキャッキャと喜んでいるのを無視して、一は運転の様子からの性格を推し量っていた。

自動車で公道の近道を走る、というのは一見簡単なようで難しい。まずそもそも道を知らねば、どの道が正しいのか、本当に近道になるかは判断不能だ。直感で行くにはリスクが高く、こと都心部の人口密集地域の道は歴史の積み重ねと同じようにして複雑怪奇である。一方通行に行き止まり、やたらと信号が設けられているせいでかえって時間を食う道や歩行者天国が開かれる道など、道ごとの性格を把握し、その日の状況に応じて最適を判断するには知識と経験が必要となる。は丸ノ内警察署にいたこともあり、近隣の道はもちろん押さえているだろうが、大部分は彼の性格によるものだと一は判じていた。

 は物臭だ。面倒臭いが故に、初手で手間をかける。正確な記憶と理解で、後々を端折り、ミスを限りなく減らして二度手間を避けるのだ。ますます便利でありがたい。丸ノ内警察署では便利屋代わりに使われていたとも聞くが、これならば使ってみたいと思うのも無理はなかった。今頃丸ノ内警察署は彼の開けた穴を埋めることに頭を悩ませているに違いない。返して欲しいと願うのはもう遅い。すげなく断った相手の顔は見ものだろう。

「書類の提出を終えた後、駅前で交通事故を見かけたんです。たまたま知り合いがしょっ引いてたんで挨拶をしに行ったら、道路に草が生えてるじゃないですか。腰までびっしり生えて邪魔そうなのに、誰も視えてなくてね」

よくよく聞けば、近隣で同じような交通事故が多発しており、柄にもなく永田町界隈では普段よりも人員を多く割いて監視に当たっていた。本来ならば国際的重要人物が来訪する際に取られる処置であり、たかだか交通事故に対するものではない。万が一を避けようと警戒するのは理性からではなく、本能的な判断と言って良かった。しかしながら不可思議な事象は人海戦術の網の目をも潜り抜けて止まらない。麹町警察署もまた、赤坂警察署同様手詰まりの段階に差し掛かっていたのだ。折よく通りがかったのがである。

「怪異だと言ってもすぐに信じてもらえないでしょう?だから、知り合いに来てもらっていくらか祓ってもらったんです。彼女なら、麹町の連中でも十分信用してもらえる肩書きがありますからね」
「『彼女』って誰です?」

間髪入れずに総司が問う。この迷いのなさもまた少女の武器だった。『彼女』とは、一体どんな人物だろう?とはずいぶん親しいようだが、彼が麹町界隈にまで縁を結んでいるとは想定外の出来事である。個人的にか、公的にか。いつ知り合い、二人はどんな話をするのだろう。どんな、どんな、どんな、関係のない疑問ばかりが浮かんで気分が悪い。知らぬ道に入りながら、はなんでもないことのように返した。

「国立国会図書館の怪異録担当官です。ちょうど報告書を提出したところでしたし」
「なるほどね」

わかりやすい理由に胸がストンと落ち着く。錦糸町で割引券を使う相手をあれこれ考えていた通り、どうやらに特別親しい相手はいないらしかった。良かった、と安堵しかけて首を振る。別段が誰とどう親密であろうとも便利な部下であればなんら問題ない。寧ろモチベーションの源になるならば親しい人間がいた方が良いくらいだ。自分には必要ないが。欲しいと思ったこともあったな、と過去を振り返って落ち着こうとした一を総司の言葉が突き刺した。

「あ、噂に聞いたことがあります!確か怪異録担当官って、二人の女性だけなんですよね。一度会ってみたいなあ。さん、今度行く時は私と一緒にいきましょう」
「あの人は恥ずかしがり屋だからなあ……んー、まあ沖田さんなら大丈夫かも……事前に根回ししておくんで、その後でも良いですか」

前言撤回。その『彼女』はにかなり近い関係にあるらしい。総司が捲し立てている噂から想像するに、どうやら相当の美貌と才智を兼ね備えた図書館の女王のようだ。おまけに内向的で、が気を遣っているなど、交流を重ねなければ起こり得ない相手だろう。純粋な興味に余計な感情がまとわりついて腹が立つ。自分にもにも向けられたイラつきを押さえつけるべく、一は努めて冷静に自分を殺すことにした。余計な感情は台無しにして潰すに限る。

「良いねえ、深窓の御令嬢。僕も会ってみたいな」
「……斎藤さんはだめですね」
「は?なんでだよ」

思わず地が出てしまって舌打ちした。この程度で怒ってどうする。はと言えば、一の態度にニヤついた笑みを浮かべるばかりだった。そうだ、この男はこちらが困る様を面白がるような性格の悪さと強かさをも持っている。今の一は相手の掌の上だ。

「さっきも言った通り、紫式部さんは恥ずかしがり屋です。俺が斎藤さんをだめだと思う理由は一つだけですよ。はい、それじゃあここでクイズ。斎藤さんがだめな理由はなんでしょう?ヒントはなし」
「はい!押しが強いところ!」

初手回答者は総司だった。迷いのない答えは、それを良くないと思っていたのかと突っ込みたくなるような内容である。強く押すには力がいるので、普段から誰彼構わず突っかかっているわけではない。これでも女性の扱いにはそれなりの定評がある方なのだ。一方出題者はチッチと指を振って緩やかなカーブを曲がった。

「沖田さん、その通りだけどハズレ。斎藤さんはね、初対面の人には基本的に優しいと思いますよ。ましてや紫式部さん相手なら丁寧に対応するでしょうね」
「良かったですね、斎藤さん!褒められてますよ」
「当然でしょ。まともに人を見る目があって安心したよ。……理由ねえ。もしかして、僕が色男だからとか?なんちゃって」

彼ならば当然のセリフだとは思うものの、気恥ずかしさは拭えない。驚嘆も賛辞も恐怖も耳にタコが出来るほど経験したはずが、ささやかで優しいの評価は子供のように一を喜ばせていた。さあ、息が合った部下には面白おかしい答えを開示してもらうとしよう。身構えてじっとしているも、出題者からはなんの応えもない。恐る恐る相手の横顔を見つめれば、ばちんと片目を瞑られて虚を突かれた。

「何何何何何?何よ?」
「ハハハ、いやあ、自覚あったんだなあと思って。そうです、大正解ですよ。あんたの顔は甘い。彼女に合わせるなら、免疫をつけてやってからでなけりゃ難しいでしょうね」

ド直球過ぎやしまいか。鼓膜がびいん、と戦慄き脳が茹だる。客観的に言えばもちろん自分の顔は悪くない。ナルシスト故ではなく、交渉の材料として自分の武器を知る当たり前のこととして、一は自分の容姿を評価している。上に兄弟が連なったためか、弟属性とやらも加わって、とりわけ年上のお姉様たちにはウケが良い。一ちゃんは顔が良いね、と署長が冗談を言った上で、顔『も』良いよ、と訂正してくれるのだから太鼓判もある。堂々胸を張って良い。だが今は――

「ぶっ」
「おい沖田ちゃん、何笑ってるんだよ!」
「いや、だって斎藤さん、ふふ、顔真っ赤ですよ」
「え」

指差されるままにサイドミラーを見やれば、夜に溶けていく景色の中で、自分の頬はあからさまに熱を帯びていた。気を使ってか、が黙っていることはなんとも癪でならない。恨みがましく睨みつければ、灰色の目がチラリとこちらを捉えて通り過ぎた。運転を任せている手前、これ以上のちょっかいは出しづらい。おそらくはそれも読んだ上での行動だろう。まただ。またこの男に一本取られてしまった。不貞腐れて明後日の方向を向いた一に、おっとりとしたフォローが入る。

「俺に初めて会った時、紫式部さんの同僚の清少納言さんは『あんた、その顔で良かったじゃん』って俺に言ってね。慰めたつもりなんでしょうけれど、正直傷つきました。すこーしだけ」
「本当に?」
「嘘。三日落ち込んでました」

