本当の顔など、誰も知らない。
東京府特別署異聞〜のっぺらぼう〜
美醜とは、なかなかどうして世間にとって重要な概念であるらしい。都会の異国とも呼ばれる新大久保で、は世界の切れ端を覗き見ていた。右を向いても左を向いても、美容に関する様々な商品で溢れかえっている。その他は焼肉を始めとした飲食店とカラオケ店で、この街の人間が何を売りにすべきと考えているかがよくわかる。も、学生の頃は食べ放題の安さに釣られてよく足を運んだものだ。ずいぶんご無沙汰だったが、思えば今の職場からはひどく近い。遊びに出かける先として、今再び考慮すべきだろう。
キムチと甘辛いコチュジャン、それにどこかポクポクとした油の匂い――新大久保駅に降り立ったは、昼に食べるものをすぐさま決断した。こんなにも胃袋をくすぐられる匂いに乗らない手があるだろうか?ちら、と隣に立つ上司・斎藤一を見れば同じことを考えていたらしく、焼肉店が立ち並ぶあたりをぎゅっと目に力を込めて眺めている。そんな仕草も様になってしまう一には、ここで売られる美容グッズの類は不要だろう。寧ろサクラとして店頭に立って欲しいと言われかねないと思うのは、好いた人間の欲目だろうか。
「どうした、ぼーっとして」
客観的に判断しても造作が良い、と改めて検分していたのがバレたのか、一が怪訝げにこちらを向いていた。くだらないことを考えているのは十中八九お見通しだ、と顔に書かれている。曰くありげな目つきに、は素直な返事をくれてやるのが惜しくなった。言えば喜ぶことは目に見えている。喜んでもらうのは大歓迎だが、ほんの少しばかり回り道をすることをは選んだ。
「んー、海外に出かけた気分になって。不思議ですよね、ちょっと移動しただけなのに」
「確かにな。うわ、見てみろよ!ゴミ捨て場まで国際的だ」
だから今度一緒に旅行にでも行きましょうね、と仕掛けようとした邪な試みは、純粋な好奇心により無惨にも打ち砕かれた。いそいそとゴミ捨て場に向かう姿は完全に物見遊山のそれで、は先ほど上司が自分に示した表情を顔に浮かべつつも後を追う。武芸に秀でているが故か、視力の良い上司と違って近寄らぬことには何もわからない。見れば、ゴミの捨て方らしきものが四カ国語で記されていた。一部の字が手書きで訂正されている辺り、住民同士のコミュニケーションのようなものが伺える。
「こっちは韓国語で、日本語だろ、それに英語と中国語か。大家さんも大変そうだな」
「語学学校も多いですしね。百人町交番は語学と度胸が求められるそうですよ」
警察署は地域ごとに特色を備えているが、新宿区の西半分を背負う新宿警察署もまたその一つであった。管轄下にはビジネス街として確立するべく整備を繰り返した新宿駅周辺から穏やかな新宿御苑があるかと思えば、日本一の歓楽街である歌舞伎町も存在する。そしてここ新大久保一帯を占める百人町は、外国人居住者の人数が区内最大の場所だった。新宿警察署が国内最大級の署員数を要するのは道理だろう。
一応、東京府特別署は新宿警察署の管理区域にポツンとできた空白地帯に所在する。軒先を借りるような配置故、特別署にとって新宿警察署は親密に誼を結ぶ関係だった。新宿警察署が抱える難事件の多くはきな臭い、一般市民の生活を一本裏通りに入ったような代物であり、対反社会組織用の陰陽師が専属で配備されている。もちろん最終的には一般人も救うだろうが、直接取り上げるようなことはまずないと言って良い。二つの警察署には明確な役割分担が存在しているのである。
今回の事件は手が足りず、どうにも民間の怪異が主だって絡んでいるという判断から新宿警察署が特別署に持ち込んできたものである。被害者が一介の大学生に過ぎず、発見された場所からしても凡そ反社会組織には無関係との判断が含まれているのは自明だろう。手が足りないという彼らが、特別署のような極小規模の組織に話を持ち込むというのはおかしな冗談だった。
「殺人だ。いや、殺人とは言い切れねぇか。ともかく、人死が出た」
新宿警察署の説明を受けてきた副長・土方歳三は煮え切らない表情だった。快刀乱麻断つを体現する好男児にしては珍しい。呼び出された一とは互いに目配せしながら静かに続きを待った。
「一週間前の深夜三時に、百人町と歌舞伎町の間の辺りで女性が倒れているのが見つかった。発見者は、倒れた場所近辺に住むイ・チヒョンという女性だ」
歌舞伎町に勤めるチヒョンは、少々早めに帰宅した矢先に倒れている人間を見つけたのだという。当初は酔っ払いが倒れているだろうと放置することも考えたが、せめて横に倒してやるか、場合によっては水でも飲ませてやろうと仏心を出したらしい。救急車を呼ぶなどという考えは、疲れ切ったチヒョンにはあり得なかった。しかし通報に至ったにはとんでもない出来事が待っていたからに他ならない。倒れた人間に、チヒョンが幾度声をかけても返事はなかった。ひょっとすると死んでいるのだろうか?薄暗い街灯の下から一歩踏み出し、俯いた顔を見るべく肩を掴んだ瞬間、反射的にチヒョンは叫んだ。
「起こした相手は、顔がまるでなかったんだ。そりゃ驚くなって言う方が無理だ。剃ったり剥いたりしたんじゃない、全くのツルッツルののっぺらぼうが倒れてたんだからな」
夜中の叫び声はよく通り、近隣の住民が驚いて駆けつけたのだという。こちらは僅かに肝が据わっており、警察と救急センターに連絡することとなった。すわ性質の悪い悪戯ではないかとも思われたものの、もごもごとツルツルの顔面が波打つ様は生きる人間に他ならず、人形だと言い張るにはあまりにも無理がある。ただ、気道を塞がれた人間に生きる術はない。身につけていた身分証から、最大の証である顔こそないものの、『鹿島麗子』なる大学生であることがわかった。
「被害者は医者に診てもらったところ、すぐに匙を投げられた。まだ微妙に生体反応があるっていうんで、今は陰陽寮の人間が元に戻せないか苦労しているらしい」
元に戻る、ないしは生活ができる程度に治療されるとの見解は絶望的だろう。呼吸もできず、栄養も取れぬ人間の成れの果てが、早晩死ぬことは目に見えていた。人死が出たという歳三の物言いは見当違いではない。のっぺらぼうにされた女性の心中を想像し、は発狂していない方が不思議だと眉を顰めた。否、狂っていようが誰にも最早わからないのである。一体どうやってそんな酷い真似を実現できたのか?何が目的なのか。顔とは、言うなれば最も原始的な人格を組み立てる基礎だ。自分では見えないが、他人にとっての自己は、どうあっても顔と結びつけられる。失ったが最後、環境の方が自然と姿を変えてしまう。
