嗚呼、何て美味しいんでしょう!
我こそは
美術品は得てして美という感覚に鋭い。自らの価値を知っている。ぞんざいに扱われる事を拒む。気高い。それが鼻につかない、というのが美術品ではないの中での定義だった。は美術品の手入れやら何やらをする所謂世話係で、元を辿れば小さな砥石、付喪神になる程に残されたのは幸運故である。記憶の中で薄らぐが、最初の方の持ち主の名前が書かれていたので、それをそのまま自分の名前とした。身をすり減らすためか昔のことを余り覚えていないのだ。
すり減らしたので自分は小さい。ついでに言えば削いだように薄い顔立ちで、酷薄そうにも見受けられる。肉も余りない、まあ骨皮ではないかと疑われる程度には細い身体だった。だから、名だたる武術品であり美術品である刀剣が、刀剣男士として煌びやかにこの世に顕現する様を見た時は目を剥いたものだ。なんとまあ、美しいものは人の身を得ても至極当然のように美しい。眼を合わせるとどうにも萎縮してしまう。
「。おい、聞いているのか」
「すみません、日本号様。少々ぼんやりしておりました」
はっと我に返れば、日本号が仕事部屋の入り口にあきれ顔で立っていた。どうやら自分に用があるらしい。居住まいを正すと、は平身低頭して用を尋ねた。卑屈な真似をするなと審神者や男士達に言われることもあるが、どうにも恐ろしいという気持ちが先行してしまう。と、同時にはこの正三位、という栄誉ある立場を有する男が慕わしい。無精髭もまばらな、美術品としては実に男臭い見目をしているのだが、却って羨ましかった。ついでに言えば、優しくもある。
「いや、考え事をしてるなら悪かった。実は……その、内番中にふざけていたら箒を折っちまって。新しいのをくれるか?」
「……畏まりました」
気まずそうに日本号が取り出したのは、見るも無惨に箒の先を折られたものだった。これでは修理の仕様もない。刀剣男士はおしなべて力が強いものだから、箒程度には耐えきれなかっただろう。少々悲しく思いながらも新品を探して手渡すと、日本号がありがとうよ、と頭を下げた。こんな小さな仕草ですらも礼儀ただしさがにじみ出る。毎度見とれてしまうのをこらえると、は日本号の背を見送った。
さて、箒である。若く、世に出されて然程長くはないというのに、何とも哀れだ。自分がこうならなかったとは思わない。柄は無事だから、どうにか他のものにつぎはぎできないものかと道具屋に頼むとしよう。イタチが長じた妖怪は、中々器用な道具屋を営んでいるのだ。だが、今日は妖物の店に買い物に行くのではない。いつものじじむさい、と影では言われている甚平の上下を脱ぐと、は人の世で着られる暖かな衣類を選んだ。柔らかな生地はの好みでもある。靴下に、ジーンズ、コーデュロイでポイントをあしらった木綿のシャツにジャージ生地の柔らかい上着、更にコートとマフラーを選び取れば完璧だ。
ポケットの中に、審神者から預かっている財布(電子マネーのカードと、がせっせと貯めている店のポイントカードが詰まっている)と連絡機を入れると、は頭の中に買い物メモを並べた。幸いなことに、僅かな間であれば驚嘆すべき記憶力を維持できる。審神者に習った記憶術で、頭の中には架空の本丸を抱いていた。
仕事部屋を出ると、は外界に繋がる扉の場所へと足を急いだ。巨木の如くそびえる木の扉の上で、いくつもの色とりどりに塗られたカードが飛び交っている。妙な所で審神者は芸術性に拘る節があったが、には不便なだけである。ぐいと見定めた紙を引き抜くと、はさっさと扉の脇のカードリーダーに吸い込ませた。ガシャン、ゴシュン、と妙な音がすると、扉の見た目が実につるつるとした鋼鉄のものにすり替わる。目的の場所へと向かう扉に変化した証拠だった。ボタンを押して開けようとすると、たったと音がして一挙に横合いに生き物が間合いを詰めて来た。
「っ」
「くーっ!間に合って良かったぜ。悪いな、遅くなっちまった。買い物だろう?俺も行く」
「……はあ」
