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蜜の道


 私は青い蝶を探していた。ただ一度そば近くで見てみたい、あわよくば知ってみたいと純粋な好奇心を捧げたつもりだった。往々にして研究とはそういうものだろう。見果てぬ夢を叶えるために、ジャングル奥深くであろうとも喜んで向かうのだし、例えばどんなに女性一人で出かけることが危険だとされても妥協すべき点ではない。

 少なくとも、私――メリー・プリニウスの考えはこうだった。分かりやすくて良いでしょう?虫が好きなのは、彼らが虫という別の生き物だから。他の生き物だから、私たちの関係は分かり合えなかったとしても当然。蜜を垂らせば瞬く間に集まり、こちらの思うままに姿をさらけ出してくれる。彼らが何を考えているのかは、全て私の頭の中、想像の産物でしかないのだ。

人間は、違う。彼らと自分は同じ人間なのだから、わかり合うことができる。言葉だってあれば、同じ世界に生きている。紅茶に蜂蜜を垂らすかどうか、尋ねたらば答える程度のやりとりから、来年の誕生日にどう過ごすかまで、どこまでも語り合える。

そう信じていた。残念なお話!

 人間も、結局は虫と同じ。一時の目的で集まり、甘い蜜だけ吸って離れてゆく。ならば私も一人で甘い幻想に浸っていても仕方がない。機会があれば、右手で相手の手を握りながら、左手で蜜を探り出そう。新しい道に進むことを決意した折に、ちょうど良く舞い込んできた資金援助の手紙はとてもありがたかった。あんな事件があった後で、研究資金を大学から得るのは絶望的で、実質私は学会から追放されたも同然だったのだ。

 そもそも、私が彼らとは違って女性である時点でいい顔はされていない。今回の不幸な事件がなくとも、いつかは嫌な目にあっただろう。だから、得体の知れない手紙であっても、掴むことのできるチャンスは全て手に収めようと決めた。藁をもすがる思いとはこんな気持ちだろう。

「ここ……で良いのよね」

鉄道を乗り継いで、町から遥かに遠く。さらに乗合馬車でどうにか近づいた後は延々歩くという辺鄙な場所は、届いた手紙にふさわしい場所だった。鬱蒼と茂った藪が不安にさせるが、わずかに開いた門扉の奥には立派な館が佇んでいる。本当に中には人がいるのかしら?握りしめた封筒を開き、折り畳まれた地図をなぞる。うん、間違いない。ここが荘園だ。

 一歩足を踏み入れ、門扉を潜る。不思議な渦巻模様があちこちに描かれているのは、何か意味があるのだろうか。手紙にもついていたものだけれど、こんな紋章は見たことがなかった。ブンブン、と蜂たちの羽音がする。館を取り巻く薄暗い森にはさぞや多くの虫たちが待ち受けているだろう。手紙に書かれていた『簡単なゲーム』に参加する間に散策するのもいいかもしれない。

がしゃん、と大きな音を立てて背後で門扉が閉まり、慌てて後ろを振り向く。誰かがいる気配はどこにもなかった――きっと、風が吹いたのだろう。大丈夫よ、メリー。気を確かに持って。頼れるのはあなたしかいないんだもの。

捕虫網を握る力に手を込めて、蛇行する道を歩く。まるで訪れる人間を惑わせようとでも言うみたいな道で、なんとなく、後ろを振り返ってはいけない気がした。どちらにせよ、私はもう引き返せない。

 いざ館の前に辿り着くと、でんと構えた大きな扉が妙に恐ろしかった。呼び鈴が見当たらない。こんなに大きなお屋敷ならば、家令や従僕が居そうなものだけれども、もしかして私が来ることは誰も知らないのかしら。もし――もし、もらった手紙がただの趣味の悪い冗談だったら?嫌な予感を振り払うために、虫除け帽子を深く被りなおす。すっぽりと顔を覆ってくれるこの網は、私の最後の砦になるだろう。本当に美味しい蜜は、誰にも知られない方が良いと痛いほどわかっていた。

人気のない館の正面から撤退するように裏へと回る。裏からならもう少し入りやすいかもしれないし、きっと誰かに会えるだろう。ざっざと歩くたびに白い砂利が音を立てる。

「あ」

誰かこの物音に気づかないかと願っていた矢先、ふわりと揺らぐ羽が見えた。青い蝶。もちろんかつて探し求めていたものとは違う。それでも誘いかける力は強く、人よりも素直な姿についてゆく。面白いことに、蝶は一頭二頭と数を増やし色を添えて目まぐるしい。一体なにが彼らを引きつけるのだろう。とっても美味しい蜜の泉でもあるのかしら。心持ち、甘い香りが鼻をくすぐるような気さえした。何の匂い?

 蝶たちが蜜に止まる。まるで虹を纏うようにして揺れる、美しい人が花を摘んでいた。夢だ。蝶があんな風に人に戯れかけることなんて、お話の中でしか聞いたことがない。

「あら、新しい方ね?」

美しい人が鼻から顔を上げると、蝶たちも舞う。息を呑んで立ち尽くす私は、きっと阿呆のように見えただろう。顔が隠れていて良かった。そうでなければ、きっと真っ赤になった姿が見られていたから。

「ええ。私はメリー。メリー・プリニウス」
「よろしく、メリー。ウィラ・ナイエルよ」

差し出された手に吸い寄せられるように近づくと、甘く悩ましい香りが私を包み込んだ。今ならば蝶の気持ちがわかる。天国のような匂いには、頭がくらくらしてもおかしくはない。

「ようこそ荘園へ」

幻のようなウィラの手を握る。天国の鍵があるならば、きっとこんな姿をしているのだろう。彼女とわかり合うことはもちろんきっと、ない。けれども――けれども、もしかしたら。

しっとりとした甘さをもう一度吸い込んで、私は蜜の道へと踏み出した。


〆.