思い込んだらまっしぐら。
東京府特別署異聞〜不忍池の恋煩い〜
怪異とは、元来自然発生的に存在し、人によって尾鰭がつき、その勢いを強めて世に影響を与えるものである。現代においては人に飼い慣らされたと言えども、だからこそ悪意ある利用という危険に晒されることにも繋がっていた。例えば手のひら程の鬼火は、安全灯代わりにと贈答品の定番でもあるが、火力を上げれば火のないところに煙を立たせる付け火の元となる。恋愛成就の呪文や、予言電話といった可愛らしいものならばともかく、実害が出るものはいただけない。事件性を帯びた怪異が発生した時、解決の窓口となるのが警察署の中でも幻と呼ばれる東京府特別署だった。
「だからって、便利扱いにも程があると思いますけどね」
「お疲れ様、沖田ちゃん。綱さんもお帰りなさい」
「ああ。ただいま帰参した」
特別署署長の藤丸立香は、玄関口に立って微小な怪異に駆り出された部下の沖田総司と渡辺綱を労った。二人が今回向かったのは、交通事故の相次ぐ向島である。どうやら黄昏時になると信号機の位置が変わってしまうらしい。先日の片葉の葦と言い、楠邸の木霊と言い、どうやら設置型の怪異が出回っているようだ。パトロールカーという免状を手にした綱の敵ではない。信号が切り替わる前に綱の運転に追いつかれ、見事犯人逮捕とあいなったのである。目の良い総司が、信号機の違いを見分けたことも大きかった。
「沖田の言う通り、ここ最近寄せられてくる案件数の増え方は多すぎるな。呪いの個人市場が活発化していると、晴明殿が仰っていた」
「うん。晴明さんの見立ては正しいと思う。私も見てみたけど、普通は市場に出ないものまでオークションサイトに出ていたよ」
こちらは見つけ次第、坂田金時に伝えたので、土方歳三と共にゴールデンヒュージベアー号に乗って調査に出てもらっている。こうしたものは、実害が出てからでは遅い。善は急げなのだ。立香自身は源頼光を始めとした四天王の如く魔を祓う力も、新撰組の面々のような人間を払う力もない。だが、自分なりにできることとして幼馴染のマシュ・キリエライトと二人三脚で事件の情報を集めていた。
今日は目ぼしい事件の棚卸しを、頼光と斎藤一と共に進めている。書類の山に埋もれ、時にPCの画面に向かって頭を抱える二人の姿は涙ぐましいものがあった。正直、立香としても彼らには伸び伸びとその力を奮ってもらいたい。特に一の方はどうにも気が立つのか、時折唸り声をあげていて見るも哀れである。数ヶ月前、彼らよりも余程書類扱いが得意な部下・を新たに迎えたのだが、生憎不在であることも関係するだろう。多分、彼ならば一人でやりますよ、と喜んで対応してくれたに違いない。つくづく惜しい話だった。などと思い出していたらば、自席に戻った総司が同じことを指摘した。
「あれ?さんって、今日非番でしたっけ。斎藤さんを置いていなくなるだなんて珍しいですね」
「さんには、龍馬さんのところに行ってもらっているんだ。気になる話を聞いたからおいで、ってお誘いを受けて」
公安部からの信頼が何故か厚い坂本龍馬は、探偵業を営む一市民である。数々の不可解な事件を解き明かす中で、怪異にもたびたび遭遇――もとい、彼らもまた怪異の一部と言える――し、特別署と縁を結ぶことになったのだった。以来、彼らとは共同戦線を張る関係である。今回は立香自ら行こうかと思ったが、奇遇にもが龍馬は自分の知り合いだからと名乗り出たのだった。新人といえども、そろそろこの程度のことは一人でこなしてもらっても良いだろうと送り出したのは、単に彼の成長を願ってのことである。が、が就任して以来つきっきりで指導してきた一には面白くない事象らしかった。
斎藤一は物腰柔らかに見えるものの、実際は冷静で慎重な人物である。これまで本部から幾人もの思惑を秘めた人物が送られてきたが、一人、また一人と一によって丁重に排除されていた。お陰で金時以降に新人が入らない上、警察署の間では東京府警察署そのものを怪異として噂されるようになる始末である。実際、入り込んできた人間はどれも良い人物ではなかったので、対応自体は正しい。そんな中で、はようやく試用期間を乗り越えられた唯一の人間だった。
は、立香同様に祓う力も払う力も持たない一般人で、よくわからないものに取り憑かれてもいる。だが、少なくとも一はだいぶ気に入っているらしい。立香の目から見ても、このところは休日に一緒に出かける(それも美術館にだ、信じられない)など良好な関係である。一昨日には一の見立てで買ったシャツをが皆にお披露目していた。なんでものクローゼットに、不思議な柄のシャツばかり詰まっていることが上司として見過ごせなかったそうである。今までも変な服を着た人間は多かったはずだが、一度も気にしたことがなかった、というよりも箸にも棒にも引っかからない様子を見せていた一の変貌に、署内の人間は動揺を隠せなかった。何にせよ、上司と部下が仲良く過ごしているのは良い。
