DREAM NOVEL
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また明日。


さよなら、バイバイ


 青春とは思いがけず巡りくるものである。正確には、二度と手に入らない思い出として目の当たりにするのだ。青さは一層際立ち、脳を揺さぶり胸苦しさはいよいよ募る。は頭痛を堪えながら、何もなかったフリをして夕食を受け取って外へ出た。立ち上る麺つゆの甘い香りも、天ぷらの香ばしさも頭に入らない。大好物の天ぷら蕎麦なのに、きっと今日は堪能できまい。大きく息を吸って、吐く。思い出なんて、青春なんて大嫌いだった。いつだってに苦さをもたらすものでしかない。

「なんで今更、」

頭の中をちらつくのは、先ほど幻のように立ち現れた人物の姿だった。スラリとした長身に、鋭い刃物のように削ぎ落とされた顔立ち。灰色の髪が揺れて、へらりとした笑顔がなんとも胡散臭い。ちょっと見上げるようにして覗いた眼が少しも笑っていないところまでも、はありありと思い出すことができた。頭の中が十数年前に戻る。もう全部捨て去ったはずのものが生々しく蘇った話だなんて誰にもできやしない。

赤黒い髪の毛をぐしゃぐしゃに掻き毟ると、はかの人の名前をそっと、心の中で呼んだ。

『斎藤一』

それは他人の空似だった。




「新しい英霊が来たんだってさ」
「ふうん。今度は誰かな」

数時間前、カルデア――今は名前が変わったが、多くの人間はまだ心の中でそう呼んでいる――の一角で、は同僚たちと終わった特異点の記録に手をつけていた。閉じた物語を綴るのは、歴史の足跡を残すようでロマンがある。同時に、残されなかったものは後代においてなかったことにされるのだろうと、束の間の神の視座に立った優越感を抱かせた。書き記されるのもまた歴史に、伝説に残る英雄や神々となれば、思考はいよいよ現実から乖離してゆく。

 神の名を呼ぶことを躊躇わなくなり、英雄の名を近所の誰かを呼ぶ様に舌先で転がすなど、遊びでなければ頭がおかしくなりそうだ。ガブリエレという名前にふさわしい、天使めいた金髪をふわふわとさせると、同僚の青年はなんだったかと手元のコンソールを弄り始める。いくつもの名前が画面を覆い、流れ、そうして一つが導き出された。HAJIME SAITOH。日本人だろう、と国籍だけ引っ張ってガブリエレは個人データを引っ張り出した。

「この前ヤマタイコクとかいうところにマスターたちが連れていかれただろう?そこで出会ったらしい」
「出会ってすぐに連れてきただなんて、よっぽど気に入ったんだろうね」

軽口を叩きながらも、の頭の中は目の前に広がる思い出で混乱していた。邪馬台国事変とでも呼ぶべきぐだぐだな特異点のことは、記録上は知っている。が、映像記録として観てはいないのでなんとも思っていなかった。だがこれは――これは一体どういうことだろう?呼び出された英霊の画像を見れば見るほど、の頭は現実と記憶とで千々に乱れて行く。灰色の髪、消えることのない隈。疲れた様な笑顔を浮かべて、適当な甘い言葉を並べ、懐に入り込んだかと思ばするりと抜け出る。こちらには忘れられない夢ばかり残して、本人ばかりは無事で、

?どうしたんだい」
「いやあ、こんな人いたかなあってさ。思い出せなくて恥ずかしいな。自分の国の歴史ほど、意外にも覚えていないもんだ」
「わかるよ。僕も地元の聖人について、観光客の方がよほど知ってるって思う」

肩を竦めるガブリエレに合わせながら、はうまく流すことができたとほっと安堵のため息をついた。この気持ちは誰にも共有できはしない。イタリア人ならではの、生まれ育った場所に対する歴史への自負と偏見、負い目が綯交ぜになった話が続く。こと母国に関わるとなると、ガブリエレの舌は止まるということを知らない。自分の話をしたらどんな反応をするだろうか?無意味な話だとわかりながらも、の唇はモゴモゴと蠢いていた。

 赤の他人、それも歴史上の人物に対して個人的な感情を抱くとはどうにも言い難い。自分にだって処理しきれないのだ、どうして他人に受け止められよう。目ばかりは先ほどのデータを追いかけて行く。斎藤一。あるいは山口一、一瀬伝八、山口二郎、数多くの名前を帯びた男はやはり得体が知れなかった。先ほどガブリエレに話たことに嘘はなく、は自国の歴史に疎い。幕末と聞いても黒船しか思い浮かばないほどだ。斎藤一は剣豪であり、期待できるセイバーだとも記載されている。沖田総司と互角か、あるいはそれ以上ではないかとも言われたとなれば大した腕前だ。の個人的な思い出が入り込む余地はどこにもない。

 他人の空似だ、とまともなが言う。第一、もう十数年も経った青臭い記憶だ。何を研究すべきかわからぬままに、それでも将来を選択することを先延ばしにしたくて大学からさらに先へと進学した、そんなモラトリアムの頃である。幸にしても言うべきか、既に苦労をかけると申し訳なく思う親はいなかった。否、彼らがいなくなってしまったからこそ外へ出ることに対して恐れを抱いたのかもしれない。いずれにせよは『今』を続けたかったのである。指導教授が一風変わっており、化学がその確からしさを謳う世において珍しくも超魔術なるものを研究する人だった。

 おや、と記録の最後を閉じながらは小首を傾げた。超魔術など自分は学んだ覚えがない。この施設に雇われたのは――何故だったのだろう?全てが曖昧であることに薄寒さを覚えるも、は再び答えを先送りにした。答えがわかったところでどうなる?今更元の場所なんてものには戻れない。明日も明後日も、自分の生活はカルデアで終始する。ともかく、思い出の人の話だ。大学院に進み、教授に気に入られたのか、は殆どを研究室で過ごしていたと覚えている。藤田五郎という男と出会ったのは、教授がフィールドワークのために海外に出かけてしまい、山と積まれた書類の整理を頼まれた頃だったように思う。自分一人で黙々と(先輩連中は体良く逃げ果せていた)書類を整理していると、一体今日は何日かわからなくなっていた。何もない家に帰るよりも余程安心できたし、に友達なんて人はいなかったから、お小遣いも単位ももらえる雑用はしっくりしていたのだろう。

