BL NOVEL
  / HOME




それは私だけに許された幻


ここは天使の通り道


 複数の人々が話している最中、どういうわけかふと静けさが降りることがある。何か事故や災害が起きたでもない不思議な静けさを、人は天使が通ったのだと呼ぶらしい。なんてロマンチックで仰々しい表現だろうとナワーブ・サベダーは砂糖菓子のような言葉を鼻で笑った。教えてくれた男がフランスから来た優男だったのも原因かもしれない。

 とっくのとうに記憶の奥底に放り込んだ言葉を思い出したのは、グレープフルーツゼリーを庭で食べようと噴水のへりに腰かけた時だった。視線の先で、クリーチャー・ピアソンがエマ・ウッズにゼリーを手渡している。相変わらず挙動不審の動きをする彼を注視したのはまたぞろ問題が起きはしないかという非難めいたものだったが、ナワーブの思考は完全に停止した。

「天使だ……」

クリーチャーの背中から、白くて小さな和毛のような羽が生えている。頼りない稜線はまさにクリーチャーの体そのもので、ナワーブは瞬きした後に激しく目をこすり、グレープフルーツゼリーのシロップが目に入って涙をにじませた。相手は中年男性である。一体何をどう見間違えたら天使に見えるというのだろう?確か天使とは子供であるはずだ。それに無垢で愛らしい。クリーチャーはその全ての対局にあった。ひいひい言いながら目を回復させることに没頭していると、不意に横からタオルを差し出されて迷わず掴む。柔らかな感触がありがたい。ありがとう、と礼を言ってはたとナワーブは再び動きを止めた。天使だ。

「天使だ……」
「君は何を言ってるんだ?ああほら、まだ濡れてるぞ」
「あ、うん」

クリーチャーが陽光の中に立っている。さながら天使降臨の再現で、ナワーブは恍惚としてクリーチャーが顔を拭ってくれるのを受け入れた。手つきがなんとも言えず優しい。

「よし、これで男前だな。器は後で流しに置いておいてくれ、まとめて洗うから」
「ありがとう……」

じゃあ、と去っていく背中ではぱたぱたと可愛らしい羽が蠢いている。見間違えようがない。だと言うのに、一体どうしてこれまで気づかなかったのだろう。他の人間にも見えているのか、そもそもクリーチャーは気づいているのか、疑問がとりとめもなく浮かんで行く。隣に腰かけてグレープフルーツゼリーに酔いしれるエマを見ると、ナワーブは意を決して尋ねることにした。場合によっては頭がおかしくなったと思われかねない発言だが、エマ相手であれば大丈夫だ。何しろ一見ただの可愛らしい少女に見えても彼女は少しずれている。時折戦場でも味わったことのないぞっとするものを覚える理由を、ナワーブは敢えて触れなかった。深淵にやすやすと足を突っ込むのは愚かな振る舞いである。

「エマ。その……ピアソンさんの背中に羽が生えてるって知ってたか?」
「ううん。でも、エミリーには生えてるの。とっても大きくて綺麗なの!」
「へえ。それは知らなかったな」
「気にすることはないの、ナワーブさん。エミリーのことは私だけが知っていれば良いなの」

相変わらず会話の噛み合わない狂気的な様子にナワーブはたじたじとなった。ともかく、エマの目にクリーチャーの背中の羽が映っていないことだけは明確である。それで良い。エミリー・ダイアーの背中に見えている理由はよくわからないが、知ったら最後、この少女に恐ろしい目にあわされる予感がする。グレープフルーツゼリーの残りを飲み込んで、体に夏を行き渡らせる。ガラスの器に入れたスプーンがチリンチリンと音を立てた。

 その日から、ナワーブの前に天使は何度も現れた。ボーリングセットを芝生の上に設置する時、手伝おうかとクリーチャーに気さくに話しかけられる。トレーニングを終えてのシャワーを浴びるまでの途中で美味しそうな匂いに誘われたならば、クリーチャーは困った顔でウィリアム・エリスに ミンスミートパイを与えていた。もちろんナワーブもお相伴にあずかったのは言うまでもない。ノートン・キャンベルの誕生日でトレイシー・レズニックの機械人形とダンスを踊るクリーチャーには、ナワーブは必死で奮い立ってその手を取った。腕の中におさまる天使はきらきらと輝き、ナワーブはエミリーに目を検査してもらったが、まったくもって優れた状態らしい。イライ・クラークとの話に夢中で、廊下を歩いていたクリーチャーの背中にぶつかった時には羽がふわりとナワーブの頬をくすぐった。その瞬間、クリーチャーは確かにこの魔法のような出来事を理解していたように思う。いたずらげに目を細めて気をつけてくれ、と言われたナワーブは手中に落ちた。

 そんな言い方をするとまるで悪魔に手玉に取られたように感じるかもしれないが、心の中はいつでも天国である。なんとかして掴み続けていたい。クリーチャーはナワーブだけの天使なのだ。

「ピアソンさん、何か手伝えることある?あ、それ持つよ」
「ありがとう、サベダー君。カートが手伝ってくれる予定だから大丈夫だ。また頼む」
「そう……」

なんとか接触を持とうと、ナワーブは”慈善活動”に目をつけた。クリーチャーがそうであったように施せば、この天使は自分に興味を抱いてくれるのではないだろうか。面倒ごとはごめんだと思いながらもナワーブはマーサ・べハムフィールの繕い物を手伝って穴だらけにし、フィオナ・ジルマンの謎の儀式に生贄に捧げられた。後者は察したイライに派遣されたウィリアムが助け出してくれたが、慌てたクリーチャーの顔が見られたので大金星と言って良い。沼に沈められてびしょ濡れになってしまったナワーブに大事ないかと頭を、肩を撫でられて、それだけで加護を得た心地で次のゲームは快調だった。信仰は人を強くする、とフィオナは訳知り顔で言っていたが、全くその通りだ。神様が不在であっても、この天使は何よりもナワーブを強くしてくれる。

「君はこのところ無茶が多いな。いつか怪我をしやしないか、危なくて見ていられない」
「心配してくれてるんだ?」
「あ、当たり前だろう」
「ピアソンさんにとってそうでも、俺はすごく嬉しいよ」

ゲームの最中、火の輪くぐりをするような危うさで窓枠越えをいくつもこなしたある日、ゲートで待っていたクリーチャーはふう、と深いため息を零した。背中の羽が心なししぼんでいる。だんだんとナワーブは、クリーチャーの羽で彼の心持ちがわかるようになっていた。自分の一挙手一投足に振り回される天使様に愛しさを覚える。ゲートをくぐった先のトンネルで抱きしめると、背中の羽に触れる。くすぐったく柔らかい感触はだがしかし、どこか現実味を失っていた。不恰好な小さな羽は果たしてクリーチャーを飛ばすことができるだろうか。ナワーブの手の届かない、自由な大空に羽ばたく姿を想像し、苦いものが胸にこみ上げる。行かないでほしい。そのためならば、どれほど罰当たりだと言われようともこの羽をむりることに迷いはなかった。

「あんまり背中を弄らないでくれ。くすぐったいんだ」
「羽があるから敏感そうだもんね」
「羽?」

きょとんとするクリーチャーの顔は自然で、ナワーブはやはりこれは自分だけにもたらされた幻覚なのだと知った。クリーチャーは意味ありげに自分の背中に手を回し、羽の感触を確かめるようになぞってゆく。その手はどこにもぶつからなかった。柔らかな腕、手、全て触って繋ぎ止めておきたいと言ったならば、クリーチャーはなんと言うだろう。

「そんなものがあったら、もっと楽ができたかもな。大体、あっても昔にむしられてただろうよ」
「なんで」

聞いた瞬間、ナワーブは自分が踏み入れてはいけない聖域に土足で入ったことを痛感した。くしゃくしゃに歪められたクリーチャーの顔に全てが詰まっている。とうにむしり取られた羽があちこちに散らばって風に流されるような切なさが漂った。クリーチャーの背中の羽がどんどんと縮まる。もう何も見えない。

「そういうものだからさ」

天使は、どこにもいなかった。




 天使は裸足だ。服さえ身につけていないことさえある。教会が経営する孤児院で育ちあがったクリーチャーは幼いながらも、この幸せで脳天気そうな連中が自分よりもひどい状態であることが理解できなかった。おまけに丸々と太っていて健康そうだ。修道女や修道士に尋ねたところ、天国は暖かくも寒くもなければ飢えも渇きもなく、欲望もないらしい。それでいて頭の中は全員幸せだと聞いて、小さなクリーチャーは顔をしかめた。そんな子供を見た大人たちも顔をしかめた。なるほどお約束だ、と余計な口をきかないと覚えたのはこの時が始まりである。

 ささやかなことに喜びを見出し、労を厭わない、そんな人間のくせに天使に近い存在がままある。懐疑的に見てきたクリーチャーが何度目かの出会いを経て出くわしたのはナワーブだった。このお人好しは本当に育ちが良い。愛情のある家庭環境が透けて見えて、羨ましくも苛だたしくもあり、クリーチャーを深く悩ませた。おまけに妙に自分に懐いてくる。ひよこかと見まごう程の従順さに、荘園に来たばかりの抜き身のナイフのような鋭さはどこにも見られない。気さくに誰にでも手を差し伸べ、犠牲を厭わない姿はまさにクリーチャーがなりたがった姿で、多分”天使”だった。

「痛くないか?」
「平気平気。ピアソンさんが治療してくれるから安心できるし」
「誤解を招くようなことを言うなよ」

ナワーブが周囲をうろつくからだろうか。ゲームの最中でさえもこんな風に心底懸念するほど、クリーチャーもまたナワーブを気にかけるようになっていた。この青年が笑っているのは気分が良い。健康で、無事で、楽しくいてほしい。だから余計なことをせずに、裸足で踊り回る程度の気楽さで生きていれば良いとも思う。天使にはうってつけだ。間違っても血を流して目の前が霞むような事態に陥ってはならない。ナワーブが無茶をすればその分だけクリーチャーも無理を重ね、二人が疲れすぎないようにいつも以上に頭を使うようになった。良い作戦だ、とあのフレディ・ライリー大先生がクリーチャーの練った内容を褒めたのだから間違いなく良い効果はある。だが胸は痛い。

「君はこのところ無茶が多いな。いつか怪我をしやしないか、危なくて見ていられない」

ゲームの最後の最後で、ハンターを引きつけてくれていたナワーブを迎えたクリーチャーのセリフはもっともなものだった。片足を引きずったナワーブの姿は見るに耐えない。天使は脳天気でいれば良いが、この青年は確かに人間でクリーチャーの手だけでは守りきれない生き物なのだ。否、自分が誰かを救えるのか?かつて失敗した数々を思い出し、乗り越えようとする自分の滑稽さに頭がズキズキとする。だが目の前の青年はどういうわけだかぱっと顔を輝かせて喜んで見せた。

「心配してくれてるんだ?」
「あ、当たり前だろう」
「ピアソンさんにとってそうでも、俺はすごく嬉しいよ」

どうして、そんなことを言うのだろう。人間はもっと生臭いもので、わがままで、欲に満ちていて生き抜こうとするというのに、これではまるで天使ではないか。嬉しそうに抱きついてくるナワーブの手がクリーチャーの背中を弄る。なぜこうも落胆するのかわからないまま、こそばゆさからクリーチャーは身をよじった。

「あんまり背中を弄らないでくれ。くすぐったいんだ」
「羽があるから敏感そうだもんね」
「羽?」

奇妙な思考の一致だった。羽が生えているのはナワーブの方だろう。私の裸足の天使、せめてサンダルを履かせてやろうか。ナワーブから体を離し、自分の背中を確かめる。思った通り、触れるのは虚無と虚空だけだった。

「そんなものがあったら、もっと楽ができたかもな。大体、あっても昔にむしられてただろうよ」
「なんで」

地べたを這いずり回る気分はどうだい。誰かの声が聞こえたような気がしてクリーチャーはくしゃくしゃと顔を歪めた。空の上に暮らす生き物に、自分の気持ちなどわかりやしない。わかってなど欲しくはない。

「そういうものだからさ」

我ながら突き放した物言いだとは思う。だが他に打つ手はなかったのだ。ナワーブの手がクリーチャーの手を掴んでくる。その手ならばあるいはーーあるいは。ゆっくりと振り解くと、クリーチャーは熱を持った手に首を傾げた。もう一度、諦めきれないかのように手が絡む。ナワーブの顔はすっかり曇り空で、クリーチャーは我知らず胸が痛んだ。トンネルを抜けた先の眩しさに目を射抜かれる。生まれて初めて太陽を拝んだ人間の話を思い出す。あまりにも眩しくて、頭がおかしくなったと思ったその人間は恐ろしさから洞窟に戻ったという。天使が自分のために舞い降りたら、同じようにクリーチャーもすみやかに洞窟に駆け戻るだろう。けれども、今掴まれた手は離れがたく、ただ黙って風の中を歩くに任せていた。

「気にするなよ。歩いていくのも良いもんだ」

天使が可哀想になったので、地面を歩くことに慣れたクリーチャーは薔薇園を指差した。館へと続くいくつかの道の途中に突然生み出された花園である。鬱蒼と茂る木々の間に広がる場所は、空を飛ぶものからは見えにくいに違いない。荊の向こうに大輪の黄色い薔薇が揺れていた。

「こうして君と景色も見られる」

実際、これまでの人生を歩いてきたからここにいるのだとクリーチャーは自分を鼓舞した。自由に羽ばたいていたらば、不可思議なゲームに参加することなどなかったろう。そうしてナワーブにも出会わなかったに違いない。誰かに出会うことは、当たり前のようでいて一つ一つが特別なのだと俄かに世界が輝き出す。思いもよらぬ考えに、クリーチャーは自分の正気を疑った。ナワーブが絡める指を深くしてくる。気持ち悪さも忌々しさもなく、全てが自然だった。

「これから先、さ」
「ああ」

くるりとこちらを向いたナワーブの背中に、クリーチャーは羽を見たように思った。同時にそれはするりと解けて一人の人間が立ち上がる。心身ともに健康で、健全で、楽しそうで、それでいてーーこの青年には欲望があった。クリーチャーを焼き尽くすかのような欲望が渦巻いている。

「これから先、ずっと一緒に歩いても良い?」
「……君が無茶をしないなら」

やはり天使にはサンダルを履かせよう。ナワーブには履かせてやる人間が必要だ。彼が再び羽ばたくまで、自由に飛び立つまではいてやろうと思う。誰かを救いたいならばまずは一人だ、とクリーチャーはうそぶいた。本当は、この当惑するような申し出の本音が透けて見えている。ただ自分には眩しすぎるだけだ。

 沈黙が静かに降りる。一歩一歩道を踏みしめながら、クリーチャーは満ち足りた世界に浸った。黄金色に波打つ草はら、夕焼けに燃えるポーチ、赤銅色に輝く窓辺、この天国も悪くはない。ナワーブが小さく、天使だ、と呟く。一筋の雲が、まるで天使が飛んだ跡のように美しい弧を描いていた。その後塵を拝すと、クリーチャーは心の中で、どうか気楽に幸せであり続けますようにとそっと祈った。


〆.


あとがき>>
 お題箱のリクエストでいただいた『背中に白くて小さな翼が生えたクリーチャー・ピアソンの話とかどうでしょうか……?』を元に書きました。翼が生えるシュチュエーションを有効活用するにはどうしようかな、と考えて、誰かにだけ見えるならばそれはそれで素敵だという話になっています。小さいからきっと飛べないけれど、特別な存在だったら良いなあと想像するのがとても楽しかったです。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました!