なべて出会いは難しい。
東京府特別署異聞〜池袋の女・前編〜
人生万事塞翁が馬、とはいえども人事を尽くして天命を待つくらいの運命の切り開き方は許されて然るべきだろう。ただ流されるだけの人生も良いが、納得のいく流され方でなければと思うのは人の我儘であり、僅かながらにでも残るその人らしさでもある。だからこそ、踏み切った人間はあらゆる手段に訴えようとするのだろうし、怪異さえをも利用して運命を捻じ曲げようと争う人間もいる。何もかもが不思議ではなく、当たり前の人間模様だ。
は、他者を害なすために利用された怪異から市井の暮らしを守る、東京府特別署の人間である。怪異とは切っても切れぬ縁だが、自分自身で使おうと思ったことは一度もない。大凡、半分は面倒臭さ、半分は面白がって人生の流れに流される一方だったからだ。警察官になったのも、特別署に辿り着いたのも全て受け身の人生の象徴である。この点において、は悔いる要素を一つも持ち得なかった。期待もしなければ希望も願望もない未来にいつ悔いが生まれるだろう?
「わからんな」
だが、運命とはまさに人の手に余るものでもあった。元恋人の未だ燻る影、上層部の思惑、次いで魅力的な上司の出現など、想像だにしなかった事実の渦に巻き込まれ、は生まれて初めて将来を危惧した。このままではいけない。ほぼ毎週、非番の度に特別署の上司である斎藤一とつるんで遊ぶ日々は打ち切らねば、後々大きな禍根を生むことになる。後悔なんてものをせずに済ませたはずが、後悔だらけの余生になりかねない。
斎藤一という男は、にとって全くの計算外であった。有能で冷静で負けず嫌い、ついで少々子供っぽい側面がある。何より見目が良い。矢鱈と妙な意地の張り合いを繰り返すうちに、尊敬すべきこの上司と動物園にまで行く仲になるとは一体誰が予想できただろう。気を緩めるとからかってしまいたくなる自分もどうかしている。だからこそ、大胆な進路の切り替えが必要なのである。自分の中の好意に気づいた時点ではまだ引き返せる。わからぬうちに走り出さずに出鼻を挫けば良い。
出会いを上書きするのは、いつだって新たなる出会いと相場が決まっている。はしばし考え、夕食後にいくつか候補を洗い出してみた。合コンは開催できるかもしれないが、年齢的にも参加しづらいだろう。無理に付き合わせた参加者たちに、痛々しいものを見る目で見られたならば耐えられそうにもない。見合いは些か重すぎる上に、手早くお仲間もいるバーで引っ掛ける方法は職業柄リスクが高い。では、と最終的にたどり着いたのは婚活パーティであった。
「わかりやすくていいなあ」
どうやら早くも来週開催される婚活パーティに参加可能であるらしい。それなりに有名な大手結婚コンサルティング会社のサイトを調べ、年齢、給与(手取りで良いと書かれているものから、源泉徴収票を求めるものまである、恐ろしい)、職業に嗜好を入力すればずらりとおすすめが表示される。少なくとも、参加者は同じ目的で集まっているので何某かの刺激を得られるに違いない。一に対しても正々堂々とした言い訳もできるだろう。の頭に彼との関係を悪化させてまで断ち切ろうという考えは毛ほどもなかった。は社会人で、二人は上司と部下なのである。
「制服特集、って、何だかいかがわしい響きだねえ。チャンも、こういうのが好みだったりする?」
「やっぱりそう思うよな?意外と女性の方がこういうものが好きなのか……って、ちょっと!何覗いてるんだよ」
はっと現実に戻れば、ほど近くに悩みの種である一が鎮座してPC画面を覗き込んでいた。彼のことだから、おそらくは何か用事があって何度か自分に声をかけていたのだろう。気づかなかった自分に非はあり、失策だった。見られたのが婚活サイトで良かったと思うべきなのか迷いつつ、は非番の時のように寛ぐ一を追いやった。
「来週の非番でほら、映画観に行く話してただろ?どれ観るのか相談してなかったと思ってさ。あと風呂、お前が最後だからな」
「……ごめん。来週からちょーっとばかし忙しいんだ。映画は他の人と観に行ってくれ」
「え、なんで?随分急じゃない」
「あー、えっと、ソウデスネ」
婚活に勤しむのだ、と宣言するのも妙な心地である。昔、職場でなんとしてでも三十までには結婚するのだと息巻いていた同僚がいたものだが、あそこまでの熱意はない。戯れに先程の制服特集なるパーティのページを開きながら、はため息をついた。参加者の条件は、男性側はパイロット・警察官ないしは自衛官と指定されている。女性側は年齢のみで他に制約はない。自分は要人来日の警備で駆り出される時以外にほぼ制服を身につけることはないが、他人の制服はなかなかいいものである。この男もさぞや似合うのだろうな、と隣を見やれば、一は食い入るように画面を見つめていた。
「婚活パーティ」
「うん。このままずっと独り身なのは寂しいなあと思ってさ。相手の人には失礼な言い方かもしれないけど、こういうのだったら同じ目的の人がいそうだし」
「だってお前」
「男も女も、どっちでもいけるよ」
一の微妙な表情が物語るところはすぐさまわかった。大方、偽装結婚になりやすまいかと相手の女性を案じているに違いない。この男は冷酷なようでいて情が深いのだ。実際のところ、婚活パーティの行く末については真面目に考えていないが、一の目を眩ませられるならばなんでも良い。第一、寂しいのは本当だった。自分は心のどこかで、拠り所になるような賑わいや暖かさを求めている。自分が今更求めるに値する人間であるかどうかはさておき、未練がましく忘れられないのだ。
ごん、と肩に重みがかかり、一が濡れた髪を押し付けてくる。髪の毛を乾かしてやるべきだろうか。否、それは自分の役目ではあるまい。この場合問題なのは、同性で部下でもある年上男など用がないはずの一の方だ。どう考えても不必要に距離が近い。ほんの少しだけ道を踏み外せば、それらしい関係になりそうな危うさがは嫌だった。
「お前が結婚したら、もうあんまり遊べなくなるな」
「俺に会う前だって休みは腐るほどあっただろ」
いきなり何を言い出すのかとギョッとしながら、必要な情報を入力する。参加費は一万二千円。あまり安すぎても質が下がるし、初めて参加して様子を見るには手頃な価格だろう。中には十万二十万というとんでもない数字が目に入ったが、それは男女双方ぎらついていそうで嫌だった。金がないわけではない。ただ、出会いを金で贖うというのは理屈の上では理解できても、些か抵抗感があった。少し夢を見過ぎなのかもしれない。の肩を濡らしていた一は、うんと唸って口を開いた。
「この前選んだスーツ、着て行くといいよ。よく似合ってるし」
「わかった」
なんやかや、応援するつもりはあるらしい。そうでなくては困る。いつまでも振り回されて喜んでいる場合ではないのだ。今や洋服ダンスに詰まった服の八割方が一の選んだもので埋め尽くされていることを思い出し、は顔を顰めた。好いた相手に選んでもらった服を着続けていたら、きっと忘れられなくなってしまう。せめてこの寮を出る頃には全て打ち捨てなくてはなるまい。以前の下宿先を出て、ここに引っ越してくる際にも過去は捨ててきたのだ。今更また捨てたところで躊躇いはない。にも関わらず惜しく思う気持ちがある理由は明白だ。
「あの服は俺も好きだよ」
今のが言えるのは、この程度がせいぜいだった。
結婚。それは人生における大きな岐路の一つである。誰かと共にこれから先を歩んでいくことを覚悟した瞬間、と言い換えてもいいかもしれない。この場合はもちろん、文字通りの手続きだけでなく心理的な意味合いも含めてだ。一人の人生ではなく二人の人生を選ぶ、というのは大きい。好き勝手ばかりして生きるのも良いが、誰かとの時間を一緒に好き勝手するのも楽しいだろう。
斎藤一にとって、結婚とは未だに現実味を持たないファンタジーの一種だった。過去の京都に置いてきた同僚たちの多くは結婚し、時には代表スピーチを務めたこともある。門出を祝い、離婚の悲しみに耳を傾け、新しい生命の誕生を寿いだ。ご祝儀は出ていくばかりで回収の目処は一向につかない。いつかは自分自身に起きる出来事かもしれない、と朧げに思う程度である。そのため自分よりも少々年上の男が俄に真面目な顔で将来を語り出した瞬間、一はどう反応すれば良いかわからなかった。
『制服が似合う素敵なお仕事大特集!我こそはという貴方、一緒に将来を見てみませんか?』なる謳い文句が、婚活サイトの中で弾けて一の目を抉る。が生意気にも来週の自分との時間を蹴ってまで行こうとするのは、悪趣味な婚活パーティだ。最初は制服の部分にだけ引っ掛かってやろうかと思っていたが、次々と押し寄せてくる結婚の二文字の大行列に脳が崩壊仕掛けていた。が婚活?冗談だろう。先日だって、自分と過ごす時間が楽しいと動物園のふれあいコーナーで言っていたではないか。
「婚活パーティ」
「うん。このままずっと独り身なのは寂しいなあと思ってさ。相手の人には失礼な言い方かもしれないけど、こういうのだったら同じ目的の人がいそうだし」
それでも今は十分楽しいのではなかったのか?心底すまなそうな物言いは真実味があって不気味だった。ちっちと冷静に脳が計算し始める。まだだ。まだ反撃の余地はある。
「だってお前」
「男も女も、どっちでもいけるよ」
前言撤回。相変わらず、憎たらしいほどには自分の上手を行って見せるのだ。彼の直近の恋人が男性だから、そういう趣味なのではないか(個人的には誰が何を好きだろうがどうでも良いが)と疑問を挟もうとすればこの返事である。完全にこちらの手を読み切っている。思えば、この部下と親しくなるきっかけは相手から何としてでも一本取ってやろうという意地の張り合いからだった。寂しそうな目をするに、自分は何ができると言うのだろう。
誤魔化すように頭を肩に押し付ければ、相手は一層苦笑するばかりで少しも靡きやしない。がせっせと自分自身を記号化して他所に流し込んでゆくのを見つめるばかりだった。ここで手を止めさせて、来週一緒に遊びに行こうと言い募ることは簡単だ。一に甘いところがあるであれば、そう邪険にはすまい。だがその先は?彼は将来に向かって舵を切ろうとしている。自分が見えているのはただの現実の延長で、来週は来週でしかない。
「お前が結婚したら、もうあんまり遊べなくなるな」
「俺に会う前だって休みは腐るほどあっただろ」
苦し紛れに紡いだのは、子供じみた拗ねたセリフだった。軽く目を見開いたので、が驚いたのだと知れる。どのあたりが上手く当たったかはわからないが、の琴線に触れたことは一の胸を暖かくさせた。もっと他の反応も見たい。可能であるならば、期待を見事上回るものを見せて欲しい。
「この前選んだスーツ、着て行くといいよ。よく似合ってるし」
「わかった」
あれはいいスーツだった。あまりにも自分自身に頓着しないの趣味の酷さに呆れ、セールが始まったことも相まって一はせっせと他人の服を選んでやっていた。男の服を見立てるなぞ、生まれて初めてのことである。受け入れる側はどこか手慣れた風で、素直に順々と試着してゆくのだからどうにも胸のあたりがもやついてしまう。そこそこ上背があり、痩せ型のは飾り立て甲斐があった。店員曰くは、顔に花がない方が服は輝くんです、だそうである。褒め言葉にするには余りにも辛い表現だったが、はそんなところでしょう、と納得した様子だった。
「あの服は俺も好きだよ」
その言葉に、自分が想う以上の重みを感じたと言ったらば、この食えぬ狸は何を返してくれよう。自分が飾ってやった錦を、他人のために使うだなんて、何度出くわしても気分が悪い。署長の藤丸立香相手ならばまだしも、彼にとっても自分にとっても見知らぬ人のためとなれば、気持ち悪さは格段に異なる。参加申請を受け付けました、と画面に表示された文字を、一はじっと見つめた。自分は何一つとして受け付けられそうになかった。
お休みをどう言ったのか、髪を乾かし切ったのか、いろいろなことは抜け落ちていて気づけば冷たい布団の中にいた。いつもであれば、映画を見る約束をして髪の毛を乾かして、撮りためておいた刑事ドラマを一緒に観て現実とのギャップを突いて笑っていたはずである。全ては水の泡だ。今はただただ布団が冷たい。自分を受け入れてくれない布は、付き合い始めてもう随分長い仲になるはずだが、今夜は和解できそうになかった。自分では埋められない、どう手につければいいかも検討がつかない穴が、すうすう隙間風を吹かせるのだ。
「なんでだよ」
の言葉は正しい。自分は、彼と出会ってからの日々よりもはるかに長い過去を携えている。休みの日だってもちろんたくさんあったはずだ。すぐに元のように彼の不在が生活に馴染んでゆくだろう。否、別にがいてもいなくても、一の人生に変わりはないのだ。こんなことで悶々と悩む方がどうかしている。はただの他人で、部下で、多分少しばかり友達というだけなのだ。他に付け加えるべき言葉を、一は想像だにしなかった。
婚活パーティを検討している様を見られて以降、は他にも手を打つことにした。そろそろ自分も試用期間が終わり、一人で雑務を任されるまでになった。ならば様々な特別署の人間と組んで仕事ぶりを学ぶべきではないだろうか。立香に相談を持ちかけたところもっともな主張であったため、速やかに受け入れられた。一への相談、もとい報告はその後である。案の定面白くなさそうな様子だったが、彼もまた理性の人ではあった。いつもであれば、夕飯の後に飲みに出かけようと誘って機嫌を取るのだが、それも断腸の思いで止めにした。ともかく、情を溢れさせないためには距離を取るのが一番である。
源頼光、土方歳三の鞄持ちならぬ後ろに控えて危ない目に遭わずに後片付けを頑張る係、元気に蜂のように機敏に飛び交う沖田総司の運転手係、渡辺綱の鬼退治の下準備係、を終えた今日は久方ぶりの坂田金時との仕事だった。先日見つけ出した、違法な怪異の取引に使われた住所を訪ねに行くらしい。既に住人の身柄は拘束されており、今日は隠された呪物がないかを確認するのだ。ゴールデンヒュージベアー号に乗るのも久々のため、金時があまり飛ばさないでくれることを祈ろう。行ってきますを言いかけ、は先に立ったはずの金時が何故か一の席の前に向かうのを見て足を止めた。
「それじゃ、悪いな斎藤の旦那。と行ってくるぜ」
「何が悪いかよくわからんけど、気をつけていってらっしゃい」
「行ってきます」
全員に向かって自分も告げたが、図らずも目はカチリと一と重なった。自分が何を考えているのか、相手が何を思うのか、どちらにも触れたくなくて、すぐさまくるりと背を向ける。その先は選べない。選ばないと決めたのだ。いくらやっとうの腕が立つとはいえ、一はただの人である。かつての恋人のような呪詛をくれるような手合いでなくて本当に良かった。妙な方向に踏み間違って、延々縛られることもない。目と言えば、中東で目そのものを象った魔除けのお守りがあったことをは思い出していた。先程の一の目は、それにそっくりの澄んだ鋭い瞳だった。邪なことを考えようとする自分の頭の中を覗かれていたのではないか、と危惧するのは引け目ゆえだろうか。並んで玄関を出た金時が、ニカッと爽やかな笑みを浮かべた。
「早いなあ。アンタが来て、何ヶ月だ?もう今年が終わっちまう。がここに残ってくれてオレぁさ、嬉しいんだ」
「俺も残れて嬉しいよ」
ゴールデンヒュージベアー号に乗り込む金時の後ろにぴたりと張り付く。大の男が(それも金時はかなり大柄だ)二人乗っても安定する金時の相棒は流石の強者で、聞けば対怪異に向けた戦闘能力まで備えているらしい。自分よりも余程役に立ちそうだ。なんにせよ、金時の背中に身を預け、風を纏うのは心地良い。おまけにこの男はひどく度量の大きい傑物なのだ。英雄物語の主人公として、御伽噺に登場するならば彼のような人物こそ相応しいだろう。
「斎藤の旦那があんなに楽しそうな顔をするなんて、知らなかったモンなぁ」
「あの人は俺くらいじゃ変わらないって。大袈裟だな」
「難しいことはオレにはわからねぇが、元々の姿に戻れたって気はするな。他の誰に聞いても良い、きっとアンタと出会ったからだって答えると思うぜ」
「はあ」
バイクが前後に乗る形で本当に良かった。そうでなければニヤつきそうになる顔を見られてしまっただろう。嗚呼なんてこと!一があの危うい距離感を醸したのは、少なくとも特別署においては自分が初めてなのである。他の誰でもない。意味を見出さずにいる方が難しいが、やはり無意味には変わりなかった。ゴールデンヒュージベアー号は、二人を滑らかに池袋へと導いてゆく。ボロアパートの一室というのが、また如何にも違法取引が軽率に行われていそうな気配を漂わせていた。
「だからさ、何か揉めたり、悩んだりすることがあったらオレっちにいつでも相談してくれ。考えるのは不得手だけどな、アンタも斎藤の旦那も大事な仲間だからな。力になりたいのさ」
「ありがとうな。そうさせてもらうよ」
真っ直ぐに向けられる好意が眩しい。自分が返せない煌めきに、は目が潰れそうだった。こんな人間が自分のそばにいるなど、奇跡の産物ではないだろうか。生まれてこの方捻くれ気味だった――もちろんスレていない時代もあったが――にしてみれば、どうにもくすぐったい。豪快に停車したバイクから降りると、温もりを失って腹がすうすうする。
「取引されてたのは、邪眼が使えるようになる呪具なんだよな」
「ああ。本来、ああいう呪具は修養を積んだ人間だけが扱うモンだ。素人が扱っても百害あって一利なしさ。それをノーリスクだって謳うんだから、大した詐欺だ」
邪眼とは、文字通り邪な力を秘めた目のことである。邪視、魔眼とも呼ばれ、一眼見ただけで相手に呪いをかけることができるという。健康被害に事故、見覚えのない借金や果てには死にいたるまでのあらゆる不運と不幸を与えることができるのだ。南欧や中東では、未だに存在するとして魔除けの類が巷間に流布している。生まれながらにして恐ろしい力を備えた目。それが邪眼の正体なのだ。一説には嫉妬の力が引き起こすとも言う。
今回の犯人は、やはり地下で活動しているらしき呪術師ないしは陰陽師の類から大量に廉価な『邪眼の素』を仕入れたのだという。部屋からはあらかた押収されたが、まだ隠されているとも限らない。ここでは金時と、怪異を視ることのできる二人の目が頼りだった。
「コンタクトレンズと同じ感覚で身につけられる、って調書に書いてあったけどさ。外したい時も同じくらい簡単に外せるのか?」
「それができたら、表沙汰になるのはもっと遅かっただろうよ。奴さんがウェブサイトに出した説明には装着するのも外すのも簡単だと書いてあった。ところがどうだ、一度つけたは良いものの外せやしない。元々邪眼持ちじゃないんだ、買った奴も加減が分からなかったんだろう。その、」
「呪いたくない人間まで呪ったのか」
「そういう話だ。胸糞悪い話だぜ」
なるほど、買い物には手痛い教訓もついてきたらしい。被害者が訴えたことにより事件は明るみになったが、未だ全容は朧である。被害者は多岐に渡り、そちらは宮内庁から人手を借りて捜査にあたる旨、上より沙汰が降りたらしい。市井の怪異は特別署に下駄を預けると決まっていても手を貸してくれたことには勿論理由がある。風聞が正しければ、被害者の一人は宮家に縁があったそうだ。真実は杳として知れない。役に立つのであれば何でも良い。
借りていた鍵で件の部屋の扉を開ければ、何とも言えないカビ臭さが漂った。カップラーメンのツユと脂の匂いが部屋全体に染み付いている。呪われてますよ、と言えばあっさり信じられるほどに福運からは程遠い。怪異の残滓めいた目玉が壁や天井に浮き出していて、どこまでが染みで、どこからが怪異なのか判然としなかった。棚という棚は空っぽで、引き出しという引き出しは開け放たれたままの部屋は、さながら空き巣にあったかのような様相を呈している。
「目につくところは片端から持って行ったとは聞いてたが、本当に根こそぎ掻っ攫ったんだな」
「今更探す場所なんてなさそう……冗談だ、金時。真面目にやるよ」
天井や床下であれば、道具を持ってこなければならないだろう。今の自分たちで対処できるのか、という意味も含めた投げかけだったが、生真面目な金時の顔つきを目にして取り消した。自分たちが探しきれてなかったために、被害が拡大するのかも知れないのである。
「オレっちはここから向こうの部屋全部を探す。は風呂とトイレの捜査を頼む」
「はいはい」
水回りと聞いてげんなりしたが、は淡々と仕事をこなすべく、玄関から入ってすぐ横の扉を開けた。トイレと風呂が一緒に設置されているのでわかりやすい。住人は一応生活らしきものを営んでいたらしく、水滴が鏡に白い鱗を残している。使っていたらしいコップと歯ブラシが床に落ちており、危うく踏みそうになっては身をすくめた。清潔とは言い難い部屋に住みながらも、自分の歯の世話をしていたかと思えば面白い。
ラテックスの手袋を嵌めて、壁に手を這わせる。迂闊に怪異に触れないためにと作られた、ダ・ヴィンチ工房の特製品だ。立香曰くは、かの工房ではあらゆるものが揃えられるらしい。その分お値段も張るために、華々しいスーツや武器ではなく手袋に落ち着いたとの説明も添えられた。良くも悪くも素直なセリフに、武器も握れぬはただ感謝だけを伝えた。映画のような展開は心躍るが、今更自分が渦中の人物になるのは避けたい。一介の通行人に等しい自分には、手袋程度が相応しい。
「排水口の中はなさそうだな」
隠しものを探す時には、国税局に勤めている友人の言葉を思い出す。曰く、住人は必ず無意識のうちに隠し場所を教えてくれるのだという。同時に絶対に見つからないという根拠のない(あるいは何某かの経験はあったかも知れないが)自信により、つい詰めが甘くなっているとも。通気口のダクトの中に現金の束を隠していた話や、大時計の中に宝飾品を隠していた話など、取り立てのプロである友人の話は物語よりも面白かった。ならばこの犯人は?浴槽のエプロンを剥がしても、ヘドロと対面するばかりだったは、再び鏡に向き直った。安そうな鏡だ。おまけに貼り付ける腕前が悪かったのか、やや斜めに歪んだ上に壁のタイルに汚れが残ってしまっていた。
「何だろ、これ」
汚れを指先で擦れば、パテらしきものが落ちる。こんなものを業者が残しておくだろうか。段々と鏡に向かって指を近づけてゆくと、コツンとぶつかった瞬間に鏡が横にずれた。明らかに怪しい。グッと力を込めれば、見事に鏡が隠していた穴を露呈する。薄日が差し込んだ先をじっと見つめ、はごくりと唾を飲み込んだ。嫌な予感がひしひしと胸に押し寄せる。案の定、待ち受けていたのはぎっしりと詰め込まれた目玉で――ギロリと一斉に睨めつけられた。
「うわっ」
禍々しいそれに射抜かれるよりも早く、どこからともなく舞い降りた紙人形がの目を覆う。今日はご丁寧にも二体で、気まぐれな人形の主人も過保護なことだ。人の生き死になど興味がないと言いつつ、またもや助けてくれるつもりらしい。見えない中で金時を呼びながら、は唇の端を上げた。
「誰だか知らないけど、ありがとさん」
紙人形からの返事は特になかった。
脳みそが細かく刻まれて、全てがバラバラに動いているかのように集中できない。何度も呼吸を整えるも、一は仕事に集中しようという試みをまたもや失敗していた。あの婚活サイト事件からこの方、胸の中に広がるモヤモヤはいっかな霧散せずに一を悩ませている。原因であるは、こちらの気持ちなど少しも知らずに他の人間にカルガモの子供よろしくついて回っている始末だ。お陰で中途半端な状態を相手にぶつけて、答えを得ようとするのも叶えられないでいる。
何もかもが自然によそよそしくなり始めたことも、モヤモヤに拍車をかけていた。例えば仕事では、一以外の人間の下にもつけて慣れさせるべしというお達しにより遠ざけられ、普段に至ってはは矢鱈と金時と話し込んでおり入り込む隙間がない。元々は、一よりも先に金時に親しんでいた。自分とは上司と部下という建前上、非番の時以外は苗字で呼び合うのに対し、金時とは始終気安い口を利いている。夕食後にゴールデンヒュージベアー号に乗って二人でどこかに出かけることもあるらしい。お陰で風呂の帰りにの部屋に立ち寄り難くなった。他にも、綱に囲碁を習い始めたり、歳三の俳句談義に延々耳を傾けるなどしている。とりわけ後者は誰もがこっそり避けていることでもあったので、立香が感謝を捧げているのも目撃した。自分のそばには近寄らないくせに、どうして他人の間をふらついて回るのかさっぱり理由がわからない。
「違う違う」
思い浮かべる事例のあまりに多さに、一はぶんぶんと頭を振った。まるでこれでは自分がに固執し、年中観察しているかのようではないか。そんはずはない。全ては何某かに取り憑かれているを監視する中でたまたま目にした出来事であり、漂う違和感に引っかかっているだけの話だ。他に一が抱く理由などありえまい。そう、これは仕事上しかるべき勘が働いているだけなのである。結論づければ単純で、一は神田警察署に犯人の引き渡しを終えた総司に近づいた。
今日の仕事は、古書店を闊歩する怪異・文字禍を操る人間の逮捕である。文字禍とは、その名の通り文字に書かれたものが力を発揮し、禍を及ぼすもので、火事という字が実際に燃え上がって店を燃やし尽くす様を想像すればお分かりいただけるだろう。今回は大量の紙魚が字となり解き放たれ、奇書の類から文字を舐めとる事件が次々と起きていた。白紙になってしまえば、奇書も稀書もただの紙束である。取り下げた先の古紙取扱業者が紙魚の飼い主で、舐め尽くした文字は本を手元に集めたのちに戻し、ネットオークションで転売したのだという。大胆なのかしみったれているのか判別しにくい怪異だが、古書店組合としては死活問題であり、神田警察署がいい加減苦情に疲弊したため特別署におはちが回ってきたのだった。
小さな紙魚たちの動きは素早く、並の人間では捕まえられない。それを可能にするのが一の目であり、今まさに紙魚を本へと戻そうとした犯人を捕らえるのは機敏な総司である。のことで頭を悩ませても、しっかりと仕事をこなすことができた証左でもあった。は今頃どうしているだろう。金時とうまくやっているのだろうか。
「ねえ、沖田ちゃん。が婚活パーティに行くって話、聞いてる?」
「婚活パーティ?聞いてませんよ、そんなの……あ、なるほど。それで斎藤さんはまた機嫌が悪いんですね」
「だから僕の機嫌とには関係ないって。そこんとこ、間違えないでよね。ともかくさあ、あいつは晴明さんに頼まれた監視対象だろう?ここを出て行くことになったら面倒じゃないかな」
「要するに、邪魔をしたいと」
「違う。おかしなことにならないように、監視した方が良いって話だよ」
一々曲解する総司に、一は口をへの字に曲げた。全く何を以ってして一がに対して固執しているような物言いをするのだろう。金時に至っては、今朝わざわざ出かける前に一に対してを借りる旨を謝してきた。貸すも貸さぬも彼はただの一個人である。金時が自分の代わりに監視しているならば問題はない。監視。ふと嫌な予感が頭を過り、眉間に皺が寄る。もしかしたらばは監視されていることに気づいて一を遠ざけようとしているのだろうか。
「もしもし、斎藤さん?もしもーし」
「ん、悪いな。考え事してたわ」
「ここのところ、何だか調子も悪そうですもんね。婚活パーティを邪魔……ではなく、監視する良い方法を思いつきましたよ」
「へえ。聞かせてもらおうじゃないの」
それはですね、と総司が声を弾ませる。彼女もまた、満更この件が気にならないでもないのだ。げに人の不幸はなんとやら、というものかもしれない。総司の提案に目を丸くした一は、しばし咀嚼した後ニンマリと笑みを浮かべた。
今夜はよく眠れそうだった。
「うー、緊張する」
一と距離を取ることにも幾分慣れた初めての非番の日、は寛ぎを通り越して緊張の只中にあった。積み重ねてきた年齢も相まって、大概のことには泰然自若として対応する自信があるが、今回ばかりは難しい。東銀座の一角にある巨大なビルに入った瞬間から、は慣れぬ空気にピリピリしていた。受付で手続きを終え、控室へと案内される。25階という空に近い高さにあるパーティ会場は、好天にも恵まれて華々しい幕開けを迎えようとしていた。右を見ても左を見ても、体格の良いスーツ姿の男性が佇んでいる。筋肉のつき方が抜きん出ているのは、恐らく自衛官だろう。スーツの仕立てが洗練されているように見える集団は、漏れ聞こえる会話からしてパイロット連中らしい。もしかしたら知り合いの警察官が混じってやしないかと危惧していたが、こちらは問題なさそうだった。
ここに集まるのは、いわば好敵手である。相手の女性達がどんな人々であるかはわからないが、お互い魅力を競い合う敵同士だ。冗談のような本当の話で、幾人かは挑もうとする顔つきが真剣そのもので些か恐ろしい。ぎらついている男は嫌われますよ、と総司のアドバイスが脳裏を過ぎる。そう、は結局金時ではなく総司に相談することにしたのだった。比較的まともな女性側からの意見をもらえる可能性が高いという推測に基づいてのものだったが、こうして現実を目の当たりにすれば正しい判断だったと安堵する。
意中の相手にいきなり出会う幸運までは想像せずとも、こうした場に馴染む程度の経験は積んでおきたいのだ。最初から相手に警戒されるようでは困ってしまう。そのままでも大丈夫だとは思いますけれどもね、という総司のセリフは優しさと受け取って右から左に聞き流した。自分の第一印象はともかく弱い。特徴がない顔立ちが最大の要因であるのは分かりきっていた。人間は相手の目を見て話す。すなわち顔を見ているわけで、とりわけ初対面であれば主な情報は顔ということになる。断然自分は失格だ。かと言って、奇を衒いすぎてもいけない。
が考えた作戦はこうだ――余程の『絶対的な意中の人!これって運命かしら』という相手がいない限り、初手でぐいぐい行かず、冷めたり疲れを見せ始めた相手とできるだけゆっくり話す。話術は自分で言うのも何であるが、得意と言って良いだろう。もちろん、面白そうな人間がいれば趣旨は放置して話し込むに限る。それは男女どちらであっても、今後楽しい時間を過ごす役に立ってくれるに違いない。
「男性の方々、どうぞご入場ください」
係の男性の声に誘導され、部屋を出る。事前に軽く説明があったが、女性の方が先に会場で飲み物を楽しみ、男性の控室の様子を画面で確認しているらしい。要するに、品定めはすでに始まっているのだった。さてどんな人がいるのだろう。スーツを着たマグロの群れの真ん中頃に会場に滑り込み、はタイやヒラメの舞踊りを眺めた。小さな菓子のようなツマミを突きながら、ヒラヒラした服がそこここに咲いている。
恐らく下見の成果だろう、一眼見てこれは、と思うような偉丈夫や見目が整った人間は早速群がられていた。一方で女性の方も美女と呼ぶに相応しい相手がいるらしく、先ほど控室で爛々と目を光らせていた男達が一挙に押し寄せている。あんな調子で迫られたら食傷気味になりそうだ。全体を眺め、は自分が上手く泳げるものか計算を始めた。入力した情報に偽りがありそうな人間(既婚者や年齢制限を超えた類だ)が二割、最後の出会いの場だと鼻息が荒い人間が四割、自分のような様子見が二割で、後の二割は何を考えているのか今一つわかりにくい。
誰に話しかけようか。不審者に話しかけることは躊躇しないも、流石に怯むものがあった。これは婚活パーティである。話しかける目的はお互いに一つだ。否、皆本気で真面目なのか?給仕が配るグラスを受け取り、一口飲むと少しだけ落ち着いた。無料で提供されるシャンパンの味はなかなか悪くなく、参加費に見合う内容ではあるらしい。食欲はあまりないが、一応はツマミも見ておくかと歩き始めたところで、不意にゴンズイ玉のような一軍からこちらに向かって人が飛び出してきた。
「さん!」
「紫式部さん?何でここに」
婚活パーティからは最も縁遠い存在の登場に目を丸くするも、は丈の長いスカートを踏んで前のめりになった相手を速やかに受け止めた。一との体術の訓練がなければ、きっとそのまま紫式部諸共倒れていたことだろう。しっかりと受け止め、体勢を立て直すことのできた自分は中々かっこいいのではないだろうか。片手にしたシャンパングラスにも異常なしである。素晴らしい。
「そ、その……小説のために、取材をしようと思いまして……」
「なるほど」
恥ずかしげにモゴモゴと口走る紫式部は、紛れもなくこの会場一の美女だった。先ほど我先にと人々が押し寄せた先は彼女の元だったのだろう。浮世離れをした、世間ずれしていない様子もまた参加者達の目には魅力的に映ったに違いない。普段は仕事相手としか見ないように努めていたが、彼女と付き合う将来もあり得るのだな、と今更のようには思案した。
国立国会図書館の怪異録担当官、と言う物々しい肩書きと並んで紫式部にはもう一つの顔がある。彼女が先ほど説明した通り、なうての小説家――それも恋愛小説家なのだ。は偶然知るに至ったが、あまり公には出されていない情報である。怪異に恋愛に人間模様にと、紫式部との話の種は尽きない。おまけに先日トランクを担ぎ込んで行った通り、彼女は頼れる陰陽師でもあるのだった。
「君がここに一人で来るだなんて随分大胆なことをしたな。編集さんか、清少納言さんについて来て貰えば良かったのに」
「っ、それが……こういう催しがあると伺ったのが急でして、私一人で参りました」
「ふうん」
他の男性参加者達の視線が痛い。それこそ邪眼が紛れ込んでいてもおかしくない強さだ。この調子では思うような取材など出来なかったに違いない。寧ろ別方面で実害が出てからでは遅いだろう。暫し迷い、は結局自分のことよりも目の前の友情を優先することを選択した。婚活パーティはこれから幾らでも参加できるが、大切にしたい人間は少ない。
「じゃあ、俺と回ろうか。話しかけたい人がいたなら、一緒に話そう。それなら少しは聞く方も聞かれる方も気楽になれるんじゃないかな」
「あの、いいんですか?だってさん、ここに来たのは」
「紫式部さん程の人には会えないよ」
掛け値なしの本音である。ここにいる誰が、万巻の書物もかくやという彼女に匹敵する物語を持ち得ようか。給仕にシャンパンのお代わりを頼むと、は内気さ故に赤面する紫式部へ腕を差し出した。履いているヒールの高さのためか、ほぼ似たような目線になるのが新鮮で面白い。
二人が従前からの知り合いと察した男達が、仕方なしに他の標的を探しに散ってゆく。一連の様子を見ていた女性であれば、大概彼らの底値を見たのではないだろうか。いずれにせよどう動くのか、結果を見るのは楽しみだった。シャンパンを受け取り、グラスを軽く掲げ合う。ほっそりとした紫式部の指先がグラスに這う様は、さながら芸術品の如き美しさで眩しすぎた。は芸術品は鑑賞するのみと決めている。彼女は言うなれば凡人には尊すぎるのだ。
「さて、誰から話を聞くかね。……あの人なんてどう?ほら、一人で食べてる女の子。さっき何人かと話してたみたいだけど、ここでは食べて終わらせるつもりみたいだね。場慣れしてるんじゃないかな」
誰も近寄らない料理が並ぶテーブルを、一人の女性が蝶々のように気ままに巡っている。人に出会うことを主眼に置いているため、ほぼ食べられないことを前提とした料理達を救おうという魂胆らしい。豪胆な動きは嫌いではなかった。活発そうな顔立ちに、ぐるりを刈り上げたツーブロックが映える。おまけにオレンジ色に染めているので、並の男性であれば話しかけようという勇気は湧くまい。紺青のツバメが描かれたドレスがよく似合っていた。
「このような場所で食欲旺盛でいられるだなんて、すごい人ですね。あ」
「あー」
紫式部の発言を耳にし、はすっかり忘れていたことを思い出した。紫式部はひどく浮世離れしているのだ。小さいがよく通る紫式部の声は、真っ直ぐに環境音を突き抜けて件の女性の耳へと届けられた風である。ぐるりとこちらを向いた二つの眼は、はっきりと不躾な物言いを責めていた。くしゃくしゃに顔を歪める友人を慰めると、は彼女の腕を取って食欲を満たす女性に歩み寄った。どうせ話しかけるのだ、きっかけは宜しくないが結果的には同じことである。
「聞こえちゃいましたか?気分を害しましたよね。彼女も悪気はないんです、許してやってください」
「聞こえてたわよ。お姉さん、結構ストレートに話すんだね。もっとお淑やかなお嬢様なのかと思ってた」
「す、すみません」
縮こまる紫式部は可愛らしい。自分に対しては毅然とした態度を取ることが多い(仕事なのだから当たり前だ)彼女の柔らかな側面を目にし、は密かに心温まるものを覚えていた。後々彼女に手痛い目に遭わされた際には、この姿を思い起こして心を慰めることにしよう。対するツーブロックの女性は見込んだ通りに力強く、あっけらかんとした調子で許してくれた。
「良いのよ。このまま食べるだけで終わる気がしてたけど、あなた達のおかげで少し楽しくなったから。ねえ、二人とも。ここに婚活しに来たんじゃないんでしょう」
「ええ?ど、どうしてわかるんですか」
ズケズケとした物言いにすぐさま紫式部が陥落する。あれだけ群がられても尚、選ぶ素振りも流される素振りもなく、知り合いらしき男性と腕を組んで歩けば当然やる気がないと見られてもおかしくはない。寧ろばれていないとでも思っていたのだろうか。ツーブロックの女性の目元に引かれた朱色のアイシャドウが、じわりと歪んだ。
「だって興味がなさそうなんだもの。そっちのお兄さんは最初だけすこーし、やる気だったかもしれないけれどね」
「かも知れませんね。何せこういうイベントに参加するのは生まれて初めてなんで。……俺は。こちらは紫式部さん。偶然ここで出会った友人です。慣れてるお姉さんから見て、今回のパーティの感想はいかがですか?」
「尾崎美咲(おざき みさき)よ。そうね、参加している人間がまあまあまともで、まあまあ本当のことを言っているみたいだから、普通の人なら楽しめるんじゃない。私にとっては期待外れ」
「期待外れ、とはどういうことでしょう?尾崎さんは普通ではない方を求めていらっしゃるのですか」
紫式部の直接的な問いかけに、美咲は豪快に笑ってみせた。これではまるで一匹の虎だ。今日は良い相手を狩にきたと言われても容易く信じられるだろう。控室で話していた男達が求めるタイプではなさそうだ。一方で、紫式部や自分にとって格好の時間潰しの対象である。美咲は片目を瞑って全面ガラス張りの窓辺に並んだ長椅子に向かってゆく。どうやら向こうも満更ではないらしい。花をあしらった長椅子に、三人並んで――どういうわけだかが真ん中の両手に花の体勢である――腰掛けると、ようやっと美咲が口を開いた。
「私ね、強い人を探してるんだ。制服を着てる職業の人なら、物理的にも精神的にも強い人が多そうじゃない?何人か目星をつけて話してみたけど、結果は空振り。最初は乗り気なのに、話を聞いているうちに怖気付いちゃうの。……さんも私の話、聞いてみる?」
「面白そうな話であればぜひ」
腕を掴んでくる紫式部の様子からして、彼女も聞きたいのだろう。二人の様子を見やった美咲は、合格とばかりにフルーツの盛り合わせを給仕に注文した。さながら自宅にいるかのような気安さで、本当に彼女はこの手のイベントを周知しているのだとは理解した。彼女と友誼を結んでおけば、しばらくは出会い探しに事欠かないに違いない。パチパチと皮算用が動き出す。
「私ね、好きな人と結婚して落ち着きたいなあと思ってるの。ありがちな夢かも知れないけど、仕事に疲れた時に自分だけの拠り所が欲しいなって感じてね。で、合コンや友達の紹介や、こういう出会い系のイベントにもせっせと顔を出してるの。結果はどこもまあまあって感じね。大概は飲み友達を作っておしまい。でも、本気になれた人もいたよ」