嘘をつかない美人は好きですよ、とは車をゆるゆると停める。もう特別署の裏手にたどり着いていたのだった。ブレーキがかかり、横顔ばかりを眺めていた男がこちらを向く。『その顔で良かった』と呼ばれる顔は、正面から見てもやはり特徴を掴めなかった。

「俺の運転、どうでした?」
「普通の道なら良いんじゃない。追いかけるには不向きだけれどね」
「それで十分です」

下手にできれば面倒だと言いたいのだろう。つくづく、は見上げた物臭だった。こんな男が誰かを側近くに置いて付き合い続けることがあり得るだろうか。身一つだけでも手に余ると、切って捨てるのがお似合いのようにも見える。薄野の上を風が通り抜けるばかりであるように、受け止めず、受け取らずにいるが執着してやまないものがあるのならば見てみたかった。という男の根底には何があるだろう。

「試用期間が終わったら、弄ってみるか」

即ち仲間となるのだから。前を行くの背中をなぞるように指先を虚空に滑らせ、一はニッと笑った。




 麹町、赤坂、四谷。周辺地域をしらみ潰しに調べた結果、頼光と綱が見つけ出したのは三つの警察署の管理区域に散らばる葦原だった。目と鼻の先の出来事だというのにまるで連携が取れていないことが痛いほどによく解る。無論、そもそも交通事故は互いにリンクするものではないという前提は外せない。怪異だと認識できて初めて全ては繋がるのだ。それでも管理区域だけを見ていたならば迷宮入りだったに違いない。たまたまが出会したのは僥倖だったのだ、と一は脳内の評価に追記した。捜査において、運が良いというのも部下に必要な能力だ。遠流とまで揶揄される特別署にやって来たことを不運と言ってしまえばそれまでだが、一は純粋に星を引き当てた心地になっていた。

 見つけた後は、どう対応すべきかが問題となる。対処治療ならば簡単だ。見たままの通りに設置型の怪異であるため、手っ取り早く全て祓ってしまえば良い。だが、それでは徒らに犯人を警戒させて終わってしまうだろう。怪異から製作者を特定できない現在、現行犯逮捕こそが事件の本当の終わりとなる。その場限りの対応ではだめなのだ。

壁に貼った地図に印をつけながら、音頭取りとなった一は重い腰を上げて整理を始めた。綱、総司、、そして金時の八つの目がこちらを向いている。過去に積み重ねた事件同様の手順だというのに、掌の中がぬるついた。緊張しているとでも言うのだろうか?刃傷沙汰の凶悪犯が逃げ回っていても恐れなかった自分にしては珍しい。ゆっくりと深呼吸をし、肩の力を抜くと幾分気が楽になった。手がかりは既に綱と総司が並べてくれている。あとは得られた情報を分析し、犯人像に結びつけるだけだ。

「発生した場所は固定、それぞれ日時は全く異なる。ただ、総合して見ると必ず一日一件はどこかで事故を起こすことに決めているようだ。犯人に対して言うのも変だけど、律儀な奴だね。……何、沖田ちゃん」
「複数犯である可能性は、低いと考えていいでしょうか」

そうでないことを願っている、とは答えにくい。一の勘では単独犯なのだが、どうだろうかと視線をくれれば綱が短く頷いた。

「その可能性は低いと考えて良い。怪異の引き金になる発動呪符に残った痕跡は同一人物のものだった」
「痕跡があったってのかい?だったら登録術者から調べられるんじゃねぇのかい、綱の兄貴」

怪異には、一種指紋のようなものがある。製作者、使用者双方が残しうるものであり、同一の型は存在しない。一説によれば、目に見えない人の魂の形が現れるのだともいう。流石にこのレベルになれば、術者ではない一には全くわからない世界の話だった。故に綱は特別署顧問の安倍晴明に怪異の一部を持ち込んだのである。

「その方法は試そうとしたんだ、金時。だが、怪異と発動呪符そのものからは特徴が消されていた。おそらく怪異の元を作った人間は手練れだが、使用者――今回の犯人は素人なんだろう」