豪快な物言いをするのは勿論、日本号だった。審神者に許可はもらってあるのだ、と言う彼を検分し、は十分外界に出ても問題ないだろうと判断した。内番時のつなぎも良いが、かっちりした洋装もよく似合っている。ふわりと香るのは、先日審神者が下賜した香水だろう。は頷くと、今度こそボタンを押して扉を開けた。
「さっむ!やっぱ外は大分違うなあ。寒くないか?」
「ご心配いただき、ありがとうございます。問題ありませんよ、防寒しておりますから」
振り返れば、一見洒落たマンションにしか見えない建物がそびえている。あれは見せかけであって、中は不可思議な本丸が広がっているのだ。毎度ながらもこの仕組みばかりは理解できない。おやつ時を大分過ぎた頃で、まだ陽は十分にその光をそこここに投げかけていた。外出は今日が初めてではないし、他の刀剣男士とも出かけている。概ね彼らの方が力があるので、荷物持ちに良いだろうと審神者が言ったためだった。うっかり一度、冷蔵庫を御手杵が背負って運んでしまい、近所で噂になったことは記憶に新しい。
日本号と来るのも初めてではないし、彼の目当ても把握している。酒だ。常にスキットルの類いを肌身離さず持つ日本号は、人間であればとっくのとうにアルコール中毒だろう。同じく酔っている次郎太刀も良い勝負だ。としては、彼らに手伝ってもらわなくとも良いのだから、要するに口実で連れ出されているのだろう。商店街に向かって歩き始めると、は酒屋が延々並んでいる、赤提灯も揺らめく通りの方を指差した。まだ夕方には早いだろうに、もう酔客の喧噪が聞こえている。
「日本号様、俺は買い物に参りますので、あちらでお楽しみください。時間になれば迎えに参ります」
「寂しいこと言うなよなあ。俺はお前と買い物に来たんだよ。ほら、今日は何を買うんだ?一緒に行こうぜ」
「俺の機嫌を取っても無駄ですよ。……酔狂な方だ」
は、使用人である。仕える相手と対等に歩くことは、嬉しい反面ひどく緊張してしまう。何しろもの馴れないのだ、彼らの煌びやかさを目にしていると頭がおかしくなってしまいそうで恐ろしい。だから、仕事部屋が欲しいと審神者に願い出て、本丸の端の端に落ち着く小さな部屋を作ってもらいもした。薄暗く、だが心地の良い空間で、は自分の身頃ぴったりの箱に入ったような安心感を得ている。
「今日は切らした調味料と、種、主様の靴下を買います。あとはお土産用のお菓子ですね。季節柄チョコレートケーキが良いと考えているのですが、日本号様は何かお召し上がりになりたいものはございますか」
「チョコレートケーキ?お前が作るやつあるだろ、あれがいい」
「……たまには他所の上等なものをお召し上がりいただくのも良いかと。俺も勉強になりますから」
「ふうん。俺の分は酒入りにしてくれ」
「畏まりました」
合間に挟まる台詞に酔わないように気をつけると、は調味料の店へと向かった。
少しも距離が縮まらない。寒さに僅かに身を縮ませて、日本号は口をへの字に歪ませていた。隣では生真面目な使用人がハバネロの種類を眺めて唸っている。どれも赤くて辛そうで、正直日本号には差が解らなかった。酒であれば目を瞑っても解るのだが、その他のものにはとんと弱い。美味いかまずいかは実に繊細に見極めるし、美術品も鑑定眼は確かだと、歌仙兼定も感嘆している。だが、世の中にはまだまだ自分が及びもつかないものがあるので追いついていない。故に面白いと言えるのだが、今は歯がゆい気分で一杯だった。
「どれとどれで迷ってるんだ?」
「いつも使っているのはこちらのタバスコなのですが、実は先日新商品が出まして。常の数段上の辛さだというので、後藤様辺がお喜びになられるならばこちらも良いかと迷っておりました。些末なことですみません。今日は予算に余裕がありますから、両方買いますね」
「いや、別に急かすつもりで言ったんじゃない。気にしないで買うと良い」
「ありがとうございます」
その他にも、見た事のない海の向こうの国々の山海の珍味を見て回り、はひょいひょいと買い込んで行く。中には先日口にしたばかりのタマリンドソースもあった。このタマリンド、という暑い国からやって来た果物は、天然で甘くて辛いのだ。正直な所どう表現したら良いのかが解らない。キャンデーを前回はもらったのだが、今度は酢豚のソースに使ってみるとのことだった。身の回りの世話は勿論、おさんどんも全てこなすのはである。手伝いは多少許されているものの、頑に彼は人の手を煩わせることを嫌がっていた。
は奇妙だ。使用人だ、というのが解っても日本号は同じ付喪神ではないかと思う。主ではなく、その下で働くなら皆同じ仲間だろう。故に今日は酒を切らしたというのもあるが、どうにかしてをよく知りたいと、もう少しくだけた仲になりたいと前向きな事を目標に定めていた。だがどうにもは取りつく島がなく、さっさと買い物メモに従って必要なものを買って行く。普段、こうした買い物に真面目に付き合って来なかったことを日本号は心底後悔した。話のネタがない。終いには、付き合っているに気を使わせる嵌めになってしまった。
「日本号様。すみませんが、主様の靴下を選んでは頂けないでしょうか。どうにも俺は朴念仁で、センスがないと常々小言を頂戴しておりますので」
「そうか?俺はお前のその格好、よく似合ってるし洒落てると思うけどな。まあ人の好みは色々だ、こっちの指が別れてるのはどうだ?」
洒落気でこの町の雰囲気に自然と溶け込めているを、日本号は微かに眩しく思った。受け答えもそつがないので、いくつかの店では彼が馴染みの客として歓待されていることが解る。僅かに打ち解けた調子で話すが証左で、それよりも長く自分の方が接している筈なのに、と日本号は子供のように唇を噛んだ。選び出した靴下はこれと言って特徴はない。だが防寒には一番の効果があるというもので、冷え性の審神者はさぞや喜ぶだろう。は日本号が選んだものを暫し無表情に眺めていたが、良いものですね、と微笑んで三足程とり、レジに持って行った。どうやら外れではなかったらしい。
「日本号様のお陰で、今日の買い物は早く済みそうです。あとはお菓子ですが、先に日本号様のご用事を済ませましょう」
「言ったろ。用事はお前と買い物をすることで、酒を買いに来たんじゃないんだ。……よし、解った。ついてきてくれ」
「はい」
あくまでも従順に使用人らしい調子で頷くが、喜んでついてくるようになってくれたならばさぞや嬉しいだろうな、と日本号はちらと想像した。彼に感情があることは解っている、だから本来であれば自分はもっと様々な彼の柔らかさに触れることができるはずなのだ。が砥石ではなく小刀であれば違っただろうか。遠慮せずに自分を遊びに誘ってくれるだろうか。
実は、こうしたささやかな願望を、日本号は審神者に話した事がある。醤油で煮染めたように日に焼けた肌をした老婆は、すきま風の吹く口をかっと開いて笑ったものだった。なんだね、お前さんは友達になりたいのに声をかけられない、子供とまるきり同じじゃないか。どうしたって他の男士と同じように接しないのか?ものは試しだ、頑張ってご覧、と言われて日本号は頑張っている。実は、大変申し訳ないことに、箒を壊したのはわざとだった。に話しかけるきっかけが欲しかったのだが、ただ彼を煩わせてしまったので帰るより他になく、悪手だろうから手を変える。二人きりで行動しなければならないとなれば話すだろう、というもくろみは成功した。後はもう少し、もう少しの頑張りが必要なのだ。
赤提灯が揺れる中に、馴染みのおでん屋がもくもくと誘いかけるような湯気を立てているのを目にし、日本号はの手を握って引っ張った。まあるく開いた彼の眼は人間らしく、ひどく心が躍る。もっと、もっと自分はこの先の色々が見たい。日本号の方が力が強いということもあるが、これといってが握った手を振り払う様子はなかった。ただ、困ったように笑う。困らせているというのは悲しいが、日本号はどうしてもこの手をつないでおきたかった。おでん、と書かれたのれんをぺらりと開ければ、すっかり顔見知りとなったおでん屋の夫婦が頭を下げてくる。この夫婦が、互いを補うようにして店を切り盛りする様が日本号は堪らなく好きだった。使い古されてつるつるになったカウンター席に腰掛け、にも隣に座るように勧める。買い物袋をどこに置くかまごつくから荷物を受け取ると、日本号は慣れた手つきで脇にある棚に置いてやった。
「こんばんは。俺にはいつものやつ、こいつには今日のお勧めをよそってくれ」
「あいよ。初めてだね、ごうさんが誰かをつれてくるのは」
「ああ。美味いものを食べさせてやりたい相手なんだ」
女将に乗せられるようにして素直に話すと、隣に座るがびくりと反応する。見遣れば心なし耳が赤い。嫌がってはいないようだ、と日本号は一安心した。必殺の構えを見せる、わけの解らない敵を相手に勢い込んで飛び込むことは平気なのだが、どうにもには躊躇してしまう。これが自然ではうまくいかない友人を得ようという状況なのだろう。そうこうするうちに自分の前には澄んだ清酒が升に入れられなみなみとガラスのコップの中で騒ぎ出している。隣にそっと並ぶのは大根とゴボウ天で、黄色い芥子は弾かれていた。どうにもあの黄色い芥子の味わいは苦手で、舐めると頭の奥がきゅっとしてしまう。
「連れて来てからでなんだけどよ、ここのおでんは最高なんだぜ。お前に食べて欲しくってさ。苦手なものとかあるか?」
「いえ!ご心配なさらないでください、俺は何でも食べられます。それよりも、日本号様のとっておきの場所に連れて来てくださり、ありがとうございますね。このような店には一人で来られないものですから、嬉しいです」
「良かった。俺の驕りだ、どんどん飲んで食べてくれ」
「夕飯に差し障りがない程度に、いたしましょうね」
ふふ、と笑うは実に上機嫌だった。おでんの熱気だけではなしに顔に熱がある様が見て取れる。おやと思えば、彼の目の前に置かれたコップ酒が既に半分程飲まれていた。どうやらこの砥石は酒に弱いらしい。お陰で仰々しいまでの丁寧さが少し角がとれていて心地良かった。その上機嫌をいつまでも続けて欲しくて、日本号は店を出る際に、心の底からまた来よう、とそっと誘った。
分不相応である。今日も暖かなおでんを突きながら、は隣で武器のそれと同じく巧みに串を操る日本号を見ていた。場所はおでん屋ますおか、飲屋街にあるいぶし銀なおでんを出す店である。寒風が吹き荒れようともこの赤い暖簾を一枚潜ればそこは湯屋のように温かい。すっかり慣れ切ったはもうますおかの常連で、日本号と並んで来るようになっていた。第一、外出するのはこのところ日本号とばかりである。奢るのは互い違いで交互にすることが慣しで、話は実にぽつりぽつりと進む。
素面であればけしてこんな風になれ合う事はなかったろう。今でもは恐縮する。自分とは数段違う、否格段に違う相手と並ぶことなど恐れ多いと卑屈になっていた筈だ。酒の勢いで、と言うのは人型をとってもう随分と経ったものが言ってはいけないだろうけれども、は確かに酒で日本号となれ合った。まだ口にはできないが、心の底ではもう日本号を友人と呼びたいとすら思っている。
友人は、もう随分長いこといないままだ。いたのだ、昔には。だが古道具仲間は皆散り散りになってしまってどこかの用人になり、今の本丸に以外の使用人はいない。対等な人はいないから、外出をして顔見知りの店員と話すことが密かな楽しみになっていた程だ。上辺のやり取りに喜ぶ程に、他人に飢えているとは思いたくはないが、実際そうなのだろう。だが今は、日本号がいる。何故かは解らないが、この慕わしい、尊い男が隣で酒を飲んでいる。
「ここにいる時さ、お前って本当に良い顔してるよな」
「……だったら、良い顔をさせているのは貴方だ」
「酒でもおでんでもなく?」
「うん」
ぞんざいな言葉遣いの自分を日本号は咎めず、ただ眼を細めた。酔人の戯れ言と思うのならば尤もだ。実際は酔っている。だがいつだって何をするかは覚えているし、不本意なことを行わないできた。酒のせいではなく、はただ自分がありたいようにある。日本号がじっとこちらを見て来るので、はこんにゃくを噛みながら見返した。この栄養価の全くない、そのものでは面白くも美味しくもない代物がは大好きだった。何かの力を借りれば極上のものに変わるだなんて夢のようではないか。自分だって変わりたい。しかし、砥石に履かせる下駄をは未だに見つけられずにいた。そうして暫く見つめ合っていると、日本号は串を弄ぶ手を止めて、嗚呼、と両掌でその美しい顔を覆った。
