人間間違えることだってある、そうだろう?
その答えを、
昨日の雨が綺麗に晴れ、荘園の花咲き乱れる美しい庭には爽やかな風が吹きそよいでいた。ぐずぐずとした天気が多いこの国では貴重な晴れ間である。泣き顔の数だけ笑顔が華やぐというもので、今日の空はいつになく青が濃い。雲のない空がこんなにも広いことを、クリーチャー・ピアソンは久方ぶりに再認識した。
要するに洗濯日和なのだが、その価値に気づく人間はごく僅かだった。現在洗濯カゴを手に、中庭を横切る人間はクリーチャーとナワーブ・サベダーの二人きりである。この寡黙な青年は関心なことに、童話の動物よろしく食べ物に釣られてキビキビと働いてくれるのだった。想像を絶する金額の賞金を目当てに集まっている人間とは思えないほどのお手軽さに、クリーチャーは無責任な心配を抱いていた。
洗濯室で大量に濡れそぼった衣類を丁寧に絞り、死体のように重たくなった彼らをカゴに入れて運ぶのは一苦労だ。体力はある方だが、残念なことに腕力はさしてないクリーチャーとしては、この苦労を代わる人間がいれば何よりの幸福である。どこからか黙って現れたナワーブは救世主のようだった。
「……機嫌、良さそうだね」
「そうか?いつも通りだが」
柄にもなく鼻歌を歌ったのはもちろん嬉しかったからだが、ナワーブに見抜かれたのは癪なので誤魔化しておいた。なんとなく、まだそこまで心を許す気にはなれない。取り立てて馴れ馴れしさはないものの、ドアノブに足を挟もうとする物売りのような嫌な予感がするのだ。今日は良く干せるぞ、と声をかけて中庭に向かう。ひょっとすると、花の香りが移って洗濯物が良い匂いになるかもしれないとも思った。多分にウィラ・ナイエルに相談すればより良いものが手に入るだろうが、クリーチャーは偶然の賜物を愛していた。率直に言えば、ウィラに話すのは面倒かつ、そうまでして自分にもたらされるメリットが今ひとつ見えないからである。
「お、ピクニックか。言ってくれればケーキでも焼いたのに」
中庭のその先、花壇に囲まれた場所で女性陣が華やかな茶会を催している。テーブルに載ったクッキーは、昨日クリーチャーが焼いたものだ。他の細々としたつまむものは、彼女たちが用意したのだろう。エマ・ウッズはどんな菓子を作るのだろうか。王国に据えられた至宝の一口に想いを馳せて、クリーチャーはあの輪に入り込めない身分を残念に思った。女たちの話は口数が多いが、得るものも多い。難点は彼女たちがクリーチャーにはてんで興味がないということだった。当然、今日の茶会に呼ばれることはない。
「え、今日のおやつも作るよね?」
足を止めてぼうっとしていたらば、何故かナワーブが慌てたような声を出した。冷静沈着な元傭兵にしては珍しい。そんなにも食べたいのかと呆れると同時におかしく、クリーチャーはグッと腹に力を込めて笑い出すのを抑えた。
「さあ、どうだろうなあ。洗濯物を干したらエミリーに医療器具の消毒を手伝えと言われてるんだ。天気が良いうちにクッションの日干しもやっておきたいし、」
「ダイアー先生ならあそこでお茶してるから、きっと今日急ぎじゃなくても大丈夫だよ。クッションは俺がやっておくし、他にも手伝えるなら手伝う」
「すごい剣幕だな」
ババッと口早に捲し立てられた台詞は必死さがうかがえて、今度こそクリーチャーは笑みを滲ませた。寡黙なゲーム中の様子とは大違いだ。何よりも、彼が荘園を訪れた時の様子からは180度異なると言って良い。親切ごかしに近づいたところ、目にも止まらぬ速さで腰に差したナイフを喉元に突きつけられたことは今でも思い出す度にヒヤリとする。手負の獣じみた剣呑さはすっかり拭い去られ、後に残ったのは不満げな子供ばかりだ。
「まさかあんた、俺を揶揄ったんじゃないよね」
「まさかまさか。君を?命知らずも良いところだ。私ならそんなバカな真似はしないね。……君がそんなに早く喋れるとは初めて知ったよ」
「別に」
これくらい話せるよ、と言いつつも表情は不本意そうに歪められたままだ。ここはうまくお茶を濁すとしよう。中庭の端に洗濯カゴを置くと、クリーチャーは僅かに軋んだ腰を摩った。
「こうしよう。私よりも多く干せたら、今日は君が好きなものを作ろう。材料が足りなかったら後日、君だけに作るんだ」
「……またそうやって誤魔化して」
「ただし、適当に干したりしわくちゃにしたら減点だ。丁寧に早く、元傭兵様には難しかったかな?」
「言ったな」
全く簡単で困ってしまう。ころりと手のひらに転がり落ちたナワーブにいささか憐れみを催しつつ、クリーチャーはパンと手を打ってゲームの開始を告げた。