立香の説明に、総司はニヤリと笑って頷いた。
「なるほど。斎藤さんはそれで機嫌が悪いんですね」
「誤解を招くような言い方は感心しないなぁ。がいないことと僕の機嫌になんの関係もないでしょ。目当ての書類が見つからなくてイライラしてるだけだよ」
「がいれば、すぐに見つけてくれたのでしょうね」
頼光の優しいフォローは、かえって傷口に塩を塗りつけるようなものではないか。立香の懸念通り、一はううと低く唸って眉間に皺を寄せた。どんな時でもへらへらとした人間にしては実に珍しい。理由は何であれ、一も大事な部下であり仲間だ。に早く帰ってきて欲しいと願いつつ、立香は今日の業務を終えて夕飯にしようと部下たちに号令をかけた。
趣味のいい人間が好きだ。今更のようにそんなことを考え、は革張りのソファーに腰掛けていた。呼び出しを受けて向かった、坂本龍馬探偵事務所もまた趣味がいい場所であり、住う人間たちも好ましい。久方ぶりに会う友人に笑顔を向けると、は出されたブランデー入りの紅茶に舌鼓を打った。ティーカップではなく、龍馬の妻であるお竜が手ずから作った焼き物のボウルというところがまた面白い。縄目のような紋様を撫でると、は呼び出し主に要件を促した。
「君の配属が変わってから、一度も顔を合わせていなかっただろう?立香君のところでうまくやっているのか、気になっていてね」
「親よりも心配してくれてありがとさん。うーん、まあまあ役に立ってるんじゃないかな。もしかして署長から苦情でも来てる?」
「ちゃちゃ。なんちゃあない。はようやっとるき、いらん心配すな」
龍馬の相棒である岡田以蔵が太鼓判を押してくれているならば、安心しても良いだろう。以蔵はこの手のことで嘘はつかない。ならば本当に顔を見たかっただけなのか。まだ口を開いていないお竜に目を向ければ、壁に寄りかかっていた美女はぬらりと動いた。
「お前、まだ憑かれてるのか」
「まだじゃなくて『また』ね」
ずず、と行儀悪く紅茶を啜るのに合わせて、背中がもぞもぞする。以降は本当に一瞬の出来事だ。お竜が遠慮会釈なくシャツを引き剥がし、逃げ出そうとしていた形代をはっしと掴む。ビチビチと跳ねる形代は、もはやお馴染みとなった灰色の目を大きく見張っていた。
「そうか?あいつと似た匂いがするぞ」
「匂い、って言われてもねえ」
「……ほうじゃ、坊さんみたいなかざがするのう」
お竜が言えば、以蔵も近寄って形代を嗅ぎ出す。対象が自分ではないのだが、妙な羞恥を覚えては明後日の方を向いた。僧侶のような匂いに取り憑かれた自分、そして龍馬とお竜と以蔵の三人に囲まれているこの構図は、確かにこの四人が出会うきっかけとなった過去と重なる。
「やっぱりあのトカゲ男じゃないのか、これ」
「トカゲって、賀茂光栄(かものみつよし)さんのこと?まさかまだ会ってるのかい、さん」
「あれきり一度も会ってない」
懐かしい名前に苦笑しながら、は心のどこかで自分が知っていたことに気づき愕然とした。自分に取り憑く形代と言えば、まず想像される相手は賀茂光栄だろう。忘れていたわけではなく、完全に思考の外に置かれていたのは、第三者の作意を感じる。寧ろそうでなければ説明がつかない。楽しい気分は何処へやら、今やの頭の中をガンガンと警報が鳴り響く。
全ては六年前から始まっていたのだ。
東京府特別署に配属される六年前、まだが愛宕警察署に所属していた頃のことである。宮内庁から一人の陰陽師が派遣されてきた。愛宕警察署の管轄区域には重要施設が多く、警備のために差し向けられたのである。当時も気軽に便利屋扱いを受けていたが、宮内庁との伝書鳩を担っていた縁もあってこの陰陽師・賀茂光栄の世話をする運になったのは当然の流れだった。他意はない。
正直に言おう。ツンとすました、いかにもエリート街道まっしぐらですという爬虫類系男子に振り回されるのは、にとって悪くない日々だった。物珍しさも手伝って、この陰陽師でも生え抜きの家柄である賀茂家のお坊ちゃんも満更ではない様子である。二人は出会って数ヶ月で同棲するまでの仲になり、先日夢にも見たように理想的な生活を送っていた。と、は思い込んでいたのだ。
「おい、起きろ!」
光栄と付き合い始めて一年近くになった頃か。ある時、はふわふわとした夢からいきなり叩き起こされた。見れば怖くなるほど美しい女性の顔が眼前にあり、息を呑んだところで男性二人に囲まれた。あたりは真っ暗で、自分はどういうわけか仕事用のスーツ姿である。記憶にある限り、自分はパジャマに着替えてゆったりと眠っていたはずだ。こんな場所に立っている謂れがない。もしくはまだ自分は夢の中にいるのだろうか?ぼんやりした脳みそに、美女はグサリと鋭い声を刺した。
「お前、取り憑かれてるぞ」
「お竜さん、もう少し説明しなくちゃ。びっくりしてるよ。……驚かせて悪いね。君、名前は?」