「どうなさいました?芥子にあたりましたか」
「あたったのはお前にだ、なんだよそんな、ああ畜生」
「俺が?」
さっぱり話の脈絡がつかない。日本号はウンウン唸っている。これで芥子にあたったのでなければなんだというのだろう。以前、間違えてあの黄色い芥子を口にし、のたうちまわる日本号を目にしているからこそにはよく解らなかった。意地悪や悪戯の類いを自分がしたつもりもない。何度かウンウン唸ってようやっと日本号が顔を露にする。これといって発疹もないが、ただ赤かった。
「急に口説くなよ、その気になっちまっただろうが」
「口説いてませんし、口説いたこともありませんよ。でも、その気というのは少し良いですね」
「な、」
「俺は日本号様が慕わしい」
実際そうだから、は素直に告げた。友人になりたいと思う男に、自分の胸の内を曝け出す良い機会である。こんなことでもなければ、実際自分が話すことはないだろう。それに酒を飲んでいるものだから、言いたい事も難なく言える。後で少し恥ずかしいかもしれないが、今欲しいものを得られたならばきっと心地が良い。思考が軽やかに明るくなる程は酔っていた。だから、日本号の眼が燃えるように赤くなり、自分を抱きしめて来たところで恐ろしくも何ともなかった。
「俺もだよ」
「まことですか?ふふ、俺は幸せだ」
普段であれば身がすくんでしまうようだが、今は心のままには腕を広げ、日本号を抱きしめ返した。とは言えほんの少し腕がまわりきらないから、しがみついているような形になってしまう。ますおかの夫婦が温かく笑っていた。今日は何と良い日だろう。
「じゃあ、貴方と俺はこれで友人ですね」
「違う」
「……俺を甘やかさないでくださいよ。親友だなんて、流石に言えません」
「違う!」
ぎゅっとレモンのように絞られてしまうのでは、と驚く程に強い力で締められ、は思わず噎せた。先程口の中から胃の腑へと落ちて行ったふわふわのはんぺんが競り上がってきそうである。慌てて日本号の背中を叩くと緩められ、すまない、と何度も背中を撫でられた。自分が一体彼のどんな逆鱗に触れたか解らず、はただただ申し訳なく思った。一体何が違うというのだろう。互いに慕わしく思い合う、その至上の形はの中では少なくとも、友情だった。それが違うというならば、他に一体何があるだろう。
「俺達は、もっと前から友達だろ。そんでもって、俺は友達よりもお前の近くにいたいんだ。解るか?俺の穂鞘になって欲しいんだ」
「砥石ですよ、俺」
「だったら、俺だけの砥石になってくれ」
はて、とは日本号の顔を盗み見て首を傾げた。冗談は言っていないようだ。そもそも、こんなにも重要な事を冗談で言う男ではない。人間で言えば結納を交わしたいと言う程の重要事項である。自分が、とは精一杯日本号の背中を撫でた。自分がこの男に相応しいと思われるとはなんと甘美か。ちっぽけな古びた砥石である事を忘れてしまいそうだった。
「日本号様、俺にはまだ早い話です。その、嬉しいだろうと思うのですが、俺には過剰で、受け止めきれない」
「嫌じゃないか?無理矢理しようと思ってないんだぜ、俺は。お前を困らせたくないんだよ」
「嫌ではありませんね」
嫌なら、おでんを食べません、とは笑って店主に追加を注文した。今日はまだ食べていない、一番の好物の餅巾着が仕上がったという声が聞こえ、は少し唇の端を持ち上げた。