そして素人は登録されることがない。管理社会に切り替わりつつあると言っても、記録する量には如何せん限度がある。危険視されるのは力のある術者ばかりだ。だが、正しい使い方がわからない素人もまた危険ではないだろうか。人は――人はどこまで縛れば安全なのだろう。疲労も相まって関係のない思考が渦を巻く。されど束の間の迷妄は許されず、現実を見ろと次の意見がから放たれた。

「今回、事故が起きた場所ではドローンの飛行が制限されてましたよね。……あー、全てドローンを使って発動させている前提で話を進めても大丈夫ですか?」
「良い意見だ、。全てかはわからないが、確認できた限り、ドローンで呪符を弄って怪異を起こしていると見て良い。当たり前だが非登録の機体を使っている。この辺りで飛行許可が降りることはまずあり得ないからな」

ドローンはお手軽な玩具ではない。犯罪に利用されることを考慮し、法規制がたっぷり用意されている。人口密集地域や主要機関近隣での不使用、飛行可能な高さ、監視者との距離、飛行可能な時間帯など、諸々の条件をクリアするだけでなく、場所によっては地方航空局長の許可が必要となる。今回の事件現場はどれもお遊びに使うには不向きな場所だった。事故現場から円を描き、一は幾つかの候補に赤マーカーで星印を描いた。総司の直感と綱の経験を生かして浮き彫りにした犯行現場候補である。

「ドローンの飛行可能距離から推察するに、犯人が出没するのはこの辺りの可能性が高い。建物の屋上か、道路か――公園はそもそも禁止されているし目立つから除外して良いだろう。昼夜構わず人気が少ない場所にいそうだな」

あとは的を絞って張るという地道な作業が待っている。呪符をくくりつけたドローンを操作したならば、同じ痕跡がどこかに残るはずだ。

「希望の場所に向かって確認してくれ。沖田ちゃんはサポートを頼む」
「了解です」

怪異の痕跡を視ることのできぬ総司には、残ってもらうより他になかった。代わりに金時を投入するのだから、この作戦は無駄には終わらないだろう。

、あんたはどこに行きたい?好きに選んでいいぞ」
「それじゃあここで」

は中心部のやや外れ、古い雑居ビルが残るあたりを指さした。表通りは有名うどん店や大型カラオケ店などで賑やかだが、一歩足を踏み入れればどこにでもありそうな閑静な住宅街と小さな店が広がっている。奥まで実際に足を運んだことはないが、地理感のあるには思うところでもあるのだろう。こうして一とは赤坂・麻布界隈、金時と綱は永田町・四谷界隈を捜索することが決まった。

「さっさと終わらせて、蕎麦でも食べに行こう」

あの辺りには美味しい蕎麦屋もある。俄に嬉しそうな顔をしたを、一は年上の男のくせに可愛いものだと頬を緩ませた。先日、彼の運転で署まで戻った際には元々外食を予定していたらしく、捜査のために断念したことをひどく悲しんでいたのだ。もし、今日の捜索が不首尾に終わっても、何某か食べさせてやるとしよう。今からその時が楽しみでならなかった。




 自分はつくづく運が悪い。一瞬たりとも、役に立てて嬉しいなどという子供じみた感情を抱くべきではなかった。誰かに忠誠を誓っても気を使っても、自分の場合は仇になって返ることが多い。結果無関心無干渉を貫くようになったにも関わらず、特別署の人間といるようになってから昔の悪い癖が顔を出すようになりつつある。この人たち、この人のために何かできることをしたい、自分の全てを使ってみたいと忠犬さながらの勝手な気持ちを発露させてしまうのだ。甘ったるくてげんなりする。

「で、どこから見るつもり?あんたのことだ、思い当たるところでもあるんでしょ」

車に乗り込むなり、一がそんなことを言うからいけないのだ。フロントガラスに映る顔を見て、やっぱり顔が良いなあなどと好評価をつけてしまう。自分を買ってくれているならば尚更だ。もちろん買い被りだが、の中の子供は嬉しいとぴょんぴょん飛び跳ねていた。我ながら冷静になってほしい。相手はいくら色男で腕も立つ上司と言えども、根本的にはちょっと可愛げのある年下なのだ。年功序列にうるさいわけではないが、自分の方が背伸びをしておきたい気持ちはあった。つい意地やかしをしてしまうのはそのためだろう。

「六本木墓苑から見ましょう」

六本木墓苑、即ち死者のみ暮らす場所である。広く場所を確保でき、人気は少ない。夜になればまず誰もいないだろう。ついで、ここは雑居ビルやマンションに囲まれて死角も多かった。今回の犯人が実行現場にするには丁度いいだろう。他の場所の可能性も高かったが、唯一墓地を含む候補地はここのみだった。自分の稚拙な推理など当たって欲しくないと願っていたが、一はすぐさま許可を出した。どの道、今日の運転手は一である。彼が望むところに行くだけの話だ。

 途中途中道を教え、近場の路肩に停めた二人は墓苑を左右に分けて確認することを決めた。もし万が一、犯人がいたならば挟み撃ちもできるというわけだ。どうせ出くわしはしないだろう。出くわしても自分であるはずがない。

「こうなるんだよなあ」

だが、快く承諾したを待ち受けていたのは、目の前で上昇してゆくドローンと、その持ち主だった。やはり自分は運が悪い。ドローンは尋常ならざる薄い緑色のもやを纏っており、どう見積もっても怪異に関係しているようだった。

 とはいえ相手は人間だ。まずは落ち着いて任意聴取を行うとしよう。近くにいる一ならば、そう時間がかからずに駆けつけられるはずだ。ここで静かに待っていれば、勇足をして逃げられることもあるまい。スマートフォンでメッセージを送ると、は被疑者の背中を見つめた。身長は自分と同じくらいの170cm前後だろう。体型からは恐らく男性と推察される。衣類はスポーツブランドのロゴが描かれた、どこにでもあるトレーニングウェア一式で、特徴らしいものは見当たらない。

「誰だ」
「っ」

動いたのは、ではなく先方だった。黒い目出し帽にマスク。年齢や風貌はまるでわからない。不審人物として声をかけてくださいと言わんばかりの格好だ。幸いこちらも草臥れたスーツ姿で、素性はわかりにくい。数秒間で覚悟を決めると、は顔から力を抜いた。

「それはこっちのセリフでしょう。私はここの管理を任されている人間だ。売り物の確認は仕事のうちでね。で、だ。ここで勝手にドローンを飛ばされちゃ困りますよ」
「……悪かったな。他ではなかなか飛ばせないんだ」

この手の手合いには、正当性を保ちつつ下手に出るが吉だ。幸い、向こうの感触も悪くはないらしかった。ドローンが空中で八の字を描く。なるほど、自分はカメラに捉えられていたらしい。背中を向けていても気づかれた理由に今更思い至り、いよいよ嫌になってくる。ドローンにカメラがついているなどありふれた話ではないか。恥ずかしささえ込み上げてくる。

 一はどうしただろう?自分は雑用係くらいが丁度いい。ああ、柄にもなく頑張るのではなかった。さてどうしようか、と思案し始めるも何かがおかしい。普通、注意を受けた場合の反応はドローンを回収して去るか、言い訳をするかのどちらかである。男が一切構わずドローンを弄り続けていることに気付き、は一抹の不安を抱いた。目出し帽の下で、どんよりとした目が蠢く。

「ドローンを戻してくれないか?今回は不問にするから、帰ってくれ。二度はないぞ」
「あんたが本当は何者か、教えてくれたらやめても良い」
「ん?いや、私はここの管理の……」
「嘘だね」

足元に葦原が湧き、はゾッとした。右足にまとわりつく葦は、皆左側しか葉がついていない。片葉の葦――噂に聞く片端の脚だ。あらかじめ仕込んでおいたに違いない。犯人が丸腰でいるなどと、どうして思い込んでいたのか、自分の能天気さに目眩がした。