一体どれほど長い期間、彼女が努力し続けたのか計り知れない。俄かに思い立ったよりも遥かに切実であることだけは確かだった。
「でも、全員結婚する手前でだめになっちゃった。私と結婚しようとするとね、相手の男は呪われるの。事故に合ったりけがをしたり、借金の保証人になって見覚えのない金額の借金を背負わないといけなくなったり、家が燃えたりと不幸が続いてね。もう耐えられない、って頃に私と別れるとなんでもない元の日常に戻るんだ。だから多分原因は私。何か良くないものに憑かれてるのか、一生結婚できない呪いにでもかかってるのかもね。自衛官や警察官なら、きっと呪いを跳ね除けるくらいにタフだと思って参加したけど、意外と怖がりなのね、皆」
「それはまた……すごいジンクスですね。だって、直接ひどい目に遭うのは婚約者の方なんでしょう?結婚するには相応しくないと誰かが考えていたり……そうだ!美咲さん、俺とお付き合いしてみませんか?」
「さん」
ハッとした様子で紫式部が袖を引っ張る。闇雲に事件を引き受けるなと言いたいのだろう。あるいは冗談めかした物言いは軽率だと嗜めようとしているのか。何れにせよ、はようやく一人前の階段を登ったところである。既に何かに憑かれている身の上なのだ、多少の呪いの何を恐れよう。ポケットからいつも身につけている警察手帳を見せると、美咲が軽く目を開いた。
「実はこういう仕事をしてるんです」
「『東京府特別署』?へえ、あなた刑事さんなんだ」
「見えませんかね。ともかく、尾崎さんが関わっている怪異のようなものを解決するのが専門の警察だと考えてもらえれば、それで良いかと。あなたが声をかけたお兄さん達よりは怖いのが得意ですよ」
「ふーん」
美咲のイヤリングに描かれた目玉がゆらゆらと揺れる。その色合いに見覚えがあるような気がしたが、思い出すよりも先に美咲が大きく頷いてみせた。
「面白そうだね。良いよ、付き合おっか」
紫式部が息を呑む。は自ら振ったサイコロの出目に目を細めた。
頭がおかしくなりそうだった。東京府特別署の会議室の一角で、一の呼吸は段々と浅くなりつつある。紫式部からの報告を、ビデオ通話で総司と聞いているだけだというのに、どうしてまたこうも動揺しているのだろう。夕飯も食べて腹も落ち着いている頃のはずだが、我ながらよくわからない。総司は総司で驚いているものの、こちらはどちらかと言えば面白がっている調子だった。
『私と致しましても、さんがここまで行動力のある方だとは思いも寄りませんでした。……お力になれず、すみません』
申し訳なさそうに画面の中で縮こまっている紫式部こそ、総司が婚活パーティに放り込んだ一策である。を通じて茶飲み友達になったのを機に、彼女であれば誰からも怪しまれないだろうと踏んで頼んでくれたそうだが、何を引き換えとしたかを一は知らない。内気な彼女にはすぐに会わせられないとが言っていた通り、こうして画面越しに話し合えるようになるまでも大分時間を要したのだ。結果を聞けるだけましと言えよう。
その紫式部の報告によれば、当初は紳士的に紫式部との友誼を優先してくれたらしい。だが尾崎美咲なる奇妙な女性と話し込むことになり――あろうことか、二人はお付き合いすることになったのだ。その場にいた紫式部でなくとも驚きの展開である。
『で、ですがお付き合いというのは事件の解決のためかと!さんは美咲さんご自身というよりも、置かれた状況の方に興味をお持ちのようでした』
「それはそれで失礼ですね」
「らしいな。あいつは変に素直だから」
あの部下は思ったままに行動してしまう節があるのだ。取りも直さず、それは現在が一との距離を置こうとしていることにも当てはまる。結局彼の目的はどこにあるのだろう。当の本人は目下、美咲とどこかに食事に出かけているらしい。一応デートだからという断りを入れてきたそうだが、何を言われたのか紫式部は頬を染めていた。大方、はその気もなしに思わせぶりなことを言ったに違いない。何度も惑わされたことを思い出し、一は心中密かに同情した。自分はお返しにを振り回し返したつもりだが、今となっては遠心力も失って離れ離れである。
紫式部を労い、礼を述べて会話を終えるも蟠りは解消されず、ただ気持ち悪さを増していた。十歩譲って、は怪異に惹かれて美咲と付き合うことを申し出たとしよう。恐らく帰宅した頃には上司である一に捜査したい旨願い出てくるはずだ。もちろん捜査の基本は二人一組であることから、お目付役としての同行するという一の主張は理に叶っている。そこまでは良い。
問題は事件を解決してしまった後のことである。紫式部の話から、美咲は方々のイベント毎に顔を出し、頼りになりそうな相手を探し求めていたのだという。解決すればはまさにその頼るべき相手になるのではないだろうか。はで、何を考えているかは知らないが付き合おうと言い出した手前、ひとまずは本格的に付き合うのもやぶさかではないという態度を取りかねない。あれはそういう残酷さを持つ男だ。なんら特徴的ではない顔立ちの癖に、誰よりも心に傷痕を残していくタイプである。
「さんは手間がかかる人が好きなんだそうですよ。美咲さんって、怪異に悩まされてる上に、ちょっと変わった人なんですよね?意外とさんの好みにぴったりなのかもしれませんね」
脳天が痺れるかと思った。のほほんとした総司のセリフに、一は再び呼吸が浅くなるのを感じていた。とて人である。かつて幾人か好き合った相手もいたことであるし、好みのタイプが確立されていてもおかしくはない。喉に小骨が刺さったような違和感を抱く方がおかしいのだ。冷静になれ、斎藤一。お前は今年で幾つになった?グッと腹に力を込めると、一はいつものヘラヘラとした表情を顔に浮かべてみせた。
「は?初耳なんだけど。の好みなんてどこで聞いたの、沖田ちゃん」
「斎藤さん、顔怖いですよ」
「そんな訳ないでしょ。僕のこと、ヘラヘラ新撰組だって言ってたの、沖田ちゃんじゃない」
総司が哀れみを込めた目でこちらを見つめてくる。全く意味がわからない。否、わからなくても良いではないか。の好みなぞ、自分が知ったところで役立つまい。ひらひらと手を振って諦めると、一は紫式部と話すためにわざわざ引きこもった会議室を後にした。夜食にラーメンでも食べれば多少気持ちが落ち着くだろう。確か棚に袋麺が残っていたように記憶している。それくらいならば自分でも簡単にできるに違いない。
古びた階段を降り、厨房へと向かう。夜の十時を回ったためか、流石に食堂に人気はなかった。風呂に入ってそろそろ寝ようという頃合いだろう。テレビは個々人の部屋に設てあることもあり、特別署ではどこかに集まって団欒を楽しむという習慣が食事時以外にはない。パチリと電気をつければ気分は泥棒だ。保存可能な食料を置いた棚の扉を開けると、それらしき袋が点々と埋まっているのが見える。
「えーと、醤油味醤油味は、っと……あったあった。熊ラーメン?これって確か坂田が北海道土産に買ってきた奴なんじゃ……賞味期限、大丈夫だよな」
熊ラーメン、正確には熊出没注意ラーメンは見るからに強そうな袋麺である。今にも襲いかかりそうなヒグマの絵が恐ろしい。なんでもラーメンの街・旭川名物だそうで、熊には目がない金時がすかさず買ってきた逸品だった。ただし、今から半年近く前の出来事になるため、些か心配なところである。念の為賞味期限を確認したところ、まだまだ大丈夫であるらしい。袋麺は袋麺だ。夜中に食べたくなった、この気持ちを満たす方が大事だろう。
京都で働いていた頃は、下宿先で作ることも多かった。ぼんやりとしながらネギを刻み、メンマを捜索する。幸にして瓶詰めのメンマが発見された。賞味期限はこちらも無事で、おまけに未開封のハムという禁断の代物まで探り当てた。刑事としての腕前は食料品にも適用されることの証左だろう。鍋に湯を沸かしながら、丼に手際良く証拠品を投入する。あとは出来上がりを待つばかりだ。
「ただいまあ」
ガラガラ、と遠くで玄関の扉が開く音が響き、一は耳をそば立てた。間抜けな声は聞き間違えようもない。近づく足音も気配も何もかもが、来訪者が誰であるかを告げていた。鍋の中でコポコポと泡が立ち始める。袋麺のビニールに鋏を入れて、一は静かにその時を待った。求めよさらば与えられん、とは誰が放った言葉か。追いかけるのが難しければ、やって来るのを待てば良いのだ。
「こんな時間に人がいるなんて珍しい、な」
「おかえり、チャン」
迂闊に飛び込んできた獲物に一は良い笑顔を浮かべて見せた。わずかに酒の香りを漂わせた男が、それだけで顔を引き攣らせる。乾麺を鍋に入れ、箸でちょいちょいと突けば見る間のうちに供物は湯に沈んだ。
「ちょうど良いや、夜食に付き合ってよ。一人だと食べ過ぎだからさ」
「……何味?」
「醤油。シンプルなのが一番だよね」
は何味が好きだろう。問えば塩味、と答えた相手は既に術中にはまっていた。
自分の頭は麻痺しているのかもしれない。慣れない場所で慣れないことをし、消耗していたとも言えよう。美咲と別れたは、ヘロヘロになりながら何とかバスに乗り込んでいた。新宿の山奥に向かう最終バスの発射時刻は早い。ギリギリ間に合って一安心だ。タクシーを頼めばかなり懐が痛い目に遭う。もちろん、誰かに迎えに来てもらうなど考えたくもない。自分以外に客のいないバスの最後列で、窓全面に映る夜を享受するので精一杯だ。
「人の出会いは難しいもんだな」
婚活パーティを抜けた後、は延々美咲と話し込んでいた。カフェに居酒屋にカラオケに、場所はのんびりできるならばどこでもと言うわけで、怪異に関する話から美咲を含めた昨今の婚活事情まで大量の情報をシャワーのごとく浴びていたのである。話を聞くのもまた仕事の一環として、何度となくこなしてきただったが、今回ばかりはするりと飲み込めていなかった。
今や婚活パーティに対する期待値は大いに下がり、歴戦の猛者である美咲の情報からも費用対効果が低すぎると判断された。彼女曰く、年齢や職業、所得だけで縛るのでは目的が漠然とし過ぎているのだそうだ。近頃では共通の趣味を持つ人間を集めたパーティの類があり、そちらの方が友人を作り、その延長線上でお付き合いするという流れが多いと言う。あるいは一緒にサバイバルゲームや脱出ゲームの類をするもののように、共通の体験をするものも若年層の間で流行っていると聞く。の年代では少々難しそうで、実際その場で美咲と調べた限り、年齢制限により参加不可能であると分かっただけだった。
歳を重ねれば重ねた分だけ、経験してきたものは多い。それ故に新鮮味のあるものを求めるのだが、新しい酒を古い革袋に入れるが如くに相容れない場合がまま生ずる。美咲曰くは、絶対に今だと思うのであれば参加できるものに参加し、声をかけられる相手にかけろとのことで、自ら出会ってきた中で何も残らなかったはただひたすら当たりを引くまで打つ他に手はなかった。
それとて、何もせずに自分の気持ちに背を向けるよりは楽だろう。努力し続けている間は忘れられることだけは確かなのだ。窓に頭を寄せれば、酒で暖まった額がひんやりと冷える。吐く息が残した白い痕に、は思いつきでハートの形を描いた。自分そっくりに歪んだ、中身の埋まらないハートはひどく寂しそうに見える。
「美咲ちゃんは面白くて好きだけどね」
美咲の豪快な笑い声も、あっけらかんとした物言いも、自分の置かれた状況対して頓着しない様もの好みだ。何より面白く楽しい。彼女は何かが飛び抜けていて、危なっかしくも力強い。奇抜な見た目には怯みかけたが、同じ目線に立って話し合おうとする姿勢があればそれで良い。
だが、の心は正直にこの茶番への別れを告げていた。今の自分は、彼女と歩んでいく未来絵図を描けない。今回の怪異の件が片付けば、婚活仲間として情報交換をさせてもらう仲になろう。いわば戦友だ。彼女が望めば、それこそ誰かを紹介することもやぶさかではない。
窓ガラスの冷たさに少しずつ理性を取り戻し、は怪異の情報を整理し始めた。警察官は基本的に二人一組で事件に当たる。ならば誰が相手であっても説明しなければならないだろう。酔ったままでは難しい。
美咲の出身地である池袋のある地域では女性に関する俗信が未だ根強いのだそうで、他にも結婚しようとしたり、恋人を作ったらば相手が祟られるのだと言う。ただし、相手が池袋近隣の出身者である場合は別だ。古くは江戸時代に遡る話であり、時代錯誤も甚だしいが、住まう人間は誰しも一度は耳にし、ひょっとしたらと思わずにはいられない不気味さが土地に漂っていた。
最初の事件は今から一年半ほど前になる。年齢だけは頑なに話さない美咲が、いよいよ結婚しようという男性を恋人として家に連れてきてからのことだ。この時の被害者A氏は、帰り道の歩道橋の階段から滑り落ち、運悪くも両脚を骨折する羽目になった。美咲が見舞いに行った際、A氏は床が濡れていたことにより再度転んで複雑骨折へと悪化させた。手術は成功したものの、従来通りの歩行は不可能となてしまう。そうこうする内に、美咲が来れなかった安寧の日々を支えてくれた看護師とA氏は結ばれた。この時点では、美咲は自分に何が起きているのかまるで認識していない。
以降も事件は続いた。クレーン車が積んでいた荷物が足先に落ち、ギリギリのところで助かった者もいるが、被害者B氏は後日身に覚えのない借金の取り立てにより逃げ出さざるを得なくなった。いくばくかの貯金を渡した美咲にとっても苦い経験である。ある者は美咲と食事に行く度に食中毒になるため、美咲が毒殺しようとしているのではないかという妄想に取り憑かれて精神を病んだ。それからある者は――もはや疑いようもなく美咲は呪われているのだった。
「地元の人とのお付き合いは検討しなかったんだな」
「なんとなくね。私の地元は狭い社会だから、地元の人間と付き合ったら何もかもが筒抜けになっちゃう。良いところもあるけれど、ちょっと嫌なんだ」
「ああ」
わからない話ではない。も地元の様子を思いやれば容易に理解できる。どう言うわけだか近所の人間は他人の家の夕飯の内容まで知っていたりするのだ。恐ろしい。ともかく、美咲はこんな俗信を振り払えるような心身共に屈強で頑健な相手を求めているのだった。ちなみに彼女の様子からして、を将来の相手としては見ていない風である。歳三あたりは彼女のお眼鏡に叶うかもしれない。
怪異と言えば、で思い出したが、紫式部にトランクの調査結果を聞くことをすっかり忘れていた。賀茂光栄が原因ではないかと坂本龍馬は疑っていたが、やはり疑惑が残る。彼女と、その先にいる安倍晴明ならば答えが分かりそうなものだが、すぐさま教えてこないならば何か考えがあるのかもしれない。あるいは脅威ではないと見做されたのか。思えば今日は一度も紙人形を見かけなかった。
停車したバスから降り、夜風の冷たさに身を縮めながら坂道を一挙に駆け上がる。辺りは街灯が一つ歩きりで後は真っ暗闇だ。頭を使い続けていたせいか、夕食をとってきたはずが何故だか無性に腹が空いて仕方がない。確かトーストと羊羹が残っていたはずだ。夜中に食べるには余りにも危険な誘惑だが、ここはあんこトーストと行きたい。玄関の扉に手をかける頃には寒さも忘れて、ただの日常へと頭が切り替わってゆく。
「ただいまあ」
扉を開けるも、返事はない。今頃は風呂か就寝前のひと時を個々人の部屋で楽しんでいる頃だろう。今日も風呂は最後になりそうだ。先にあんこトーストを食べようと厨房に足を向ければ、煌々と灯りがついている。どうやら珍しくも先客がいるらしい。お裾分けをしてもらうのも良い手だ。未だ完全に頭が働いていない状態も、熱量を注入すれば一挙に解消するだろう。心持ち早足で歩き、匂いを嗅ぐもなんら変化はない。何を食べようとしているのだろうか。小首を傾げながら厨房に足を踏み入れ、はピシリと固まった。
「こんな時間に人がいるなんて珍しい、な」
「おかえり、チャン」
悪夢だ。悪夢が姿を成している。本人は笑っているつもりかもしれないが、の脳裏にはかつて反社会的組織のお偉いさんと話さねばならなくなった時の記憶が蘇っていた。グッと胃袋に圧がかかる。おやすみなさいを言って早く部屋に帰らねばひどい目に遭うに違いない。
「ちょうど良いや、夜食に付き合ってよ。一人だと食べ過ぎだからさ」
こちらの気も知らず、上司は友人もどきの皮を被って甘い言葉で誘いかける。腹が言うことを聞いてくれと嘆願してくる。どうやら一が作っているのはラーメンらしい。麺が鍋の中で踊る様を横目で見ながら、は仕方なしに継穂した。
「……何味?」
「醤油。シンプルなのが一番だよね」
自分の信念に向かって真っ直ぐに進む、彼らしい一言だった。は断然あっさりとした塩味派だが、醤油味もまんざら嫌いではない。案の定好みを聞かれて即答すれば、今度こそヘラリとした笑みが返されて安堵した。先程の恐ろしさは、この朦朧とした頭の勘違いかもしれない。二つの丼に、ネギにハムにメンマが載ったラーメンが盛られる。ネギの切れ具合がまた絶妙な細さで、普段の刀捌きの美しさを思い出させた。
「はい、出来上がり。召し上がれ」
「いただきます」
一と二人きりになるのは久しぶりのことだった。ただラーメンを食べ合うだけだと言うのに、奇妙な緊張感が漂っている。ラーメンの暖かさ、生麺かと思うほどの麺のもちもちさに、刻まれたネギがよく絡んで美味しい。美味しいのだが、が見惚れたのは相変わらず一が綺麗に食べる仕草だった。初めて彼がものを食べている姿に感銘を受けたことはいまだによく覚えている。美咲の食べ方を思い出そうとして、は自分がまるで注目していなかった事実に愕然とした。愚か者。一週間かかって準備をし、今日という一日を費やしても尚自分の心は動かぬままだ。
やけくそ気味に麺を啜ることに専念し、具もスープも全て平らげる。乱暴な食べ方は食事への冒涜だと思ったが、一刻も早くこの場を去りたかった。空の丼をテーブルの上に置くと、は一のペースを確認した。まだ途中のようだ。これならば、自分が去るのも自然な行いとなるだろう。
「美味しいラーメン、ごちそうさまでした。すみません、今日はもう疲れてるんで先に休ませてください」
「チャン。いや、。俺が食べ終わるまでここにいてくれ」
「はい」
常にない呼びかけに、反射的には椅子に座り直した。仕事の最中と同じか、否、それ以上に張り詰めた空気で肌がピリリと痺れる。後ろめたいことは一切していないにも関わらず、断罪を待つかのような心地だった。麺を啜る音がやけに大きく響く。文字通りの解釈であれば食べ終わった瞬間に席を立つことも可能だが、もちろん許されまい。厨房に足を踏み入れた時点で自分は間違っていたのだ。
代わりに、はネクタイを緩めて上着を脱いだ。せめて身を軽くしなければ到底やっていけない。一を前にして頑なな防御など無意味だ。今の自分ができる抵抗は冷静に事態を受け流すことである。一は少し驚いたようだったが、すぐさま食事に舞い戻った。麺を啜る音が、止まる。箸はその役目を終えて身を横たえ、一は最後の最後までスープを飲み干した。
「いやー、好きなものを好きな時に食べられるのって良いよね」
「この歳になると流石に少し心配ですけどね」
「ま、大丈夫でしょ。それで、。俺に話すことがあるだろう」
なんの意図だろうかとは目を眇めた。確かに話すことはある。怪異の話は絶対にせねばなるまい。だが一が求めるとするならば、怪異のことなど知らぬので当然婚活パーティの首尾に決まっている。自分との遊ぶ約束(をする手前)を蹴ってまで他の予定を組んだことが凄むほど癇に障ることだろうか。一応は自分を応援してくれたものと記憶していただけに、は一の思惑を掴みかねていた。ならばここは一歩攻め入るとしよう。部下然とした丁寧さを崩し、は非番時の態度へと軟化させた。
「婚活パーティのこと?一ちゃん、この前応援してくれたもんな。今日は様子見くらいのつもりで行ったんだ。だから良い人に出逢えるとは思ってなかったんだけどさ」
ちら、と相手を見やって相槌を求めてみたが、返されたのは沈黙ばかりだった。非常に話しづらい。せめて頷くくらいしてくれても良いではないか。仕方なしには舌で唇を舐め、話を続けた。
「偶然紫式部さんも参加してたから、久々に話せて嬉しかったなあ。一ちゃんには紹介できていないけれど、紫式部さんは本当に美人だし、話も楽しいんだよね。今日はそれでおしまいのつもりでいたんだよ。彼女と話したいこともたくさんあったしさ。でも、そうだな――ちょっと気になる人ができたかも」
「へえ、良かったじゃないか」
ちっとも寿ぐような音のない、ひんやりとした声には眉根を寄せた。攻め込んだのは大失態だったかもしれない。軽口を叩く良いきっかけになると踏んで差し出した話題は、瞬く間に断頭台へと姿を変えた。なんだってこんな目に遭わねばならないのだろう。ラーメンが消化不良のまませり上がってきそうだ。美咲の快活な声を思い出す。今の耳に届く音とは、天と地ほどにも異なる。人生は楽しい方が良い、誰だってそう答えるはずだ。
「美咲ちゃん……ああ、尾崎美咲って言うんだ。見た目は少しヤンキーみたいで怖いかもしれないけど、面白い子だよ。どうも怪異の被害に遭っているみたいだから相談に乗ってたら、こんな時間になってた。お付き合いする相手は軒並み呪われるだなんておかしいよな」
「怪異の相談?それだけでこんな遅くまで話し込んでたってわけ。向こうも乗り気だったとか、そういう話じゃないの」
そうだ、と即答できれば合格だった。今日と言う日に帷を下ろして、心ゆくまで残る時間を安らかに貪れただろう。だがは素直に逡巡した。酔っていたから、一が普段と違う様子だったから、言い訳は幾つでも思い浮かべることができる。そんな顔をするな。どうして自分を責めるような目で見てくるのか、は理由なんて知りたくないままでありたかった。
「いや。なんだろ、美咲ちゃんは良い子なんだけど恋愛的な意味でお付き合いするっていうのは違うんだよね。多分、向こうも同じことを考えてると思うよ。今日は婚活についても話を聞いてきたんだ。なんでも参加すれば良いってものじゃないことは今回でよくわかったし。一ちゃんも聞きたかったら、後で教えてあげるよ。今日はもう眠いや」
「お前な……はあ、全くらしいな。ご苦労様、捜査については被害届を出してもらうよう頼んだ?」
「もちろん。届けが出たら、」
一緒に捜査に行きましょう。従順な部下のような振る舞いを仕掛け、は舌を縺れさせた。俄に雪解けを迎えた一の表情に心が躍る。だから駄目なのだ。この道は進んではいけないと知っている癖に、大丈夫だと嘯いて入り込んでしまいたくなる。脱出口にたどり着く前に足場も全て失うとわかりながらも破滅を選ぶ理由は何であるか、経験済みのは痛いほどに理解していた。何も知らぬ幸せ者が、気を利かせた風に会話を続けてゆく。
「一緒に行こう。他の人の下で何を学んだか見せてよ」
「プレッシャーをかけないでくださいよ」
「期待してるんだよ」
一の言葉一つひとつがの胸を引っ掻いてゆく。両手を突き出して跳ね除けたいが、麻痺した頭は上手く働いてくれやしない。期待させないで欲しい。曖昧に頷きながら、は美咲の話を思い出していた。
『池袋の女』である彼女が結婚を望んだ相手は呪われる。仮初にでも付き合う約束をした自分はもう捕らえられているのだろうか?空っぽになったラーメン丼の底を見ても、ぐるぐると巻いたナルト模様が惑わせるばかりだった。
〆.
あとがき>>
怪異と恋愛の二重奏で欲張った結果、今回は前後編構成でお届けします。婚活パーティ、それは戦場。この話を考えている間にぎっくり腰+VDイベントによって無事に死亡いたしました。ラーメンは醤油味がシンプルイズベスト、ありがとうございます……聞くたびに発狂を繰り返していて一体何が起きたのか???現環境を受け入れ楽しみつつも、自分の信念は何が何でも貫く姿、正に無敵の剣でした。圧倒的感謝!!
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!