白いスーツ姿という、これまた周囲から浮いた様子の青年に優しげな声をかけられ、は完全に覚醒した。一体自分は何をしていたのだろう?手に得体の知れない筒とスコップを握っていて、夢遊病にしても首を傾げる不気味な状態だった。目つきの悪い青年に促されるままそれを渡せば、横合いから筒の方だけ先程の美女が奪ってゆく。何やら言い合いをしているが、もはやそれどころではない。
「あー……です。すみません、俺は一体何を」
「あったぞ、龍馬。人形じゃ」
目つきの悪い青年が筒の中身を掲げてみせる。禍々しい、古びた人型の木片があった。どう見積もっても良いものではないことは明白で、は揉め事に巻き込まれているのだと、この時はっきりと自覚した。坂本龍馬と名乗った白スーツの青年は言う。自分は公安より依頼を受けて、内閣府近隣に蔓延る怪異の源を探っている最中である。禍々しい結界の根本をたどっている最中にに気がつき声をかけたのだ、と。
「君は操られていたんだよ。傀儡としてね」
「トカゲ男だな。トカゲ男の匂いだ」
「ほうがか?わしには、坊さんみたいなかざしかせん」
「ナメクジは鼻が悪いからな。わからなくて当然だ」
「おまんが規格外なだけじゃ!誰が鼻がきかんちゅうちゃか」
ギャアギャア喚き始める美女と青年に気圧されるに、龍馬は切々と事情を教え、必要な情報を聞き出して行った。かくてここに悪事が露見したのである。光栄はを使い、内閣府近在に禍を齎す怪異の発生を準備していた。目的は、安倍晴明及び安倍家が制する宮内庁陰陽寮の統帥権奪取である。かつて、陰陽寮は賀茂光栄が所属する賀茂家の支配下にあった。ところが彗星の如く現れた安倍晴明という天才により、賀茂家は瞬く間に次席に追い込まれてしまう。次期当主候補であった光栄は一計を案じ、内閣総理大臣たる藤原道長への恐喝を試みたのである。
全て内々に解決しようとする役所の思惑もあり、事態は遅々として判明しない。ここで龍馬達外部機関が投入されたのだと言う。市井の事件ではないので、東京府特別署は蚊帳の外だった。光栄は未だ弱輩であることから太宰府へ遠流、彼に与した一派は公職を解かれ、適宜必要な責を負わされることとなった。死罪にならなかったのは、国家転覆を図るにはあまりにも小さな事件であったためである。長年国を支えてきた賀茂家への配慮もあるだろう。狙われた晴明も、何を考えたのか助命嘆願をしたとも聞く。
光栄の恋人のつもりが、すっかり便利扱いされていたは?もちろん裁きの対象となるはずだった。何も知らぬとは言え、結果的に警察署内の情報を漏出させ、計画の完遂に助力したことに変わりはない。辞職だけで済めばいいとさえ当人も思っていたが、酔狂にも身元引受人になっても良いと申し出る人間がいた。大手町警察署署長の藤原伊周(ふじわらのこれちか)である。
伊周は道長の甥っ子であり、を東京府特別署へと転属させた有力人物だ。青天の霹靂とばかりに現れた伊周は、所詮は人畜無害な一般人、くれぐれも光栄たちに関わらぬよう気をつけよとに命じ、保護観察処分とした。要するに右から左へと操り手が変わっただけの話とも言える。一説によれば、伊周は道長と仲が悪く、今回の事件に密やかに関わっているのではないかと噂もあったが、真実は杳として知れない。はすっかり疲れ切り、民間側の監視役たるお竜・坂本龍馬・岡田以蔵の三人組と語らうのが束の間の癒しの時間だった。あれきり恋もしていない。人を見る目がない自分にもほとほと飽きた。
「俺は今、あいつが何をしているかも知らないよ」
「……何か忘れていることはないかい。ほら、あの頃君は記憶があちこち抜けていただろう。その隙間に接触した可能性はある」
龍馬の冷静な言葉に、は懸命に記憶を掘り起こすべく眉間に皺を寄せた。彼が指摘した通り、光栄の傀儡となっていた頃のはまま記憶が抜け落ちていた。当時は物忘れが激しくなっただけだろうと気にかけていなかったが、自分の意識を手放して他者に操られていたとなれば頷ける。思えば時間を無駄にしていたものだ。大手町署にいた頃には蘆屋道満に監視されていた(と思われる)ので恐らく問題はなく、実際形代も見かけていない。特別署に来てからは年中監視されているようなものだが、と考えははたと気が付いた。トランクだ。
「持っていたトランクから、これと同じ形代が出てきたんだ。今は紫式部さんに調べてもらってる。前から持ってるものだけど、今思えば光栄がくれた奴だな」
「六年前から仕込んでいたんだろう。トカゲ男のやりそうなことだ」
執念深いからな、とお竜が笑う。先日会話を交わせたことからして、形代の向こうで光栄が今のやりとりを聞いてるのではないだろうか?ならば今はどんな気分だろう。否、賀茂光栄という男はあんな話ぶりをする相手ではなかった。仮初とはいえ、恋人として生活していた経験からすんなりと納得がいかないものがある。この道の専門家ではないことを今更のように後悔しつつ、は光栄の動きを探るよう龍馬に依頼した。