記録が保存できたことを確認すると、システムからログアウトしてうんと背筋を伸ばす。記憶が溢れて止まらない。

「先に帰るよ」
「お疲れ様。僕はもう少しやってから帰る」
「ほどほどにね」

ガブリエレの肩を叩きながら、相方であっても苦に感じないのは、彼のこの程よい軽さにあるのだと思い当たって苦笑した。特段重いつもりはないが、他人と向き合うのはどうにも苦手だ。どこまで近づいて、どこまで離れれば良いのか未だに線引きがあやふやのままで育ってしまった。一方ガブリエレの軽さはあだ名が『天使』、すなわち重力のないふらふらした生き物だと称されるほどの折り紙付きである。人付き合いもうまく、いつでも幸せそうな笑顔を浮かべている。加えてあのふわふわとした金髪と来れば、側にいても悪い雰囲気にはならないというものだ。実際、ガブリエレが親密に付き合ってきたパートナーたちは、彼といると安心するのだと口を揃えて主張する。後腐れのない幸せな付き合いたち。それは『彼』にとてもよく似ていた。

 思い出に浸りながら夕食をとりに食堂へと向かう。空いた時間に出かけて、夕食を部屋に持ち帰るのが日課だ。カルデアで過ごす人々の賑やかさには、相変わらずうまく交われない。それでも良いのだ、と鷹揚に放置してくれる懐の広い職場がは好きだった。自分が在籍していた、大学の研究室もそんな場所だったのかもしれない。

「すみません、鳴島教授なら今はロンドンに出張中です」
「ん、いやいや、お構いなく」

雑用係のある日、教授の部屋には先客がいた。すらりとした手足を窮屈そうに折り曲げた年上の男性だった。今思えば鍵をかけていたはずで、さらには扉に教授が不在の旨もしっかり明記しているからおかしな話である。が、その時のはいろいろ感覚が狂っていたのか、あっさりとこの『先輩』を受け入れていた。彼の葬儀屋のような宵闇色のスーツが、両親の葬儀を頭に蘇らせる。不吉な気配を漂わせつつも、開け放たれた窓の端に寄りかかってタバコを吸う姿が変に綺麗で、は目を瞬かせた。

「初めまして、ですよね。です。よろしくお願いします、先輩」
「……藤田五郎だ。そう固くならないでくれよ。気軽に五郎先輩って呼んでくれて良いからさ」

正面から挨拶をして、顔を見ているはずだというのに何故だか目が合わないような、不思議な一時だった。握手もしたことを憶えている。一瞬一瞬が断片化されて、の頭の中に刷り込まれているからだ。何度思い出したことだろう。あれは――あれは、一目惚れだ。今ならば断言できる。一瞬にしては藤田五郎の虜になってしまっていた。

「一人で書類整理してるだなんて偉いなあ。大変でしょ、紙屑だらけだ」
「良いんです、別に。やることが沢山ある方が時間が潰れるし」


子供っぽい口調で呟いて、は昨日の続きを始めた。なんとか書棚を二つほど、それらしい形にするまではうまくいったのである。今日は廃棄するように言われていた二十年前の回覧文書の類を捨てるのはどうだろう。を他所に、五郎は書類だらけの机に座り込んでぺらぺらと書類をめくっていた。脚が長いんだな、と変なところで感心する自分を叱咤するも、見惚れてしまったことはきっと向こうに筒抜けだったろう。自分の良さを解って、それに見合った生き方ができるのが藤田五郎という男だ。

「タバコ」
「ああ。ごめんごめん」

書類だらけの場所で吸うとはつくづく危険極まりない。ポケットから取り出した吸い殻入れらしきものに燃えさしのタバコをぐいぐいとねじり込む仕草は、物言いとは裏腹に剣呑でを怯ませた。触れてはいけないものに触れた、そんな取り返しのつかない失態を犯したような心地で胸の中がざらざらする。本当にこの人は学生なんだろうか、と流石のも疑問を持ち始めた。この人は何者だろう。物盗りにしては堂々としている上に、そもそも教授の研究は大したものではなく、この書類だって塵と紙一重のはずだ。そうでなければなどに後を任せるわけもない。何かに気を付けろとも言われなかった。

 大丈夫だ、きっとただの先輩だ。チラリと様子を伺うと、すぐさま色素の薄い目が見返して来て微笑まれる。途端に心臓が痛くなり、は思わず胸の辺りに触れた。当たり前のように無傷で、ただ掌の下で心臓が陸に上がった魚のように激しく蠢いている。自分の体がこんなにも生きていると感じたのは生まれて初めてのことだった。首を振って現実に帰ると、は猛然と作業に邁進した――そうして一体どれほど時間が経っただろう。書類の日付を確かめて段ボール箱に入れて、がっちりと封をして積む。どんどんと積んでいく塵の山は積み木よりも意味がないが、にしてみれば形になる何かでありさえすればなんでも良かった。

ちゃん、お腹空かない?」
「え?」

唐突に響いた声に驚いて顔を向けると、存外近くに五郎の顔があっては小さく悲鳴を上げた。何故気付かなかったのか、気づいてしまえば心臓が煩くて仕方がない。自分の情けない状態を知ってか知らずか、五郎はのんびりと肩を叩いて来た。

「うーん、蕎麦が食べたいな。美味しいお店に連れてってよ」

奢ってあげるから。優しい申し出に釣られたか、ぐう、とお腹が鳴る。疑問やら何もかもを放り投げ、はまたも結論を先延ばしにした。窓から流れ込むセミの声ばかりが耳に残っている。


「約束ですよ」

馬鹿だったのだと、今ではよくわかる。あの時確かめて、彼との縁を確かにすればきっと人生の空虚さは霧散していた。それから連日教授の部屋を訪れる五郎とのひと時のなんと楽しかったことか!緊張感があって、ほんの少しのことでも嬉しくて、嗚呼あれはとても恋で始末に負えない!彼の何もかもが大切で、共にあることがの全てだった。なんのために五郎がこの部屋を訪れているか定かではないものの、探し物なんてずっと見つからなければ良いとすら思っていた。

 執着していたのだろう。今も思い出せば瞳の奥が熱くなるほどに執着している。伝えられないままに終わってしまった気持ちは、未だに行き場をなくしてどんよりとしたままだ。言えば良かった。本当に、本当に!