のっぺらぼうのような事件は類を見ない。ただ、昨日鼻を失った人間が百人町で出たのだという。麗子と同じく、ツルツルとして傷口は一切なかった。こちらの聞き込みには現在沖田総司が渡辺綱と共に当たっている。歳三が一とに命じたのは、現場検証と百人町近辺で他に不可思議な現象が発生していないかの調査だ。この程度であれば、怪異を祓うことのできぬ二人でも問題はない。快諾した二人はこうして新大久保の駅に降り立ったのだった。
「平日だってのに、人が多いですね。あの子達、学生服着てますよ?学校、サボってるんですかねえ」
「十中八九、サボりだろうよ。一応補導員も出ているようだし、任せておこう」
冗談めかした物言いに、真面目に答える一は好ましい。もちろん、サボってるに決まっているのだ。フランクフルトのようなものを手に手に歩く高校生と思しき子供たちが眩しく映る。韓流アイドルのブロマイドにCD、ファンイベント、韓流コスメに話題の食べ歩きスイーツと、新大久保は彼らを魅了して離さないらしい。自分も遊びたい盛りに近所に住んでいれば、学校帰りに散々遊んだはずだとは羨ましく思った。黄色い腕章をつけた中年男性が、相方だろう女性と共に少年少女に声かけをして回っている。あれが恐らく青少年補導員だろう。
歌舞伎町へと続く細い路地に入り、雑然と古いアパートと家々が並ぶ区画に出る。職安通りの賑やかさは形をひそめ、薄暗く静かな昼の住宅街はどこにでも広がる風景だった。ただ、一が言及した通り、そこここに外国語が散りばめられていることもあって、住人たちの顔ぶれが国際色豊かであることが知れる。合間に何故かラブホテルとカフェがひょっこりと姿を現すのは不思議だった。
ラブホテルと言えば、思い出されるのは一と最初に担当した置行堀事件である。あの頃互いに海のものとも山のものとも知れず、一本取っては取り返しを闇雲にやり合いながら、何かがわかるような心地でいた。直感は大当たりで、の人生は大きく変わった。永劫止まったままであろうと打ち捨てていた時間は動き始め、世界は目が眩むほどに輝いている。
「歌舞伎町に近いと内容も凝ってますね。見てくださいよ斎藤さん!ウォータースライダー付きの部屋があるらしいですよ」
「お前なあ」
流石に看板に偽り有りではないかと指摘すれば、一が呆れたような声を上げる。すみません、と反射的に謝ろうとしたところで相手の目とかち合い、は狐に摘まれたような気分になった。炎天下でもあるまいに、上司の頬が朱に染まっている。恋人として付き合うようになってからちょいちょい見受けられるようになった表情だが、仕事中にお目にかかるとは珍しい。
「斎藤さん?」
「……別に、考えてないわけじゃないからさ。待ってくれないか」
「へ」
何をだ。ラブホテルの看板パネルと一を交互に見やり、は混乱の只中にありながらも必死に頭を回転させた。ラブホテルに変わった機能があると話しただけのつもりだが、よくよく考えれば自分たちは恋人同士であり、なんとなく寝転んだりじゃれ合うところから一切進んでいない清い関係である。両性愛者とも言えると異なり、一はこれまで異性愛者であった。自分を好きになったと自覚し、昇華させただけでも驚くべきことだとは客観的に見ている。故に現状に不満はない。ないが、ここはラブホテルであり、自分たちは恋人であって――遠回しにお誘いしたことになりはしまいかと気づいた瞬間、俄に気温がグッと上昇した。
「ご、ごめんな、あの、俺は別にそういうつもりで言ったんじゃなくて」
「良いよ、謝らなくて。いつか言おうとは思ってた」
覚悟は決めてあるから、と宣う恋人は実に良い顔をしていた。こうなれば頷くより他ない。は半ば飲まれるようにして一代決心を記憶に留めることにした。じわりと掌の中に汗が浮かぶ。いっそ先に甘辛いタッカルビでも食べておくのであった。唐辛子によって流れる汗だと言い訳のできない状況が悔しい。まんじりともしない空気の中、ギクシャク体を動かして現場に向かうも、時間はひどくゆっくりと進行しているかのように感じられた。一は何も言わない。言わないのだが、恐らく自分と同じ気持ちだろうと察せられた。
「鹿島さんは、このアパートに住んでいたみたいですね。発見された現場は、手前の街灯脇です」
現場にたどり着くなり、くすぐったさを脱ぎ捨てられたのは長年の経験の賜物だろう。読み込んだ資料のままに発見当時の様子を想像しながら、昼間の明るさを頭の中で真っ黒に塗りつぶす。帰宅途中であったチヒョンが最初に目にしたのは、投げ出されたような二本の足だった。その時点で恐怖を覚えても不思議はないが、単に酔い潰れて倒れる人間をまま見かける土地柄故驚かなかったのだと供述している。もう少し足を運べば、歌舞伎町の裾野に入る場所では十分ありうる話だった。
「警察が駆けつけた時にはまだ体が暖かく、顔の中身が動いていたと言います。恐らく犯行現場は近くではないかと」
「死角だらけだな。誰がいたっておかしくない。監視カメラは?」
「近くの駐車場に設置されたものが一台きりです」
住宅街、とは意外にも安全なようであって危うさを抱えている。とりわけ住民同士が完全に他人であることを選んだ場所では、自由さの反面何があってもおかしくはないという空気を孕んでいる。安全の基準は人それぞれとは言え、今回のような事件はある意味いつ起きても不思議ではなかった。の返答から、手がかりの少なさを実感した一の顔が歪む。被害者は顔を失った。いくら犯行現場がすぐそばであろうが、悲鳴さえをも失ったのである。誰にも何もわかりはすまい。鼻を失った人間は貴重な手がかりとなるだろう。総司たちの聞き込みが上首尾に終わることを期待しつつ、は調書をもとに近隣を調べた。