「心配しなくても、この事務所にはどんな盗聴も盗撮もできない結界を晴明さんが張ってくれたから大丈夫だよ。調査も任せてくれて良い。元々、別件と関係があるかも知れないって、以蔵さんに探ってもらっている最中だったからね。九段下でまた剣呑なことが起こりそうなんだ」
九段下は、旧帝国軍にまつわる遺物管理を行う機関を指す。なんでも、第二次世界大戦中に陸軍中野学校ではとある呪術の研究が盛んであったらしい。近年市ヶ谷で再度実験が行われたとの噂もあるが、真偽の程は定かではない。過去の夢を追いかける人間はいつの時代も存在する。龍馬のような人間が駆けずり回る日は潰えないだろう。
「代わりと言っちゃなんだけど、。君たち特別署として、民間に寄せられた怪異を一つ調査して欲しいんだ」
「政治家の嬢ちゃんに押し付けられた奴じゃき、頑張りとうせ」
「タダじゃないとは思ってたよ」
自分が任せるものよりは余程軽いに違いない。お竜から資料を受け取ると、は上機嫌で読み始めた。ちょうど良い息抜きになりそうだった。
「怪異じゃないね」
「ですよね」
が坂本龍馬探偵事務所に出かけた翌日、一は部下のおっとりとした返答に顔を顰めていた。一体いつまでたむろしているのかと思うほどに昨日は帰りが遅く、かと言って門限があるでなし、出待ちもできずにヤキモキしていたのがアホらしくなる。なかなか寝付けずによく眠れなかった責任をとってもらいたい。が朝一番に立香に龍馬からの伝言などを連絡し、次に自分のところまで来るまでの時間も無性にイラついていた。
昨日はなかなか楽しい一日を過ごしたらしい。元々は龍馬達と旧知で、情報交換も兼ねて出向いたのだという。結果それなりに満足のいくものが得られたと立香は喜び、ついでにどうでも良いお使いがおまけに押し付けられた。なんでも、龍馬がさる政治家の御令嬢に寄せられた怪異らしい。大方、坂本龍馬に好意を寄せた女性による話題提供の一環だろう。どう言うわけだか、あの食えない白スーツは女性に人気なのだ。すこぶるつきの美女を隣に侍らせていると言うのに、引も切らないのだから恐れ入る。
「龍馬君は話しやすいですし、面白いですから。人気が出るのも頷けますね。それにしても、この怪異は可愛いなあ。きっと龍馬君と話たくて必死なんでしょうね」
「『不忍池で意中の人とボートに乗ると、ボートが転覆する。または、不快な現象が起きたことにより、二人は決して結ばれることはない』ってさ。ただのジンクスも良いところだよ。ボートにしたって遊園地にしたって、あちこちで出回ってるこの手合いの話は、ただのこじつけだ」
龍馬君、という親しい呼び方に引っ掛かりを覚えつつ、一は冷静さを保って考えを披露した。世に出回る怪異の噂は多いが、実際怪異であることは少ない。げに恐ろしいのは生身の人間という証左の一つだろう。恋人や意中の人と縁が結ばれなかった原因は、大方何もすることがない状況を長時間保っていられなかったという事実に過ぎない。人生の大半は、その何もない時間を共に歩むことによる。そうした意味では、と並ぶ待機列――先日は共に話題のパフェをつつきに出かけた――は悪くない時間だった。手持ちぶさたをそれぞれスマートフォンを取り出し、孤独に埋める他の人々に虚しさを覚えたのは記憶に新しい。
「未練があればあるだけ、受け入れ難い話ですからね。怪異のせいにしたくなる気持ちもわかりますよ。この件、折角なので署長と出かけて来ます」
「は?なんで署長ちゃんがここに出てくるのさ」
「先ほど報告した際に、怪異でないのならば、非戦力の二人で向かった方が良いだろうという結論に達しました」
用意周到な部下の返事が恨めしい。の上司にしてお目付役は自分なのだ。せめて相談の一つくらいあっても良いではないか。そもそも万が一本当に怪異であったらば、立香の身を危うくすることになる。チラリと立香の席に目を向ければ、にこりと微笑み返され、一はもはや覆せない状況であることを悟った。
「俺が学生の頃から有名な噂ですしね。問題があれば、ボートの貸し出しなんてしませんよ。ちゃっちゃと終わらせてきますね」
行ってきます、と言うは実に晴れやかな顔だった。自分が役に立てるという事実が嬉しいのだろう。一よりも幾分年上なのだが、時折見せる素直な感情表現は驚くほどに幼い。可愛く見えてしまうのは、上司としての欲目だと自覚していた。四十路近い男に可愛いも何もない。
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
このまま一緒にいたらば、感覚が狂ってしまう。小さくため息をつくと、一は快く部下の背中を見送った。その言葉を合図に、立香も立ち上がって二人して出かけてゆく。万が一、いやそんなことはないだろう。二人は恋人に見せかけて調査をするつもりだろうか?下手をすれば親子に見られかねない年齢差なので、他の恋人たちの様子を観察するはずだ。都合よく対象がいなかったならば?
「……藤。斎藤」
「ぅぇえ!土方さん、急に大声で話しかけないでくださいよ。びっくりしたじゃないですか」
苛立ちと不安とで悶々としていた矢先、思考に雷鳴が入り込む。思わず背筋を正せば、土方歳三が珍しくニヤリと笑みを浮かべていた。
「何度も声をかけたのに、お前がぼーっとしてるからだ」
「すみませんね。少し考え事をしてたもんで」
「まあ良い。この案件の捜査を頼む」
今度こそ怪異か。あるいは厄介な人間か。果たして歳三から渡された資料は――
「『上野東照宮に偽僧侶が出没している。職務質問をしようとすると、狸に変身するため捕まえることができない』」
「近頃、坊さんに扮してお布施を騙しとる手合いが横行しているんだ。元締めはヤクザじゃないかという情報もある。ただ、肝心の犯人が捕まらないんじゃ話にならねぇからな。渡辺と行ってくれ」
「わかりました」
上野東照宮は、奇しくもと立香が向かった不忍池の程近くである。きっと自分の事件は綱と組めばすぐに終わるだろうし、帰りがけにあの二人を拾うことだってできるだろう。あるいは様子も見られるかもしれない。さっさと席を立つ綱を追いかけて、一は今日のスケジュールを組み立てた。
上野。それは、近代に開発された最先端の文化の始まりにして啓蒙の地である。これほど多くの大規模な博物館・美術館が一堂に会する場所は、日本でも唯一だろう。公園があり小山があり、寺社があってパンダもいる。まさに至れり尽くせりだ。西洋料理を遍く広めたのもまたこの地から、とも聞く。ならば、現代においても一大行楽地として老若男女を魅了するのも不思議ではない。改札口から既に見える人の波に、は早々に辟易していた。
「人が多いですねえ」
「本当にね。今日はお天気もいいし。あ、ほら幼稚園の子達だ。きっと動物園に行くんだね」
立香もいささか気圧されたように頷く。彼女が指差す方を見れば、青いスモッグをまとった小さな子供たちが手を繋いで歩いていた。自分と立香も親子に見えるだろうか。ギリギリそうではないことを願いながら、は今更のように今回の調査方法に疑念を抱いた。怪異は恋人たちか、あるいは意中の相手と乗り合わせているボートに訪れると御令嬢は主張している。が昔聞いた話も同じようなものだ。ただのジンクスだとしても、検証は一通りすべきだろう。
迷っているうちに不忍池に辿り着いてしまい、は葉が枯れて無惨な蓮池を目にした。不忍池は、弁財天を祀る中之島を中心に据え、三つの池に分かれている。夏に蓮が一面に咲く蓮池、川鵜が住まう鵜の池、そして行楽の場であるボート池だ。幸にして、平日の昼過ぎにも関わらずボート池にはチラホラと仲睦まじい人々が浮かんでいた。仮に自分たちがそれらしく見えずとも、かの弁財天の悋気に当てられる人間は他にもいるだろう。先に料金表を眺めていた立香が、嬉しそうな声をあげて呼びかける。
「どのボートにしますか、さん。スワンボートもありますよ」
「署長。恐らくカップルはスワンボートには乗らないと思いますよ。……すみません、ローボート貸してください」
「はい、どうぞ」
船着場でチケットを切ってもらい、何時までに帰るようにと目安を告げられる。ひとまずは三十分もあれば良いだろう。赤く目立つ色合いのボートは、川藻のためか緑を帯びた水の色によく映えていた。慎重に乗り込み、立香が乗るのを手伝う。上着を脱ぐと、は軽く肩を回した。立香はややしょぼくれた様子で、は思わず頬を緩めた。
「やっぱり駄目?」
「2周目に乗りましょう」
他の特別署の人間を見て思っていたが、つくづく皆この署長に甘い。だが甘やかしたくなる気持ちもよくわかる。ぱあっと顔を輝かせた立香の頭を知らず撫でると、さらに顔が綻んだ。やはり自分たちは歳の離れた兄妹に見えるのがせいぜいだろう。この少女に恋慕の情を持つのは些か難しい。
「ボートなんて久しぶりなんで、ゆっくり行きますよ。周りをよく見ててくださいね」
「アイアイ、船長!」
現金なものだ。オールを動かし、水をかいてゆく。こうして水の中にオールを突き入れると、途方もない力を感じるのが不思議だった。ぽっかりと開けた空が、青く澄み渡って美しい。まるで都会の一部をくり抜いてしまったかのようだ。遠く動物園から動物の鳴き声が聞こえてくる以外はしんと静まりかえっており、都心部とは思えない。時間いっぱいぐるりと回れば、気分も晴れやかになるだろう。池の真ん中まで進めた頃、立香は目ぼしいものは特にないと唸った。その横顔はどこか残念そうで、普段支援や監督に回る彼女の悩みが浮き出る。元々、立香はごく普通の学生だったと聞く。遊びたい盛りであり、好奇心の塊でもあった彼女が、責任ある地位につき市井を怪異犯罪から守ることを旨とするには複雑な事情があるに違いない。
「さん。一ちゃんとは上手くいってるかな」
「問題はありませんよ。寧ろ俺が足を引っ張ってるばかりで申し訳ないです。斎藤さんはいい人ですね」
「足を引っ張るなんてまさか!さんが来てくれたおかげで、ずっと溜まってた書類も全部片付いたんだよ。他の役所とのやり取りも引き受けてくれてとっても助かってるしね。一ちゃんの下についた人で、こんなに長く残っている人は初めてで……もっと胸を張って自信を持っていいと思うよ」
「ありがとうございます。でも、本当に不思議ですね。俺なんかが残って、他の人は駄目だったっていうのは妙だな」
が知る限り、斎藤一という男は人付き合いが上手い。そして、特別署に派遣される人間は、どんな思惑があれどもよりもよほど優秀な見込みある人物のはずだった。自分が送り込まれたのは伊周の奸計の一環だろうが、それにしたって都合のいい捨て駒程度の扱いでしかない。
「うーん……一緒にいて働きやすいと思ったからじゃないかな。ほら、どんなにできる人でも、働きづらかったら効率が悪いよね。私も怖い人は嫌だなあ」
「働きやすい」
「そう」
褒め言葉としては上級の部類に入る。しかも一はが上司として十二分に認めている人物だ。思いもよらぬ嬉しい言葉に、は柄にもなく喜びを噛み締めた。
「今日は風も穏やかでちょうど良かったですね。どうです?気になる船とか、ものとかありましたか」
「特に気になるものはないかな。ねえ、さん。さんが好きな人ってどんなタイプ?」
「は?え、なんです急に」
唐突な質問に、思わずボートをぐらつかせてしまう。対する立香は目をキラキラさせて、この上なく楽しそうである。彼女の身に何か起きればすわ自分の命もないようなものというのに、呑気なことだ。冷静な立香が語るに、恋愛感情に影響を及ぼす怪異であれば、恋愛譚も効果があるのではないかと幼馴染のマシュと話したらしい。半分は事実で、半分はこじつけだろうな、と思うもは頷くだけにとどめた。なべて、純粋な生き物は可愛らしい。いい歳を重ねた自分が多少応えても罰は当たるまい。
「なるほどね。おじさんの好みなんて聞いて、面白いかわかりませんが、お話しするとしましょう」
「やったー!」
「落ち着いてください、署長。そうだな……昔は手間がかかる子が好きでしたね。なかなか懐かない子とか、我儘が多い子とか」
「言い方が大人だね」
「大人ですからね」
この少女は一々物言いが面白い。他の人間であれば笑って以降は無視するところ、は朗々と続けた。
「世話したり、気にかけたり、振り回されたりするのが楽しかったんでしょうね。でも今は疲れちゃったから、もう無理かな。他の人を気にする余裕がないんです」
例え自分だけの幻想と言えども、光栄との日々は甘く残酷に毒を与えてくれた。肉体的にも精神的にも辛くなるくらいなら、自分も、他人もどうだって良いとさえ今は思う。近頃では少し前向きにはなったものの、恋や愛を語る気持ちは自分にはまだない。
「そっか。疲れた時には、少しお休みした方が良いものね」
「ま、好きになったら話が別かもしれませんよ。一回お付き合いしてみて気分が変わることもありましたからね」
しんみりとした空気をかき混ぜるべく、嘘と本音を流し込む。立香に要らぬ心配はかけたくはない。実際、自分は流されやすい性質なのだ。人生何が起こるかわからない。一度好きだと認識したらば、ずっと好きでい続けるような気もする。光栄のことだって、多分まだどこか慕わしく感じていた。
一には、そう想える相手がいるだろうか。近頃では休日の暇つぶしにも同行する程に世話になっているのだから、多少プライベートで恩返しをするのも良いだろう。幸にして合コンを開ける程度のツテはまだ持っていた。
「署長。斎藤さんの好みって知ってます?」
「え?」
今度は彼女が驚く番だった。
一体何が起きているのだろう。立香は池の中で、自分一人が放り出されたような心地になっていた。確かに自分はと一が休日も仲良く過ごしていると思う。あの斎藤一が他人のために服を選んでやるなど前代未聞だし、総司も天変地異の前触れだと請け合った。他にも諸々あるが、この二人は妙に距離が近い。深読みするには十二分な情報が揃ってはいたが、立香はごくごく理性的に二人の関係を観ると決めていた。
「署長。斎藤さんの好みって知ってます?」
「え?」
その矢先に、からの質問である。自分は何か試されているんじゃないか、と勘繰るのも不思議はないだろう。の灰色の目はどこまでも澄んでいて、他意は感じられない。仕方なしに意図を尋ねれば、やはり表情を変えずに返された。
「いや、これだけお世話になってるのに、上司の休みを潰すのはどうかと反省したんです。せめて誰かいい人を紹介したり、合コンに誘ったら気分転換も兼ねた恩返しになるかもしれないと……署長?」
「ごめんね、さん。一ちゃんはそういうの嫌がるかも、というかどんな顔して出るんだろうなあって思ったらちょっと面白くて」
立香の頭の中では、合コンを持ちかけられた一が死ぬほど嫌そうな顔をしていた。なんで好き好んで女の子のご機嫌取りをしなくちゃいけないんですか?できますけど、僕はやりたいようにやらせてもらいますよ、くらいの憎まれ口は叩くに違いない。あの男は強制されることが何よりも嫌いだ。一見御しやすそうな物腰の柔らかさだが、己の信念を曲げることはない。その旨を説明すれば、も釣られるようにして笑った。