ちゃんはさ、この後どうするつもり?鳴島教授と同じようなことを研究したりするの」
「どうしましょうね」

教授からの連絡が途絶えてしまったある日、五郎は唐突に不気味な質問を吐いた。他人からすれば素朴でありがちな問いかけだろう。ただ、先送りだけをし続けたには酷というだけだ。外の世界に広がる真っ白な可能性の山は想像するだけで重たい。両親が亡くなって、教授も消えて。多分、五郎も消え失せる。世の事物は並べてを置いていくのだ。確固たる道のりを自分で築き上げるほどの意思はなく、恐ろしさのみを覚える。痛みは後の方が良い。は可能な限り人生は遠回りをしたかった。答えにするにはあまりにもお粗末で口に出しにくく、考えあぐねては横目で五郎の首筋を追った。また、目が合う。笑った形の、笑わない目。

「どうにもならないかもしれません」
「おまえは大丈夫だよ」

なんとでも生きられるよ、と五郎は奇妙なことを言った。その日を潮に、彼はいなくなり、の記憶は混濁する。専攻を変更して学んだ結果が今に結びついているはずだが、こんな些細で重要なことがちらとも思い出せない。辛くて先延ばしが限界になった時には、いつだって五郎のことを思い浮かべてどうにか生き延びた。できないなりに他人と向き合って、近づいて離れてを繰り返して、でもあの日々には及ばないと惜しんでいる。次に出会ったらば矢張り伝えるだけ伝えてみよう、と改めて胸に刻んでは食堂の扉を開き――記憶と現実が衝突事故を起こすのを目の当たりにした。

「あ、さんだ!来て来て!」

カルデアのマスターこと藤丸立香は、優しい少女だ。同じ日本出身なのだからと、奇妙な親近感をもってこの無愛想な中年男性に何くれとなく声をかけてくる。彼女なりに心配するところがあるのだろうし、年少者に気を使わせてはいけないと思いつつも、彼女からの優しさに安堵してついついは応じてしまう。多分、彼女に呼ばれたサーヴァントたちも似た様な気持ちで段々と絆されていっているに違いない。

「どうしたんだい立香君、」

だから、なんの用意もなく返事をしては呆然としてしまったのだ。青春の亡霊がの脳味噌をぐさりと刺す。五郎だ、五郎が目の前にいる!

「聞いたかも知れないけれど、こちらは斎藤一こと一ちゃん。幕末から来てくれたんだよ。一ちゃん、さん。すごく●●に詳しいんだ」
「へえ。よろしくな、サン」
「よろしくお願いします、斎藤さん」

どう言うわけだか、立香の話す言葉の一部は聞き取れなかった。の動揺を他所に、当たり前の様に他人の顔をした一は挨拶をしてすぐさまこちらへの興味を失う。先輩ですか、と尋ねるまでもない。第一、自分がサーヴァントと接触する機会など今をおいて他にありうるだろうか。教授は超魔術を専攻していたが、には無関係の話だった。適当にお茶を濁して自分の分の夕食を受け取ると、は無意識が促すままに食堂を出た。

そうでなければ目ばかり彼を追いかけてしまいそうだ。情けない。何が次に会ったら伝えよう、だ。そんな機会など訪れるはずはない。あらゆる可能性は自分から遠かった。




 かくて青春はゾンビの様に蘇ってを苦しめ始めた。それも、避けようとすればするほどに付き纏う呪いの類であったらしい。翌朝から亡霊を目にして食堂から逃げ出したは、仕事部屋で悠々と握り飯を食う一の姿に絶望した。あの時のような窓はない。電灯の人工的な灯りが仄白く照らすばかりだ。にも関わらず、漆黒のスーツを纏う一は輝いて見えた。後光がさしているかのような幻影に思わず目を擦る。脳味噌がまやかしに囚われて解けない。

「おはよう、サン」
「おはようございます、斎藤さん」

何をしてるのかを問うには余りにも非現実的だった。席について、コンピューターに生体認証をさせる。ぐりり、とカメラが動いて瞳を抉るように覗き込んだ。さて昨日の続きは、と指を走らせているとすい、と隙間を縫って無骨な手が視界を遮る。こんもりと乗せられた握り飯の山が、炊き立ての米の甘く懐かしい香りを運び、の口中にじわりと唾液を沸かせた。

「おかずはどれが良い?サンの食が細いって、マスターちゃんが心配してたよ」
「わかるなあ。僕がいくら勧めても食べなくてさ」

すっかり存在を忘れていたガブリエレが尻馬に乗り、は調子の良い同僚を軽く睨んだ。思えば一とガブリエレはどことなく雰囲気が似ている。自分はそんなにも五郎を求めていたのかと思うと惨めでならなかった。湿った雑巾のような気持ちがたまらなく厭わしい。握り飯なんていつぶりだろう。五郎もこうして、に食事を促していたものだと思い出して泣きたくなった。

「たらこ以外ならどれでも構いませんよ。ご心配いただき、ありがとうございます」

両親が亡くなって、は食事への興味を失った。何を食べても味がしない上に、お腹が空かなかったのだ。思えば、五郎が蕎麦を奢ると言ってくれた時に久々に腹が鳴った。そしてその日に食べた天ぷら蕎麦はひどく美味しく感じられ、今でも大好物になっている。今度は握り飯か。一を五郎と錯覚しそうになる頭を叱咤し、はありがたくごま塩の握り飯を受け取った。指に触れる海苔はパリパリしていて程よい。後で食べようと空き皿を探すも、じっと見つめられる視線が痛かった。

「食べなきゃだめだよ。食べなくても良いけど」
「どっちなの、それ」

ガブリエレの突っ込みが小気味良い。彼の様に自分も軽やかであれば良いのに、とは渋々ながら握り飯を口に運んだ。海苔が香ばしいだなんて随分感じなかったように思う。ごまはこんなにも食欲をそそったろうか?米粒の一つ一つが立っていて歯が喜ぶのがわかった。甘くて、塩っぱい。目の奥からぎゅうと絞り出されるものを飲み込んで、はどうにか一つ食べ終えた。

「よく出来ました。残りもちゃんと食べろよ、サン」
「はい、」

先輩。続きは心の中でして、は霞のように消えるサーヴァントの背を見送った。英霊にとって、この程度の手品は容易である。思い出の中に住む人間と比べるなど無意味な話だ。もし、だなんて考える方が間違っている。気を取り直して立香に礼を伝えようとメモを取っていると、ガブリエレのニヤニヤとした笑顔が視界に入った。


「……なんだよ。気持ち悪いな」
「いいや?あのが素直に言うことを聞くなんて珍しいからさ」
「残念ながら素直が売りでね」

頬が熱い。きっと赤くなっているだろう顔を誤魔化すようにして握り飯を口にする。一つ、また一つ。作ったのはエミヤか、あるいは立香か。不揃いな形が人間味を持っておかしい。自分もこの握り飯と変わらぬほどに不格好だろう。嗚呼どう足掻いたってあの姿に釣り合いやしない、こんなにも世界が鮮やかになる相手なんかに!