一世一代の押切るタイミングはおでんに負けた。無理矢理しようとは思わないが、勢い良く全てを叩き付けたいとは思っていたのだ。だがそれが、嗚呼なんということか!日本号は実に長々と溜め息をついて蕎麦を啜った。おでん屋での顛末から二ヶ月というもの、日本号は今まで以上には距離を詰められずにただとともに箸を握って腹ばかりを膨らましている。美味しいものに目がないは喜んでついて来てくれる、ということは日本号にではなくおでんやら何やらの方に魅力がある、そういうことにはなりはすまいか?友人ではある、だが自分はおでんと同じ位置に立ってはおるまいか。正三位の地位をもらっても、食欲の前ではただのお品書きにすらならない。
さて、今日は蕎麦である。雑務で忙しいは隣におらず、御手杵に蜻蛉切という、三名槍が揃ってそば屋に横一列で並んでいる。珍しく酒もなく、至って真面目に三人で語らう、否日本号の泣き言を聞くという会が設けられているのだ。御手杵は多分に興味本位だけで、蜻蛉切は優しいものだから真面目に日本号を案じて蕎麦を啜っている。日本号はエビ天が見事な天蕎麦、蜻蛉切は甘味がたまらないと月見蕎麦、御手杵は肉が食べたいと駄々をこねての鴨南蛮を頼んでいて、全て日本号の驕りだった。蕎麦等安いから良いのだが、元気よくおかわりをする御手杵に日本号は顔を顰めた。
「日本号殿、よくぞ耐えられましたな。自分が同じ立場であれば、堪えられたかどうか、自信はない」
「だろ?もっと褒めてくれよ、俺は心底落ち込んでるんだ。聞いてるのか、御手杵」
「聞いてる聞いてる。おじさん、そばがき一つ!」
「あいよ」
「お前、いい性格してるよな……」
ある意味、この御手杵の能天気さは、落ち込む事態をばかばかしく感じてしまういい材料にはなるのだった。共におでんを突き合い、何度も外出して口調もくだけ、そうするうちにどんどんとこの一緒の時間を増やしたくなってしまった、その気持ちを暴走させてしまった幼さが日本号はただ恥ずかしい。が拒まなかったから良いものの、一度見せてしまった格好悪さで今一度押す事が出来ずにいる。慕わしい、という表現の難しさ、日本語のあの曖昧で広範な読み取り難い物言いの性質の悪さを日本号は身を以て知ったのだった。
「でもさ、悪いことばっかりじゃないんだろ?昨日だって一緒に出かけたの、見たぜ。嫌だったらそれとなく断るか、主さんに頼んで会わないようにするくらい、あのだったらするだろ。あいつが言ったみたいに、急がないでゆっくり時間をかければ良いと思うけどな、俺は。蜻蛉切もそう思わないか?」
「御手杵。ここは正論で向かうのではなく、ただ愚痴を聞くことに意味があるのだ。薬研殿がそう仰っていたぞ」
「なんで薬研は殿つきで俺は呼び捨てなんだよ」
「御手杵、煩い」
そばがきが来たから食べろ、と言えばあっさり元気な口は塞がれる。日本号は溜め息をつくと、だから誘い方が解らないのだと蜻蛉切に零した。蜻蛉切は人当たりがよく、うんうんと相づちを打ちながら聞いているようで実際は然程親身には聞いていない。大方こんなところだろうと落としどころを見つけている様子であることが日本号には見て取れていた。だが、今日は蕎麦を奢っている。そのお代分は慰められたいし協力もして欲しい。等価交換、これぞ商売だ。この大食漢達にただで蕎麦を奢る程、日本号の懐は温かくはない。すかさず蜻蛉切がそば寿司を頼んでいる。小さい割には器用な店なのだ。
「いや、おでんにしたって何にしたって、連れて行けば喜んで食べるし、俺といるのが楽しいって言ってくれるんだよ。嬉しいさ!だけどな、ちっともこう、それ以上になれないんだよなあ。歌仙辺に聞いて雅な正三位になりきれば良いのかね」
「……そういうこけおどしみたいなの、あんたに似合わないと思うよ。なあ、出かける時って、日本号がどっかに連れてくだけなのか?」
「ああ」
こけおどしが駄目だというのは百も承知だ。だが、今は猫騙しをしてでも距離を縮めたいという必死さで一杯一杯なのである。妙にこんなところは大人びた御手杵は日本号の返答に頷くと、そばがきを一挙に平らげて笑った。
「今度はに好きな店に連れてってくれ、って頼んだらどうだ?毎回同じところじゃあ、変わる雰囲気も変わらないって。騙されたと思ってやってみるのもいいもんだよ」
「良い案だな、御手杵。自分もそれに賛成だ。日本号殿、趣向を変えてみましょう!」
