DREAM NOVEL
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何もかも知ったつもりで居る大人に。


秘密とレントゲン


 大きく澄んだ瞳が段々と大きくなり、鼻と鼻とが互いに邪魔するようにすれ違う。確かめ合うように唇が触れ合うのは一瞬のことで、睫の本数を数える間もなくそれらは直ぐに小さくなってしまう。寂しさを覚えるのはほんの少しの間のことだ。また直ぐに戻ってきた熱は今度は激しく貪るように喰らいついて離さない。歯列を経巡り、舌と舌とを絡み合わせる様は戦いにも似た駆け引きだ。息継ぎをするように互いの酸素を奪い合う。そうしてどちらか一方が折れるまで戦いは続くのだ。

発展途上の手が自分の後頭部を押し包むように添えられるのを感じながら、は何故こんなことになったのだろうかと何度目かの後悔と混乱とに陥っていた。場所は小さく明るく、だが物が散らばり放題散らばった寮の自分の部屋である。ベッドに腰掛けているその自分に今では甘えるように乗って喰らいついてくるのはこの寮の生徒である伊織順平だった。

「……さん、さん、」

切れ切れに耳に届く声はひどく熱っぽく、何かを錯覚させそうでは自分の耳を塞いでしまいたかった。刹那の求め合いも、呼びかけも、この優しい手すらも全ては擬似に過ぎない。だが確実に擬似だと言える境界を越えてしまった今、はどうしたら良いのかわからないでいた。

長い攻防の末に音を立てて口付け、伊織が漸く離れる。は名残惜しそうに頬を撫でる手の感触を暫し味わった後、ゆっくりと目の辺りを擦った。生理的な涙が手の甲を濡らしている。ついで口からも余韻が零れていたことを思い出してサイドボードのティッシュを取って拭った。ただ、伊織と自分の激しい運動をした後のような荒い吐息だけが部屋に響いていた。

「ど、どうでした?俺。上手くなりました?」
「ああ」

何もかもが全て教えたままである。それに若さゆえの強引さと性急さとが合わさり、今の伊織の技術はかつてない程に高められていると言って良かった。の返答に伊織はあからさまにほっとすると、ついで何かを期待するようにこちらの目を真っ直ぐに覗きこんできた。

「もう充分だ。後は本番だな」

褒めるつもりでその坊主頭を撫でてやると、見る間に期待で輝いた表情は萎んだ。求められたものを与えたつもりが、肩透かしを食らったような反応には心臓の辺りがヒヤリとした。間違ったことはしていない筈だ_________これはあくまでも擬似関係なのだから。




 硬直する一週間前、何気ない伊織の質問に何気ない冗談を投げたことから何処かがおかしくなり始めていた。場所は矢張りの部屋で、何時ものように物を無くしたが探し物を手伝ってもらった後のことだった。

さん、キスってどうやったら上手くなるんスか?」
「どうって……そりゃ、回数こなすとか、上手い奴として段々上手くなるんじゃないのか?急にどうしたんだよ」

何故そういう話になったのかはよく覚えていない。恐らく他愛も無いことばかり話している内に飛び出した話題だったのだろう。伊織との会話ではさして珍しいことではなかったので、もいたって平然と答えた。

「いや、女の子にへたくそだって言われてフられるとか色々聞くじゃないスか。だったら上手い方が良いんだろうなー、って思って」
「……お前、彼女居たっけ?」
「いないですけど」

あっさりと答える伊織に、は思い切り脱力するものを感じた。げに恐ろしきは思春期の少年の想像力である。否、妄想とでも言うべきものだろうか。確かに自分にも覚えのあることであるだけにどうこうととやかく言える立場ではないものの、何時の時代も変らぬものの姿には進化とは何を意味するのだろうと遠い目で見た。

「でもほら、心構えというか!折角彼女が出来たのにキス一つで別れることになったら哀しいじゃないスか。で、さんなら経験豊富だろうなあ、と」
「下手に上手いと遊びだと思われるぞ。最初の内は下手で良いんだよ、下手で」

その下手さが逆に初々しさというものに繋がって愛しく思えるものでもあることを知らないのだろうな、とは年上の目線で見る自分に苦笑した。流石にそれは年を取らねば解らないものだろう。寧ろその年で知っている方が不気味だ。一方伊織はの返答に不服だったらしく、頬を膨らませると不平を零し始めた。

さんも同じ男だったら解るでしょ?好きな女の子には格好良く見せたいじゃないスか」
「見栄張りはボロが出たら終わりだぜ。無理はしない方が良いんだよ」

無理をすると自分のようになる、とは口が裂けても言えなかったがは苦笑して伊織の頭を撫でた。小まめに床屋に通っているせいか、何時でも掌を擽る感触は一定で、ショリショリとした短い髪の毛が柔らかい皮膚を突付くのはのお気に入りである。だがそんな些細な行いすらもただ相手の気を逆撫でただけであった。

「ふざけないでくださいよ、さん。俺は本気で言ってるんスから。そりゃ、さんは今まで色々経験があるから解ってるんでしょうけど、実際俺は何も知らないんですよ?少しはまともにとりあってくれたって良いじゃないスか」
「わかった、わかった。そう熱くなるなって。要は教えてやれば良いんだろ」
「本当スか!」

途端に目を輝かせた伊織に、は笑いを噛み殺して至って真剣そうな顔を作って頷いた。

「……ただし、実地でしか教えてやれないけどな」
「え」
「つまりさ、」

すっと固まる伊織の顎を掬い上げ、顔を近づけながらは内心大爆笑だった。純情さをからかう楽しみを有しているのは得てして大人というものだろう。恐らくこのまま伊織は思い切り後ろに引くか、あるいはこのまま固まったままの筈だ。何れにせよは寸でのところで止めるつもりだった。

軽く鼻の頭がノックし合う。伊織はまだ固まったままだ。大きく見開いた目を真っ直ぐに見返すと、は鼻をずらして唇があと少しで触れ合うという距離にまで近付いて止まった。

「……っ!」

こういうことだ、と冗談めかした脅しの言葉はどういうわけだか何時までたっても発せられることはなかった。の目が状況判断が出来ずにあちらこちらへと彷徨う。伊織の顔は傍にあるままだ。ただ、先程より幾分か近くであって唇が動かせない。状況判断が終わって__________飛び退ったのは伊織ではなく、であった。

「どうしたんスか?さん」
「お前、キスしたことないんじゃなかったのか?」
「ないッスけど」
「ファーストキスが俺になったんだぞ!お前な、冗談に決ってるんだから避けるか何とかしろよ!なんで逆のことをするんだよ」
「だ、だって教えてくれるって言ったじゃないスか!それに、こうなんというか、反射的に、つい動いちまったんだからしょうがないッスよ!」
「まあ俺も悪いけどな。じゃあこれは事故ってことで一つ」

忘れてくれと苦笑い一つすれば全ては丸く収まるとこの時のは思い込んでいた。さしもの伊織もそう何度も男と繰り返し口付けなどしたいと思わないだろう。はその点頓着こそしないものの__________面倒ごとの起こりそうなことは御免である。だが伊織は何か思いついたような表情で口の端を上げてみせた。

「じゃあこれは事故ってことにしても良いです。でも、代わりにこれから俺にちゃんと教えてください」
「は?」
「『は?』じゃないッスよ、俺の!貴重な!ファーストキスを奪ったんですよ?責任取るのが筋ってもんでしょうが」
「……あれは奪ったんじゃなくてお前がしてきたんだろうが。俺は寸止めするつもりだったんだよ!大体、男同士でしてどうするんだよ?そんなの年上の女性にでも教えてもらえば良いだろ」
「女の子とのファーストキスは好きな子のためにとっておきたいじゃないスか。一度やったもんは二度やろうが何度やろうが同じことでしょう?それに、さんとしたの、そんなに嫌な感じじゃ無かったスから」
「お前な……」

何故若さとは軽はずみに出来ているのだろう。自分も踏んだ轍をまた一人なぞってゆくのを目にしては思わず米神の辺りを押さえた。伊織はといえば自分の正当性を少しも疑わない様子で、しり込みするの顔を覗きこむと強請るようにうっすらと唇を開けた。

反射的に口付けてしまいたくなるのを押さえて、は大人の理性というものがあるだろうと自分自身を叱咤した。このまま動けば伊織の二の舞である。ちらと伊織の目を見てはすぐさま見たことを後悔した。期待に濡れた目はさながら仔犬の様で、裏切ることを躊躇わせた。

この目に何度折れたことだろうか。まだ彼らの仲間となってさして時間は流れていないはずだが、既に片手では数え切れない回数となったそれを思い返しては歯噛みした。ならば先に境界線を作ってしまえばせめて行き過ぎることは防げるだろう。

「上手くなるまでだったら、付き合ってやる。上手くなったら、お互いこんな馬鹿なことは忘れる。良いな?」
「やった!」

時間さえ置けば、流石の伊織もこの軽はずみな決断に後悔するだろう。その日をせせら笑うようには片眉を上げると飛び込んできた伊織に口付けた。




 視線を感じる。気まずい師弟関係の解消を経た翌日、は寮監のカウンター席で幾月に頼んだ資料を読みながらちらと視線の元を辿った。テレビ前はソファの上に座った伊織が何時ものようにカップラーメンを啜っている。そうえいばいつぞやキスした時はカップラーメンの味がしたものだった。

笑い話のようだったそれはもう忘れると決めた筈なのに早くも鮮やかに浮かび上がってきていて、その未練がましさには苦笑した。今の伊織は唯の寮の生徒の一人であり、仲間に過ぎない。保健体育だけは真面目にやっていると豪語する様に足しげくの下に通って教えを乞うた弟子の姿は何処にも居ないのだ。

正直に言って、伊織のことは嫌いではなかった。大人びた中嶋や真面目一辺倒の真田に比べれば打ち解けて話すことの出来る男子である訳だから、当然のように会話の機会も多かったし、休日もたびたび共に過ごしていたほどである。アメコミが好きだという伊織の趣味はにも通じるところがあり、スポーン等を交換するのもしょっちゅうだった。

秘密めいた師弟関係が解消されたからといってそれら全てを断ち切った訳ではないにも関わらず、は今朝方から挨拶すらぎこちなくなってしまったことに気付いていた。一度変ってしまった関係は、矢張り元に戻ることなど無いのである。自分が敷いた境界線はあくまでその時の関係を越えた先の境界線であって、越えてはいけない線を越えてしまったことに変わりは無かったことをは強く意識していた。

踏み外したのは自分であるにも関わらず、彼もまた共に踏み外してしまったのだということはさながら運命共同体のようでおかしかった。あるいは自分が堕落させたのだと言えるのだろうか。食い入るような視線は熱を帯びていて、はそれが何を意味するかを長年の経験から知っていた。

本当は、昨日の夜だって何を求められていたのかを漠然と知ってはいたのだ。ただ、知らぬ振りをして知らぬ振りをさせてほしかっただけに過ぎない。

「ただいまー、さん」
「お、お帰り中嶋君。水泳、どうだった?」

扉の開く気配に堂々と顔を上げれば、涼しい顔つきの中嶋だった。その涼しさに、一瞬は伊織ではなく、彼が相手であればどんなに気が楽だったろうと不穏なことを考えて打ち消した。恐らくこの一見冷めたようで誰よりも優しい少年はあっさりと頷いてを解放するだろう。だが、傷つけてしまった一事だけはどう足掻いても消えることは無いのだ。

「良いタイムが出せたよ。大会でも通用するって褒められた」
「凄いじゃねぇか!大会かー、日程が決ったら教えてくれよ。応援しに行くぜ」
「本当に?じゃ、もっと頑張って優勝する勢いにならないといけないな」

人懐こく微笑むと、中嶋はくるりと伊織の方を向いた。

「順平。俺に”その気”は無いから」
「へ?”その気”?」
「いや、わからないなら良い。さん、応援楽しみにしてますね」
「おう」

間に立っていた中嶋が去ってしまうと、何の話なのだろうかときょとんとする伊織と矢張り同じく小首を傾げるの間の仕切りが無くなって、直接視線がぶつかり合った。思えば今日になってこんな風に目を合わせることは初めてで、はぎこちない笑みを浮かべるとそっと視線をずらしかけて失敗した。

「……今日食べてる奴ってさ、何味?」
「ソーキそばッスよ。ほら、この前沖縄物産展がポロニアンモールであった時に買ったじゃないスか」
「ああ、あの時のか。で、美味いのかそれ?」

ひょっとするとそんな風にまた出かけることは無いかもしれないとちらと思うとは南国風のパッケージに視線を注いだ。そういえば見覚えのあるパッケージである。自分は確かちんすこうを買ったような記憶がある。どうやら食べ終わってしまっていたらしく、伊織は空の器を持って立つとさっさと極彩色をゴミ箱に捨ててしまった。

「どこにもソーキが無かったんですけど、ま、味は普通に美味しかったッスよ。あ、さんも食べたかったッスか?」
「普通ってのはさておき、珍しいもののご相伴に預かれなかったってのは残念だな」
「_______味だけなら、まだ間に合いますよ」
「へ?」

カウンターに影が射し、反射的に見上げたの目と影になってよく表情が見えない伊織の目が重なる。何故だかその目から目が離せなくて、はいつぞやの様に段々と近付いていることも忘れていた。否、蛇に睨まれた蛙のように動けないで居るのだ。手馴れた仕草で頬を伊織の手が滑り、極自然な動きで唇が重なった時にはもう魔法に掛けられていた。

ソーキそばの味は良く分からなかったが、ただ伊織の味だと触れ合う舌で思った。ここがカウンターであって何時誰が現れてもおかしくないだとか、師弟関係は解消されている筈だとか、当初からは比べ様も無いほどに伊織は上達してしまっているだとか、色々思うことはある筈なのに、ただ頭の中は何処までも白く純粋だった。

「逃げないんスね」

漸く唇を離し、名残惜しそうに額にも口付けを落とした伊織は息の上がったを何処か冷ややかに見下ろした。その表情はこれまで見てきたどの表情とも異なり、ひどく大人びた代物では不覚にも心臓の辺りがぐらつくのを覚えた。こんな顔をする伊織をは知らなかった。

「『本番』、どうでした?」

壊された。瞬間、知らぬ振りで何もかもを知った振りで居た自分が粉々に砕け散るのをは感じた。最後に大人に残された砦は一つしかない。少し呼吸をして片肘をつくと、は余裕綽々の笑みを浮かべて伊織を見上げた。

「……お前、順番逆だろ」
「え」
「ま、上手かったけどな」
「っ、それってつまり」
「さあな」

ニヤリと笑うとはきちんと装えているだろうかと伊織の瞳に映る自分を見た。うすらとぼけた表情をした自分がそこにはいた。


〆.

後書き>>
 突発伊織夢。と、いうか書いている内に伊織の良さを再確認した思いです。しかし私が書くと天然の筈の伊織にも黒い影がちらつくのは何故か。
実はキス描写を書くのが好きです。(どうでもいい)タイトルは谷川俊太郎さんの詩からです。

最後まで読んでくださり、有難うございました!