あるいはただいっぴきのけもののように。
つみびとの歌
最初、かすかなそれを耳にした時は単なる空耳だろうと思っていた。第一風が強く吹いていた折だから、大して聞き取れもしなかったのである。だが二度目、三度目と聞くたびにその声は大きくはっきりとしてゆき、漸くはそれが何者かの呼びかけであることを認めた。
認めた瞬間にそれは突然具体性を持って響き、の脳を揺さぶる。自分の芯を掴まれているかのような衝撃に、はこれ程までに大きな声を誰か他のものは耳にしていないのだろうかと辺りを見回した。
「どうしたんです?さん。さっきからきょろきょろしてますけど」
「……いや」
タルタロスはエントランスの階段で、横に腰掛ける伊織の声にははっと現実に返った。彼の耳に聞こえてないのだ、ということはその問いかけから知れていた。同様に岳羽や山岸も気付いては居ないらしく、談笑を続けている。
「空耳が聞こえてな。気になったんで、つい」
「空耳?それって、どんなんスか?」
「大した物じゃないさ。聞かせるようなものじゃない」
と、言うよりも聞かせられるような内容ではないと言った方が正しかった。自分がひた隠しにしていた欲望の囁き声等、おおっぴらにするものでもない。が、伊織は違う意味に受け取ったらしく、一層生真面目な表情を見せると畳み掛けた。
「大した物じゃなくても気になりますよ。それ、ひょっとするとシャドウの”呼び声”かもしれないじゃないスか。ま、俺の思い過ごしなら良いですけどね」
「シャドウの”呼び声”……ああ、前回の大型シャドウの話か。そういや幾月にそんな話も聞いたな」
先の満月の事件についてはまだ記憶に新しかった。シャドウが無気力症候群の人々を選ぶその方法は、実にシンプルなことに対象人物を”呼ぶ”ことである。在りうることだ、とはもう聞こえなくなった声を思った。不思議と耳に残るその声は、心に何処か後ろ暗いものを抱える者にとって撥ね付け難いものだろう。
「ま、さんだったら呼ばれても大丈夫だと思いますけどね。だってほら、俺達一応ペルソナ使いですし?余程の大型ならともかく、普通のシャドウくらいだったら問題ないでしょ」
「煽てても何もでないぜ。ま、せいぜい気をつけとくよ」
折よく中嶋達が帰還して来たところで話は沙汰止みとなった。伊織にしてみても単に暇つぶしに過ぎない話題だったのだろう。さして食い下がることも無くあっさり終わったことにほっとしつつも、は自分が抱えるものを何処かで吐き出したい様な中途半端な不満を抱いた。
だが空耳はその正体を看過されても尚消えることは無かった。カレンダーの頁を捲り、新しい月に出会っても変わることは無く、は段々とそれを黙殺することを煩わしく感じるようになっていた。シャドウの姿は決った時間にしか見ることができないというのに、声ときたら昼夜関係なく聞こえるのである。
はその理由こそがシャドウの正体を意味しているのではないかとうっすら考えていた。あるいは、彼らこそは本当は自分の___________だが、その危険な思考は具体化されることは無く、唯の思いつきとして宙に浮かんでいた。何時も通りの商店街を見渡すと、は舌打ちして頭を振った。これ程多くの人が居るというのに、自分と共感することが出来る人間は誰一人として居ないのである。
一人一人が異なったものであるのだから当然だ、という声が聞こえてくるかもしれないが、それでも群れるのは何がしかを共有することが出来るからではないだろうか。ならばここにこうして立っている自分は何処にも属することが出来ずにぽつねんと一人で居るということになる。この広い世界にたった一人で居る__________それはぞっとしない発想だった。