「悪い奴は嘘をつくんだ。あんた、警察を呼んだだろう」
「わっ」

犯人が喚くなり地面から脚を強く引っ張られ、は葦原に転がされていた。どうにも脚が動かない。なるほど、この怪異はこうして脚を拘束するものだったのだ。運転中に起きればどうなったかは容易に想像される。怪異自体に殺傷能力はない。あるのは彼らが運転していた、走る凶器だけとはなかなか皮肉が効いている。解決したことを伝えたくとも、一がそばにいないことは残念だった。彼には怪異が及ばぬようにせねば、とちっと脳が働き出す。犯人がドローンのカメラから一の姿を見たのだから、近づいてきているには違いない。それまで時間稼ぎをしてはどうだろう?

「うーん、俺って嘘つきに見える?」
「かなりな。それに、『これ』が視えてるなんて普通じゃない」
「じゃあ君も普通じゃないってわけだ。それに悪い奴でもある」

混ぜっ返せば操作画面を覗いていた目がこちらを向いた。その調子だ。葦原に手をついて上体を起こすと、は露悪的な笑顔を浮かべた。

「悪くはない。警察が来ても、あんたと同じで注意するのが関の山だろう。どうせ、あんたみたいに視える奴なんて大していないんだ」
「ふうん。頭が良いんだ」
「馬鹿にするな!」
「本気で言ってるのになあ」

しれっと返せば、犯人の手がぶるぶると震えた。良いぞ、そのままこちらを殴れば傷害罪だ。ただの人間としてでも拘束可能になる。犯罪行為そのものは許されないが、にしてみれば『怪異』という純粋な存在を利用した犯罪は更におぞましいものだった。怪異に責任を押し付け、罪を逃れようとしているように見えてしまう。卑怯と狡猾は表裏一体で、はただ気に食わない。

「……そこで転がって待ってるんだな。警察なんて当てにしたあんたの、がっかりする顔を見るのを楽しみにしてるよ」
「そいつはどうかな」

聞き覚えのある声が響くなり、キン、と甲高い音が鳴ってゴミクズが落ちてきた。それがドローンの残骸だとわかったのは数瞬後、ひらりと着地した一が握る刀の煌めきが目に入ってからである。判断が遅れたのは犯人も同じで、同様ぽかんと口を開けていた。今だ。絡みつく葦の力が弱まった隙を突き、は立ち上がって勢いよく犯人に組みついた。ドローンのコントローラーが地面に落ち、点々と転がってゆく。壊れていないことを切に願いたい。あれにはきっと証拠が詰まっているはずなのだ。

「離せ!」
「嫌だね」

ジタバタともがく男に辟易しながら、はもっと真面目に柔道の練習をすべきだったと後悔した。せめて寝技と受身は復習するとしよう。寄ってきた一が犯人に手錠をかけて拘束する。陸に上げられた魚同様、男は一層激しく足掻いたが、一の膂力を前にしては赤子のようなものだ。びくともしない様子に、は何かあっても、一との物理的な喧嘩は避けることを心に決めた。

「ちくしょう、畜生!悪い奴は捕まえない癖に!」
「はいはい、話はあとでじっくり聞きますよ。……お疲れ、
「……斎藤さん」
「うん」
「かっこいいですね」

正真正銘、手放しの賛辞に、一は何も言わなかった。かすかに赤く染まる耳に、はそれ以上語ることをやめた。かっこいいと言った端から可愛いと言うのも、否、そもそもかっこいい可愛いの類を話すのはおかしいだろう。また外食を逃した悔しさに、はううと呻いた。




 ふざけている。に報告書を作らせながら、一は涼しい顔をした部下を睨みつけた。一体どういう神経をすれば、あんなセリフが吐けるのだろう。口がうまいのはわかっていたが、この手のことまで滑らかに舌が回るとはしてやられたものだ。かっこいいですね、なる簡単な言葉が耳にこびりついて離れない。冗談ではなく、本気で言っていたとわかるから忘れられないのだ。