「一ちゃんはね、さんと遊びたくない時まで無理に遊ぼうとはしないと思うよ。それとも、さんは一ちゃんといるのは嫌?上司だから断りにくいなら、私からそれとなくお断りするよ」
「嫌じゃない、ですね……嫌じゃない……もしかしたら、嫌じゃない方が不味いかな」
「え?」
「大したことじゃないですよ。そろそろ時間だ。スワンボート、乗りますよね?」
「はい!」
重要なことをはぐらかされたような気がするが、この大人は簡単には口を割るまい。力強くボートを漕ぐを眺め、立香は改めて不忍池という都会の楽園を満喫することにした。どのボートも、ほんの少し傾ければ水の中に落ち込みそうなものを見事なバランスを保って浮いている。不穏さはどこにもない。中之島の弁天堂を参拝する人間もいれば、向こうの散歩道を行き交う人々も目に入る。ずらりと屋台が並ぶ向こうは、恐らく神社があるのだろう。色とりどりの屋台の上に、ニョッキリと大きな鳥居が聳えていた。
立香は縁日の賑やかさが好きだった。この場限りと定められたために凝縮された明るさ、日常の中に溶け込んだ非日常という物語を共に楽しもうと一時人がより集まる平和さは一種幻想的である。階段を行き交う人々は、現実と架空の桃源郷を出入りしているのと同じなのだ。どんな人が来ているだろうと順繰りに目を走らせていると、不意に小さなものが階段を転がり落ちてゆく。猛然と蠢くそれは、屋台の屋根の上を飛んだり、はたまた射的の景品台に当たったりと散々だ。
「さん、あれ」
「斎藤さんたちですね」
「あ、本当だ」
どうやら二人は見ている場所が違っていたらしい。が示す方を見やれば、一と綱とが階段を跳ねるようにして降りている真っ最中だった。手に手に白刃ならぬ、大きな虫取り網のようなものを握っている。恐らくあの小さい生き物を捕らえようというのだろう。こんなに近くで二人に任せた案件があっただろうか。
「俺たちも追いかけましょうか」
「うん!」
ボート乗り場に急いで横付けし、タラップを駆け抜ける。折よく小さな生き物は、池のほとりをぐるりと回ってくるところだった。何か捕まえる道具はないか、何か、何か――はっ、と目に入ったのは今川焼きの屋台に添えられた幟だった。
「おばちゃん、ちょっと借りるね!」
少しでも時間が稼げれば良い。一と綱の声がする。幟を大きく振りかぶり、立香は茶色い毛玉に向かって振り下ろした。
人生万事塞翁が馬とはよく言ったものだ。一は、古馴染みの人間が折に触れて話していた故事を思い出してしみじみと感じ入った。権現様もこの展開は読めなかっただろう。立香とが睦まじく毛玉、もとい狸和尚を突いている様を眺め、一は今日の出来事を振り返った。
歳三の依頼を受け、綱と共に上野恩賜公園は上野東照宮に辿り着くのは容易いことだった。道のりは順調、綱の運転もいつも通りに冴え渡っている。やはり自分とは運転の趣味が異なると思うも、腕の良さは一も認めざるを得ない。おまけに日頃積んだ徳が実ったのか、境内では噂の偽僧侶が外国人観光客にまとわりついている最中だった。
「すみません、ちょっとお話しを伺っても良いですかね」
あくまでも普通の職務質問の体で声をかけ、僧侶資格証明書か身分証明証を見せて欲しいと依頼する。ここで見せられないならば、近場の警察署まで任意同行を願うばかりだ。綱が宗派を聞き、目的をつらつらと聞くも、相手の説明はなかなか淀みない。これまでも何度も受けてやり過ごしてきた自信がそうさせるのだろう。元々、宗教家の類には懐疑的な一だったが、完全なる詐欺師の香りを漂わせる手合いには反吐が出る。
だが、食い下がる一と綱の様子に段々と相手の雲行きが怪しくなってゆく。さらに詳しく話を聞きたいのだと、同行を願い出たところで突如僧侶が走り始めた。裾を翻し、深く被っていた笠を二人に向かって投げつける。あれよあれよと言う間に姿は小さくなり、寄せられた情報のままに僧侶は狸の姿になりかわった。
「やはり狸和尚だったな」
綱が腰の刀に手を掛ける。一般人が多く遊興に耽る中での抜刀は不味いだろう。まだ日が高いのだ。釣られて抜刀しそうになる手を押さえ、一もまた走りながら綱を嗜めた。
「殺さないでくださいよ」
「手加減はするさ」
返事ばかりは良いが、あまりにも勢いが強い。道すがら露店から虫取り網と投網を掴み追いかけるも、地の利がある狸はなかなかどうして素早い。元来狸はここまで早い生き物ではないだろう。怪異の力を得た証だ。人体を改造する類の怪異は基本的にご禁制のため、既に違法行為として取り締まれる状況である。一つ一つ罪を数え、押さえ、山を降りて急な石段を駆け降りる。縁日の賑やかさが忌々しい。眼下に広がる不忍池を見れば、きっとと立香もこの状況を謳歌しているのだろうと些か暗い気持ちにさえなった。一体今、二人はどんな顔で会話をしているのだろう。
「斎藤さん、渡辺さん!」
願いが届いたのか。池のほとりをぐるりと回って追いかけっこをした先から、懐かしい声が耳に飛び込んだ。立香が大胆にも振りかざした大きな幟に、行手を遮られた狸がたたらをふむ。ついで容赦無くがオールを振り下ろし、狸和尚はぐるんと回って伸びた。狸寝入りの可能性もあるため、すかさず綱と追い込んで取り押さえる。これならばひとまず安心だろう。一が何か言おうと口を開くより先に、綱がそつなく二人に礼を述べた。