顔がなくなるとは大事なのだ、何か落ちてはいないかとつい期待してしまう。目でも鼻でも何でもいい、その人であった証拠が欲しい。あるいは凶器か。全てが何事もない、平穏な日々を偽るには余りにも喪失が大きかった。残された身分証(学生証だ、忌々しいことに)に映る麗子は、豪奢さを背負ったような美々しい顔立ちの女性である。クッキリとした二重に切長の瞳、蕾のような唇は写真の中で微かに綻んでいた。彼女の前にはどれほどの未来が開けていただろう。感傷的になることはないが、想像は回りゆく。もう死んだだろうか、死んだと見做されただろうか。家族には連絡したのか、顔のない彼女は確かに『鹿島麗子』だと認めてもらえたろうか。
はこれまで自分の人生で、自分の顔について考えたことはついぞなかった。醜くも美しくもなく、これといった特徴のない薄い顔だということは知っている。茫洋とした印象を与える顔立ちは、味付け次第で如何様にも使えるのが便利だ。友達付き合いにも恋人付き合いにも事欠かず、仕事にも十分耐えうる。それで良い、と思っていたし、周囲もに今以外のものを求めなかった。
だが、いくら印象が薄いと言えども顔を失えば、自分が誰か認識できる人間はそうおるまい。体にわかりやすい目印でもあればまだしも、記憶する限り明確なものはない。一はわかるだろうか。反対方面を漁る男の背中を見やり、は首を振った。考えるまでもなく、一ならば見抜き、の度肝を抜いてみせるはずだ。見抜けなければ相当に悔しがるに違いない。
あるべき存在を求めて、は念を入れて調査を再開した。
「UFOチキンフォンデュ、海鮮チヂミ、キムチ盛り合わせです。ご注文は以上ですか?」
「はい。ありがとうございます」
少々訛りのある店員の言葉に続いてどんどんとテーブルに異国が並べられる。中央にどっさりと並べられたフライドチキンから無言の圧力を感じ、一はゴクリと唾を飲み込んだ。コーン茶で喉を湿らせたは、無邪気にチキンを皿中央のチーズの沼に浸し絡めている。丸皿の縁にぐるりとフライドチキンを飾った様子は、なるほどUFOチキンという呼び名に相応しい。どこまでもマイペースに物事を進める部下をみやれば、ふにゃりと相好が崩れて一の心臓を貫いた。
「どうしたんだよ、一ちゃん。チーズが冷えるぞ」
「……お前って肝が据わってるよな」
二人が訪れている韓国料理店は、のっぺらぼう事件(と分かりやすく呼ぶことにしよう)の第二発見者であるチョ・ヨンハの働く店である。発見現場では何ら手がかりを得られず、近隣の住民にも聞き込みを試みたが多くはもぬけの殻だった。住宅街にありがちなことで、昼間は人が少ない――とりわけこの辺りの人間は家族総出で働いている人間が多いのか、調査の結果ははかばかしくなかった。発見者のチヒョンは情報提供するべく、今日は新宿警察署に赴いていた。
通りで出歩いていた少女達はもちろん、昼時ということもあって店内は若い客たちで活気に溢れている。の説明によれば、近頃ではチーズとチキンの二種類が新大久保で持て囃されているらしい。ぼんやりしている風に見られがちだが、寝る前にせっせとSNSを漁って情報収集に励んでいることを一は承知していた。髪の毛を乾かしてやっている間に、が行きたい場所を見つけ出してデートのお誘いをしてくるまでがワンセットだ。恋人の注意が他所に向けられているのは些か面白くはないが、結局自分に返ってくるかと思うと頬が緩んでしまう。この男は、自分と出かけたら楽しいだろうな、と考えて情報の海を泳いでいるらしい。
だから、ラブホテルの前ではついつい勘違いしてしまったのだ。思い返すだけで恥ずかしく、一は恨みを込めてタレ付きフライドチキンでチーズを抉った。タレからは甘塩っぱい香りが漂い、チーズの旨味と加えてまず間違いなく美味しいという確信が得られる。ガブリと噛み付けば濃厚な肉汁が口中で溢れ出し、あとはもう無我夢中で頬張っていた。
「俺に言わせれば、一ちゃんの方が肝が据わってるよ。さっきは言えなかったけど、考えてくれててありがとう」
「お、おう」
不意打ちにも程がある。同じことを考えていたのか、と喜ばしい気持ちと先手を取られたような悔しさを、一はキムチと一緒に飲み込んだ。を前にすると、恋人云々以前に負けたくないとでもいう気分が高まってしまう。休憩時間の態度に切り替えたは、その点仕事と遊びとで綺麗に分けている節がある。もちろん一とて公私混同はしない。が、ラブホテルの前で意識したのは自分だけだった、というのは寂しささえ漂う。
チキンを半分ほど平らげたあたりで、がすかさず店員にサラダの追加を注文する。相変わらず彼の胃袋は堅調で、宿主に無限の楽しみをもたらしてくれるらしい。ひょっとすると彼に取り憑いているものが原因ではないだろうか?の肩口からこちらを覗く形代を睨みつければ、真ん中に描かれた目玉がいやらしく歪んだ。全く忌々しい。との仲が進展しない原因の一つは、間違いなく取り憑いた先の術師の存在だった。
「チョレギサラダね、お間違い無いですかぁ」
「ありがとさん」
サラダを運んできた男性店員が、ギョッとした様子での肩口を見やる。怪異が視える性質なのだろう。名札を見れば、おあつらえ向きのようにチョ・ヨンハの名前が記されていた。相手の様子に気づいたが、油まみれの手を布巾で拭って警察手帳を取り出す。一も同様に手帳を取り出してヨンハに示した。
「この前の倒れた人を見つけた件で、少し詳しくお話を聞きたいんです。あ、手が空いている時で良いですから」
「わかりました。二時過ぎならお話できると思います」
「ありがとうございます」
後一時間もすれば、客もはけてくるということだろう。混んでいる店に無理を言わせようとは考えておらず、一は快く頷いた。約束を取り付けたはもうフライドチキンに舞い戻っている。器用に態度を変える姿は世馴れているが、自分の前では容易に崩壊しうるのだ。他の人間にはできない芸当に違いない。密かに満足感を覚えると、一はチヂミの最後の一切れを頬張った。やや冷めてしまったが、もちもちとした食感は十分に楽しませてくれる。美味しいものを食べている最中の常で、二人の間には居心地の良い沈黙が降りていた。
「カタツムリよりずっとすごいんだって!」
唐突に耳に届いた単語は食事には不似合いで、思わずどこから聞こえたのかと店内を見回してしまう。どうやら二つほど向こうのテーブルに座る若い女性があげた声らしい。何やら薄い商品パッケージを手にした彼女は興奮気味に相席の女性に話しかけていた。隣にはどっさりと買い込んだらしい紙袋が置かれ、新大久保という一大行楽地を満喫している様子が伺える。
「顔の気になるところに貼ると、ごっそり汚れが落ちるの。店員さんも目の前で実演してくれたんだけど、ツルッツルになってたんだから」
「元々綺麗だったんじゃない?」
「言えてる。目元がすごい綺麗な人だったんだよね。マスクしてるのがもったいないくらい」
「え、マスクしてるなんて珍しいね」
美容グッズの話か。普段の一には縁遠い話だが、マスクをする美容販売員というのは聞き手と同じく奇妙に感じられた。黙々とチキンを食む相方は、呑気にコーン茶のピッチャーをお代わりしたいと店員に申し出ている。はちみつチーズチヂミの追加注文は、止めてやるべきだったかもしれない。将来の健康を思い描いて、一は背筋がゾッとした。
「うん、花粉アレルギーだからって言ってた。もう飛び始めてるのかな」
「花粉かあ。実演の時にマスクを外さないといけないのは辛いかも」
「でしょ?体張ってるよね」
美容グッズを買った女性は、商品そのものの効力以上に売り子に入れ込んでいる風に見受けられた。楽しい買い物とは得てして商品だけでなく、その場の物語を買うことを意味するかもしれない。今食べているUFOチキンも、と一緒でなければ最後まで食べ切れずに飽きていただろう。そもそも自分が注文するならば、ここは冷麺一択だ。当の相手は最後のチキンと入れ替わりに、受け取った熱々のチヂミに手をつけていた。猫舌の癖にすぐに箸をつけるので、案の定熱いと舌を出していて情けない。コーン茶を注いでやれば、長らく炎天下を彷徨っていたかのように一気に飲み干した。
「あー、助かった!ありがと、一ちゃん」
「どうも。お前ね、この前も上顎焼いたんだから少しは学べよ。まだ痛いんだろ」
「慣れてるから大丈夫大丈夫。まあそれに今のは半分わざとと言うか」
妙に正直な部分のある男は、思わせぶりなセリフを区切ってもう一度チヂミに挑みかかった。ほんの一口齧るにとどめたのは警戒してのことだろう。ビヨンとチーズが伸びゆくチヂミに釣られ、一も箸を伸ばして口に運ぶ。ハチミツは甘味に使うものだという了見だったが、どうしてチーズのしょっぱさによく合う。もちもちとした生地の食感と相まって、酒が進む逸品になっていた。非番中であれば色々楽しめたに違いない。実に残念な話である。食べながらテーブル下で相手の足を突いてやると、しれっと食べることに夢中になっていたが気まずげに唇を歪めた。
「言いかけるくらいなら最後まで話したら?どうせすぐバレるんだしさ」
「……一ちゃんが女の子の話に夢中だったから嫉妬しました。引くなよ、俺が一番引いてる」
「はあ?」
は腹芸ができる男である。一もまた然りで、似たもの同士だからこそ意地を張り合ったとも理解している。それにしては余りにも稚拙に過ぎるだろう。熱々の料理が届いただけでなく、が食べている様まで一が認識していると読み、更には心配してくれるだろうと踏んでわざと急いで食べるなど、賭けに近い悪手だ。要するに、この狸はろくに良い手を思い浮かべられなくとも気を引きたくて仕方がなかったのである。
恐らく、他の人間相手であればは何も気にせず話しかけるだけで丸め込んだはずだ。そもそも嫉妬なんてするだろうか?自分は散々妬いたが、枯れた風のあるがどんなギラついた欲を抱えているかは想像もつかない。是非とも一度は目にしたいと思っていたが、まさかこんなにも子供っぽい形をしているとは瓢箪から駒だ。どうしたって必死の年上男性に、一は心臓をぎゅっと鷲掴みにされ通しである。反撃を試みるも、良い切り返しはなかなか思い浮かばなかった。
「魔法みたいなプチ整形をしてくれる先生がいるんだって、知ってた?」
「何それ、怪しいじゃん絶対」
形にできない空白の間に、するりと先程の女性たちの会話が入り込む。美容の話はまだまだ続いていたらしい。同時にひどく不穏でもあり、一は申し訳ないと思いつつも耳を傾けた。も気になったのか、微かに赤くなった面をあげて向こうを見やる。目つきが既に仕事のそれで、甘やかな時間もここまでだと悟った。自分たちはどうしようもなく真っ当に過ぎる。
「しかも安いらしいよ。元々安いらしいんだけど、誰か紹介したら必ず割引してくれるんだって。千葉ちゃん覚えてる?ほら、隣のゼミの子」
「覚えてる覚えてる!なんか急に顔が華やかになった、って言うかさ、前より社交的になったって言うの?可愛くなったねって神南がナンパしててマジでびっくりしたもん」
「実はその千葉ちゃんに教えてもらったんだよね」
安くて便利なものを、サービスを、そして誰かにご紹介を、という流れは最近別の形で耳にした現象だ。整形は、どの程度プチと言えども『形を変える』ものである。もしそれが怪異ならば?形を変える怪異は真っ先に違法として検挙される代物だ。に会計を任せると、一はコーン茶で喉を湿らせてから速やかに席を立った。
「その話、もうちょい詳しく聞かせてもらえないかな」
客観的に見れば、自分の容貌はなかなかのものだと自負している。こっくりと頷いた彼女たちの隣に座る際、一はチラリとを見やった。先ほどと異なり、狼狽えた様子も嫉妬の欠片も感じ取れない、凪いだ海のように穏やかな表情が待っていた。きっとヨンハの聞き取りはうまくやってくれるだろう。店員にゆず茶ソーダを二人分頼んで、一は華やかなおしゃべりへと身を投じた。
我ながら馬鹿なことをした。従業員用出入り口の横、自販機とコインロッカーが立ち並ぶ裏路地で、はヨンハを待ちながら過去の自分の殺害を試みていた。後悔するのはもちろん、一に対してしでかした一連の子供っぽいやり口である。誇るほどではないものの、それなりに人付き合いを重ねてきた自分がしでかすにしては余りにも痛々しい。恥ずかしさからわざとらしくも手の内を晒すという失態まで犯し、もはやどこから立ち戻れば良いのか混迷を極める。
「呆れてたなあ」
正しくは、圧倒的に引いていた。二の句が告げないほどに引いた人間の心中を察するだに辛い。はい左様ならとまでは行かないが、失点には違いない。ここは華麗に仕事をサポートできる姿を見せつけて加点を狙うとしよう。そうと決まれば簡単で、はシャッキリと顔を上げた。おりしも扉から店員が出てきたところで、ヨンハがと目が合うと同時に被っていた三角巾を外してポケットにしまう。Tシャツからはみ出た見事な筋肉と、波打つ竜の刺青に見惚れてはほうとため息をついて声をかけた。