自分を偽るというのは、少なくとも自分にとっては難しい話だった。ナワーブは頬に込めた力を思い切り抜くと、鏡の前でイーッと横に伸ばしたり大きく開けたりして表情筋のストレッチを行った。一気に開きすぎて古傷が痛んだが、今日という日の収穫に比べたらなんということはない。
「まだやってるのか?そのうち痙攣を起こすぞ」
「余計なお世話だ、ノートン」
化粧室に入ってきたノートン・キャンベルに舌打ちすると、巨躯を折り曲げた男は歪な表情を浮かべた。彼の顔は半分がケロイドに覆われているため、どこまでが気持ちを表しているのかは掴みにくい。ただ、気に食わないことを話していることだけは確かだ。金に汚く、利に聡く世知に長けたノートンはクリーチャーとよく馬が合うらしい。その点も全く気に食わない。
「寡黙な傭兵さんじゃないと、かっこ悪いもんな」
「……そう言ってたか?」
「いいや。ちっとも」
誰が、というのはもちろんクリーチャー・ピアソンである。話を巻き戻そう。ナワーブは今、盛大な挑戦の真っ最中なのだ。その名も『一目見た時から好きでした!あなたをください!』大作戦である。センスの欠片も感じられない作戦名だが肝要なのは目的を達成することだ。クリーチャー・ピアソンを手中に収める、誰もが耳にして首を傾げるような難題を解決すれば八方よしとなる。
「今日はカードでイカサマをしようとして失敗してたな」
「なんで俺を呼ばなかったんだよ」
「相手がセルヴェさんじゃ、話にならないだろ。酔っ払いの戯れだ」
「あー」
容易に想像される展開に、ナワーブは改めて歯噛みをした。もし自分がその場にいれば、やんわりと嗜めつつクリーチャーをお持ち帰りしたことだろう。これまで(腹立たしいことに)ノートンから聞いた限り、自称・慈善家は酒に弱い。上質な酒を飲みなれていないからだ、とフレディ・ライリー辺りは評するが、ナワーブに言わせれば体質的な問題だ。介抱して、支えてやる。心の隙間に滑り込むには格好の理由となるだろう。それが今の自分では、逆立ちしてもなし得ない。
元傭兵は孤独を好み、寡黙で無骨で冷静沈着、無駄もなければもちろん人間らしい心の機微にも疎い。その設定を自分に科したのはナワーブの大いなる過ちだった。先ほ上げた計画の通り、クリーチャーに対する印象は初手から良かった。振り返れば一目惚れであり、すぐさま理解しなかったことが負債となって肩に重くのしかかっている。相手が相手なので、客観的に見ればナワーブの行動は常識の範疇内だが、後悔はいつだって後からやってくるのだ。
恋に落ちた相手をつっけんどんに追い返し、遠ざけ、気持ちを咀嚼し切るまで歯痛のように忌み嫌ったのは遅れた思春期と言って良い。ノートンは遅れた第二次性徴だと言い直したために一発殴った。お返しのボディブローの重さは流石鉱山労働者といった重みであり、結論ナワーブは相手の恋路を軽く邪魔することで鬱憤を晴らした。恵まれた体躯を持つ狡知に長けた男の泣きどころは、どこぞのトカゲ男らしい。
人は恋をすれば変わるものだ。鼻で笑った理論はまさに正しくナワーブを呪った。思い切りとった距離をどうやって縮めようかと足踏みしていた折に耳にしたのは、クリーチャーがウィリアム・エリスに語った『ナワーブ・サベダー』像である。もちろんナワーブが裏で手を回した場面であることは言うまでもない。
「なあ、ナワーブとピアソンさんって仲が悪いのか?」
「いや?良くも悪くもないだろう。まあ、好かれてはいないのは事実だな」
読書室の書架を一つ挟んだ向こうの会話は、ナワーブの心臓を抉り出すに十分だった。事実無根の誤謬にも程がある。飛び出していって、そんなことはないと言えたらばどんなに良いだろう。当たり前のようにして否定される未来しか見えず、ぎりりと噛み締めた歯が痛んだ。湿った紙の匂いに混じって、紅茶の良い香りが鼻をくすぐる。ウィリアムがゲームの振り返りをしたいと時間の約束をしたところ、クリーチャーが気を回して用意してくれたらしい。それがナワーブのためのものであればどんなに良かったことか!今は愛する人の様子を想像するだけで精一杯だ。
「あれ、じゃあピアソンさんはナワーブのことを嫌いじゃないんだな」
「嫌いになる要素は今のところ見当たらないね。嫌いになっても、良いこともない」
とぼけたウィリアムはなかなかのやり手だ。クリーチャーの返答に思わず拳を握りしめて天に掲げた。ここが読書室でなければ叫んで飛び回る場面だろう。同時に、嫌われるほどの執着を向けられたフレディが僅かに羨ましくもなる。自分にもっと興味を抱いて欲しい。どうすれば、どうしたら?
「ふうん。ゲームの連携もうまくいってるみたいだし、良いっちゃ良いか」
「なんだウィリアム、私たちが喧嘩をしているとでも思ったのか?」
「違うのか?」
「違うさ。第一、私は勝てない喧嘩はしない主義だ。元傭兵だぞ?一回組みつかれてみろ、すぐにわかるから」
思い出されるのは、クリーチャーがエマに対して『ついうっかり』暴力行為に及んだ時のことである。たまたま近くでたむろしていたナワーブが召集され、クリーチャーを組み伏せたのだった。ある意味非常に役得な立場だったのだが、まだ恋心に対する認識が不十分であったため、単に要所を押さえて床と仲良くさせるにとどまった。つくづく惜しい。次の機会があれば今度は抱え上げることにしよう。
「ごめんだね。元傭兵っていうのがどんなイメージか良くわからないけど、俺はタックルを決める方が楽しめそうだ」
「そうか?わかりやすいと思うぞ。新聞の記事に出る傭兵のままじゃないか。寡黙で、一人でいるのが好きで、どんな戦況でも冷静沈着でさ」
褒め言葉なのだろうか。良い印象を与えられた手応えはなかったのだが、希望はまだ持てる状況らしい。ウィリアムが軽く咽せ、ゲホゲホと咳き込み始めた理由は後で聞くとしよう。
「笑うな、ウィリアム。私だって多少公平なものの見方くらいできるんだぞ」
「うん、いや、ごめんごめん。ほら、てっきり喧嘩してるとばかり思ってたから意外で……要するに、ナワーブのことをかっこいいって思ってるってことで合ってるのかな」
「だいぶ飛躍した言い方だが、外れちゃいないよ。変なところにこだわるんだな」
心臓が飛び出るかと思った。かっこいい?誰が?自分がだ!はやる胸を押さえると、ナワーブは今上げられていたかっこいい要素を脳味噌に刻み込んでいった。自分が抱く印象とは些かかけ離れた姿だが、クリーチャーにとって良ければそれで良い。それが良い。今後は服装にも注意を払って、一層それらしく見えるようにするとしよう。軍服めいた服がナイチンゲールの店に並んでいたように記憶している。衣装の購入などまるで気にかけていなかったが、恋は人を変えるのだ。
それからウィリアムはスルスルとクリーチャーから要素を引き出し、無事ナワーブに引き渡してくれた。二人揃って首を傾げたものの、元軍人であるマーサ・べハムフィールにも手伝ってもらってイメージづくりに取り掛かったのである。健気なこの努力について、荘園の住人が揃って賭けの対象にしたのは手間賃代わりだ。おかげでクリーチャーに手を出そうという酔狂な人間を制することもできるし、口封じもできて一石二鳥だった。
そして、過ちが始まった。
「はあ、いつでも側にいられたら良いのにな」
「そいつは御愁傷様」
だが、である。クリーチャーの思うがままの姿を演じた弊害として、ナワーブは目下ぎこちない距離を解消できずにいた。ノートンのそっけないセリフにも僅かながらに心がこもっているように響く。家事の手伝いにかこつけて側にいる時間を増やせたのは大きな進歩だろう。友人でさえない、共同生活を営む仲間の一人くらいにはなれた気がする。せめてもの慰めだが、目標には程遠い。それまでの間にゲームの終了が決まってしまったらばどうしようか。クリーチャーはあっさりとした現実主義者だ。きっと金を手にしたらばさっさと出ていくことだろう。連絡を取り合うことなど不可能に近い。
かと言って、ゲームで手を抜くのは元傭兵のイメージを大きく損なう。ナワーブよりも長い期間ゲームに身を置いたクリーチャーには、すぐにバレてしまうのだ。まだ荘園に来たばかりの頃、たかがごっこ遊びだろうと舐めてかかって手痛い目に遭い、珍しく叱責と説教を食らったのは良い思い出である。もちろん、長時間クリーチャーと二人きりでいられたことと、彼が自分を具に観察していたことに対する二重の喜びが待っていた。
救助に成功すれば褒められ、わざとハンターの気を引き誘き寄せれば賞賛の声が上がる。例え負けようとも良いゲームの内容だったものだから、クリーチャーはナワーブに一目を置いているのは間違いない。ここで抱かれたいとまで言わせることができれば上々だが、抱き上げる専門のカヴィン・アユソだけに捧げられる名誉であった。
「次にカードをする時には君にも声をかけるよ」
「代金は?」
ノートン・キャンベルともあろう男が、代償なしに親切な申出をするなどありえまい。蛇口を捻って湯を出すと、手のひらをひたす。誰かに温めてもらっているような感覚が密かに好きだった。こんな風にクリーチャーの手を握れたらばどんなに良いだろう。さして待たぬうちに、守銭奴は鏡越しにニタリと微笑んだ。
「クォーツ1000個」
「多すぎやしないか?何が狙いだ」
「ルキノさんの新しい携行品が出たんだ。欲しそうにして見てる姿があんまりにも可愛くて……見るなよ」
「興味ないね。良いんじゃないか?後で渡す」
「……それはありがとう」
恋しい人の名を語るノートンの顔はひどく柔らかい。羨ましさと微笑ましさを抱いて、ナワーブは素直に背中を押すことに決めた。狐につままれたような様子のノートンがおかしい。自分だって他人を出し抜くことはできるのだ。石鹸を泡立てると、ナワーブは疲れた顔を癒すべく、全てを洗い流した。
まるで子犬だ。それも中型犬くらいの大きさの子犬。賢くて、名前を呼ぶと飛んでくる人懐こい犬。幼い頃に飼いたかった姿を思い浮かべて、クリーチャーははしゃぐ青年を目を細めて眺めた。脚立を抱えて隣を歩くナワーブの頭の稜線は、かつて思い描いていたよりも丸い。声は甲高さを伴う青年のそれで、今やけぶるような翳りは鳴りを潜めていた。
「キノコは刷毛で綺麗にしないといけないんだよね」
「ああ。小さな虫も見逃さないようにな」
今日のお手伝いはキノコのオイル漬け作りである。新鮮なキノコの半分はバターソテーとサラダにし、残りは今後のお楽しみに仕込むのだ。キノコのオイル漬けは、いっそう香りが高くなるとのことでセルヴェ・ル・ロイのお気に入りでもある。キノコハンターとして名うてのカート・フランクも嬉しそうだった。そんな期待を背負ったキノコに対し、小さな刷毛を細かく動かすナワーブの手先は繊細で、優しささえ滲み出ている。
落ち着いた、言葉数が少ない話ぶりは変わらないが、彼の本質はもっと明るいものではないかとクリーチャーは考え始めていた。手伝いを申し出る表情は、錯覚でなければ以前よりも柔らかい。孤独を好むのではなく、他人との触れ合いに悩みを抱えているのかもしれない。ノートンと何やら言い争いをしているのは見かけたことがある。イライ・クラーク曰くは、同類愛憐れむという奴らしいが、どちらも渋いかっこよさ、とでも言うべきものを抱えているので言い得て妙だ。
何よりも、このクリーチャーに進んで手を差し伸べる点において、ナワーブは慈善家を名乗っても良い。時折トレイシー・レズニックやパトリシア・コーンウェルが申し出てくれる以外は、こちらから頼まなければ誰も助けてはくれない、それがクリーチャーだからだ。場合によっては忌避すらされている。大変不愉快なことに自業自得とも言えるものだから、憤慨こそすれ状況の打破は諦めていた。いつかわかってくれるだろう、いつかわからせてやるとしよう。
では何故、ナワーブは自分に手を貸すのか。一度はナイフを突きつけた相手に何を思うのか、こちらは皆目見当がつかない。誰にでも同じように接するのかと観察をしているが、ゲーム以外では積極性は発揮されていないらしかった。ウィリアムと練習をする際は生き生きとしているが、それだけである。むしろ自分に張り付いているせいで他の人間との触れ合いが少なくなっている向きさえあった。
「……君はどうして手伝ってくれるんだろうな」
「なんでそんなこと聞くの」
思わずこぼしてしまった疑問に、刷毛が動きを止める。ああ、まだ埃が残っていると言うのに。放り出されたら忘れず仕上げねばなるまい。当たり前と言えば当たり前の疑問だが、素直に説明するのは躊躇われた。押し黙ったままでいるとじれたのか、ナワーブの顔に見るまに雲が覆いかかる。
「もしかして、迷惑?」
「いや、助かってるよ。ありがたいさ」
「だったらなんで聞くの」
執拗さは元傭兵だからだろうか。尋問されるような居心地の悪さは、かつて荘園の外で感じたものと同じだった。こうした時は、変に回り道をするとややこしいことになる。もつれた糸を解く面倒臭さを想像するに、きっと自分はそのままに放置するだろう。そうとなれば手伝いは二度と受けられない。重い荷物を一人で運んでゆく辛さを思い返し、クリーチャーは素直に答えることを決めた。
「……君が私を手伝う理由がわからないからだ」
「やりたいから、やってるだけだよ」
「何故やりたいんだ?私は答えたんだ、君も素直に答えてくれても良いだろう」
つっけんどんな回答は想定通りだ。さらに疑念が増してゆく。やりたいからやる?そんなものはナンセンスだ、他にも手伝いを必要とする人間は多く、好ましい人間はさらに多い。にもかかわらず、彼の貴重な時間をこちらに割くにはそれなりの理由があるはずで、なければ得体の知れなさに気持ちが悪くなってしまう。再び刷毛を動かし始めると、ナワーブは不機嫌そうに口をつぐんだ。痛々しい縫い目は微動だにしない。
「……いつか、答える」
「は、まさか賭けの対象にでもしてるのか?馬鹿にするなよ」
最悪のシナリオを想像して、体に段々と怒りが溜まってゆく。穏やかな時間は一変し、行き場のない空気はどんどんと澱んでいった。キノコの石突を力任せに引きちぎったところで少しも気分は晴れない。一方ナワーブはと言えば、普段の柔らかさも当初の冷たさも全部失い、無機質な沈黙を保っていた。本当は、感情なんてないのかも知れない。全ては演技で、何かよからぬ目的のためにクリーチャーに近づいたと言うならば如何にも物語にありそうな話だ。歴戦の勇士に依頼するには余りにも珍妙な役回りだが、やり遂げようとする姿勢は評価に値する。
「答えられるようになるまで、君の手伝いはいらない。お気遣いいただき、ありがとう」
「っ」
「良いじゃないか、楽になるんだ。君は他のことに時間を割けばいい。やることはいくらでもある」
真っ当な理屈を述べながら、惨めったらしさで胸がいっぱいになる。まるでこれでは情けをかけられていたかのようではないか。否、自分は施しを受けるような人間ではない。悪戯に付き合う心の余裕などどこにもなかった。ナワーブが何を考えているかは謎のままで、ナワーブの表情は少しも変わらず、沈黙のままに全てのキノコが美しく出揃った。
その日の晩餐に開かれたキノコ祭りは大盛況で、何があろうとキノコの美味しさは変わらない。弾力のある食感を楽しみ、口の中いっぱいに広がる滋味に舌鼓を打ちながらも、どうにもクリーチャーの気持ちは曇っていた。
「なんだって言うんだ」
テーブルの端でキノコを突くナワーブから、傷ついたような気配が漂うことに苛立ちが募る。被害を受けたのはこちらの方だ、と何もかも吐き捨ててやりたかった。
かっこよさとは何だろう?追い求めたことのないナワーブには、至極難しい話だった。英雄には誰しもが憧れるもので、もちろん少年の憧憬はナワーブにも身に覚えがある。では自分がそうなりたいかと言われれば、まるで見当違いだ。だからこそ虚像は上手く形作れずに崩壊したのだろう。自分の勇気のなさはかっこよさからは程遠い、それだけはよくわかる。
「今度こそ喧嘩したんだな」
「違う」
意気消沈して湖畔のベンチに佇んでいると、ウィリアムが声をかけてきた。この男は見た目によらず繊細な気遣いができるのだ。普段であればお節介だといなすところだが、そんな気力さえ湧かないほどに今のナワーブは気力がない。黙って隣に座ると、ウィリアムはラグビーボールをぽんぽんと投げ始める。答えが出るまで待つつもりなのだろう。もし、自分にその余裕があれば、対処する力があればどれほど良かったことか。
「あれは多分、軽蔑されたんだ」
「軽蔑?ピアソンさんが?」
「俺に意気地がなかったから……でも、でもさ!どうして手伝うかなんて答えられないだろ?正直に『あんたが好きです』って言えるか?正気じゃないぞ。あんな空気の中で言ったって絶対上手くいきっこない……ああ、でもピアソンさんの軽蔑する表情、ちょっと良かったな」
「新しい性癖の扉を開ける前に現実を見ろよ。何があったか、順番に話してくれ」
「……わかった」
そもそもウィリアムは当初からの協力者でもある。肩をすくめると、ナワーブは頭の整理をしがてら昨日の失態を語った。二人の仲は、当初に比べて随分と暖かなものになり、客観的にも上手くいっていたように思う。ただ、恐らくクリーチャーは当初から疑念を抱いていたのだ。何がいけなかったのだろう?かっこよさが不十分だったのか、自分の振る舞いが不自然だったのか。あるいはこの下心に気づかれてしまったのか、いずれにせよ待ち受けていたのは破滅である。
ふんふんと頷きながら聞いていたウィリアムは、ボールを放る手を止めるとクルクルと指先で回し始めた。つくづく器用な男だ。
「答えたら良いんじゃないか」
「は?」
人の話を聞いていたのだろうか。思わず剣呑な声をあげて問い返せば、ウィリアムは一体何を言っているんだ、とでも言うような顔で小首傾げて見せた。
「だってピアソンさんは『答えられるようになるまで』手伝いはいらないって言ったんだろ。答えればまた手伝いもできるし、堂々と口もきけるってことだよな」
「それができたらあの場で答えてた」
できないから苦労しているのだ。八方塞がりなのだと訴えれば、相手の表情は少しも変わらない。どうせ心の中では惨めなナワーブの姿をせせら笑っているのだ。腹芸のできる男ではないとわかりつつも、どうにも後ろ向きな思考は止まらない。
「だってさ。どう思う?イライ」
「かっこ悪いですね」
「おい」
ひょっこりと茂みから出てきたのは天眼を持つイライである。薄々予感していたことだが、彼らはこぞってナワーブの惨状を眺めにきたらしかった。とはいえ泥舟だろうと、乗れるものならば乗るより他にない。恨めしげに睨め付けると、占い師は肩をすくめて見せた。
「ウィリアムの言う通りですよ。軽蔑されたかどうかはわかりませんが、答えを聞くつもりがあるならまだ望みはあります。さっさと白状して楽になれば良いと思いますね」
「……お前ら、さては面白がってるな」
「否定はしません」
ですが考えてみてください、と静かな声が続く。不思議なことに、強くはない言葉はナワーブの耳を傾けさせるには十分だった。
「ピアソンさんは無駄なことはしません。ナワーブがどう思ってるかは知りませんが、打算的ですしね。見込みがない相手にチャンスを与える真似はしませんよ。一応は君を気に入っているんじゃないでしょうか」
「もう少し強めに言ってくれないか?」
「僕は嘘をつかない主義なので」
いっそ天からのお告げとしてクリーチャーの愛を勝ち得たかったが、そこまでの言葉はいただけないらしい。舌打ちするも、多少気分は晴れやかにはなった。何やかや言いながらも、二人が自分を励ましてくれたことくらいはわかる。深呼吸をすると、ナワーブは他人の脳みそに頼ることを決めた。
「だったら、どう言えば頷いてもらえるのか、知恵を貸してくれないか」
獲物を逃さないためにはどうすれば良いのか。気分はさながら戦場で作戦を立てる時のそれで、ナワーブは久方ぶりに胸の高鳴る音を聞いた。
何もかもが錯覚だったらしい。日に幾度となく目にする光景に心中密かに舌打ちしながら、クリーチャーはしめやかに花壇の植え替えを行っていた。今日も天気は数日続いた曇り空が嘘のように晴れて美しい。日差しが強いのでエマに任せきりにはして置けないと、手伝いを買って出たのは正解だろう。が、彼女が他の人間にも気安く頼むことまでは想定していなかった。
「ありがとう、ナワーブ。とっても助かるの」
「良いんだ、手が空いていただけだから」
感謝する甘やかな声の持ち主はエマ、そして応える柔らかな声の持ち主はあのナワーブだった。クリーチャーの元を離れて以来、こうして誰にでも――とりわけ女性に優しく手を差し伸ばす姿をしばしば見かけている。自分が知らなかっただけなのか、誰しも当たり前のような顔をして受け入れているのだから信じがたい。エマの表情には恋慕にも似た好意が見え隠れするようで、クリーチャーは自分の浅はかさを心底憎んだ。
孤高を捨て去ったナワーブは元傭兵の看板に恥じぬかっこよさ、とでも言うべきものを放っている。クリーチャーに見せていたような子犬めいた空気こそなくとも、周囲を魅了するには十分だった。おまけに手が空いているからという理由だけで助けるような優しさに触れれば、拒否する方が難しい。今更のようによくよく見れば、顔立ちも整っていれば独特な東洋の神秘ささえ漂う。体つきの良さは戦場のお墨付きだ。
あれが自分を試すように手伝ってきたかと思うと腹立たしい。やはりナワーブがクリーチャーの手伝いをしていたのは何がしかの罠だったに違いない。彼はあれでいくら稼いだのだろう?多少分け前を貰いたい気分だった。もし自分が彼の立場であれば、エマもうっとりしてくれるのだろうかと想像して気を紛らわせる。ダリアにポピーに麗しのマーガレット、パンジーにクロッカスに負けないほどの美しいエマの笑顔が――
「ピアソンさん」
だが、いくら脳味噌を回転させようとも、描き出せたのはうっとりさせてくる青年の姿だった。混乱するにも程がある。確かに一昨日はフィオナ・ジルマンに対して、昨日はデミ・バーボンに対して驚くほどに紳士的な接し方をするナワーブを見た。その前も、その前の日も。こうも見かけるとは、自分は何か妙な意識でもしているのではないだろうか?嫉妬しようにもどうしようもない相手には、何を考えても無駄だ。
「ピアソンさん」
おまけに想像上の彼は、傍で手伝っていた時のような声で自分を呼ぶのだ。まさか寂しさを覚えるとでも?羨ましいのはナワーブではなく、エマ達だとしたら、などとうすらざむい予感にクリーチャーは苦笑した。
「ピアソンさん!」
「わっ」
弾かれたように手が蠢き、並べていた鉢が宙を飛ぶ。揺れる花びらが視界の端に消えてゆくも、体が追いつかない。懸命に伸ばした手は想像以上に遅く、クリーチャーは地面に叩きつけられる末路を覚悟した。エマが悲しむ顔が容易に思い浮かぶ。彼女を悲しがらせること、それ自体も辛いが、自分にできるのは彼女を悲しがらせることくらいなのだという卑屈な寂しさの方がより辛かった。届かない先に、それでも手を伸ばし――
「ま、にあった」
「サベダー君……」
未来を掴んだのは矢張り英雄の方だった。安堵すると同時に駆け寄ると、にへら、と溶け切ったような笑顔をナワーブが寄越した。急いで滑り込んだため、せっかく綺麗に縫い繕われた(先日手伝いの礼としてクリーチャーが手がけたものだ)服が土塗れになって台無しだが、まるで犬が飼い主に褒めてもらいたがるような顔つきである。先程までエマに見せていたかっこよさよりも、時折自分に見せていたあのふにゃふにゃとしたナワーブとの再会に、クリーチャーはすっかり毒気を抜かれていた。
「怪我はないか?すごいな、君は……ああ、その、なんだ、あ、ありがとう」
「大丈夫。落とさずに済んでよかった」
どうぞ、と起き上がったナワーブが植木鉢を手渡してくる。受け取り、慎重に列に戻しながらもクリーチャーの心臓はドッドと高鳴り始めていた。キノコを挟んできつい物言いをして以来、間近に彼を感じるのは久方ぶりだ。だから、というわけでもないが見知らぬ恐ろしいものが近づいてきたように背筋がぞわりとする。まるでハンターのそばにいる時のような切迫感は、蕩けるような笑みを浮かべる相手には不釣り合いだった。
「これって、手伝いには入らないよね」
「え?あ、ああ」
「そう」
思わせぶりな物言いのナワーブがじ、と探るようにこちらを見つめてくるものだからたまらない。あり得もしない罪を犯した気持ちにさせないでほしい。
「けれど、」
「ナワーブ、ちょっと来て欲しいの」
「わかった。じゃあまたね、ピアソンさん。気をつけて」
緊張のあまりにこぼれ落ちそうになったセリフは、愛しの少女により救われた。今自分は何を言おうとした?けれど、だなんて未練がましいにも程がある。大きくため息をつくと、クリーチャーは思考を全て停止して植え替えに専念した。次こそ植木鉢は落ちたらば割れるだろう。奇跡は二度起きないものだし、起きてもらっては困るのだ。
押して、引いて、引いて、押して。当初の及び腰が嘘のように、今のナワーブは狡猾に動いていた。少なくとも、本人はそのつもりである。新たなイメージ戦略を練り上げ、ついで振り切って他の住人も巻き込んでの演出は効果を発揮しているように思われた。かっこいい路線は変えない。ただ、逃した魚の大きさを知らしめるべく、良さを客観的に知ってもらおうという作戦である。
読書室の革張りのソファにもたれかかると、ナワーブは今日の思い出を噛み締めた。彼があからさまな好意を向けているエマの前で挑発した結果は上々だろう。エマではなく、彼の注意は終始ナワーブに寄せられていた。クリーチャーが自分を好きにならないのであれば、いっそ嫌いを飛び越えて執着して欲しいと願ったナワーブにしてみれば、万々歳である。
「動揺したピアソンさん、可愛かったなあ」
「だらしない顔になってますよ。僕も珍しいものが見られて面白かったですが」
いつも通りにどこからか見ていたイライがクッキーを齧りながら同意する。彼こそは、女性陣への惜しみないサービスの数々を提案した参謀だった。
「……そのクッキー、どこで手に入れた?」
「厨房からです。今日はトレイシー達がアイシングクッキー作りをしたそうなので」
まだありますよ、と懐からハンカチを取り出してイライは戦果を披露した。アイシングクッキーとは耳慣れないが、要するにクッキーに食べられる飾りをつけたものらしい。ハートに星にロボット(これはトレイシー・レズニックだろう)、不可思議な文様(フィオナだ、内容は知りたくもない)、カウボーイハットに懐中時計まである。土台となるクッキー部分も、刻んだナッツが練り込まれていて食べ応えがありそうだ。そのうちの一つ、自分の扱う籠手のような形のクッキーを摘むと、ナワーブは躊躇いもなく口に入れた。甘い。何故だかイライが息を呑んだ。
「君はすごいですね」
「何がだ?これ、美味しいな。厨房にまだ残りがある……わけないか」
遠慮会釈なく続けてアルファベットビスケットにも手を掛ける。選び取ったのは自分の名前を冠するNと、クリーチャーの名前を冠するKだ。ふたつを重ねて隙間なく合体できないかと寝転がったまま遊ぶ。食べ物で遊ぶのは行儀が悪いが、叶わぬ想いの発露にしてはいたいけだと許してもらいたい。イライはそんな様子を痛ましいものでも見るような素振りをしていたが、彼の目が伺えないのを良いことに無視を決め込んだ。
「なあ、ピアソンさんにちゃんと効果が出てるよな?その……俺を好きになってくれるような」
「好きかどうかまではわかりませんけど、悪くないと思いますよ。もう一押しで行けそうだと、ホセさんも言っていました」
もう一押し。どんなスパイスを盛り込めば完成に至れるのだろう。女遊びに手慣れた風のある、ホセ・バーデンが評するのであればあながち間違ってはいないはずだ。今やクリーチャーはナワーブに振り回されつつある。イライと議論しあい、ナワーブは改めて告白の時期を先送りした。何度でも言い募ることはできるが、やはり一度で捕まえたい。
好いた相手に触れられず、間近で会話をすることさえ難しい状況は、ナワーブの思いを更に煮詰めさせていた。途中で我に返って、全て思い込みだと投げ出せたならばきっと楽だろう。そうしなかったのは単に相手の好意を求める貪欲さからだ。あの容易に心を許さない男の全てが欲しい。金銭で釣るのが一番簡単な方法だが、金の切れ目が縁の切れ目になりかねない。心を手に入れなければするすると逃げられてしまう。
「大佐服も来週には買えそうだし、ちょうどいいな。ピアソンさん、喜んでくれるかな?あの反応はいけると思うんだ」
「さあ。ピアソンさんの考えまでは分かりかねますが、誰よりも彼を見ている自分自身を信じることをお勧めしますよ」
宇宙を思わせるクッキーをかじると、イライは唇の端を歪めた。見た目だけでなく、味も悪魔的な代物だったのかもしれない。思わせぶりな言葉に目だけで解説を求めると、占い師は彼らしい物言いをした。
「君が選んだクッキーは、全部ピアソンさんが作ったものですよ」
それで十分だった。
モザイクタイルのように、さまざまな顔が脳裏に浮かんでは消えてゆく。クリーチャーはこのところ気が狂ったのかと思うほどの残像に悩まされていた。どれもたった一人の人物――ナワーブ・サベダーの顔だ。顔を洗っていれば、ふと顔を上げた際に鏡越しに微笑まれ、風呂上がりに夜風にあたれば隣の窓から透き通るような眼差しを感じる。全ては日々のどこかで起こったことであって『今』目の前で起きた事象ではない。日の名残がまぶたに焼き付いて離れないだけだ。火照った体に夜を染み通らせながら、クリーチャーは月光が作る道のりを窓辺から眺めていた。
一体自分の脳のどこにこびりついたのかと驚くほど、折に触れて彼を思い出す。それは彼が自分の傍ではなく、誰かの隣にいるためかも知れない。自分がナワーブに心を許しているのだとすれば相当奇妙な話だ。彼を手元に置いて便利扱いするのは良いが、離れたところで呼び戻そうとするだなんて無駄だろう。他にももっと良い手はあるのだし(目下あれほど手伝いたがる人間は見当たらないが)、肝腎要のゲームには支障がない。
利用することもなければ、悪戯に感情を掻き乱されるばかりならば、どう見積もってもナワーブ・サベダーはお買い得品とは言い難かった。むしろこのまま突き放して、何事もなかったかのように他人に戻れば気楽だろう。第一、自分を良いように玩具にした代償は高くつく。クリーチャーを手伝っていたことについて未だ回答は得られていないが、後ろ暗い理由であるくらいは想像された。
「何が気になるんだ」
濡れた髪の毛が風に吹かれて冷えたが、明晰さは取り戻せず困惑する一方だ。瞼の裏を数多のナワーブが駆け抜けてゆく。近頃では衣装も増えて随分と賑やかになったものだ。元より彼にはキリリとしたかっこよさがあると踏んでいたが、華やかさも加われば余す所なく魅力が引き出されたようだった。当然評判も良いわけで、従前から承知していたクリーチャーは今更気づいたのかと鼻白んでいた。それでも、それでも、
「あんな風には笑わないんだよな」
ふにゃふにゃとしただらしない顔があらわれることはついぞなかった。唯一、植木鉢を拾ったあの時だけである。他はいつどこで見かけようとも、ナワーブの落ち着いた振る舞いは完璧だった。それこそ、いつぞやウィリアムに語ったような『元傭兵』の姿に近い。堅苦しくはないだろうか。
もはやクリーチャーの中にはナワーブの素顔に対する確信が芽生えていた。あの男はかっこいい男ではない。正確にはかっこいいだけの人間ではない。もっと年相応の柔らかさを携えた可愛げのある人間だ。男のことをあれこれ考えたのは生まれて初めてで、冷静に分析した後でクリーチャーは小首を傾げた。ナワーブが目の前にいたらばもっとわかるだろうか。
「ピアソンさん」
「っ、」
いたところでどうしたいのか、と苦笑したところで響いたノックの音に思わず飛び上がる。椅子から無様に転がり落ちないようにするのが精一杯だった。
「大丈夫、ピアソンさん!どうしたの?」
「も、問題ない!」
ガチャガチャとドアノブを弄って焦った声をあげるのは紛れもなくナワーブだ。冷静沈着さをかなぐり捨てた様子に微笑ましささえ覚える。かえって冷静さを取り戻せたことに感謝すると、クリーチャーは乱雑にタオルで髪の毛をかき混ぜると扉を開いた。
「人の部屋の前で騒ぐなよ。こんな夜中に何の用だ?まさか答えでも聞かせてくれるつもりじゃないだろうな」
沈黙を恐れて流れるようにして言葉が口から滑り出る。への字に曲がったナワーブの顔が困惑を伝えていた。訪ねていきなり捲し立てられては無理もあるまい。気まずさを誤魔化しつつ、クリーチャーはひとまず訪問者を部屋の中に迎え入れた。
「……ピアソンさんの言う通りだよ。今日は『答え』を伝えようと思って来たんだ」
「よし、聞かせてもらおう」
ふわふわとした気持ちを鎮めるためにも、さっさと終わらせるに限る。先ほどまでの思い出の大渋滞はすっかり鳴りを潜め、クリーチャーは我ながら落ち着いて対処できていた。もしここにナワーブがいれば、と願った矢先の登場には驚いたものだが、きっと答えはすぐにわかるだろう。奇妙なのはナワーブの方で、クリーチャーの方を見ては怪訝そうに眉を顰めている。
「どうした、聞かせてくれるんじゃなかったのか」
「いや、もうちょっと驚くとか、何かあるでしょ?」
「今更驚くことなんてないだろう。君と知り合ってそれなりに時間は経ったと思うぞ」
「そうじゃなくてさ……あー、なしなし。今の忘れて」
すっかり濡れたスポンジのようになったナワーブに、クリーチャーは心中密かに満足していた。そうだ、この自然体こそが自分の望む彼の姿だ。久々にお目見えしたナワーブは健やかに過ごしていたらしい。椅子に座るよう勧めると、クリーチャーは仕方なしにベッドに腰掛けた。
「いつもと違うでしょ、俺」
「いつも通りだろう」
話は逸れる一方だ。それでも帰れ、眠たいんだと突き放さないのは面白いからに他ならない。何をそんなにしょぼくれているのだろう。以前であればおやつで簡単に釣ったが、こんな真夜中では土台無理だ。ならば、せいぜい気持ちを汲んでやるとするとしよう。顔は、いつも通り。髪型は少し整っているかも知れないが、微細な変化だ。続いて服は、と言えば本格的な将校服である。傭兵というよりも軍人と呼ぶ方が相応しい。マーサあたりが着てもおかしくないような一品で、生地の上等さからそれなりの値段がすることが伺えた。中身はきっと変わらないだろう。しばらく考えた後、クリーチャーは相手が望む答えを当てることにした。
「良い服を着ているな。よく似合ってる」
「正解。正解なんだけど、違うって言うか……ああもう!もっとこう、思わない?いつもと違うって」
「君はいつも通りだろう」
それでいい、それが良いのだ。少なくとも、今のふにゃふにゃとした様子は変わらないで欲しい。気安さに好ましさを上乗せしたことに気がついて、クリーチャーはなるほどとようやく納得した。自分はとっくのとうに扉を開け放っていたのだ。
「それで、答えは?」
「……こんな状態じゃ言えないよ」
「は?夜中に人の部屋に押しかけておいて、それはないだろう」
ますます情けなく打ちひしがれるナワーブが可笑しい。この青年は自分に何を言って欲しいのか、さっぱり見当がつかない。甘く浮いたセリフは花のような女性たちに求めれば良いだろう。あんな風にうっとりとした女性が何を語るものかくらいは、クリーチャーとて予想できる。自分は花ではない。花を養える植木鉢でさえもない。
「あんたには敵わないな」
「元傭兵様には言われたくないね」
「そういう意味じゃない。ピアソンさん、俺があんたを手伝う理由は単純だよ。あんたが好きだからだ」
予想を遥かに上回る回答に、クリーチャーは思い切り顔を顰めた。新手の遊びかと揶揄するのは簡単だが、ナワーブが膝上に置いた拳の震えがはっきりと否定している。正気か、と半ば残念さを含んだ眼差しで彼を見つめたとしても誰も責めないだろう。だが、情熱的な言葉を吐いた青年は傷つくこともなく顔を輝かせた。
「……機嫌、良さそうだね」
「そうか?いつも通りだが」
ナワーブがそばにいた時、あの日の気分と変わらぬままだ。洗濯物を片手に干しに出かけようという気が起きる晴れの日のようにわかりやすい。溜め込んでいたものを吐き出したせいか、ナワーブの表情もまた明るかった。
「本当はさ、もっとかっこよく言うはずだったんだ。色々やってみたのに、結局あんたの前じゃできなかった。なんでだろうな」
「かっこいいさ」
「ピアソンさん!それって、」
同時に可愛くもある。だがそちらは自分だけが知っていれば良い。にわかに勢いづく相手に苦笑を漏らすと、クリーチャーは明日は何をしようかと考えた。月が綺麗な夜だから、きっと明日は晴れるだろう。そうしてカーテンを洗う日がやってくる。おやつにはバナナフライを作ろうかとも思ったが、特別にもう一品作るのも悪くはない。
「答えが知りたいか?」
「もちろん」
間髪入れずに返すナワーブに、クリーチャーは今度こそ声を上げて笑った。
〆.
後書き>>
かっこつけようとしてできない、けれどもそこが良いという人物と、それを受け入れる人物の関係が好きです。本来の良さを知り、知られることが心地良いならば、どれほど気が楽でしょうか。というわけで必死でひたむきな傭兵と、その光に顔を向ける泥棒のお話です。なんやかやお互いに、一緒にいて楽しいな、幸せだなあと思っていて欲しいと願っています。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!