駅に行き、モノレールに乗る。昼間に乗ること等そうないので、は成る程綺麗なものだとこの人工の街を俯瞰した。幼少の頃から住む街ではあるが、大概はごみごみとした所にいたためか綺麗などという発想は持っていなかったのである。故に度々話題に上る、自分達がこの街を守っているのだとか世界を、人を守っているのだとかいう話にはとんと共感を持てないで居た。
が戦いに参加する理由はただ一つである。面白そうであるから、ただそれだけであった。更に言うならば最初に出会い、自分を誘った真田に対する興味である。だから大義名分はこれといって必要なかったことであるし、元々持っていた諦念が正義の味方にあるらしい悩みを払底していた。規則的なレールを滑る音を暫く聞いた後、ポートアイランド駅で降りると入れ替わりに制服姿の男女が雪崩れ込んでいった。
「よお、今帰りなのか。お疲れさん」
「さん!珍しいですね」
学生の波の中に見知った顔を見つけて声をかけると、すぐさまぱっと花が開いたような笑顔が零れて波から外れてきた。赤いベストが良く似合っている、ご存知真田明彦であった。これまで寮で顔を突き合わせてきた仲であるが、こうして外で会うのは思えば初めて出会った日以来のことである。彼が傍に寄って挨拶したと同時にモノレールの扉が閉まり、倦怠感と疲労とを抱えた鉄の塊は乗っていた時には感じなかった素早さでホームを離れていった。
「悪い、行っちまったな。帰るところだったんだろ?」
「別に急いでませんから。大丈夫です」
「そっか」
ちらと電子予告版を見ると、次のモノレールが来るのは十分後であるらしかった。このままホームで立ち話をするべきだろうか。さてどうしようと考えなしの自分の行動をが責めていると、真田の方から切り出してきた。
「さんは、何の用時で?」
「ああ、俺はさ……」
言いよどんでは顔を顰めた。まさかシャドウの声があんまりにも苛苛するので歓楽街に行こうとしている等とは、流石のでも口が裂けても言えない。では他に何か言い訳を、と考えている内にするりと唇から言葉が零れ出た。
「ちょっと荷物の取りがてら家に帰ろうと思ってな。夕飯ぐらいには戻るよ」
「家?この辺なんですか」
初めて聞いた、と興味を抱いたらしい真田にはおやと眉を上げた。幾度か会話を交わしてきた中で、彼がこうして食いついてくるのは珍しいことである。どうも雲行きからして嘘から出た真になりそうだと苦笑すると、は鷹揚に頷いて見せた。
「直ぐそこだよ。っても大した家でもないけどな。上がってみるか?」
「良いんですか!」
がばりと顔を上げた真田に、さしものも呆気に取られて辺りを見回した。案の定声が響いていたのだろう、モノレールを待つ客達がくすくすと此方を見て笑っていた。流石に真田も気付いたらしく、ばつが悪そうな顔になると小さくすみません、と呟いた。年相応の反応に自然と笑みが滲む。矢張り自分はこの少年に魅せられているのだと改めて思いながらは真田を誘った。
ジリジリとモノレールが近付くことを報せるベルの音が耳にこびり付いて離れなかった。
駅外れの雑居ビルは麻雀屋の直ぐ上、ここがの小さな城であり古巣であった。ここだ、と示した時には極普通の反応として真田も思わず足を止めた。確かに普通人が住むような場所ではない。だがだからこそ家賃は安いものであるし、何より駅から直ぐ傍であることがにとっては色々と都合が良かった。たたきを見るに同居人はどうやら居るらしく、狭い玄関を上がるとは同居人を呼んだ。
「真次郎、居るか?」
「真次郎?」
横で小さく疑問の声が上がったが、は同居人が居ることに対する驚きなのだろうと適当に解釈した。ならば後で紹介すれば良いだけの話である。奥の方から物音がした、と思うと同居人らしき人影がゆっくりと姿を現した。
「なんだよ、あんた帰るなら帰るってちゃんと連絡しろって言ったろ?ったく……っ!」
「シンジ!」
「え?」
同居人______荒垣真次郎が息を呑んだ、と同時に横からするりと真田が飛び出してその前に立った。緊張が二人の間に走り、は二人が単なる友人知人の類ではなく、血で血を洗うような憎しみの仲であるのかと思い始めていた。こんな狭い中で面倒ごとになられては事である。瞬時に二人の間に割って入ると、はまあまあ、と合いの手を入れた。
「おい、これはどういうつもりなんだよ」
「シンジ、お前こそその口の利き方は何なんだ?さん、なんでこいつがここに居るんです」
「まあまあ、喚きなさんなって。二人がどういう関係なのかってのはともかく、こんなところで喧嘩は止せよ。ほら、居間に座った座った」
弟が居ればこんな風に騒がしいのだろうか。二人を居間に座らせると、何時もとは逆にが立って冷たい飲み物を用意した。自分が席を離れている間にひょっとすると惨事が起きているかもしれない、という思いもあったが、幸いにして二人とも大人しく座っているらしかった。
「あー、真次郎。知ってるみたいだから余り言わんが、真田君は俺が寮母さんをしてるとこの仲間だ。で、真田君。こいつは俺の同居人だ。________それで、二人は友達なのか?」
「幼馴染です。おいシンジ、どういうことなんだ、これは」
「それは俺の台詞だ、アキ。ま、が寮母になるっつった時には何となく予感はあったけどな……ここに住んでるだけだろ。別に問題はねぇ」
「まあ成り行きというか、気が合ったからというか、そんな感じだよな」
さながら嫁と姑の間に挟まれた婿のような心地になりながら、は冷たい麦茶を口に含んだ。こうしたものを人が来る来ないとに関わらず準備している荒垣に心底感謝していた。
「と、言うかあんたがあんまりにも身の回りのことが出来ないからだろ。おいアキ、そっちでは上手くやってんのか?」
「そうだな……」
笑みを含んだ声で言うと、真田は笑みを含んだ様子で此方を伺ってきた。恐らくは荒垣の様にはっきり口にすることが躊躇われるのだろう。大人らしくそこは引き受けると、は頷いて正直に返した。
「部屋が汚くて、料理が大変なことになってる以外はまあ、上手くやってるつもりだよ。だよな?」
「だよな?じゃなくて全然上手くやってるどこじゃねぇじゃねぇか!あれだけ掃除しろって言ったろ!なんで身の回りの片付けくらいできないんだよ」
「えー、気付いたら周りの人がやってくれてたから?」
実際家族が居た頃には家族が、恋人が居れば恋人が、そして今では荒垣が何くれと無く世話をしてくれているのである。御蔭さまで生活スキルが伸びないとも言えるのではないかと思っているのだが、この暗示は荒垣によって黙殺された。
「アキ、言っとくが同情してもの部屋の片付けはしない方が良いぞ。好い加減掃除くらい覚えるべきだからな」
「わかった。覚えておこう」
「おいおい真田君、俺を見捨てるってか?真次郎、何入れ知恵してるんだよ」
「料理はどうにもならないだろうから別として、片付けは出来た方が良いだろうが。あんたのためを思って言ってるんだよ」
「ちぇ」
口を尖らせると、横で真田が噴出す。険の取れた二人に、はこれが本来の二人なのだろうと推察した。荒垣が寮のことを知っているということは彼もまたペルソナ使いなのだろうが、どうにも込み合った事情がそこにはありそうだった。そうした部分はいつか知ることもあるだろう。今は、今ここに居る空間がより良いものであることを望むだけだった。そろそろだろうかと時計を見上げると、もう七時を廻っていて夕飯時だった。
「……もうこんな時間か。悪いな真次郎」
「大丈夫だ。三人分くらい直ぐに出来る。それともなんだ、帰ってきておいて食わずに行っちまうつもりなのかよ?」
「有難う御座います」
「よし」
何時も通りの呼吸で荒垣が台所へ向かうと、真田が呆気に取られたようにその後姿を見送っていた。幼馴染とはいえ、ひょっとすると荒垣の手料理を相伴したことが無いのやも知れない。
「……二人で住む様になって、どれくらいなんですか」
「そうだな、一年半くらいにはなるな。あ、真次郎!あんまり辛くするなよ」
「わかってるよ!」
台所から大声が返される。その声に、はこういう家族ドラマを観たことがあったな、と妙なことを思い出していた。失われた何かを取り戻すような感覚は悪いものではなかった。一方真田はと見遣れば、何処か拗ねた様な、それでいて嬉しいような複雑な表情を作っている。自分の幼馴染と珍妙な大人の組み合わせが面白くないのかおかしいのか、どんなところなのだろう。適当に見当をつけるとはそれきり深入りすることはなかった。
否、正確には深入りしない方が良いと直感したのである。先日タルタロスからの帰り道で掴まれた手を振り払えなかったあの時の様に、何処か抜け出せない場所に行ってしまう様な予感がしたのだった。
『だが、ひょっとすると』
再度空耳が聞こえ、ははっとして口元を覆った。自分が言ったものなのか、それともシャドウの囁きなのかどちらか区別がつかないでいた。
「さん、今何か言いましたか?」
「あ、いや……そういや、荷物取ろうと思ってたんだった。ちょっと行ってくる」
真田の耳に届いたと言うのか。ならばそれは空耳ではない、確かに自分の発言なのだろう。脆くも零れた本音に空恐ろしくなると、は腰を浮かせて自室へと逃げ込んだ。
「わからん」
確かにあの声をはずっとシャドウだと思って来ていたし、実際伊織の耳には届いていなかった。だが今さっきの台詞が自分のものであったとするならば、一体どれが自分のものであってどれが違うのか解ったものではない。もし、もし自分が空耳だと思い込んでいた言葉達を発しているとしたら______________考えた瞬間、の肌がぞわりと粟立った。
荒垣が片付けてくれたのだろう、先日引っ掻き回した後よりも断然綺麗に整頓された部屋を苛立たしげに歩くとはひとまず口実だった荷物らしきものを見繕おうと本棚を漁った。多くの人が彼の部屋を見て驚く様に、趣味の悪い服と小道具以外のの持ち物と言うのは全て紙なのである。それは本であり、論文であり、何かの報告書であり、絵でもあった。一体何の仕事をしているのだろうと尋ねられるのは一度や二度のことではない。全ては自分の人生の欠片なのであって、確かに今個々に居る自分の一部には相違ない。だが人に見えるのはその一部に過ぎないのだ。全てを曝した所で理解してもらえる等とはハナから期待していない。
大量の文字に埋もれて、いっそ何も考えなくしてしまいたかった。これほど多くの他人の思想があるのならば、自分一人くらいなくたって良いのではないかと思う。たまさか手に取った文庫本の中では中原中也が切々とその情を歌っていた。捌け口があった詩人がには無性に羨ましかった。
「俺は汚い」
全てを諦めて、世界と自分との繋がりを何処か一枚隔てて感じていた等というのはひょっとしなくとも只の保身と言い訳に過ぎない。本当はただこんな風に世界が自分に肉薄してしまうのが恐ろしくてたまらなかっただけだった。かつて抱いていた世界を放り出して、再び受け止めること等もう二度とないと思いたかった。失うことはただ悲しい。駄々っ子の様な自分の感情に苦笑すると、は文庫本を戻して代わりに机の上に置いておいたままの論文の束を手に取った。
「大切にしたいだけだったんだけどな」
黄ばんでぼろぼろになったそれをお守りの様に握りしめると、そっと小さく呟いて部屋を出た。
温かな香りと温もりとが罪人を待っていた。
〆.
後書き>>
六月のイベント以来、シャドウの呼び声の話が出ないなー、と思って書きました。双子座コンビを書けたのが嬉しかったです。荒垣先輩は皆のお母さんと信じて疑わない。(え)タイトルは文中にも出てくる中原中也さんの詩から。
最後まで読んでくださり、有り難う御座居ました!