「で、いつから名前を変えたんだ?『燕青』さん。香港に帰ったと思ってたぜ」
「そっちこそ、東京府特別署だなんてご大層なものに入っちゃって。前と同じで、燕青で良いよ」
ニッと笑う青年は訛りも捨て去り、既に先程のチョ・ヨンハと異なる太々しい空気を纏っていた。彼こそは燕青、がかつてシンガポールで苦境に陥った際に手を差し伸べてくれた人物である。カジノで八百長を見つけ、うっかり指摘したがために怖い地元の人間に追い回されることになったあの日を忘れることはあるまい。とるもとりあえずトランク一つで橋の下に逃げ込んだにとって、帰国の手助けをしてくれた燕青は救いの神だった。年季が明けたらば香港に帰るのだ、と彼と雑談を交わしたことは覚えている。
「日本に来たら連絡してくれって言ったのに」
「拗ねなさんな。俺は俺の仕事で来てるんだよ。事件の話、聞くんだろ」
流暢な日本語に攫われていきそうになる。燕青は一とはまた違った自分の波を持つ男で、あの頃もするすると自分の話がしたくなってどうにも止まらなかった。普段は聞き手にまわることで保身を図るの口が緩んだのは、何も海外で人寂しくなったからだけではない。用心しなければ不要な話題に足を踏み入れてしまう気がして、はぎゅっと腹に力を込めた。ここにいる男はただの第二発見者ではない。他人になりすまして『仕事』をこなす人間なのだ。
「……話してくれ」
「あの日は歌舞伎町での仕事明けで、自分の家に帰る途中だった。勤め先は、歌舞伎町の飲み屋の『梁山泊』。住所は調書に書いたままだから、夜はそっちに来てくれたらいつでも話せる。前から悲鳴が聞こえてきたから、こいつぁどうしたもんだろうなって走ったらば人が倒れてたんだ。女の子もかわいそうにねぇ。動転してて話にならなさそうだったから、警察に連絡したのさ。来るまでの間に調べてたんだが、倒れてた方はまだ生きてるみたいだったな。警察署で倒れてた子の写真を見せてもらったよ。綺麗な子だってのに、残酷な話だよなぁ」
「知り合いか?」
「いや、どっちも知らないね。ここは腐るほど人がいるから」
滑らかに語られた内容は、調書と一致する。だが、ただの人間には言えなかったことがあるのではないかとは一縷の望みをかけた。チョレギサラダを運んできた際、燕青が自分の肩口を見てギョッとしたのは見間違いではないだろう。恐らくまたぞろあの形代が覗いていたに違いない。
「何か他に気づいたことはないか?普通じゃ見えないものが見えたとか、聞こえたとかさ」
「そうだなぁ。うーん、倒れた人の近くに顔パックが落ちてたのは引っかかったな。ゴミ捨て場が近いから、ありっちゃありなんだろうけど」
「顔パック?どんな奴だったか、詳しく聞かせてくれよ」
まさしくこの街に相応しい美容グッズだ。不思議でもなんでもない。が、目端のきく燕青が気にかけるならば、それなりの理由があるはずだ。調書の遺留品リストには、ゴミと認識されたのか顔パックの記載はない。たちが現場を訪れた際には、道路はまっさらでゴミひとつなく、綺麗なものだった。
「柄が結構派手というか……顔かな、あれは。それも写真みたいに生々しくてさ。今思えば大分気持ち悪かったなぁ」
いくら綺麗になりたいからって、あんなものをつける人間の気が知れないと燕青はのんびり言う。異常な状況と奇妙な落とし物の二つで十分恐怖を感じ得る状況だが、得体の知れない青年は毛ほども動じていない。藪をつついて何とやらだと判じ、は今はそっとしておくことを決めた。ここで得られる手がかりとしては十分なものを得たという実感がある。
「仕事中に邪魔して悪かったな。話、聞かせてくれてありがとさん」
「今度は歌舞伎町においでよ。これ、店の名刺」
「ん」
直接の連絡先を教えないのは、彼の仕事とも関係があるのだろう。の連絡先は、シンガポールで渡したものと変わらぬままだ。住所は変わったが、特別署に遊びに来いとは言えない。受け取った名刺を、クーポンと名刺とで埋まった名刺入れの一番手前に挟んでは鷹揚に頷いた。
そう遠くないうちに、燕青とはまた会うだろう。何故だかそんな強い予感があった。
綺麗になりたい。そんな願望をついぞ抱いたことのない総司にとって、重要参考人である第一発見者のイ・チヒョンの態度は異様に映った。調書通りの内容を述べた後、一刻も日常に戻りたいという調子の彼女は、明日以降しばらく面会できない旨をさらりと告げたのである。理由は顔の整形手術を受けるため。既に金も支払っているとのことで、事情はわからないでもないものの、いざという時には助けて欲しいと願うより他なかった。本来は顔面整形など、万が一犯人であった場合に取り逃す重大な過失につながりかねない。しかしながら、状況証拠すら不十分な現状では引っ越しなどの大きな移動を遠慮するよう伝えることしかできないのだ。聞き込みを終え、総司は新宿警察署の自販機前でぐったりしながらオレンジソーダを買った。ここは少しでも元気が欲しい。
「なんというか、もっと怯えてうなされてるんじゃないかな、って想像してたのに意外でしたね」
「彼女の職業は顔を売りにしているのだそうだ。整形を急ぐのはそれ故だろう」
隣に並んだ綱が、当たっているようで斜めにずれた見解を示す。自販機の上で指が暖かい緑茶と汁粉を彷徨う。時間にしては数秒だろうが、目の良い総司にとっては何分間もかかったかに錯覚された。最終的に選ばれたのは緑茶、それもより深みを強調したとの評判のものである。そんなに悩むのであれば汁粉を後で差し入れようと決め、総司はゆるゆると首を振った。
「かも知れませんけどね、それ以上に必死に見えたんです。何がなんでも綺麗にならなくちゃっていう強迫観念のような……それこそ、人が一人死んだのに」
結局、被害者である鹿島麗子は死んだとの判定が下されたのだった。家族が遺体を確認する予定だが、果たして身元の確定に至るかは甚だ怪しい。もはや状況判断でしかなかった。
「整形と言えば、二番目の被害者も緊急で手術をするそうだ」
「鼻がないと呼吸が苦しいですもんね。一大事ですよ」
昨日起きたばかりの鼻を失った事件の被害者には、綱が聞き込みを担当した。二番目の被害者は男性であったこともあり、話を聞きやすい相手を選ぼうと自ら受け持ったのである。被害者がやや尊大な態度であったことも理由の一つだ。総司の同情に対し、綱は涼やかな表情で茶を啜った。そんな日常の所作がつくづく絵になる男である。
「いや、本人は自分の顔で唯一自慢できる鼻だったと惜しんでいた。筋が通って高く、綺麗だったらしい」
「そこですか?」
「人の価値観は計り知れないな」
学ぶものがあった、という綱も中々どうして計り知れない。鼻だけが自慢だった被害者にとって、完璧とでも言える端正な顔立ちの綱はどう感じられただろう。前と変わらぬお気に入りの鼻を作ってもらえるのであれば良いが。事件が起きたてで調書が間に合っていない鼻被害について、綱の説明が流れる。
「職安通りの裏を歩いていたら、目に砂つぶが入って立ち止まったそうだ。その隙にぬるりと鼻を何かで触られたという。呼吸の苦しさで頭がいっぱいだったため、犯人の姿は覚えていないと供述を受けた」
「砂かけは定番ですね。防犯グッズでも売られていますし」
「ああ。だが、犯人の姿を感知できないほど長い時間となれば改造品だろう」
砂かけ婆に代表されるような砂かけ・砂まきの怪異は、極小の威力に抑えられて市井に売られている。綱の指摘はもっともで、鼻をぬるりと取った謎の怪異と合わせて違法の怪異が関係しているのは間違いない。因果な世の中である。
「そういう改造品の捜査って、今どこが受け持ってやってるんでしょう?」
「基本的には発生・発覚した警察署が受け持つが、近頃は消費者庁が手の空いた警察署に依頼を出すと聞いた」
かつては土地だけで仕切れた事件も、インターネットの普及に伴い垣根を越えて当たらなければ解決できないほどの広がりを見せていた。細分化は効率向上に貢献すると同時に、警察署同士の連携に難を伴う。未だに検挙数で争いあう警察署間の確執はしばしば噂に聞く。助かるのは犯罪者ばかりだ。違法怪異全般を取り扱う、専門的な部署の立ち上げも陰陽寮では企図されているとも言うが、政争にかまける彼らが新部署設立に協力し合えるとは信じがたい。
「邪眼の取り締まりの時も、結局まだ出元を叩けてませんもんね」
怪異事件の頻発に対し、近頃では政府への非難の声も出始めているという。大規模な相手ばかりに専念し、市井の人間にまつわる事件を特別署のみに請け負わせたことが原因とも、時代がより草の根に毒を撒き散らす方向へと変化したとも言える。総司にしてみれば、人が悪さをするのはいつだって変わりない。ただ、手を替え品を替え悪を為そうとする相手には、対応にも変化が必要だとは感じていた。総司のもやりとした思いを知ってかしらずか、綱がぽん、と石を投じた。
「……内部に、関係者がいるのではないかという噂を聞いた」
「っ、どこにです」
「さあ」
益体もない話だ、と綱はにべもなく打ち切った。これ以上は興味を持つまでもない、とでも言うのだろう。確かによく出回る流説の一つには違いない。だが、どこになのか。綱がただの噂話をするような人間ではないことは百も承知している。総司は肝が冷える思いがした。
「帰りましょう」
結局、汁粉は買わずじまいだった。
出揃った情報を前にしても尚、手がかりは少ないままだと実感するばかりである。大きな進展を見せぬ展開は分かりつつも、一は眉間に寄った皺を指で撫でた。散りばめられているのは全て憶測と推測であり、証拠はひとつもない。この捜査の痛さは正にそこにある。証拠を手に入れるには連続事件と見込んで新たな事件の発生を待つか、他に類似事件がないかを再度洗い出すしかない。ないのだが、人死に対してのほほんと腕を組んで待つのは余りにも残酷だった。第一警察官にもなった人間が取るべき態度ではない。綱と総司にも同席してもらい、一は改めて事件の整理を始めた。
「被害者と重要参考人たちに面識はなし。鼻を失った事件と最初の事件の犯行の手口は恐らく同じで、砂掛けで目潰しをしてから顔やその一部を取ると考えられる。顔を取る手段は、が第二発見者に聞いた顔パックが怪しいな。何か気づいた点はあるか?」
「斎藤さんが店のお客さんに聞いた、美容整形のお店はどこでしょう」
意外にも声を上げたのは総司だった。一はすぐさまスマートフォンを取り出すと、地図アプリを開いて件の凄腕プチ整形の店を示した。疑い深い女性たちは周到にも、声かけをしてきた知人から店の場所まで聞き出していたらしい。韓国料理店に出かけてきたのも、実は店の下見を兼ねての遊興だった。怪しげなプチ整形よりも一と会話する方が大事だと、彼女たちは他にも自分たちが提供できる情報があればと熱意を溢れさせていた。もしその場面をが見ていたらば、ひょっとするとまた子供のような嫉妬を向けてくれるのではないか、とうっすらとした期待をしたのは内緒である。仕事は仕事だ。
「『華川美容クリニック』……綱さん、これってもしかして!」
「ああ」
綱が頷くに合わせて総司がポケットから折り畳んだメモを取り出した。書き慣れない人間がどうにか字を書いてみた、とでもいうような悪筆である。辛うじて読める店名に、一は軽く目を見開いた。『華川美容クリニック』。奇しくも一が聞き出した店そのものである。
「重要参考人のイ・チヒョンさんが、明日から予約している美容整形の店です。一度捜査する価値があるかも知れません」
「面と向かって尋ねるには手がかりがなさすぎますね。斎藤さん、様子を探りに行っても良いですか?」
間髪入れずに出たの提案は、十分頷けるものだった。偶然の一致とはいえ、何からどう手をつければ良いのか定かではない。妥当な路線は、どのような手法で客に施術するに至っているのかを探ることだろう。とは言え、懸念は残る。美容整形の店に中年男性が向かったところで、すんなりとは受け入れられまい。妙策があるのかと目で問えば、食えない部下は凪いだ海のように穏やかな表情浮かべて見せた。
「斎藤さんはご存知ないかも知れませんが、最近だと俺みたいなおじさんでも美容にお金を使う人はいますよ。ちょっとお金を払うだけでチヤホヤされるならしてみたい、なんて人だっていますし。それに、これは一番重要なことなんですが……顔の綺麗な人はよほどのことがない限り美容整形なんてしに行きませんよ」
あなたたちは全員顔が良すぎます、とさらりと続けるの顔は、これといった特徴はない。崩れておらず整ってもおらず、印象が薄くなるとは摩訶不思議な理屈を持つ。反論の材料をあれこれ探してみても、彼ほど確固たる理由は出し得なかった。
「顔が良い、とは」
「褒め言葉ですよ」
藪から棒に綱が顎を撫で始めた。今更色男が何を照れるのかと思ったが、驚いているだけのようにも見受けられる。そう、渡辺綱は顔が良い。端正な顔立ちを教科書通りに作れば、彼のような顔になるだろう。生まれてこの方褒められなかったとは思えないが、恐らく綱の場合は自分の顔に興味がないだけに違いあるまい。しみじみとした綱の問いに、は魅力から逃れるかのように目を逸らしながら肯定した。一からすれば面白くはない。第一今は仕事中なのだ。
「よし、その手で行こう。なら重要参考人に顔も見られていないしな。早速明日行ってもらう」
「はい!」
キラキラと喜びでの目が輝く。まるで一番星を集めたように胸を打つその光が、一はたまらなく好きだった。
病気でも怪我でもなしに病院に行く。健康な人間だけが集う不健全さが建物全体を覆っていた。浮かび上がってくるのは欲望で、仮に失敗しても責任は自分で負うという誓約書がぴったりである。百人町に舞い戻って裏通りは外れ、古びた一軒家を改築したらしい華川美容クリニックで、は想像以上に壮麗な外観に目を瞬かせた。これから晩餐会が開かれると聞いても驚くに値しない。プチ整形を飛び越えて、これは全身整形もこなしかねない豪勢さである。残念なことに、よくある呼び込みメニューらしきものは一切外に出ていなかった。本当に安いのだろうか。疑わしさも相まってぼうっとしていれば、建物の扉が開いて険のある声に刺された。
「ちょっと、道の真ん中に立ってないで。邪魔よ」
「あ、はい」
ズンズンと歩く女性を慌てて避ける。チラリと見えた顔は、調書に貼り付けられていた重要参考人・チヒョンのそれで、ははっと息を呑んだ。否、チヒョンではない。彼女とは違う、だが全てにおいて既視感のある女性だった。一眼見ただけで心奪われたのはその目元である。クッキリとした二重に切長の瞳――ざっと頭の中を探って、はスマートフォンを取り出し電話をかけた。
「斎藤さん!今建物から出た女性を捕まえてください、急いで!」
「了解」
持つべきは物分かりの良い上司である。すぐさま近辺で待機していた署員総出で捕まえてくれるだろう。建物のことは放棄して走り出すと、は女性を追いかけた。相手はこちらの様子に驚いたようだが、すぐさま走り始める。突っ掛けた安物のサンダルがカツカツとうるさい。走るための靴でなし、走るための女性ではない。自分につけられたGPSをたどり、仲間達が駆けつけるのは時間の問題だった。
「待ってください、ねえって、ばっ」
「っ」
異国の言葉が早口で呟かれる。おそらく罵詈雑言の類だろう。語学の不得手な自分であることに、は心の底から安堵した。
「鹿島麗子さん、ねえ、イ・チヒョンさん!」
一か八かの賭けで思い当たる名前を呼べば、驚いた女性が足を滑らせた。矢張りサンダルは走るには不向きだろう。諦めずに逃げようとした女性を、正面に聳えた影が押し留める。
「そこまでですよ。お疲れ様です、さん」
「沖田さん!良かった、ありがとうございます」
横の通りからは一の姿も見える。は胸を撫で下ろすと、更なる証拠を抑えるべく元来た道を辿った。鹿島麗子でありイ・チヒョンでもある、奇妙な女性については上司達が調べ上げてくれるだろう。
「すみません」
「いらっしゃいませ」
ようやく振り出しに戻る。意を決して美容クリニックの扉を開ければ、作り物めいた顔立ちの女性が目に飛び込んできた。まるでアンドロイドのように完全無欠の出来栄えで、一周回って胡散臭さを感じるほどの出来栄えである。けばけばしい化粧など不要だろうに、コッテリと盛られた睫毛が恐ろしい。レースや金糸の飾りが目立つ内装と合わさり、虚構の豪華さには目がチカチカした。
「あの、すみません、緊張しちゃって」
「大丈夫ですよ」
皆さん最初は緊張されますから、との女性の言葉に一層緊張が高まる。役柄としては最適だが、警察官としては失格だ。さっきまでは役に立つ部下らしさを発揮できたと言うのに、早くも失態である。通信機の向こう側で呆れられているだろうと嘆じつつ、は女性が導くままに医師がいるらしい部屋へと案内された。
「今日はお客様が少ないですから、直接先生とお話いただいた方が色々とお分かりになられるかと思います。先生は確かな実績と経験を持った方ですから、安心して悩みをお話ししてください」
「う、あ、はい」
「きっと素敵になれますよ」
笑顔を残して去る彼女もまた施術を受けたのだ、と確信が高まる。元の顔が想像できず、は薄い青と白とで構成された部屋の中を進んだ。装飾過多でない分だけ、いくらか目に優しい。奥に鎮座するふかふかとした革の椅子がくるりと反転し、小柄な男性が手招きしてくる。顔立ちは極々平凡――否、平凡な形に整えられた男性だった。見慣れてゆけば不自然さが気になるのは、鼻筋がやけに通って綺麗に見えるからかもしれない。
「こんにちは、」
「初めまして。まずはリラックスをしてくれたまえ。座って」
案の定と言うべきか、彼こそはこのクリニックの院長だと名乗り、に要望を尋ねてきた。一つ、深呼吸をする。あともう少し、もう一手だ。座った丸椅子がやや小さく、どうにも落ち着かないものの、は淀みなく役柄を演じた。
「実は、気になる人ができまして。この歳で若い子と競り合うのは流石に難しいでしょう?ここに来れば、解決できると……その、あまり」
「財布も痛まずに、か。その通りだ。おまけに私の腕はとても良い上に早い。君は運が良い。正しい選択だ」
安心なさい、と院長は胸を張る。自分が危うい橋を渡っているという認識はないらしい。真っ当な思考で言えば、早く・安く・良く整形ができるとは眉唾物の怪異だ。そう、怪異以外では達成し得ない約束なのである。いっそ自分が被害に遭って現行犯逮捕に踏み切ったらば話も早いし、事件も丸く収まる。が、悲しいかなは顔に興味がなくとも失い損ねることは望んでいなかった。一とのこともあり、無責任なやり方はいただけない。恐らくそちらは先ほど身柄を確保した女性から話を聞くことができるだろう。素直に話してくれれば良いのだが。法の限界に歯噛みしつつ、はじっと機会を伺った。
「ただし、それには君にも協力してもらう必要がある。君はどんな顔になりたいか、理想はあるかね」
「なんとなくは……もう少し目が切長であればとは思っています」
あまり若い子が好きな顔立ちを知らないのだと言えば、さもありなんと言うように院長は深く頷いた。卓上のPCを弄ると、いくつかの写真が画面に現れる。どれも一般人の、どことなく顔立ちが整った人間だった。
「この中に君の気に入った顔があれば、それに似せて作ろう」
「で、でもそれってお高いんじゃ……」
「だから君にも協力してもらうのだ」
言うと、院長は手を叩く。同時に背後の扉が開く音がし、受付の女性が手にしたものを卓上に置いて去っていった。恐らくこの部屋の様子は監視カメラを通じて受付に繋がっているのだろう。いわばここに来た時点で、全ての客は共犯者になるのだ。置かれた銀色のビニールに包まれた薄い袋とスプレーボトルは見るからに怪しい。縋るように院長を見やれば、幼児をあやすような調子で院長は共犯者を誘った。
「日時と場所を指定するから、君が気に入った顔の持ち主に会うと良い。そこで出会ったらば声を掛けるんだ」
そしてスプレーを使って目潰しをした隙に、この袋の中身で気になる部分に触れさえすれば良いのだという。実に簡単でお手軽な犯罪のメソッドは、一が描いた推測通りの行為だった。及び腰のまま了承するに、それからも院長はかちゃかちゃと画面を切り替えては好みの人間を選ばせようとする。暫し迷って一に似た顔立ちを選ぶと、は心から院長に感謝の意を述べて誓約書にサインした。顔全面に整形を施す料金はざっと見積もって十万円。微妙に手が届く、大変安いと感じさせる料金設定である。
犯罪行為に対する料金としては、低価格かも知れないと、は証拠品の山を手に建物を出た。
かくて、拍子抜けするほどあっさりと事件は解決した。功利主義に塗れた華川美容クリニックは閉鎖、院長と受付嬢は逮捕され、事件は新宿警察署に引き継がれることになった。あとは違法グッズの出どころと、顔を剥ぎ取られた人々の情報の入手方法を導き出せば良い。直接的な行為は今や鹿島麗子の顔を奪ったイ・チヒョンら客たちとなるため、人死は殺人教唆の罪にとどまるだろう、と言うのが一の見解だった。チヒョンは無罪を主張し、国際法上面倒な事態になっているらしい。そんな彼女も含めて事件に関わった全員が共犯者で、ほんの少しずつ罪を犯していた。近頃勃発する怪異絡みの事件となんら変わるところはない。即ち、元を断つことが未だ叶わず、歯痒さは募る一方である。
「で、お前はどんな顔になりたかったんだ」
「それ聞いちゃう?前に言ったかも知れないけどさ、俺は自分の顔に興味なんてないの」
事件後、どうにも気になって恋人に問えば、はサムギョプサルが立てる煙の向こうで唇の端を上げた。前回食べ損ねた料理が食べたいとの希望から、今日のデートは新大久保である。ただ、以前二人で遊んでいた頃と変わらぬ調子であるため、デートだと思っているのは自分だけかも知れない。との時間はいつだって心地よく、もちろんそれだけ特別でもあり――もう一歩先に進むことをつい躊躇してしまう。この時間が永劫続くのであれば、それはそれで良いではないかと変化を恐れる強欲さが沸き起こるのだ。
だが、先日の潜入調査では変化を求めていた、ように感じられた。知りたいと思うのは自然の道理だろう。が取ろうとした肉をすかさず掠め取ると、一は答えを促した。動体視力も身体能力も自分の方が遥かに上だ。相手を食事に専念させることはない。何度も体術の稽古(思えばそれもまた日常風景であって特別ではない、おかしな話だ)をしてきただけあり、は肩をすくめてマッコリを飲んだ。前回は仕事中で飲めなかったアルコールも今日は解禁である。
「なりたい顔なんてないから、好みの顔を選んだだけだよ。はい、ここでクイズです。俺の好きな顔のタイプは誰でしょう」
「俺」
「大正解」
そんなことは分かりきっている。と、言うよりもそうでなかったとしても『今』の正解には違いない。和解点に辿り着き、話はこれで終わりだとばかりにはメニュー表を開き始めた。気づけば自分が肉という肉をさらって行ってしまったらしい。締めはキムチチャーハンにしようかな、などと一人で胃袋と相談をする恋人の足を、一はテーブルの下で軽く突いた。
「なーに、可愛いことしてくれてんの」
「別に」
ちら、とメニュー表を下げてがこちらを見やる。わかってるぞ、という目に知らんぷりをしつつも、込み上げてくる笑いは隠せない。女の子の話だろうと、メニュー表だろうと、結局は同じだ。ただ目の前のことに夢中で、がむしゃらで、格好つけるのを失敗してしまう。メニュー表に舞い戻った足をもう一度突くと、今度は意味ありげに脚をなぞられ、一は思わず自分の足を引っ込めた。悪戯の主はメニュー表を閉じると、残ったマッコリを一気に飲み干す。ごくごくと動く喉が妙に艶かしい。
「締め、何にするんだ」
「もういらないよ。……ガム食べたらさ、もう一個クイズ出すから」
お会計、と店員に声をかけてさっさと立ち上がる相手に、慌ててこちらも残りのチャミスルを片付ける。スッキリした味わいはもう少し長く楽しみたかったが、今この瞬間を逃せば貴重な機会を失うことは目に見えていた。ガムを食べたらどんなクイズが待ち受けているのだろう。微かに赤く染まった耳が意味するところを一は知りたかった。店員が渡してくれたミントガムの包装紙を急いで破き、アップテンポなKポップを背後に店を去る。先を歩く男は、振り返ってガムを膨らませた。
「では、ここでクイズです」
パン、と風船が弾け飛び、弾丸のような問いかけが心臓を撃ち抜く。今日もまた一本取られてしまった。だが、笑えるほどに気分は良い。スフィンクスならぬ狸の問いに耳を澄ませて、一はガムを膨らませた。
〆.
あとがき>>
原点に立ち戻って、なんちゃって怪異のじゃれ合い話です。一ちゃんに新大久保を満喫して欲しかっただけとも言う。外見は人間の印象の九割型を占めると言いますし、果たしてそっくり変わってもパッと見で特定できるのでしょうか?特別署の面々ならば、何某かの方法でできそうだな……と思えるあたりが何とも頼もしいです。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!