戦闘開始。
今日から始まる
七夕の興奮冷めやらぬうちに試験だなんだと子供達は現実に追われ、一方大人達は極普通の日常を味わっていた。勿論もその一人であるはずで、試験勉強のためにと住人がすっかり引きこもってしまった寮のカウンターにひっそりと座っていた。
普段通りである筈ならば、伊織の言うところの”仕事をしている振り”ないしは”仕事がある振り”をしている筈なのだが、今日のところは気もそぞろなのか、手元に広げられた論文らしい黄色い紙の束は殆ど捲られていなかった。そもそものところ、この論文は捲らずともはそらで言える程に内容を熟知していた。
それを引っ張り出してきたのは偏にこの身に感じる不安のようなものを払底させたかっただけである。だが、期待された効果が少しも無いことは明々白々であるらしかった。親指と人差し指でわざとらしく紙片の先に触れると、もう何度も繰り返した行為のために洗いざらした布の様な感触が得られた。
「”忘れてくれ”、ね」
指先から得られた情報はいつの間にか脳裏で真田の柔らかな髪に摩り替わっていた。伝わってくる机の冷たさは彼の少年の薄い唇を連想させ、気付けば知らず知らずの内に自分が彼の姿を追おうとしていることには苦虫を噛み潰したような表情を形作った。
衝動的な接点をぎりぎりのところでかわし、すり抜け、挙句の果てに忘却を望んだのは自身である。にも関わらず実際には少しも記憶は色褪せず、寧ろより具体的な形を伴って思い出されることは不思議だった。かつて、これ程までに自分が記憶に固執したことがあるだろうか。恐らくは無いだろう。
去るものは追わず、来るものは拒まずの精神を貫き、自分の元を過ぎ去ってきた記憶は文字通り過ぎるばかりで手元に残ることなど無かった。単純な話、つまるところは残すことが面倒だったのである。にも関わらずこうして強く印象に残り、尚且つ忘れ難い記憶というものは皆全て真田絡みであった。
「いや、違うな」
本当は忘れては居ないことが他にもあるにはあった。ただ最近の出来事では真田絡みばかりだということだった。好い加減に振りの形すら留められなくなって肘を突くと、丁度折り良く量の扉が開いた。幾月である。
「暗いねぇ。どうしたんだい?にしては珍しいことだね」
「別に。お前の方こそ何してるんだ?理事長先生が生徒が忙しく試験勉強をしてるって時にぶらついちゃ仕方が無いだろ」
わざとらしく軽口を叩くとはさりげなく手元の論文を裏返した。極々自然の行いは幾月の目には留まらなかったらしく、人の良さそうな笑みを浮かべると訪問者は階上を指差した。
「うん、なんでも上の機材が壊れたらしいって聞いてね。修理でもしようかと思って」
「……あんまり音を立てるなよ」
「お、いいねぇそれ。寮監っぽくてさ」
「”ぽい”じゃなくて寮監なんだろ、一応。お前こそ理事長の癖に」
「単なる名誉職だよ。ほら、仕事らしい仕事ってないだろう?僕みたいな研究者タイプにはもってこいの職業だと思わない?」
「世の真面目に働いてる連中に一挙に白目を剥かれる様な台詞だな。さっさと修理してこいよ」
「はいはい。全くは冷たいんだから……おや真田君、こんばんは。まさかランニングかい?」
「、」
真田、という単語をいきなり耳にしては思わず息を呑んだ。ついで、肩の力を抜いて振り返る。不自然に見えなかったろうか、と恐れを抱きつつ目にした世界はだがしかし、重なることは無かった。
「こんばんは。……いえ、少し買い物に行くだけです」
「そうかぁ。なるほどねぇ、うん。感心感心。でももう暗いからねぇ……あそこの角のコンビニに行くんだろう?だったら、一緒についていってあげたらどうかな。真田君なら大丈夫だと思うけれども、何分暑くなってきたからね」
「理事長先生らしい発言だな」
苦笑するとは最近話題になった通り魔事件のことを思い出していた。勿論この辺りの話ではなく、都心部での事件だったのだが、気温が上昇するに伴って少々おかしな人間が出回るというのは世の常のことである。心配するのも無理は無いだろう。は脳が何かを滲み出させるよりも早く頷くと立ち上がって論文をそっと分厚いファイルの下へと滑り込ませた。
真田は一瞬何か言いたそうに口を開閉させたが、結局何も言わずにを待った。触れた寮のドアノブは金属製であるためか人肌のような生暖かさで、はひょっとすると握ったのは真田の掌なのではないだろうかと妙に焦りを覚えた。石段を降りて振り返ると、何も知らない幾月が小さく手を振って寄越した。
「さっさと修理して帰れよ」
「冷たいなぁ。お茶をしようとか少しは労ってくれないのかい?」
「生憎気が利かないんでね……悪いな、真田君。行こうか」
軽口の応酬の後にまともに真田に向き直ると、少年は小さく頷くと先に立って歩き出した。どうやら並んで歩くつもりは無いらしい。そうだろうな、と思いながらもはもし並んだところで心理的な距離は少しも埋まらないのだろうと唇を歪めた。コンビにまでの距離は本当に短いもので、歩き始めて五分もしないうちに煌煌とした白熱灯の灯が拱いているのが視界に映る。