「ごめんごめん、苛めるつもりじゃなかったんだ……本当に調子が狂うな」
「なんで謝るんだい?」

急に謝り始めた天使に、それこそ不気味さを覚えては現実に戻った。一掴みのティッシュがライスシャワーのように頭から降る。床に落ちる前に受け止めると、は小首を傾げた。

「泣いてる癖に何もないわけないでしょ?疲れてるんだと思うよ。ねえ、たまには休んだら?あとは僕がやっておいてあげるからさ」

泣いてなんていない、と言い返そうとして頬が濡れた。気づかぬうちに蕭々と涙を流していたらしい。ティッシュで拭っても追い討ちをかける涙は熱く、思考がかき乱される。ちん、と鼻をかんで、はそっとシステムを閉じた。どの道今日は仕事が捗るまい。そのくらいのことは流石にわかっていた。そして、自分が急ぐ様な仕事は一つもないのだ。何故って自分の専門は●●で××を詳にすることなのだ。何故か肝心の言葉が思いつかないものの、仕事はできているのだから良しとしよう。答えは先延ばしにするに限る。

「ありがとう。ガブリエレを天使だって言う人の気が知れなかったけど、今ならわかる気がするよ」
「それが僕の売りだよ。ゆっくり休んでね」

ひらひらと手を振る天使はどこまでも自然で、軽やかだった。部屋を出て一呼吸すると、は人気がないことにほっと安堵した。休みなんていつぶりの話だろう。中年男性の涙なんて醜いばかりと承知しているから、はぐいぐいとティッシュで拭いながら廊下を歩いた。小走りに近いが、走れば目立つに決まっているので心ほどには早くない。湯船にたっぷり湯を張って、じっくり浸かった後に眠れば元気になるだろう。幻影のくれた優しさなんて嘘だと冷静になれるはずだ。

「お主、何故泣いておる」

確か、先日ダ・ヴィンチ工房特製入浴剤の試供品を渡されていた。得体が知れないと放置していたが、使うならば今だろう。疲労によく効くらしい。

「お主!儂の声が聞こえぬか!」
「え?」

ごつんと背中に衝撃が走り、はつんのめりそうになる体を辛うじて支えた。肉体労働に不向きの体はカトンボも同然である。一体誰が無体を働くのかと後ろを振り返り、はあんぐりと口を開けた。かっちりとした洋装の軍服に、目にも鮮やかな炎が踊る。第六天魔王・織田信長その人で、歴史に疎いでさえも知る人物だった。さてどう切り返すかと考えあぐねていると、ぐいぐいと頬を拭われる。どうやら恐れ多くもを心配してくれているらしい。

「ご心配は嬉しいですが、信長様にご心配いただくほどのことではありませんよ。それにこれはその……半分くらいは嬉し涙です。多分」
「嬉しいのに泣くとは難儀な奴よの。信勝もよく感涙とやらをしておるが、程々にせい。さて、。残り半分について答えよ」

流石は魔王、目溢しなどあり得ようもない。得意なものは全て狩り尽くす根切りと聞くが、程度の雑草をも範疇に入れるのだ。自分の名前を覚えていただなんて感嘆さえ覚える。信勝ならば、姉上ならば当然!と騒ぎ出しそうなところか。確かにある意味、信長は懐が深いとも言えよう。悪目立ちを恐れ、は小さな談話室へと信長を誘った。ここならば、まだ止まらぬ涙も気にせず会話を続けることができる。実際涙ははらはらと溢れて頬を濡らしていた。さながら止まない雨のようだ。

「個人的な話ですから、わかりにくいことをお話しするかもしれません」
「構わぬ。続けよ」
「……ずっと昔に、好きな人がいたんです。あの頃はよく分からなくて、いや、違うな。分からないままにしておいたんです」

信長相手ともなれば、無理をしいて言わされている形が不思議と心地良かった。人に命令をするのが性に合っているのだろう。自然と人は群れのリーダーには従う。もまた、ピラミッドの裾にしがみつく雑兵の一人なのだ。結果を自分で出そうと努力するまでもなく、流れに身を任せる方が自分にとっての自然だろう。分からないままに過ごした自分が恨めしい目つきで見ても、今のには微風ほどにもこたえない。

「最近その人によく似た人に会ったんです。あ、もちろん同じ人じゃありませんよ。でもお陰で好きだって、今も好きだって今更気づいた、っていう話です」
「痴れ者じゃのう。其奴のどこが気に入っておったんじゃ」

見るからに興味津々といった様子に吹き出し、は懸命に平静を装って見せた。涙は止まりつつある。もしかしたら、自分はこんなふうに当たり障りのない誰かに話したかったのかも知れない。ガブリエレの様に年がら年中顔を突き合わせる人間ではない、外の世界に吐き出せば、行き場を失った気持ちが晴れる可能性はある。

「優しくて、自分勝手で、一緒にいると自分が生きているような気がするんです。はは、変ですよね」
「要するにベタ惚れという奴か。ブリュンヒルデとシグルドを思い出したぞ」
「あれとは違いますし、そもそも向こうはなんとも思ってないですよ」

カルデア随一の相思相愛夫婦にして、ガッツ無くしては耐えられない二人を例にあげられるとつい苦笑してしまう。あんな風に求めることも、求められることもなかった惨めな今だ。求めたところで得られたかは確言できないが、行使しなかった権利や機会はこと無限の可能性を見せつけられて惜しまれる。斎藤一だってそうだ。に敗北の味を思い出させるには十分で、まだ口の中が苦い。

「似てる人も、優しいところも何もかもそっくりだったんです」

だから嬉しくて、知らず涙が出るほどに悲しかったのだ。また会えたという錯覚が、二度と手に入らない未来を鋭く突きつけてくる。全く人間は愚かだ。こういうのも失恋に数えるんですかね、と茶化して言えば信長の顔が歪んだ。存外こちらの方面でも人間臭さを持つらしい。信長の恋愛感など思いつきもしなかったが、常人のそれとはかけ離れている様な予感がした。

「微妙じゃのう。お主のそれは独り相撲ではないか。始まってすらおらんぞ」
「手厳しいですね」

その通りだ。始まりはなく、終わりしかない話である。話してみれば単純で、先送りにした答えはスタート地点で垣間見た通りだった。どこへも行けやしない。過去にずっと囚われて、あの頃の気持ちのままで生きているなんて自分の方こそ幽霊のようだ。いっそ全部やめにして、新しいものを目に映して片付けてしまいたい。面倒ごとは嫌いだし、雨は上がった方が良い。ままよと思いの丈を語れば、信長は痛ましいものを見る目をして、たった一つだけの一番大切なものを尋ねた。

「これはただの好奇心なんじゃが……のう、。その好いた相手の名を教えてはくれぬか」
「良いですよ。『藤田五郎』といいます」

ガタン、と壁の辺りで音がした。もちろんこの部屋には自分と信長しかいないのだから、幻聴に決まっている。人生に都合の良いことなんて起こらない。例えば虹の向こうから本当の親が迎えに来てくれるような、救いを夢幻に求めたところで、結末は見えすいている。が馴染んだ先延ばしくらいの効果しか持たないのだ。自分はここでどうにか上手くさようならをしよう。そうして、新しい世界に目を向けられるか自分を試したい。記憶は自分を救ってくれやしないのだ。

「素敵な人でした」

過去を見つめる目の中で、後光が滲んだ。




 どういうわけだか、自分の人生には頼まれごとが多い。自分の負担にならぬよう、手際よく右から左へと渡ってゆきながら、斎藤一はいつだって楽しみを探していた。どんな生き方をしなければならないとしても、楽しいことがあればどうとでもなる。諦めや絶望こそが敵で、生き延びることが最善だ。知らず腕に覚えもできて、覆い被さった他人の信頼が一層分厚く一を守った。頼まれごとはその代償である。

あの夏の日は、そんな頼まれごとの一つに過ぎなかった。違法な(と言っても彼ら独自の世界における決まりごと程度のものだ)魔術を取り扱う魔術師の証拠を奪うという、一にしてみればなぜ自分がと思える見当違いな依頼である。自分を召喚した魔術師は、しれっと君ならできるでしょうと乱暴に命令を投げこんでそれきりだ。多分、彼にしてみても場違いな英霊を呼んでしまったのだろう。気を取り直せば、人を斬った張ったよりも気楽で簡単そうな任務である。一は無用心にも程がある敵の本丸に、あっさりと忍び込むことに成功した。

「この中から探すのは骨だな」

だが、ここで予想外なことが一つあった。肝心の部屋が汚過ぎて、渦と積まれた書類の山と格闘しなければならなかったのである。もとより書類仕事は自分の専門外の話だけに一は舌打ちした。やるしかないが、どう当りをつけたものか。まさか全部運び出す訳にも行くまい。さて、と手近なものから読み始めたところで、救いの手が差し伸ばされた。あるいは神が気まぐれな運命を転がしたのかもしれない。

「すみません、鳴島教授なら今はロンドンに出張中です」

部屋に滑り込んできた青年は、ひどくか細い。およそ死に体だ、というのがに対する最初の印象だった。自分が不意を突かれたことへの言い訳ではないが、年若の青年は精彩を欠いていた。植物に近い空気感がある。時間を過ごすために生きており、きっと縁なんてかけらもない。こんなに若い癖にと勝手な哀れみすら抱く。他人は他人と割り切る自分にしては珍しい感情だった。偽名の一つである藤田五郎を名乗り、一は向こうが勘違いするままに『先輩』を装った。仮初の先輩後輩の関係からなのか、利用しようという気持ちからか、少しばかり親しみを持とうとしたことは間違いない。必要以上に情を抱いたのも、明らかにこそしなかったがまた確かだった。だから、気まぐれを続けられたのだろう。物知らずで、楽観的でありたいと願う、その場限りの生き方をなんとか泳ぐ藻のようなは、ほんの些細なやりとりだけで活気付いた。

「美味しい……」
「おいおい、おまえが美味しい蕎麦屋だってここに連れてきたんだろう。知らないで紹介したのか?」
「評判が高いお店なんです。ちゃんと調べましたから安心してください」

初日に誘われた蕎麦屋は上出来の味で、コシといい香りといい一を満足させるに十分だった。お代わりをしてそばがきまでいただいた程である。天ぷらそばを食べるは、目をキラキラと輝かせて海老天の美味しさを教えてくれた。人の金で食べる天せいろは美味しかろうとからかえばこの通りである。一が拍子抜けしてしまったのも無理からぬことだろう。

「あー、おまえ、食が細い口?僕が言うのもなんだけど、ちっとばかし痩せ過ぎじゃないか」
「細いのとは違うと思います。あんまり興味がないだけで」

まるで他人を評するように説明するが寂しかった。両親がいなくなって、親戚連中に毟り取られて、大学で人付き合いに失敗した。どれをとっても物悲しいが、どこかにいそうな類の話である。殊更同情するものではない。が、絶望でも希望でもない虚無の時間をずっと引き伸ばす姿は側から見ていて苦しかった。生きるのが下手くそなんだな、と何度目かの感想を漏らす。もっとうまくやりなよ。

 現にはついて行くべき師を間違えている。愚かな魔術師が捕らえられれば、無知で無垢な青年も連座するのは時間の問題だった。もっと優しい世界もあるかもしれないが、一が考える限りでの将来は詰んでいる。それこそ、最初からサイコロを振り直さなければ上がれやしないだろう。もし、できたならば?一はふと思い浮かんだ娯楽に唇の端を上げた。やり直せるところから変えてやったらば、人一人の運命は全く違った極彩色を帯びるだろうか。自分を呼んだ魔術師が喜びそうな、歪んだ楽しみに一は頭痛を覚えた。

「明日も頑張ろうな、チャン」
「はい、先輩」

自分を信じきった言葉が嬉しかったのだと、今の一ならば答えられる。そうでなければあんなにも面倒な始末はつけなかったのだ。質問をするだけして放り投げても良いの書類整理を手伝い、必要なものを全て揃えることはできた。さようならをするのは簡単である。その癖、一はなにかと理由をつけて研究室に顔を出した。食事を、散歩を、飲みを一緒に楽しんで、ちらちらと覗く尊崇と憧憬と僅かな思慕の念を甘んじて受け入れる。どうせ共にいられるのは数日だけだとわかっていたはずだというのに、一はに餌を与え続けた。

「おまえは大丈夫だよ」

虚無に片足を突っ込んだ人間の瞳が輝いて、一はもう十分だとすこぶる満足した。直接事件に関係ないのだからと、は記憶を消されて上書きされて、歪められた人生を歩むことになった。生きているだけで十分さと、当時のマスターはすこぶる楽しそうに言ってのけたものである。つくづく悪趣味な男だった。全て十数年前の出来事である。

「偶然なんてあるんだなあ」
「何の話です?斎藤さん。あ、今日はコロッケ蕎麦がおすすめらしいですよ」

記憶と現実が交錯したカルデアの食堂で、一は問いかけてきた沖田総司に首を振った。温まった麺汁の香りがなんとも言えない。奇しくも今晩の献立は温かい蕎麦であるらしかった。のことを思い出した端から思い出の一皿を食べるとは、運命論者であれば感激しそうな御膳立てである。残念ながら一は現実主義者――理想を突き詰めることはついぞできなかった――なので何ら感想を抱くことはなかった。

「コロッケって、あのコロッケか?コロッケを入れるなんて正気の沙汰じゃないだろ」
「それが、現代だと不可能も可能になるんです。ま、騙されたと思って食べてみてくださいよ。意外と美味しいかもしれませんよ?」
「強引だなあ。一番隊隊長に言われちゃしょうがない。わかったわかった、食べてみますか」

久方ぶりに出会ったが手にしていたのは、天ぷら蕎麦だった。美味しいと喜んでいたものを頼んだのは、まだ自分のことを覚えている証拠だろうか?自己紹介した際のぎこちなさから、人付き合いを苦手とする本質はそのままなのだと暖かなものが胸にこみ上げる。あんな風に逃げ出すならば、きっとろくに友人もおらず一人だろう。目の端に憧憬が過ぎったように感じたのは自惚だろうか。

「美味しい」
「でしょう」

コロッケ蕎麦は中々の美味で、コロッケの最初のサクサクした食感からぐしゃぐしゃになった終焉まで満遍なく堪能できた。自分はこんなところにまで何かを見出そうとしている、と苦笑してしまう。世渡り下手のコロッケは、一がかき混ぜたそっくりだ。だから、最後まで見届けるのは自分の役目だろう。初日を楽しく過ごした最後、一は邪馬台国から時が流れた未来、自分をまさかの場所に引っ張り出した少女にそれとなく謎掛けをした。

「なあ、マスターちゃん。昔の知り合いに偶然出会った、って言ったらどう思う?」
「サーヴァントで?え、まさか人間?人間なの?」

炯々と目を光らせる姿は、悪夢の埴輪もかくやという有り様である。その有り様に周辺にいた者たちが途端に集まってきたのだからたまらない。一が知る限り、サーヴァントには物好きが多いのだ。人生一度巡ってしまうと、存外何もかも恐れなくなることも手伝ってなのかは杳として知れない。ただ自分が餌食になるのは御免被りたかった。

「ちゃっとちょっと食いつき過ぎでしょ。大した話じゃないんだからさ」
「そんなわけありませんよ!どう考えたって面白そうじゃないですか」
「沖田ちゃんには関係ない話だからね。ほら、向こうで遊んできなよ」

ひどいです、と口を尖らせる総司は可愛いようでいて、いざとなれば力づくで押し通ろうという覚悟が垣間見えた。カルデアはそんなにも娯楽に飢えているとでも言うのか。だからこそあんなぐだぐだなお米防衛作戦なるものをこなせたのかもしれない。織田信長やら坂本龍馬やら、面倒な面々が寄り集まっていることに冷や汗をかくも、かつてと変わらず悪趣味で純粋無垢なマスターはにこりと微笑むばかりだった。

「私一人で聞くのはもったいないなあ。協力してもらうこともあるかもよ?ささ、全部話してね」
「ですか、」

周囲の圧が凄まじい。半泣きになりながらも、一はうまくどうにか流せる程度にの話を披露した。夏の日、ほんの数日間にして何故か今もまだ抱く記憶の話である。本当に何故、自分はまだ覚えているのかと話しながら不思議でならなかった。結果を見たかったと願っていた?だからこそカルデアに呼ばれたとしたならばとんだ因果だ。語り終えた頃にはすっかり周囲の熱は冷め、こと立香に至っては遠い眼差しをしていた。

「……前に、ダ・ヴィンチちゃんからさんに記憶障害が起きてるんじゃないかって話を聞いてたんだけど、こんなところに原因があったとは」
「人一人の人生狂わせるなんて相当ですよ、斎藤さん」
「一応助けてあげたんだから、悪い話じゃないでしょ?ねえ!」

総司までもが遠巻きにする切なさに、真実を吐露した自分が嫌になる。聞きたいと言ってきたのはそちらの方だ。耳心地の良い話ではなかったからと遠ざけるのはいささか無情に過ぎまいか。第一、場合によっては存在が危ぶまれたを救ったという事実は大きい。死んで花実が咲くものか。なんとか堪えて返すも、続く龍馬のセリフに一は轟沈させられた。

「だったらさっきの自己紹介の時に説明するのが一番良かったんじゃないかい。しなかったのは斎藤さん、君がさんに負い目があるからだと推測されるんだけど、どうかな」
「それは、」

確かにそうだった。『藤田五郎』を『斎藤一』に上書きするならば今より他においてない。覚えているかと、覚えているだろうと畳み掛けてやれば良かったと思うと同時に、きっとしなかっただろうと一は自分を冷笑した。龍馬の指摘は鋭い。一は、の記憶の中の五郎には綺麗なままでいて欲しかった。手品の種を明かしてしまえば、残るのは手酷い裏切りの味ばかりだ。彼は傷つくだろうか?また虚無を抱えて、今度こそどこへも行けなくなってしまうかも知れない。折角拾い上げた雛が、羽を折る姿は見るに耐えなかった。

「ふん。御託を並べたところで、どうせ格好つけたいだけじゃろう」
「やれやれ、解釈はお任せしておくよ」

信長にはその言葉をそっくり返したかったが、一は肩を竦めるにとどめた。格好つけてどうする。生まれてこの方、格好つけた方が生きやすい状況以外で取り繕ったことはない。に対してしてみたところで、何の効果があろう。彼の中に残る『藤田五郎』はどんな姿だろうか。

「それじゃあしばらく、一ちゃんを応援しよう。それで良いね?」

立香の鶴の一声で、満場一致の賛成が叫ばれる。どう考えても悪い方向に転がるより想像がつかない。だらだらと冷や汗を流しながら、一はかつてない危機に自分が見舞われたことにようやっと気がついた。のこのこ自分から罠にハマるだなんて愚か過ぎる。ぐだぐだな空気に染まったが故に感覚が鈍っていたのかもしれない。この気持ちをぐだぐだに巻き込まれるのは断じて避けたかった。

「いやいや、僕のことは良いって」
「良いんだよ」

慈愛のこもった笑顔が全てを握り潰す。悲しいかな、彼女こそが一のマスターだった。




 何はともあれ、簡単なものから攻めると良い。翌朝、一に与えられたのはの食欲増進であった。一職員の健康状態に立香が留意する理由はただ一つ、同国出身者であるの思考の混濁が気がかりということに尽きる。原因が己のサーヴァントである一であると解れば尚更の話だった。あの頃と変わらず食事に興味がないらしいと聞き、一もまたの身を案じた。折角助けた命がむざむざと打ち捨てられるのはあまりにも惜しい。握り飯を大きめに握ったのは、何も不器用さからだけではなかった。

「斎藤さん、大き過ぎません?食欲がない人に渡す量じゃありませんよ」
「大丈夫大丈夫。必ず食べられるって。まあ見てなよ」

ごま塩にゆかり、若菜にそぼろと種々雑多な具が並ぶ。共に握る沖田が作ったのはたらこ入りで、きっとは食べるまい。魚卵のプチプチとした食感や、あの生き物を食べている感覚の生々しさが嫌いだと言っていたことをよく覚えている。ずいぶん前の他人の話だったが、今や一はに関する全ての情報を手に取るように思い出すことができた。十数年もの間、一度も思いを巡らせなかった相手を。生前の話であればまだ理解できる。新撰組や、自分が確固たる意思で掲げた誠の旗は、霊基に染み付いて最早自分を織りなす人格の一角をなしている。一度ほつれれば、もう一は一ではいられないだろう。

 だだっ広いカルデアの中を、沖田に案内されて右往左往する。彼女も一職員の職場までは明るくないらしく、マスターに渡された地図が頼りだ。昔から沖田は地図を読むのが下手だった、とちょいちょい手元を覗き込んで修正しつつの旅路はひどく懐かしい。こんな気持ちになったのもいつぶりだろうか。胸のあたりがほんのり暖かくなり自然と頬が緩む。と、横を見れば同じく沖田も締りのない笑顔を浮かべていた。

「へへ。楽しいですね、斎藤さんとこんな風に過ごせるの。昔を思い出します」
「団子作ったりしたなあ。あの時沖田ちゃんが、自分のみたらしに吐くほど砂糖を混ぜてたのはよく覚えてるよ」
「そ、そんなことありませんよ!あ、ここの角を曲がった先の突き当たりがさんの仕事場のはずです。……一緒に行きましょうか?」
「お構いなく」
「ですよねえ」

軽やかに去ってゆく沖田の笑顔が目に焼き付いて離れない。邪馬台国にいた頃にも感じたが、沖田は本当に昔の昔に戻った様な笑顔を浮かべる様になっていた。もとより朝顔の花が咲くがごとくの容姿である。くったくない笑みが彼女から消えた時は寂しいものだった。太平の世に向かい、着実に自分たちは歩を進めていたはずが、手暗がりの様に肝腎要の仲間を幸せにはしない。思えば、あの頃から自分は自分なりの誠の旗を掲げたのだろう。目的の部屋らしきものにたどり着き、一呼吸する。中の気配は一人、きっとだと予感すれば緊張で指が強張る。何を今更。恐れるものなどこの世にそうないサーヴァントの身の上でおかしなことだと自嘲し、徐に扉を開いた。

サン、お邪魔するよ」

「いらっしゃい。ああ、君はサイトーサンだね?僕はガブリエレ。それって日本のオニギリじゃない!僕、たらこ味が好きなんだあ。良かったらひとつもらってもいいかな」
「……どうぞ」

あに図らんや、パンドラの箱を開けた先に待ち受けていたのは謎の金髪青年だった。立て板に水のような語り口に圧倒され、さしもの一も尻込みしてしまった。ちょうど良いことにガブリエレはたらこが好きらしい。沖田が握った握り飯を押し付けると、一は他の沖田が握ったものを片付けることにした。別段こだわりがあるわけでもないが、の口に入れるのは自分が作った分だけで十分だ。そうなるように魔力を込めて握ったのである。食欲不振といえども、必ずや最後まで食べきることだろう。

 己の魔力を分け与えるというのは、魔術師相手でもサーヴァント相手でもないのだから根本的には無意味だ。全ては彼の体に残ることなく流れるだろう。それくらいのことは一も理解している。ただ、に自分の一部を取り込ませたらば面白そうだと思っただけのことだ。一時的にせよ、彼の中に自分がいる。背筋がぞくぞくする程の背徳感に目が眩みそうだ。

「おはよう、サン」
「おはようございます、斎藤さん」

そして、二人は再び出会った。驚いたの顔と言ったら!握り飯をうまく押しつけて食べさせるに至った時には興奮で有頂天になりそうだった。口にこそ出さなかったものの、の痩せた体は全身で美味しいと伝えてくれている。ガブリエレが珍しいと感嘆した時には、思わず笑みがこぼれてしまった。そうだ、この自分にだけ懐き、自分だけが相手の虚無を埋められたという感覚が痺れるほどに楽しかったのだと思い出す。本当ならば面倒くさいと適当なところで跳ね除けても良いものを、命を繋いでやったのも全ては彼が向ける眼差し故だ。

 自分を覚えているか、まだあの頃と同じ気持ちを抱いているのか、あれからどうしていたのだと何もかもを吐き出させてしまいたい。土方のような評判はないものの、一とて口を破らせるのはお手の物である。壊すのは簡単だ。だが今望むのは、もっと優しい結末なのだ。部屋を辞して放置しても尚気になってやまない。喜んで食べたろうか?ガブリエレと何を話すだろう。つくづくガブリエレという男が羨ましかった。あんな男がそばにいなければ、びったりと張り付くこともできたかと思うと口惜しい。おまけに自分で言うのも何だが、ガブリエレの他人の隙間に入り込む様子は一によく似ていた。立香には、はあまり人付き合いが良くないと聞いていたが例外があるらしい。

「いけないな、こりゃ」

思いの外執着する自分がおかしくてならない。サーヴァントの常で出会えなかったとは言え、は一顧だにしなかった相手だ。おまけにあの頃よりもグッと歳をとり、今の一の見た目の年齢を越えてしまっている。恋と呼ぶにはまだら模様の感情で、愛と言うには及ばない。もっと時間が経って、相手に全てを打ち明けられたならわかるだろうか。気配を殺して廊下に陣取り、部屋の中で何が起こっているのか探るのは、さながら新撰組で張り込みに当たった時のような心地だった。芹沢鴨を狙うよりも感覚が研ぎ澄まされて、指先が痛い。どうせ昼休みになるまでは出てきやしない。有事以外は手持ち無沙汰な自分と彼とでは事情が異なるのだ。馬鹿馬鹿しい追跡をやめようと何度目かの自問をした頃、不意に開かずの扉が開いた。だ、がいる!

「……おいおい、なんでだよ?」

こちらに気付かずズンズンと歩く彼の顔を、瞬時に太刀筋を見抜く一はすかさず捉えた。頬を伝うのは間違いなく涙で、それも声を殺した胸苦しい泣き方である。雨にも似た泣き方は、虚無でいっぱいになったにぴったりだ。誰が泣かせた?あるいは何が?自分の知らないところであの金髪男に泣かされでもしたのだろうか。

「嫉妬は恐ろしいものよの」
「ご挨拶ですね」

燃え立つ炎のような声の主は、顔を向けずともすぐにわかる。信長だ。魔王であるとか女性であるとか、もろもろの驚きはとうに一周回ってぐだぐだにかき混ぜられていた。面白がって自分とを料理しようとするのはいただけないが、お互いひとでなしだと思えば受け流し――たいところだが矢張り気に食わない。小さく舌打ちすると、一はを追いかけようか迷ってたたらを踏んだ。スウ、と細められた信長の眼が胸に突き刺さる。

「で、あるか。良かろう、ここは儂が出るとしよう」
「いやいや、あのですね、」
「お主はアレとまともに口も聞けないのであろう。何、遠慮はするな。そのまま……姿は消すのじゃぞ?ついてまいれ!魔王の出陣ぞ!」
「待ってくださいよ!」

騒げば気付かれるかもしれないと慌てるも、こうなればどうにも手に負えない。頭痛を覚えながら、一は懸命に気を取り直すことにした。考えようによっては、魔王を利用しての本音を聞き出す良い機会になりうる。使えるものはなんでも使うというのが一の流儀だった。おまけに不利益はどこにもない。仕方なくついていく、という体を崩さぬものの、結局は好奇心が勝った。

 流石と言うべきか、信長が持つ覇王の圧はにも有効であるらしい。あれよあれよと言う間に丸め込まれ、は温めた貝のようにかぱりと本音を吐露した。まだ涙がポタポタ落ちていて、見苦しいことこの上ない。にも関わらず、その涙を拭って大丈夫だよと無責任な声をかけたくなってしまうから自分は駄目だ。

「個人的な話ですから、わかりにくいことをお話しするかもしれません」
「構わぬ。続けよ」
「……ずっと昔に、好きな人がいたんです。あの頃はよく分からなくて、いや、違うな。分からないままにしておいたんです」

好きな人?寝耳に水で、一はぽかんと口を開ける羽目になった。確かに、数十年の人生を歩んできたのだから、ありえる話だ。一体どんな相手だろう。彼の空虚を埋められたのか?

「最近その人によく似た人に会ったんです。あ、もちろん同じ人じゃありませんよ。でもお陰で好きだって、今も好きだって今更気づいた、っていう話です」
「痴れ者じゃのう。其奴のどこが気に入っておったんじゃ」

誰だ。最近知り合った人間を洗い出すのはそう難しくはないだろう。彼の心をえぐった相手を突き止めて、回答を弾き出せと脅してやりたい。もちろん答えは拒否だ。我ながらひどい欲望だとはよくよくわかっている。一が望むのは、単純なの幸せなどでは断じてない。もっと個人的でおぞましい、自分のためのものだ。どうしても身を隠していなければならないだけに、苛立ちばかりが募る。

「優しくて、自分勝手で、一緒にいると自分が生きているような気がするんです。はは、変ですよね」
「要するにベタ惚れという奴か。ブリュンヒルデとシグルドを思い出したぞ」
「あれとは違いますし、そもそも向こうはなんとも思ってないですよ」

それが自分だったらどんなに良いだろう。生きていると感じさせるなど、最早神にも等しい。あの純粋な思慕を一身に受けたかった。ならば自分以外の彼の神など、死んでしまうに限る。行き場を失った独り相撲の話に、ざあざあと血潮がざわめき出す。そんな感情を誰に向けたのだ。この自分の知らないうちに!

「これはただの好奇心なんじゃが……のう、。その好いた相手の名を教えてはくれぬか」
「良いですよ。『藤田五郎』といいます」

殺してやる。思わず動いて足が机に当たり、慌てて姿を消すも、はらわたが煮えくりかえって仕方がなかった。結局は自分だったというのは何よりも嬉しい。だが、が未だまやかしの元に『斎藤一』を認識していないなど悪夢だった。自分がそう仕向けたのだから無理からぬことである。あの頃、の命取りになることは全て認識できないように徹底的に弄ったのだ。だが、だからこそ、藤田五郎には死んでもらわねばならない。

「素敵な人でした」

過去形で語られては、もう我慢などしようもなかった。ニヤつく魔王もそっちのけで姿を現し、一はがむしゃらにを抱きしめた。痩せっぽっちで、中身があるのかと思えるほどに空虚な人。

「あの、これはどういう、」
「藤田五郎なんかより、僕の方が良いよ――俺にしときな、チャン」
「おっしゃる意味がよくわかりません、斎藤さん」

涙で洗い流された瞳に浮かぶのは、期待と縋るような希望だ。これを救いたかった。自分だけが彼を救うのだ。

「なんだ、もう『先輩』って呼んでくれないのか?」
「……全部わかってたんですか」

先輩、と淡く声が弾ける。なるほど良い結末だ。こんなに面白いことはそうそうない。弄って、直して、捨てて、拾って。恐る恐る背中に回った手に、一はほっと安堵のため息をついた。

「色々おまえに言わなくちゃいけないんだけどさ、もうちょっと待ってもらっても良いか?」
「死ぬまでに教えてくれるなら」

不健康な顔立ちがにわかに気がかりになる。これから先、全てを話すとしても、先にを長生きさせる準備をした方が良さそうだ。

「熱いのう」
「空気読んでくださいよ」

信長のぼやきに応えるようにしての腹がぐうと鳴る。まじまじと見れば、青白かった頬は熟れたリンゴのように赤かった。ちらりと壁にかかった時計を見れば、もう昼食時である。彼の食欲が戻ったのであれば当然の成り行きだろう。生きているのだ。

「す、すみません、空気を読まなくて」
「いいよいいよ、いっぱい泣いたらお腹が空くもんね。お昼ご飯、食べようか。僕が奢ってあげるからさ」
「儂の分も頼むぞ」
「わかってますって」

ねえ、と誘えば頷きが返される。これは約束だ。忘れられない、最後の最後まで守ってゆこう。どうか空手形で終わりません様にと柄にもなく祈って、一は心の中でゆっくりと刀を抜いた。

『藤田五郎』が、音もなく死んでいった。


〆.


後書き>>
 邪馬台国、恐るべし。何が始まるかと思ったら、気づいた時には脇腹を刺されて心臓が停止していました。こんな気持ちは久しぶりというか初めての勢いかもしれないよハジメチャン……史実でも狂わされたし、大概の作品で狂わされていましたが、FGOでもきっちり狂わされました。嵌らないはずがないのだ……というわけで、人生を狂わされた人が回収されるお話です。さらりとして見える人ほど業が深いもので、実際イベントは熱かったですね……これからもよろしくねハジメチャン!

最後まで読んでくださり、ありがとうございました!