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雷倒


 その日は雷がわんさと降って、まるで鉄鍋の中に石を入れて炒ったような音が一晩中していた。当然ながら住人たちはなかなか寝付かれず、翌日は口を開けば眠いと昨日の雷は酷かったのふたつを繰り返し話したのだった。

屋根に穴が空いたという家もあり、火事にならなかったことを心の底から寿ぐなどする。雷に打たれて死んだ人間がいなかったことへの祝辞はすなわち、罪人がいない潔白な家であることの証明でもあった。雷――雷公は隠れた罪人を穿ち、罰するのだという。与太ではないか。

 謝必安は鼻白み、門前を掃き清めることに専念した。雷だけでなく、昨晩は風も強く吹き荒れていた。あらゆる軽はずみなものが舞い踊り、疲れ切った果てに地面で息絶えている。やることはいくらでもあった。

「謝必安、謝必安!昨日はすごかったなあ。無事だったか?」
「残念ですが、見ての通り何も起きませんでしたよ」

通りを挟んだ向かいの門が開いて、くりくりとした目と太い眉毛が目立つ少年が顔を覗かせる。五体満足な幼馴染・范無咎の出現に、謝必安は自分が心のどこかで彼の安否を心配していたことに気づいてハッとした。范無咎ほど善良な、どこに出ても恥じぬ、堂々とした人物はいないだろう。彼が罪を隠すなどあり得ないのだ。懸念は無用である。

 何か非日常は潜んでいはすまいかと目を凝らしていた范無咎は、ニッと笑って通りを渡ってきた。どうも門扉が壊れかけているように見受けられるが、彼の家は気にも止めてはいないらしい。本質さえ掴んでいれば十分だと豪放磊落に笑う謝必安の父親と、范無咎の気が合うのも無理からぬ話である。

「うん。大丈夫そうだな。謝必安なら無事だってわかっていたけれども、心配で」
「わかりませんよ?あなたの知らないこともあるでしょうし」

子供騙しの話を信じる范無咎への愛しさを滲ませながら、謝必安は意味ありげに目を逸らしてみせた。この少年には、ついつい揶揄いたくなるような稚気が掻き立てられる。唇を噛む様子に、何を想像しているのかと頬を緩めてしまうのは些か趣味が悪いだろうか。頬の緩みを見てとったか、范無咎の顔から見る間に雲が吹き飛んだ。

「物騒なことを言うなよ。趣味が悪いぞ」
「すみません」
「全く。……もし本当にお前が罪人だったら、どうしようかと」

どうやら深く悩んでしまったらしい。いかにも純朴な幼馴染に相応しい悩みである。申し訳なさが募るも、好奇心が溢れ出すのを止められず、謝必安は箒を門扉に立てかけた。

「私が罪を犯したら、どうするつもりですか、范無咎」
「理由を聞く」

思いもよらぬ返答に、謝必安は目を瞬かせた。同時に、彼らしい答えだと腑に落ちる。こと勉学においては、じっと座って含蓄あふれる言葉に耳を傾けるに集中力を欠くとの評判がある少年だが、情に厚い。故に大事にしたいと考える相手には、例え相手が立板に水の如く話そうとも黙って耳を貸すのである。謝必安はさほど言葉数が多い方ではないが、彼が老婆に対して半日にも渡って昔話を聞いていたのは目にしたことがあった。

 范無咎が続けた台詞は、若年であるためもっと拙いが、要約すればこの通りだ。当たり前のようにして謝必安を大事に思っている。よって行動の理由を問い、是非を考え、きっと彼は正しいからこそ罪を犯したのだと判断するだろう。

「謝必安が雷に打たれそうになったら、俺が打たれて雷公を罰してもらう」
「過激ですね」

雷公は、落とす相手を間違えれば罰を与えられるのだという。熱烈な情の発露に、謝必安は掌の裏にじんわりと汗をかいていた。

「それでもお前が間違っていたら」
「間違っていたら?」

ごくりと思わず唾を飲み込む。うんと唸った范無咎は、ずいと天を指さした。

「俺が雷公になってお前に罰を下す」
「おお怖い」
「本気で言っているんだぞ。まあ、生まれ変わるなら雷が良いとは元々思ってたけどな」

死ぬとは穏やかではない。が、これまた謝必安を和ませるには十分だった。つくづく范無咎という存在は、自分の凝り固まった部位を和らげる作用を持っている。

「きっと范無咎の雷は、大きくて眩しいんでしょうね」
「それに囂々と鳴るんだ。どこに居たって、俺が来たとわかるだろう?そうすればいつでもお前に会えるしな」
「……どんなに深く眠っていても、急いで起きますよ」
「そうしてくれ」

一際派手な音を立てるから、と少年は笑う。向かいの門扉から、彼の母親が呼びかけるまで、二人はそうしてじゃれあった。




 今日もまた、雷は激しい。ただ違うのは、この激しさを共有する相手が不在であることだ。夜半過ぎ、じっと叢に潜んだ謝必安は何一つ恐れずに耳を澄ませていた。闇も雨も雷も、全て好都合である。準備は十全とは言わずとも、罪を犯すには十分だろう。

 三日前、一人の男が死刑の憂き目に遭った。正確には刑場に行く途中で増水した川に飲み込まれて命を落とした。罪らしい罪のない、まっさらにして真っ直ぐな男の名前は范無咎という。長雨は嘆き足りないとでも言うように今日も続いている。謝必安の胸の内は、さながら暴風雨のように荒れ狂った。

「罪がないとはあなたのことだ、范無咎」

そして自分もまた潔白であった。間違っていたのは、あらぬ罪で謝必安を糾弾した者たちだろう。本当の罪人を知りつつも、適当な人間に平然と擦りつけた人間たちは、范無咎が自分こそが罪人だと名乗り出ても頓着しなかった。与太である。真面目に捉えるだけ無駄なのだ。

 無論、謝必安は懊悩した。自分こそはと主張しても通らず、范無咎は謝必安を出し抜く形で刑場へと向かってしまう。なんとか真犯人の首級を上げようと奔走しても、大樹に向かってゆくには心許ない。范無咎は謝必安を庇って雷に当たった。

 今更犯人がわかってなんとしよう。会おうにも、范無咎には二度と会えないのだ。だが、呆然とした謝必安に救いを差し伸べてくれたのもまた、范無咎だった。彼はいつか言っていたではないか。雷公となって自分を裁いてくれるのだと。さんざめく雷たちの中で唯一過たず謝必安を穿つのは彼でしかあり得ない。

 腹が決まれば行動は素早く、謝必安は宿場近くであるこの街道を、かの真犯人たる貴人が馬車で通るとの情報を掴んだ。こうまで雨が激しいとなれば翌日に延期される可能性もあったが、待てば良いだけである。道には油と鉄菱を撒き、いく筋もの轍の跡には大きめの石もばら撒いた。馬車が倒れるにはこれで十分だろう。夜は深く、少しの足止めさえできれば謝必安に十分勝機があった。

「見ていてください」

雷に紛れて馬蹄の音が耳を打つ。涙のように雨は頬に落ちて流れ、謝必安は表情を消した。范無咎が雷となれば、自分は風になろう。雷公には風伯がつきものであるし、なんと言っても彼の背を押し頬を撫でるのは心地良い。大きく軋んで倒れた馬車を確認し、謝必安は闇より抜け出た。


〆.