何もしないでただ買い物に付き合うには会話もないし、物理的な距離すら離れている。先に立つ真田の背中を見ながらは牛乳でも買って帰ろうかとポケットを探った。それなりに枚数が入っているらしい小銭入れの感触がある。革の財布はの肌によって温度を持ち、人肌にも近いそのさわり心地は滑るの指を再び錯覚させた。
「……普通なんですね」
「何が?」
突然珍妙な物言いをされ、思わずは間抜けな声を返した。勿論真田が言わんとすることなど承知している。だが長年染み付いた体勢は少しも違わずに上手くかわしてしまおうとちょうしっぱずれの音を奏でていた。真田は一瞬怯んだ様だが、すぐさま体勢を整えて巻き返した。
「本当に忘れたんですか」
「何を?」
白々しい返事とは思いながらもは口笛を吹くように軽く答えた。あと十二歩。それだけであの白熱灯の中に入っていける。牛乳は低脂肪乳が良いだろうか。先日荒垣に教えられた牛乳の種類や成分の話をつらつらと思い出していると、道標のように眺めていた真田の背中がくるりと反転した。
「……忘れたなら、思い出させるまでだ」
「へ、」
何をだ、と間抜けに返すよりも先に真田が動いた。反射的に心臓が高鳴る。何度も思い出した真田の顔が段々と近くなって、は漸く腕で突っぱねた。
「止せよ。ここは公道だぜ?」
「覚えてるくせに忘れただなんてさんが言うからだ。仕方が無いでしょう」
「……俺は何も覚えちゃいないぜ」
「なら、何で避けたんですか。何も覚えていないならこれから俺が何をするのかなんて解らない筈だ。違いますか?」
「それは、」
「覚えていてください」
俺は忘れません、と真田は言うと踵を返してさっさとコンビニの中へと吸い込まれていった。いっらしゃいませ、というマニュアル通りの明るい声が矢鱈と大きく耳を打つ。生暖かい風が額に浮き出た汗を撫でた冷たさに、ははっと現実に戻った。
「……牛乳を買わないとな」
いっそそのまま遅いを見捨てて真田が先に帰ってしまえば良いのに、とは自動ドアを潜ってレジに並んでいる真田を横目で見た。どうやら切れたのはシャー芯だったらしい。切れるくらいに真面目に勉強をしているくせに、どうして学生の本分ではなくあんなくだらない一幕に執心するのかには理解できなかった。正確には理解したくなかった。
棚には白がベースの紙パックが整然と並んで選ばれるのを待っている。ひんやりとした冷蔵庫の空気が心地よかった。店内のクーラーは程よく利いていて、少しずつの汗も収まってゆく。穏やかな日常に再び溶け込んでゆくのを感じて、はひょっとすると先程の出来事は夢か幻だったろうかとすら考え始めていた。
並んだ牛乳は段々どれも同じに見えてきて、荒垣に教えてもらったことは全く思い出せないで居た。そもそも今すぐ欲しいと思っているわけでもないのだ、集中など出来るわけも無い。切らした牛乳がどれだったろうかとがなけなしの記憶を探っていると、スッと横合いから影が差した。
「何牛乳の前で唸っているんですか」
「っ」
平静に見えるように努めて自然に振り向けば、疾うに帰っていてもおかしくない真田の姿がそこにあった。矢張り帰ってはくれなかったらしい。人に何か行動を期待することなど無意味であることは疾うに承知していた筈にも拘らず、は自分の不運を呪った。矢張り一度崩れてしまったものは元通りにはなれないのだ。元通りの振りをしたところで___________独り善がりであれば砂礫と同じく脆いことに変わりは無い。
それでもまた日常を積み上げていけば元に戻るのではないかと何処かで期待してしまっている自分には苦笑した。諦念こそが自分の生き様であり、取り柄ではなかったろうか。気を紛らわすように顎に右手を添えると、は考え込むように明るめの声を返した。
「んー、いやさ、切らしたのはどれだったっけかなと思ってな。年取ると駄目だな、直ぐに何でも忘れちまう」
「……この前飲んでいたのだったら、多分これだと思いますよ」
何でも忘れてしまう、の行でスッと眼を細めると真田は可愛らしい牛の顔が全面にプリントされたパックをつまみ出した。言われてみれば確かにそうであったかもしれない。曖昧な記憶を納得させるにはそう時間もかからず、は素直にパックを受け取ってレジに向かった。真田は先に出たのだろう、ピンポーンと間抜けな電子音が響いていた。
調子が狂う。店先でを待ちながら真田は小さく舌打ちして居た。リングの上ではあんなにも冷静で居られるにも関わらず、ことに関すると自分のペースが乱れて仕方が無い。が他人と仲が良ければ気分が悪くなるし、自分だけに関わっていればひどく安心する。自分の知らないを誰かが共有しているのは許しがたかった、その癖自分だけが知っている彼の秘密は仄暗い喜びをこみ上げさせる。
そうした全てのものを動かす核のようなものがなんであるのかを真田は知らなかったのだが、微温湯のような関係性を居心地悪く感じていたのは確かだった。だから壊れる切欠が与えられたあの時、素直にそれに従ったのだろう。結果的に壊した後には何も得られていなかった。否、少なくとも何故自分が壊したかったのかは解ったのだ。
「待たせてごめんな。行こうか」
ありがとうございました、という店員の心が感じられない台詞を背にが現れた。恐らくは何処かで真田に帰っていた欲しかったのだろう、自分の姿を認めた一瞬、間が空いたことに真田は気付いた。彼は忘れたのではない。忘れた振りをし続けている、それだけの話だ。苛立ちが再び込み上げ、真田は衝動的にの空いた手を掴んだ。瞬間の身体が強張り、ついで弛緩する。こんなにも熱を持った気候にも関わらず、彼の手はひどく冷たかった。
「どうした、急に。人恋しくなるにはまだ早いぜ、真田君」
「さんの手は冷たいですから。丁度いいんです」
しれっと答えて離さないという意を込めて強く指を絡ませれば、はすいっと目を逸らせた。大方手に負えないと諦めたのだろう。この自分よりもややもすると二十年程長く生きている人間の大部分が諦念で出来ているということを真田は知っていた。何に対しても諦めている。だから許し迎え入れ、けして縋らず追いかけない。大人同士のその場限りの関係を続けるのならばそれは必要不可欠な要素なのだろう。だが真田は自分との関係をそんなものに貶める気がさらさらなかった。
「お前の手は暖かいんだな」
子供の体温だ、等と大人の常套句のようなものを口にしないを真田は素直に好ましく思った。確かに彼は時折逃げ口上のように”大人”と”子供”を区別するが、基本的には相手を同じ立場のものとして扱っているのである。あるいはそれこそが彼に親しみやすさを覚える要因なのかもしれなかった。改めて形を確かめるようにの手を握ると、骨同士がごつごつと当たって痛い。運動をしている自分とは対照的に、どうやらはずっとデスクワーク派だったらしく掌そのものが薄かった。
「……なら、何時でも暖めますよ」
「そういうことは可愛い女の子に言えよ。俺に言っても何も出ないぜ」
「出なくても良いです」
「止せよ」
くしゃりと顔を歪めると、は乱暴に手を振って離した。ほんの僅かに届いたかに思えた彼の本音はすぐさま飄々とした何時もの掴み所の無いものへと取って代わっている。攻めるべき時を逸した自分に舌打ちすると、真田はもう一度掴もうと手を伸ばした。
「真田君。前にも言ったと思うけどな」
ほんの僅かな動きで逃げられる。電燈の灯から逸れたはまるでシャドウの様に暗闇に溶け込み、動物の様に目だけが冷たく光っていた。ありえもしない光景に、真田は暫し息を呑んだ。
「大人は狡い生き物なのさ。だから信じない方が良い」
「さん、」
「俺を信じるなよ」
俺は大人だからな、と肩を竦めるは相変わらずの調子でそれこそどう信じて良いものか解りにくかった。ただひどく彼の生き方を哀しく感じただけだった。そんな風に傷つかないように予防線を張って孤独の中にあることは果たして愉快だろうか。あるいは自分も、二十年も経ってしまえばそんな生き方を歩んでいるのだろうか。真田は少しも愉快だとは思えなかったし、そんな生き方は御免だと首を振った。それは多分に健全ではない生き方だろう。
「嫌です」
「……俺の言うこと、聞いてたのか?」
「はい。ですが、人を信じる信じないは当人の自由でしょう。違いますか?」
「ふ」
ふふふ、と軽やかな笑い声が続き、そのそぐわなさに真田は思わずぎょっとを見返した。声音だけではひどく楽しげに聞こえるが、瞳は少しも笑っていない。
「莫迦だな、お前さん」
「な、」
「でもそれがお前の良いところなんだろうなぁ……仕方ないこった」
今度は瞳にも笑みを滲ませると、は寮の扉を開けた。どうやら話をしている内に着いてしまったらしい。余りと言えば余りの時間の物足りなさに真田はひどく胸の辺りが寂しく感じた。
「お前の好きにしろ。言っとくが、俺は変らないぜ」
じゃあな、という捨て台詞と共に引っ込むと、そのままは自室に入り込んでしまった。ひょっとすると照れのようなものがあるのかもしれない、と憶測して真田は口元を緩ませた。
「好きにしろ、か」
ならば遠慮はいらないだろう。唇の端を上げると真田は金色のドアノブを握った。まるで人肌のような温もりがそこにはあった。
〆.
後書き>>
物凄く久々です、おおおおお。リハビリも兼ねて打っていたのですが調子が今一な予感が。(あ)
年の差の王道、「若人は頑張って何ぼ」で行ってみました。しかし真田……何処か黒い、黒いぞ!
矢張り鬼畜だという刷り込みが何処かに入っているからでしょうか。
次は爽やかに行きたいものです。タイトルは高丸とも子さんの詩より。
最後まで読んでくださり、有難う御座いました!