「ちょうど良かったな。助太刀、感謝する」
「間に合って良かったあ。さん、急いでくれてありがとう」
「署長が幟を掴んだ時には肝を冷やしましたよ」
店主に謝らないと、と言うは相変わらずで、上着を脱いでいるせいか精悍な印象を与える。ブルーグレイの淡いドットが入ったシャツは、先日一が勧めて買った逸品だ。立香と一緒に行くにはおしゃれをしないと、と言っていたので気に入っているのだろう。他人のための晴れ着にしたと言うのは勿体ない気もするが、自分のしたことには価値があったのだと誇らしくもなる。
「それでは、俺たちは取調べに向かうとしよう。また後で」
「うん。行ってらっしゃい。さん、今度こそスワンボートに乗ろう」
「はいはい」
スワンボート。完全に物見遊山ではないか。疑念が顔に出ていたのだろう、はとってつけたように、既にただのジンクスであることを証明済なのだと言う。もちろん彼らは立派に仕事をこなしていたのだ。自分があれこれ言う立場にはない。思えばこれから取調べがあるのだから、彼らと共に帰参するなどあり得ない話だったのだ。出かける際に思い描いた計画がぼろぼろと崩れ去ってゆく。
どうしようもない些細なことに挫ける自分の正気を疑う。こんなことは考えたって無駄なのだ。が何をしようが、立香がどうであろうが関係ないではないか。狸をぶら下げて踵を返そうとした耳元に、すっとが近寄った。
「今度、署長さんとまた遊びに来ようぜ。あの子と乗れるようにしておくよ、一ちゃん」
「断る」
「つれないね」
ヤキモチを焼いていると思われたのだ。笑みを含んだ物言いが忌々しい。わかっていなさ過ぎて頭が痛い。面白くないのは事実だが、立香とボートに乗ったところで気分は上がらないだろう。ではと乗れば良いのか?スワンボートで運転技術を見せつけてやるのは面白そうだ。立香相手であれば気を使うが、に対しては必要ない。それに、も楽しむだろうという予感があった。
「また後で」
こんな風にが砕けた態度で気を許す相手は、ただ一人自分だけなのだ。密やかな優越感に浸ると、一は迷宮入りしそうな自分の意識をグッと引き留めた。
不忍池の騒ぎを終えた夜。龍馬に送る報告書をまとめ、は今日の出来事を振り返って目を細めた。立香に自分の好みを話したのは完全に失策だったと、今ではよくわかる。話さなければ、わからぬままに心地よく過ごせたと言うのに、余計なことに気づいてしまった。
斎藤一と過ごす時間は楽しい。どうでもいいと考えていた日々の隙間を埋め尽くしても、なんら苦しくはない。時折我儘で、振り回されることもあるが、同じくらいに相手を振り回すことに夢中になっていた節もある。深入りし始めているのは確かだった。花が綺麗だと、池の中にうっかり入り込んで泥沼に嵌り、出られなくなるほどに愚かしい。
相手は上司であり、立香曰くはを気に入っているそうだが、それ以上の感情は持ち得ないだろう。想えば想うだけ、拗れることは目に見えている。次に道を誤れば、自分は何もかもがどうでもいいと放り投げることさえ難しくなりそうだ。
「ただいま。戻ったよ」
玄関先が騒がしくなり、顔をあげるよりも先に声だけで誰かがわかる。見るな、と理性が念じる端からの目は疲れ切った一の姿を映していた。服に狸の足跡がついている。相当暴れられたのだろう。後ろから続いた綱も、珍しく衣装を汚していた。
「おかえりなさい」
頼光らの言葉に合わせて声を掛けるも、どうにも気がそぞろでいけない。足元がぬかるんでゆく。ズブズブと沈みかける気持ちを抑えるべく、マウスを掴む手に力を込めたが無駄な悪あがきだと知っていた。そうだ、立香に話したことは本当なのだ。自分は流されやすく、一度好きになったらば、
「ボートは来週な」
「っ」
明夜の横を通り過ぎながら、一がボソリと爆弾を置いてゆく。グラグラと揺れた水面が恐ろしい。動揺するに何を思うのか、一はニヤリと笑ってみせた。どうせロクなことを考えてはいまい。花は人間の気持ちなどわかりはしないのだ。
不忍池の怪異が本物であれば良かった。この気持ちを砕いて、しわくちゃの自分を取り戻させて欲しい。あの池の底の底まで落ちてみせよう。こんな気持ちはもう随分なく、はどうしようもなく息苦しかった。スマートフォンを開いて、一に返事を送る。
『動物園にも行きたいです』
弁財天よ、我を呪いたまえ。スワンボートの運転もきっと激しいのだろうな、と思いながら、は両手に顔を埋めた。
〆.
あとがき>>
そろそろ恋愛要素を多めにし始めよう、と言うわけで沼という名の心の怪異をお届けします。坂本龍馬探偵事務所にも出て欲しいと常々思っていたので、色々欲望を盛り込みました。作中出てくる人物名は、全て歴史上実在した人物のため、良ければ調べてみてください。冒険も恋も盛りだくさんで、最後まで突っ走りたい……!
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!