「確かに、悪くはない案だな。……よし、そうと決まれば景気付けだ、飲むぞ!」
「おう!」
俄に心は踊り眼は輝き、世界は今日も美しいと日本号は酔った。酔いは良い。温かい。酔いは良い。何故か楽しい。人間と同じ内臓器官の作りをしていない筈だというのに、このまがい物の体は人間のように酩酊する。だがこの不自由さ、何でも出来てしまう故に楽しめる不自由さが日本号は好きだった。だから、きっと感情に振り回されることに耐えられるのだろう。がどこまで思っているかは不明だが、彼に夢中になって振り回される自分が日本号は嫌いではなかった。
猪口がいくつも並べられ、食べるだけではなく鯨飲の輩でもある蜻蛉切と御手杵もどんどんと煽っていく。面白い話だが、この中で一番酒に振り回されるのは日本号で、次に蜻蛉切、最後に子供のような無邪気な顔立ちをした御手杵が続いている。日本号は笑う。騒ぐ。そして寝てしまう。起きた後は楽しい記憶も失ってしまっていることがしばしばだ。だがそれはそれで不自由さがあるから楽しくもあるし、今のところ問題も起きてはいない。はまるきり反対で、酔いはするが全てを覚えて正気で行動している。故に、が酔っていても彼の行動は信じられるのだ。信じられないのは、何よりも日本号自身だった。
この店の蕎麦は美味しい。あの香りが濃く立ち、口に含めばこしがあり適度な細さに切られている。味はさらりとしているのだが確りと蕎麦の存在感を主張している。本来であればざるで食べる方が礼儀に適っているのだが、今日は寒いので寒さに負けてしまった。だが今酒で温まった体ならどうだろう、味が解るかは自信がないが、とぐるぐると思考していると、不意にぷつりと全てが止まった。多分、そこで日本号は寝ている。
「悪いな、。毎回頼んじまってさ」
「いえ。元はと言えば俺も原因なのでしょう?構いませんよ。それに、俺はこの役目が好きですから」
手伝いに来た使用人に、御手杵は頭を下げた。すっかり出来上がって寝こけてしまった日本号と蜻蛉切がカウンターに突っ伏している。勘定は勝手に日本号の財布から支払ったが、如何せん店じまいの時間なのだった。手慣れた手つきで蜻蛉切を背中に抱え上げると、御手杵は、自分と同じように自身の身頃よりも大きな日本号を背負うを眩し気に見遣った。
「誰かに頼られるって、嬉しいですね」
「……お前ってさ、結構性格悪いだろ?そろそろ許してやったらどうだ」
「後少しだけ」
遊ばせてくださいね、と笑うは実に柔らかい。日本号が彼をここまで変えたのだ、ということを御手杵は知っている。今のはおどおどしていた頃が嘘のように堂々として人間らしい。おまけにしたたかだ。日本号はまだ知らない、今やは全てを把握して笑っている。朝になっても気づかない日本号は、既に誰よりもずっと愛しい人の傍近くにいるのだ。心がどうして離れていよう。おでんだって、蕎麦だって、酒だってなんだって消えてしまう。だがは消えない。日本号も消えない。自分も、蜻蛉切も消えない。ずっとずっと残っている。
だから何度も楽しめる。賞味期限のない神であれば尚更だろう。日本号にとって、は減らない素敵な御馳走なのだ。いつかはきっと、逆も然りと知るだろう。その日まで、真実を知ってほくそ笑む楽しみを御手杵は享受するのだ、なんという甘露!
秘密の旨味を今日も噛み締めながら、御手杵は策士と並んで家路についた。
〆.
あとがき>>
寒い日は、温かいものを!ということで食べ物の話です。和食は余り得手ではないのですが、とても好きなものを詰め込みました。日本号はこう、正三位なのにかっこつけないところでいぶし銀にかっこいいイメージがあります。一粒で二度美味しい。合わせて、ひねているようでしたたかに育ち上がる過程を辿る人も面白いだろうな、という思いつきを詰め込んで書き上がりました。凸凹の組み合わせを楽しんでいただけたならば幸いです。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!