自己肯定とは、時に他者から与えられる麻薬のような陶酔感も栄養として咲き誇る。確固たる自分とまでは行かないが、そう簡単には揺らがぬ一でさえも余韻に浸ってしまう。更に言うならば、発言者に価値があると見出しているからだ。蟻に褒められても、一はそうかと流すだろう。小学生が話しても、見知らぬ美女が話しても、聞き流す自信がある。立香や近藤勇など、特別署の人間に言われたらば照れ臭くて――きっと嬉しい。自分に残った幼い気持ちを見てとって、一は頭の中の評価署に迷わず合格をつけた。

「身内の犯行となると面倒ですね」
「良いんじゃない?どうせ怪異のことは内々で処理するんだから。犯人も本望でしょ」

の声に現実に戻る。今回の事件の犯人は、赤坂警察署の一員だった。交通課で取り締まりを行う際、一も悩まされた管理区域間の揉め事、及び政治的圧力その他で有耶無耶にしようという流れを含む、事故をなかったかのようにする矛盾に激昂した末の犯行だという。怪異の入手方法は、置行堀の時のように曖昧模糊とし、未だ捜索中だ。真面目一辺倒だけで世の中が綺麗になるなら、それは楽な世界かも知れない。あるいは生きにくいと思う自分はスレているのだと一は自嘲した。

「斎藤さん、このあと時間あります?」
「用件に拠る」

が印刷を終えた報告書に千枚通しで穴を開け、手慣れた手つきで束ねてゆく。二部作ったらば割印を押して完成だ。上長承認は一が見守っているので良しとする、と言うよりも溜め込んでいたことから分かる通り、特別署は事務処理に対する興味が薄い。当初説明した際には驚いていただが、ルールに固執する性質ではないらしくあっさりと馴染んだ。こうして全てが当たり前となってゆくのだろう。もう何年も繰り返しているような心地で、一はの返答を待った。

「色男の上司に、美味しいお蕎麦屋さんへ連れてって欲しいです」
「その言い方、わざとだろう」

からかっているのかと勘繰るだけ無駄だ。キョトンとした表情からは何も読み取ることはできない。うっかり耳に入れたらしい総司が肩を震わせている。後で彼女には、頼光から本気の道場稽古をつけてもらうとしよう。

「だって、ご褒美くれるんでしょう?犯人連れて行く時、言ってましたよね」
「……確かに言ったけどな、もう少し言い方ってもんが」
「部下に嘘をつくのは悪い手本だぞ、斎藤。お前が忙しいなら、俺が連れて行こう」
「やった!」

冗談の通じぬ綱が気を利かせて来たものだから不味い。どう転んでも美味しい蕎麦が食べられる、とはご満悦である。どうせこの男は平気で綱のこともかっこいいと言うに決まっている。事実、綱は二枚目の看板にふさわしい。自分と比較するつもりはないが、掛け値なしの賞賛を横から掻っ攫われるような心地で気分が悪かった。四十路近い部下に自分は何を惑っているのだろう。とっておきの蕎麦屋に連れて行って、驚かしてやりたいなど思う自分はどうかしている。

「大丈夫です、綱さん。ほら、行くならさっさと行くぞ」
「はい」

のんびりとした声が耳に心地良い。は何を注文するだろう。天ぷら、月見、それともおろしか。しばし考え、答えは一つだと閃いた。答え合わせが今から楽しみだ。バス停までの道すがら、賑やかさに花を添える練習でもしているのか、狸囃子がそこここで鳴り響いていた。

たぬき蕎麦一辺倒だったが、コロッケ蕎麦を注文するようになったのはこの日以来のことである。


〆.


あとがき>>
 あけましておめでとう!!!!前作を楽しんでくださった(狂気を共有してくださった)方々、ありがとうございました。一作目の後仰天すること多々だったため、大丈夫なのか不安ですが、新年早々の二作目です。運転や注文する食べ物など、ちょっとしたことから相手の性格を読み取るのは面白い……し、そんなことをし始めた時点で大分興味を持っているのではないでしょうか。そうだと良いなあと願っています。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました!