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今日も大漁。


四月の魚


「……妙だと思いませんか」
「何が」

スープを啜る音に混じった神妙な声に、ナワーブ・サベダーは面を上げた。相手が慣れ親しんだイライ・クラークでなければ無視していただろう。ゲームで散々駆けずり回ったご褒美でもある夕食を、一刻も早く平らげたい。今日の自分は敢闘賞に値する働きで、救助もチェイスも粘り強くやり抜いた。途中で数十秒が永遠にも思われたのは、恐らく体全体がどこか違う次元に突き抜けていたのだろう。あるいは疲労の度が過ぎて思考を放棄したかったのかもしれない。いずれにせよ、自分は頑張った。結果も出したのだ、今日は終わりでいいではないか。

「君のスープだけ、具が多い」
「本当か!」

俄に反応したのはウィリアム・エリスで、隣に座っていたアンドルー・クレスがびくりと肩を震わせる。暗闇の中から取り出した宝物のように真っ白なアンドルーは、大声に慣れていないのだ。死者は誰よりも物静かだと思えば頷ける。イライは手でウィリアムに宥める仕草をすると、気づかないのかとナワーブに再度尋ねた。まだ手をつけていないイライのスープ鉢をチラリと見やる。自分と同じく、漁師風の、何と言ったか難しい名前の魚やら貝やらが入ったスープだ。自分のスープ鉢との違いは大差ない。

「いや、全く。難癖つけてないで、早く食べたらどうだ」
「今だけじゃない。二週間ほど前から、君の食事量は増えています」

気になったので観察し始めたのが二週間前ですが、とイライはナワーブの記憶を掘り起こすべく献立を話し始めた。ミートクロケットと人参のグラッセ、トマトがぎっしり煮込まれたスープが出たらしい。確かにそれならば記憶に残っている。ミートクロケットを食べたのが生まれて初めてで、サクサクとした衣がほろほろと口の中で解けるのが何ともたまらない味わいだった。恐らくわざとなのだろうが、ジャガイモの粒が残って舌だけでなく口全体で楽しんだ――というそれらしい批評はイライが語ったものである。ナワーブから言えるのは、美味しい、かつその日は他の人間よりも明らかにミートクロケットの量が多かったという二つだ。

「あの日だけじゃないのか」

流石にじれたのでスープに手を付ける。先日、やにわにジョゼフが試合中にスープを飲むという奇行に走って以来、荘園ではスープが流行しつつあった。デザートにいちごのスープを出してきたエマ・ウッズの心境は些か理解不能だが、不味くはなかったので良しとする。海の幸が濃厚な出汁を供し、掘り出した貝の身が歯の上で踊る。お代わりは必須だ。ナワーブは山岳地帯出身のため、川魚はまだしも、海鮮類には縁遠かったこともあり、荘園に来てからは毎日知らぬ世界を旅している。このどうしようもないゲームに翻弄される日々の僅かな慰めだ。

「いいえ。言っておきますけれども、僕は別に誰の量が多かろうが少なかろうが気にしてません。ただ理由が気になるんです。だって不思議でしょう?」
「意外と君って科学的なんだな。ハハ、探究心を持つのは悪くない」

歯の間に挟まった葉っぱに苛立つイライの話に、ルカ・バルサーが引き攣るような笑いを交えて継穂する。原因と結果は大事にした方が良いとも。スープを順調に平らげながら、ナワーブも段々疑問を育てていった。何故自分だけが量を増やされたのか?誰が、はすぐさま答えることができる。主に料理当番を務めるクリーチャー・ピアソンだ。特段仲が良いわけではなく、日常生活に支障のない戯れをするだけの仲である。

 どうして彼が?『慈善家』だから、というのは理由にはならない。一人だけを贔屓しているのはさておき、ナワーブは見ての通りの健康優良児であって食欲も旺盛だ。滋養に努めようとするならば、ほっそりとしたエドガー・ワルデンや、何やら怪しげな発明で頭がいっぱいのルカとトレイシー・レズニックなどを気にかけるべきである。
 まだエマ・ウッズが対象であるならば頷けた。最近になって鳴りをひそめたが、元々クリーチャーはエマに異様な付き纏いをし、一時期暴力沙汰にまで発展した程だった。ナワーブも何度か彼の暴走を止めるべく、体を張ったものの、恨まれこそすれ感謝される謂れはない。寧ろ感謝の対象は、より根気よく相手をしていたウィリアムが相応しいだろう。ナワーブは面倒ごとは嫌いなので、どちらかと言えばさっさと拳で黙らせていた。医師のエミリー・ダイアーには、何度か手加減するよう注意されたものである。

まさか自分に殴って欲しいのか。世には倒錯的な趣味があるとも言う。まさかな、と想像を巡らせてナワーブは首を振った。クリーチャーは頭の回転が良い。殴られたければいくらでも相手を苛立たせることができる。あれは自分自身に同情を集めることさえ平気でやってのける手合いだ。失うもののない、何一つ持たないなりふり構わない人間の生き方は嫌いではなかった。言うなれば――クリーチャーは生きることに一生懸命なのだろう。

 スープは俄に量を増したようだった。イライが与えた暗示によるものだと言い聞かせて飲み干し、残骸を空いた皿に乗せてゆく。ここは簡易の墓場だ、神よ彼らを救いたまえ。そして罪深い我々がその分更に幸せになれますように。美味しいものの量が多いことは大歓迎だ。

理由などなんだって良いではないか。




 クリーチャーは生まれて数十年が経ち、大概のことは鼻で笑えるほどに世の中の酸いも甘いも知る男である。否、知る男であった。自分で思い込んでいた以上に、この世界は広く深くわけがわからないと知ったのは、荘園に来て以来幾度となく直面する苦さだった。所詮、クリーチャーは狭い水槽の中でもがいていたに過ぎない。空の青さを知っていても、それは水槽の上に広がる景色に過ぎなかったのだ。

「美味しい……」

最初に心に波紋を広げたのは、訛りのある一声だ。流れで料理当番を行い、文字通り日課としてこなすだけであった(もちろん創意工夫は凝らした)クリーチャーの耳に、散々聞いたはずの言葉は何故か脳天を直撃した。一体誰が言ったのか。ゲームの後に食事を提供するという、孤児院で子供を世話していた頃よりも疲労困憊の体であったクリーチャーは、うろうろと目を彷徨わせてようやっとたどり着いた。美味しい、という一言を噛み締めてもりもりと食べ進んでいる人物、彼こそはナワーブ・サベダーであった。

 当初は自分とはまた異なる薄暗い、他人を信用しない傲慢な異邦人という印象を受けていたが、昨今になって明るい好青年振りを発揮し、株を上昇させた青年である。快くチェイスを引き受けてくれた日はいまだに忘れられない。同一人物だろうかと小首を傾げたまま、首が斜めに曲がりきってしまっている。恐らく、彼はこちらの方が本性なのだろう。戦場は人を変えると聞く。今一人、戦場に立ったきり頭の中身がやや不可思議な方向性に出かけたカート・フランクを思い起こし、クリーチャーは背筋をブルリと震わせた。

 自分の中でのナワーブ像は、その程度の薄っぺらいものである。興味関心は抱かず、他の荘園の住人たちとなんら変わるところはない。旧知のエミリー・ダイアーや最早辛辣さにも慣れたフレディ・ライリー、妙な親しみと執着を催させるエマ・ウッズならばいさ知らず、クリーチャーは何も求めてはいなかった。近頃ではエマに対する気持ちもだいぶ薄れたように思う。代わりに空いたのは、何もすることがない、何かをしたいと思えない自分であった。

日々生活するにあたり、人にはこれという思考は取り立てて必要ない。過去の記憶が全てをこなしてくれる。本来ならば外部環境の変化により、こちらもまた変化しなければならないのだが、この荘園は主人の気分一つでクルクルと姿を変えるだけの水槽に過ぎない。家事をし、ゲームをし、当たり障りのない会話とイベントごとに切磋琢磨する。新しさなど今更何があるというのか!

 思えば、完全に慣れきった辺りでクリーチャーは一度燃え尽きてしまったのだ。コマネズミのようにクルクルと回る日々に終わりはない。ないと薄々気づき、なおかつそうだと認めれば終わりのような予感がある。毎日を精一杯に生きる演技が辛うじて精神を安定させていた。会話はラジオから漏れ出る音声と同じくらいに一方通行で、自分の中には何も残らず、こちらが返す言葉とて無論同じことだろう。

 だが、ナワーブの言葉を聞いた時に、クリーチャーは自分が作り出したただの日課の成果に意義を見出したのである。他の人間からも散々聞いた言葉に、どんな魔法があったかは知らない。ただ、もっと聞きたいと、どんな顔をして言うのかを知りたいと、そう思い始めたことだけは確かだ。あの日からかれこれ一ヶ月ほど、クリーチャーは献立に真剣に向き合い、ついでにナワーブの食事は気持ち少しだけ増やして様子を見てきた。結果はまずまずで、彼が直接自分に言うことはもちろんないし願いもしないが、自分の聞きたいものも見たいものも十分得られて万々歳である。素晴らしい。

 今日は何にしようか?鼻歌さえ交えつつ、クリーチャーは玄関ホールに入った。仕入れたソーセージが届いているはずで、ウィラ・ナイエルに教えてもらったハーブ入りのソーセージが揃っているかを確認したかったのである。香りにうるさい彼女が進めるのだから無論美味しいに決まっている。何事も本職に聞いた方が間違いあるまい。箱が届いていることを認めると、掲示板前にセルヴェ・ル・ロイとホセ・バーデンが並んで何かを眺めているのが目に入った。

「ホセ、今度のイベントは魚釣りらしいぞ」
「良いねえ。春は魚が美味い。言うからにはセルヴェ、君、腕に覚えはあるんだろうな」

なるほど、彼らの視線の先にあったのは大きな魚の絵がついたチラシだった。荘園の主人の気まぐれの来訪である。魚釣りならば、実があって自分にも役立つ。クリーチャーも子供の頃はお腹の足しにならないかと、春になれば大人の目を盗んで小川に釣りに出かけたものだ。ほとんど溝川のロンドンに何を期待しよう?魚がなくとも気分だけはワクワクできたのだから、空腹はいくらか紛れたのだと信じたい。

「当たり前だろう。紳士の嗜みだ」
「よく言う」

なら釣って見せろと二人が小突き合うのを横目に見つつ、クリーチャーは今日の献立を思いついた。先日ジョゼフが、ゲーム中にスープを飲むという混乱しきった行動に出て以来、あのスープはなんだろうかとずっと気になっていたのである。魚なんてどうだろう?それも異国風のスパイスを効かせて、舌先だけでも水槽の外に出るのだ。貝もどっさり入れて、宝探しに勤しんでいただこう。速やかに注文票に書き入れると、クリーチャーはさっさとソーセージの箱を抱えて厨房に向かった。

 紳士方が釣る魚を待てば良いと思う人間もいるかもしれない。が、魚釣りとは得てしてホラ吹きである。今日の魚は明日の魚かもしれず、大きな魚は実際手のひら大かもしれない。よって古人の言葉に従い、クリーチャーは着実に仕入れる道のりを選んだ。ナワーブが食べてどんな顔をするのか、ただそれだけが楽しみだった。




 多い。流石のナワーブも、こればかりは認めざるを得なかった。今日の夕飯は、イベントにちなんだ魚の塩釜焼き(というものだと後でフィオナ・ジルマンが教えてくれた、彼女は海洋生物がらみとなるとやけに詳しい)である。普通は大きな魚を皆で分けるのだそうだが、今回は一人一人に一匹の魚が割り当てられていた。おかげさまで比較もしやすく、晴れてイライとウィリアムの皿と並べることが叶った。

「お前の、皿からはみ出そうなんだけど」
「塩の盛り過ぎ、ではありませんね」

ウィリアムの羨望と、透視までして確認したイライの感嘆とをナワーブは甘んじて受け入れた。どう見ても自分は贔屓されている。毎食比較しては、たまたま形が違っているだけであるとか、錯覚だとか言い訳を続けてきたが、自分も薄々気づいてはいたのだ。ただ、施す側であるクリーチャーに何の変化も見られず、接触も図られないがために、この不気味な事実を受け入れられなかっただけである。

「嫌なら、自分の分は減らして欲しいと言えば良いじゃないですか。何回確認すれば気が済むんです」
「イソップ。お代わりするならば同じですよ」

席が近いために、この奇妙な儀式にほぼ毎度立ち会うイソップ・カールがそれとなく愚痴をこぼす。ならばそちらこそ一人でどこかで食べれば良いというのに、わざわざ食堂で一緒に食べる理由がナワーブには理解し難かった。ともあれ全ては現実のものである。ハンマーがわりにスプーンの頭で塩釜を叩き割ると、ナワーブはテーブルの隅で魚をつつくクリーチャーを見やった。こちらの喧騒が耳に届いていたはずだが、そよとも動かず悠々とエミリーのワイン談義に付き合っている。何の気まぐれなのだろう。自分を気にしての行いではなかったのか?

 目の前の事象に意味を見出すのは、時に無為を生み出す。理由があるに違いないと思い、塩の分厚い衣の下に魚を探すようになる。頭が見つかれば尻尾まで調べ、骨の髄までバラして明らかにするまで止まらないだろう。傭兵の頃から、ナワーブは課せられた使命の意図を見抜くことが得意だった。相手の思惑を知らずして、どうして生き延びれよう。自称『慈善家』ごときに遅れをとるなどもっての外だ。わざとらしく音を立てながら塩の中から現れた身を解す。これは宣戦布告だ、今に見ているが良い。取り出した身を口に放り込むと、ふわふわした魚がナワーブの舌先を泳いだ。

「……美味しい」

美味しさに理由なんて必要だろうか。早くも食べ終えたウィリアムが、空腹サバイバー用にと追加で用意されたラムチョップにかぶりついている。食べっぷりに思わず惚れ惚れとしてしまう。釣られるようにしてアンドルーが、ガンジ・グプタが、そしてカートが手を伸ばす。量を与えるならば、彼のような人間にくれてやるのが道理だろう。何故自分に?

いっそ何か要求してはくれまいか。魚に食いつきながら、ナワーブは一体この餌は何を釣り上げようとしているのだろうと目を細めた。もし、向こうが仕掛けて来なかったとしても問題はない。借りはこちらから倍にして返せば良いのだ。




 大都市とはかけ離れた青い草原にさらさらと流れる小川、その先には湖とくれば待ち受けるのはピクニックだろう。荘園の主人が魚釣りを企図するのももっともだとクリーチャーは改めて認めた。ゲームに参加し、引き分け以上の場合に釣り道具(もちろん魔法仕立てだ、そういうものだろう?)が与えられる。後は運次第というわけだ。よって、どんなにぼろぼろになろうとも人々は魚釣りという名のピクニックに出かけずにはいられない。物語の中の湖に住まう魚はめちゃくちゃで、海に住むものも当たり前のような顔をして釣れるのだから面白い。今を逃せばこんな泥酔した湖では二度と遊べまい。

 今日の釣りはセルヴェと自分、ゴールデンフィッシュを見かけたのだと言い張るノートン・キャンベルにナワーブの男四人組だった。誰も夕飯のために釣ろうとは思っていないあたりが小気味良い。そもそも夕飯までに戻るつもりもなかった。夜釣りをしようと提案したのは誰だったろう?煙草の火と同じくらいに魚の鱗がキラキラ光って釣りやすいと言っていたから、恐らくはノートンだ。

湖畔に各々陣取った頃には淡いグレーが空に広がり、太陽の赤はやがて深い青と混じって空を濃い紫に染め上げた。今日も一日は律儀に終わる。釣竿を手にし、クリーチャーは痺れるような痛みに動きを止めた。ゲームは完勝だったが、途中腕を犬に噛まれた痛みを引きずっているらしい。全て絵空事にされる荘園では、ゲートを出た瞬間に全ての怪我も生死も全てなかったことになる。しかし脳は痛みを記憶しているために、ありもしない怪我の痛みを思い出すのだ。最初の頃は頭がおかしくなったのかと不安に苛まれたのも当然の成り行きだろう。

「まだ痛むの」

釣竿を握り直そうとした手が、ぬっと突き出た手に押し止められる。予想だにしない出現にヒ、と小さく悲鳴が漏れ出た。少し離れた場所で釣りを始めていたはずのナワーブが闇のように隣で溶けている。どんどんと暗さを増していく世界の中で、彼の顔は依然としてよく見えない。寧ろ相手にはクリーチャーが痛がる瞬間が見えていたらしいことの方が驚きだ。

「腕が痛がってるフリをしてるだけさ。『私』は痛くない」
「わかるよ」

痛みに慣れ切った男の声は軽い。もっと違うセリフを聞きたかった。例えば先日ゲートを出た時に言ったような、勝利を喜ぶ快哉の声だって良い。湿り気を帯びた風合いはクリーチャのお気に召さなかった。釣竿を地面に降ろすと、クリーチャーは暗くなり切る前にとカンテラに火を灯した。世界が明るさを取り戻し、きらりとナワーブの瞳が反射する。とって返したかと思うと自分の椅子を連れてきた男に、クリーチャーは困惑を隠せなかった。

「釣らないのか?このままじゃノートンの一人勝ちだぞ」

ヘルメットに付けた蝋燭を煌々と照らし、今やノートンは彼が宣言した通りの光る魚たちを網に収めていた。あの魚は美味しくはなさそうだ。水槽を用意して泳がせたらすぐに死んでしまうだろうか。存外中からコインや宝石が出てくるかもしれない。ノートンはその手のものに未来が詰まっていることを承知している。現実的な考えはクリーチャーも全くの同意だ。ただ、今は幻想に浸る余裕を失っている。やる気はすっかり萎んでしまい、困惑のままにナワーブを見るのがせいぜいだった。

「釣るよ。ピアソンさん、欲しい魚ってある?」
「いや。何かと交換できるらしいが、食べない魚に意味があるとは思えなくてね」
「食べられる魚ね」

わかった、と言うなりナワーブが暗闇に姿を消す。いよいよこちらは取り残されて訳がわからない。椅子にぐったりともたれかかり、クリーチャーは惨めったらしい気持ちを頭の中で踏み躙った。焼き加減を間違えて、美味しさを逃した炭の塊を眺めた時にも似ている。本当はもっとうまくやれたはずなのだ、一体どんな風に?手慰みに釣竿を握ると、クリーチャーは破れかぶれに振った。蜘蛛の糸のように細い釣り糸が弧を描いて水中に沈んでゆく。ぽちゃん、という音は何とも心許なく耳に響いた。餌はつけていない。痛くもない腕が痛がるなら、何かをしているフリをするのも乙だろう。

 ナワーブの手が触れた腕がチリリと熱い。美味しいと喜ぶ姿を見るだけで十分だったはずが、更なる欲望に目覚めたのだとヒシヒシと感じる。欲はいつだって生きる糧だ。繰り返しの生きるだけの日々よりも、より前に進んで獲得しようともがく日々の方が余程生きている気でいられる。そうだ、ナワーブの声が心臓にまで届いた時にクリーチャーを染め上げたのは欲だった。

「何がしたいんだろうな……」

彼に与える食事を増やし、料理の種類を増やし、季節を取り入れ栄養云々をエミリーに聞き、果てはエマとウィラとでハーブ栽培にまで手を出した。自己満足は日々叶えられ、今日も美味しかったと皿を空にする姿で一日は締め括られる。十分だ、十分すぎるほどに馬鹿げている。荘園の外で暮らしていた時の方が今の何百倍もまともだった。施しにもにた行為は『慈善家』の活動でさえない。

 ナワーブは鈍い男ではない。恐らくはクリーチャーが繰り返す、儀式にも似た行いに気付いているのだろう。その上で問いただしてこないのは優しさか――あるいは無関心か。大人しく受け入れている辺り、信頼されていると見るのは傲慢かもしれない。いっそ彼に詰め寄られ、どう言うつもりなのかと聞かれた方がマシだった。どこにも行けない、自分でさえも行方のわからない旅路に乗り出した挙句、一方的に惨めったらしさを味わうなど全くの損だ。両隣では順調に釣れているらしく、水音がやかましい。セルヴェがノートンに漁場を荒らすなと苦情を申し立て、夜釣りの風情について滔々と捲し立てられている。ノートンは実利主義なので綺麗に無視しているようだ。クリーチャーは彼のわかりやすさを好ましく思って頬を緩めた。

「ピアソンさん、これって食べられる奴?」
「ヒィッ!な、なな、なんだ君は」

半ば眠りの世界に入ろうとしかけたところで、ヌウとカンテラの灯に影が過ぎる。突き出されたのは今度はバケツだ。後退りした恥ずかしさを咳払いで誤魔化すと、クリーチャーは改めてバケツの持ち主に謎解きを願った。

「食べられる奴、欲しいんでしょ。釣れるだけ釣ったから、あんたにあげる」
「君がくれる理由がない」

咄嗟にバケツを突き返せば、重みがばちゃんとはねる。活きの良い一匹が地面に飛び出てビチビチと水飛沫を立てた。生き物が必死に蠢く気配がする。頬に飛んだ水滴を指で拭っていると、ナワーブは有無を言わさずバケツをクリーチャーの膝の上に置いた。フードで影になった犯人の顔は見えないが、心持ち笑っているようにさえ感じられる。

「俺だってないさ。けど、ピアソンさんがくれた分は返さないと。もらいっぱなしじゃ気分が悪い」
「……気付いてたのか」
「気付いたのはイライだよ」

なるほど、それならば辻褄が合う。今となっては親友にも近い立ち位置にあるイライが、ナワーブを気にかけると言うのはもっともな話だった。彼ならば常人の見えぬものまでが透き通って見えるだろう。にも関わらず、クリーチャーの目的を知らない節であるのは、本人さえもわからぬことは見通せないとも考えられる。クリーチャーは答えが欲しかった。この新たに沸き起こる欲望の行き着くべき先を、目的を、安寧の地に手を伸ばしてカンテラを引き寄せる。パッと見た限り、どの魚も一応は食べられそうな風である。このまま入れておけば弱る一方だろう。

「私は屋敷に戻る。もしまだ釣りたいようなら、私の餌を使うと良い。……魚、ありがとうな」

受け取る一方を厭うのはクリーチャーとて同じだ。意外な共通点に胸がざわめく。立ち上がって抱えると、魚と水の重さに体が揺れた。おまけに魚が暴れるので、重さ以上に負荷がかかる。屋敷までの暗く遠い道のりを歩んでいくことに不安が過った。と、横合いから再び手が伸び、バケツの重みがふわりと軽くなる。

「俺も戻るよ。どうせ俺の口に入るものだし」
「はは、たっぷりオマケをつけておくよ」

わかりやすい理由を与えられると、親切も施しも受け入れやすい。静かな夜の中、水音と相手の呼吸とにクリーチャーは耳を澄ませて家路を辿った。




 妙な話だ。すっかり当たり前のような顔をして魚の鱗を剥ぎながら、ナワーブはストーブの前に立つクリーチャーの細腰を観察していた。釣りのイベントはまだ続いていて、今日も献立は魚介類が多く並ぶ予定と聞く。一見不味そうな魚も、クリーチャーの手にかかると瞬く間に皿の上のスター役者になるのだから面白い。何が出るのかが今から楽しみで仕方がない。

 要点は、ナワーブがこうして厨房で手伝いをするのはもう数え切れないということだった。下処理をするための専用の椅子まで用意されている。当初、ナワーブは気まぐれの優しさを傾けるという遊びを理解していなかった。相手が家族や友人であれば、それは好意の発露であって何ら不思議ではない。今もクリーチャーとは友人ではないと断言できる。生活は共にしているが、接触時間は限りなく少ない。

続けている理由は単純で、バケツを一緒に持ってやるような、その程度のささやかな親切がナワーブに満足感を与えてくれるからである。手伝った分だけ食事もより美味しくなるような気がしたのは錯覚ではなかろう。クリーチャーも上機嫌で、徐々に解けた警戒心はジョークにさえ変わりつつある。

「サベダー君、ちょっと味見してくれないか」
「ん」

暗に示されたつまみ食いを楽しむこともできて万々歳だ。皿の上にこっそり施しを受けるのではなく、直接渡されるならば手伝いの報酬だと受け入れることもできる。役得以上に、ナワーブはクリーチャーが自分にこうして与えてくる時の表情を見ることが好きだった。好き?あるいは今の自分は情にも似た思いを抱きつつあるのかもしれない。

 酒とスパイスで下味をつけた魚のフライがナワーブの舌を弄び、もっと欲しがれと誘いかける。胃袋がグウと素直に鳴り、目が求めるよりも先にクリーチャーはもう一つ味見用のフライを差し出した。これが釣りであれば大成功だ。彼にとって、今の自分はどんな魚に映っているのだろう。気まぐれな親切の応酬はいつまで続けられるのか。

少なくとも、ナワーブの方では飽きるまで続けるつもりだった。自分が飽きるまでは相手を逃しはしない。真の釣り人がどちらかは明らかだ。親切という糸を垂らして相手の反応を伺い、そして――何も釣れなくても良いはずの遊びに期待を寄せる自分に気付いてナワーブは苦笑した。

「不味かったか?」
「まさか。美味しいよ」
「そ、そうか」

不信を瞬く間に払拭するクリーチャーがおかしい。簡単すぎて心配になってしまう。歳のわりに細い体から苦労が偲ばれるが、なんとかここまで生き延びてきたことは称賛に値する。せめて荘園にいる間くらいはもう少し親切をしたって良いかもしれない。正当な理由をこじつけて、ナワーブは床に目を落とした。キラキラ輝く鱗は、さながら金貨の山のように目を眩ませた。




 引き寄せられている。魔法にかけられるようにして、クリーチャーはナワーブがそば近くにいる時間に耽溺していた。彼と過ごす一分一秒が満足感をもたらし、更なる欲望をかき立てる。ゲートから出る一瞬以上に自分は生きているのだと実感できるとは、陳腐な詩の一行のようだ。エミリーならば鼻で笑うに違いない。

いつかこの時間にも慣れてしまって、また新しい何かに生きる時間を望むだろうか。夢のように麻痺した良心で、クリーチャーは今日も無償の優しさをナワーブと応酬する。優しさの交換ではなく、何かもっと別のものだと思いたくなる自分に嘲笑した。こんな気持ちは初めてだった。幼い頃に欲したもののような気もする。全部自分で崩して駄目にしてしまったらば、いっそ何も迷わずに済むのではないか?ゾッとするような背徳感に震えると、クリーチャーは深呼吸を一つした。考え事は後でだ。今は夕食作りに励まねばならない。

「ピアソンさん、今日は何作るの?」
「今日はすごいぞ」

立ち上がったナワーブの膝から鱗がこぼれ落ち、厨房の床にキラキラと散らばってゆく。一度拾い切れずに手を切ってしまったことを思い出しながら、クリーチャーは野菜を炒める手を止めた。これからは下処理を終えた魚たちを相手にするのである。魚から内臓を抜き出すよう頼むと、ナワーブは快く承知して取り掛かった。

「スープ・ド・ポワソンだ。ジョゼフが飲んでいるスープを、エドガーが聞き出してきたんだよ」
「あれかあ」

美味しいんだろうな、とナワーブが目をうっとりさせる。クリーチャーとしては、勿体ぶった名前がただの『魚のスープ』という意味だと知ってがっかりしたところである。だがレシピを聞くだに、単純素朴だからこその滋味が詰まっていることは窺い知れた。何せあの優雅にして紳士めいた振る舞いをするジョゼフが、ゲーム中にも関わらず手を出す魔性の味である。一度作っても損はあるまい。

 ナワーブは今日も美味しいと言うだろう。お代わりを欲し、また魚を釣る話をして鱗とりに励むのだ。魚が終わっても、まだまだやることは尽きない。その頃になれば、自分も何が欲しいかを――揺れる釣り糸の先に何がかかるかを良い加減わかるだろう。そうして釣った魚は、最後まで食べるまでだ。

「美味しいと良いな」
「美味しいに決まってるでしょ」

ピアソンさんが作るんだからさ、とナワーブが何の気無しに言うのが可笑しかった。たった一言で魔法が更新されると言ってやりたい気さえする。ぶつ切りにした魚を野菜たちに出逢わせて、クリーチャーはじっくりと思いを煮込む作業に入った。料理は愛情がこもればより美味しくなると聞く。もしこの料理がいつもよりも美味しかったならば――そんな御伽噺が合っても良いかもしれない。

 今日もナワーブには、少しだけ多めによそうとしよう。軽口でからかって、クリーチャーは頭の中でまだ見ぬ明日の、明後日の、そのまた先の皿にも多めに盛ってみせた。


〆.


後書き>>
 まさかの魚イベントの始まりに虚を突かれました。エイプリルフールは魚の味、ジョゼフの美味しそうに飲むことよ……!自分の心から目を逸らしてきた人間がいざ向き合おうとした時に、ありのままを嘘とも本当とも見抜けずにモヤモヤするのではないかと考えつつ書いていました。恋とも愛とも言えない定義もできない、けれども手放したくない気持ちにいつか名前をつけられたならば幸せのように思います。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました!