BL NOVEL
  / HOME




花なんてなくて良い。


しおれた花


 握りしめた手のひらの熱さを知ったのは、一体いつだろう。恋はするものではなく、落ちるものだと歌った大衆劇を馬鹿にしていたクリーチャー・ピアソンが、恋は魔物だと思い知ったのはつい先日のことだった。ふと、抱えるようにして眺めていた大判の本から目をあげると、かちりと熱を帯びた眼差しにぶつかって慌てて元の位置に戻す。あの目が苦手だ。本の中では、咲き誇る寵姫が物慣れない青年に美しい椿の花を差し出している。この花がしおれる頃にはまた会おうと求愛者に約束するのだ。そんな風に誰かの愛を試せるのは、やはり娼婦と言えども絶世の美を誇るからだろう。愛される事を当たり前とする人間にしかできないわざだと鼻白むと、クリーチャーは今度こそ本を閉じた。セルヴェ・ル・ロイに淑女へ迫るにはもう少し優雅であるべきだと渡された参考書だが、あまりにも自分とかけ離れている。

「読書はもう終わり?ね、チェイスの練習に付き合ってよ」
「サベダー君。君はもう私と練習する必要はないだろう。たまにはトレイシーやヘレナに稽古をつけてやったらどうだ?」

すげなく返せばいそいそと近づいてきた、熱い眼差しの主ーーナワーブ・サベダーの笑顔が見る間にしぼむ。捨てられた子犬のような様子にほだされかけるが、クリーチャーはぐっと腹に力を込めて振り切った。この青年は子犬などではけしてない。油断したならば食いちぎられる狼のような男なのだ。あと二歩で触れられそうになる距離をなんとか保とうと威嚇するも、ナワーブはどこか嬉しそうで腹立たしい。大体自分にまとわりついて何の益があるというのだろう。こんな意味不明なことに惑わされる暇があったならば、庭でエマ・ウッズにちょっかいを出しに行きたい。本を棚に戻すと、クリーチャーはついてくるなよと念に念を押して図書室を出た。熱はまだ背中を追いかけている。

 愛とは移ろいやすい、熱病のようなものだ。人の気持ちなんて信じるだけ無駄だと、クリーチャーは確信している。流石に長く生きているのだから、いい加減自分は学ばねばなるまい。物理的なものは目に見えるし、自分の手元に置いておけるので安心だ。気持ちをくれるというならばもらうが、お返しを望まれるとなれば話は別である。自分の気持ちを捧げることは、信念がなければ難しい。例えば、エマ・ウッズに安心と安寧を与えるために、自分こそがふさわしいと知らしめてやるといったことだ。このドン・キホーテ的な滑稽な試みについては、当のエマから拒絶され、互いの後ろ暗さを知るエミリー・ダイアーに阻まれ、いっかな成就しそうにない。やはり目に見えないからだ、とクリーチャーは結論づけていた。だが、もし目に見えたものが腐った花ならば、やはり一顧だにされないだろう。

 ナワーブの心は目に見えないが、顔にはよく表れている。まるで昼日中に見る太陽のように眩しく輝いていて、なぜだかいつだって嬉しそうだ。出会った当初はそんなふうではなかったと記憶しているが、だんだんと打ち解けた青年が晒した素顔は多くの人に受け入れられるものだった。羨ましいと、素直に思う。そんな風にできるのは椿姫と同じで、見えるものが美しいからだ。腐ったものには腐ったものしか咲かない。だから、クリーチャーに付きまとってくるナワーブは理解不能でーー恐ろしささえあった。

「やっば」
「は?」

彗星が落ちたのは十日は前のこと、ゲームで隣り合って隠れた時だった。軍需工場で互いの顔を確認したと同時に目に入った写真機に、無言で物陰に隠れたのである。もはや暗黙の了解で動けるほどにクリーチャーとナワーブは行動をともにしていた。静かに隣り合って息をひそめる。まだかまだかと思いながらナワーブに振り返った瞬間ーーす、と二人の影が重なった。柔らかで、少しカサついた感触はするりと離れたのだけれども、まるで永遠が引き伸ばされたように感じられた。その上、ちょうど二人が重なり合った時に撮影されたものだから気恥ずかしくて仕方がない。いやいや気恥ずかしいどころか余りにも謎めいた事故だった。

「おい」

小さな声で理由を問いただそうとしたが、ナワーブはとうに写真世界の中である。まずはゲームだ。唇に指を這わせて、クリーチャーは改めて先ほどの行為を思い返して小首を傾げた。何故、ナワーブは口付けてきたのだろう。気持ち悪さというよりも純粋な疑問ばかりを弾けさせて、その後のゲームの内容は今ひとつだった。調子が悪いのかと一緒に出かけたヘレナ・アダムスに尋ねられたが、クリーチャーにはなんとも答えようがない。無事に館に戻り、そそくさと逃げ出そうとした青年を捕まえたのはそれから二時間は後のことだった。

「ごめん、もっと段階を踏んでからやろうと思ってたんだけど、すぐそばにいたからつい」
「……すまない、私にもわかる言葉で説明してくれ」

あまりにも言葉足らずの話を始めるナワーブは罪悪感でいっぱいで、そのくせ嬉しくてたまりませんという様子でクリーチャーを見つめてくる。そっと手を握り締めてきたナワーブの手がやたらと熱い。ぞくりと背筋を震わせながら、クリーチャーはようやく二人の距離が近すぎることに気がついた。おまけにここは洗濯室で、他の誰かが近づくことは当面ない。何を生娘のようなことを考えているのかと我ながら頭を抱えるも、クリーチャーの脳裏には警戒警報がわんわんと鳴り響いている。

「ピアソンさん、俺さ、」
「待った」

恐ろしい言葉を聞く前に、クリーチャーは慌てて制止の声を上げた。ついでに逃げ出したかったのだが、ナワーブの手が思いのほか強く握り締めてくるので難しい。せめてもと腕を突っ張って後ろに身をそらせるも、ただくすくすと笑われるだけだった。思えば相手は傭兵上がり、こちらは泥棒なのであって腕力の差は歴然としている。だがこんなところで諦めるものかと、クリーチャーは歯軋りしてもがいた。さして短くはない人生の中で、これほど危機感を抱いたのは片目を失って以来のことである。少しでも処刑の時を伸ばすべく努力するも、羽虫がもがくように頼りない。熱が近くで、音を放つ。

「あんたのことが好きなんだ」

そうして全てが狂い始めた。一度言ってしまったものは堰を切ってなだれ込み、ナワーブの心は言葉に変わってクリーチャーを襲った。最初はかき乱され、いらつき、頼むからやめて欲しいと懇願してもなおナワーブの態度は変わることがなかった。おかげで今では荘園に住み暮らす多くの人間がナワーブの気持ちとやらに感づいている。中には勘違いをして二人でいられるようにととりはからう(勘違いではなくエミリーは都合よく解釈して仕向けてきた、忌々しい話だ)者もいるくらいだ。誰がクリーチャーの気持ちを汲んでくれるのだろう?拒絶こそしていないものの、クリーチャーはナワーブの気持ちを受け入れていないのだ。

 さて振り返ってみると、辿ってきた道のりで誰かに慕われるという経験はポツポツと存在する。経営した孤児院では無垢な子供たちが生き延びる手段を与えたクリーチャーを慕ったものだ。時に人はそれを偽善と呼ぶ。違う、これは慈善だ、他人を生かそうとするだなんてとんでもない愛じゃないかとクリーチャーは両手を振りかざして述べ立てた。子供たちは何かおさまらないものもあったかもしれない。しかし自分自身の力で立てず、誰かに立たせてもらったのであれば、立ててくれた相手に従うことが道理だ、そうだろう?

  しかし、である。クリーチャーがナワーブに与えたものはなんだろうか。せいぜいおやつや軽食の類で、あとは洗濯を手伝ったりであるとか、要するに生活の助け合いに他ならない。ゲームで連携を図るのは他の人間も同じで、クリーチャーを特別視する理由はなかった。おまけに恋愛の対象として遊ぶ相手を選ぶならば、もっと相応しい人間が多く存在する。まだ、ナワーブがエマに言いよる方がよほど理解できた。納得のできる理由があれば良いのか、と問いただされたならば困るが。

図書室から出た廊下の近くには張り出した大きな窓があり、ちょっとしたロマンチックな光景を提示してくれる。ここで、ナワーブは待ち構えて遊ぼうと声をかけてきた。角を曲がった先の階段では、手すりにもたれかかったナワーブが、イソップ・カールとの会話を中断して投げキスをし、しっしと追い払ったことが記憶に新しい。カーテンの後ろにわかりやすく隠れていたこと、扉の向こうで気まずそうに佇んでいたこと、ホイストを遊んでいたらやり方を教えてくれとねだってきたこと、この館の隅々にまでナワーブの存在が行き渡っていた。とうに諦めたのか、今クリーチャーの背中はさっぱりとしているものの、どこか気になってしまう。四六時中構われたならば、当たり前のものとして受け入れるのだろうか。

かつて自分が痛みや苦しみに慣れたように、優しさや愛しさを当たり前と感じたならばひどく恐ろしい。それは禁忌であって、クリーチャーの将来を脅かしていた。だって、幻なのだ。あれほど愛を捧げられていた椿姫でさえ、どこかで疑っていたのは、やはり見えないからだろう。そして変わりうるものだからだ。花はいつかしおれる。そして変われなかったものだけがただ、何もなくなってしまった穴を眺める羽目になる。椿姫は愛を試すことができるが、クリーチャーにはその手段がない。椿の花を握ることなどできやしないのだ。

  中庭に出れば、白いジャスミンの花が芳しい香りを放っていた。囁き声のように小さな花が、こんなにも主張するとは驚くに値する。夜、目が見えない状態でさえ、そこにあるのだとわかるだろう。今、自分が目を瞑ればーー思い出に押しつぶされそうになってクリーチャーは思考を押しとどめた。深く息を吸う。花の香りが肺に満ちて、まるで自分の体の中に庭がやってきたような心地になった。もし、この肺に花が咲いたならエマは手入れをしてくれるだろうか。ゾッとするような想像を振り払うと、クリーチャーは噴水で水浴びを楽しむ黄金のカエルの頭を撫でた。悪趣味だが、金色に輝くあからさまな貨幣価値は好ましい。どうにか分断して持ち帰れないかとも思う。手のひらについた水をシャツの裾で拭うと、ぐるりを見渡す。庭の主人も手入れをする人間も、花を見る人間さえもいない。椿の花が笑っている。誰にも見られずとも咲く花々の美しさを、クリーチャーは呪わしくも好ましくも思って手を伸ばした。




 クリーチャーの背中を渋々ながら見送った後、ナワーブは深くため息をついて彼の座っていた椅子に座った。まだほのかに温もりがある。ふかふかとした椅子にどんな風に座っていたかを思い出すだけで胸がいっぱいになるだなんて、イライ・クラークあたりが知ったならば目を丸くして舌を出すだろう。ナワーブだって、これが変態的な想いであることくらいは重々承知しているのだ。それでもやめられないのは、止められないのは好きという気持ちが溢れてしまっているからだと言わせて欲しい。立ち上がって棚に戻された本を抜き出すと、再び椅子に腰掛ける。クリーチャーが読んでいた本で、彼と読書はひどく不釣り合いだった。

胡散臭く、挙動不審で、嫌な咳をする粗暴な男と聞けば、誰もがそんな男を愛する人間などいないと言うだろう。しかし同時にその人は優しく、不器用で、感情が高ぶると吃音が出る男でもあるのだ。二つのかけ離れた要素を持ち合わせたクリーチャー・ピアソンという男の横顔を、いつしかナワーブは神々しい絵を見ているような心地で見るようになっている。荒削りの彫像に覗く温もりに触れて確かめるように、少しずつ剥がして楽しむようにして愛しさを寄せる。形を持った心は欲望に変わり、彼の全てを自分で埋め尽くしたくて仕方なくなった。だから、彼がこの本で何を感じたのかももちろん知りたい。ページをめくり、ナワーブは自分にとってやや難しい単語が多いと顔をしかめた。思えば自分と本というのも不釣合いで、ましてや外国の言葉となれば難解であるのもまた道理である。

「なんて書いてあるんだろう」

幸い、挿絵がちらほらとあるおかげで中心となる登場人物と概ねの筋書きはわかった。美しい女と若い男の燃え上がるような恋と、別れである。再び巡り会うことなくして女は先に逝き、男は呆然として小さな日記帳のようなものをめくる、そんな話だ。きっと思い出か女の気持ちが綴られたものだなと思う。同時に陳腐な話だとも。愛しているならば、別れなければいいのだ。恋しているのならば、諦めずに壁を打破すべきだと、ナワーブならば行動する。わかりやすくて簡単で、どれほどマイク・モートンにからかわれようとも当たっては砕ける理由は気持ちのまま、まっすぐであるためだ。まるで蝿を追い払うようにしてクリーチャーはすげなく断り、やめてくれと言う。肩を落としてしまうが、決して拒絶はしない彼の表情を見ればまた挑もうという気が起きるのだ。まるで、どうか確かめさせて欲しいというような、欲しいものを欲しいと言えずに我慢した子供のような表情である。あんな顔をする大人を、ナワーブは他に知らない。そして与えられるのはきっと自分だけだという確信があった。

美しい花の絵が描かれた表紙を撫でて、ナワーブはしばし記憶とにらめっこをした。この花は見かけたことがある。どこで?そう、庭でだ。一体この花はどんな役割を果たすのだろうか。ワクワクするような心地で本を抱えると、ナワーブは本を知る人の元へと向かった。

「それで君はここに来たわけだ。君らしいね」
「読んでくれないの?フランクさん」
「もちろん読むとも。本当はクリーチャーが読んであげられたらいいんだろうけれどね」

ナワーブが本を手渡したのは、いつでも本を抱えるカート・フランクだった。本当は冒険家であって、作家や読書家というわけではないのだが、彼自身が一種の物語のようなものだ。その身に詰まった冒険譚の数々は、少々眉唾もので面白い。時折カートのお話会とでも呼ぶべき座が設けられる時にはナワーブもしばしば参加していた。故郷で長老たちが話す話と同じで、血肉が通った話はいつでも胸踊らせるものである。かいつまんでナワーブが語った理由はカートを満足させるものだったらしく、快くページをめくった冒険家はその柔らかな声で物語を紐解いて見せた。

  椿姫という女性と、それを慕ったうら若い男性の物語は概ねナワーブが挿絵から想像した通りであったが、細部まで知るとなると厚みが変わる。正直なところ、この話のどこが面白いかはさっぱりわからなかった。好いた人のためを思って去ったが、結局は双方を傷つける結果に終わった話の何が美談だろう?おまけに死んでしまっては語る口さえ持たない。クリーチャーは何を楽しく思うのか。顔をしかめたナワーブを見遣ってか、カートは呪いを解くかのごとくこの本はセルヴェがクリーチャーに勧めていたのを見たよ、と苦笑した。

「多分、エマちゃんにしつこく言い寄りすぎるから釘を刺すつもりだったんだと思うよ。好きならば相手のことを考えてみたらってさーー本当に心が通い合っているなら、たとえ距離を置いたとしても、再びくっつくこともあるだろうからね。もっとも、エマちゃんは何を考えているかわからないから、僕は本当にただ疎遠になるような気がするな」
「なるほどね」

それは非常に耳の痛い話だった。ナワーブだって、クリーチャーにはのべつ幕なしに接し、アピールし、誘いかけている。暴力や脅迫には及ばないまでも、固執して追い駆ける様はクリーチャーと同じだと指をさされても不思議ではない。赤いものを見たら飛びかかっていく牛のように、クリーチャーを見たら追い求めてしまうのだ。もちろん、クリーチャーもどこかで自分を求めているという確信あってのことだが、全てナワーブの幻想だったならば泥の中でもがくことと同じで徒労に終わる。背筋がゾクりと震える。彼は本当にナワーブを求めているのか。知りたい。

「本当にね。でもきっと、あの人はわからないんだーーわかりたくないんだよ」
「希望はあると思っているうちが希望だものね」

預言者めいたカートのセリフが胸に突き刺さる。カートもどこかで希望の光を見、失ったのかもしれなかった。語られる冒険譚の数々は輝かしいが、虚実入り混じる中で隠された真実をナワーブは知る由もない。その奥底に触れるにはあまりにも二人は遠かった。海の底は暗く、光が届かないように、だからこそ許される安らぎがある。その海はまたナワーブの中にも広く横たわっていた。

「またおいで」
「ありがとう」

賢人を後にしてナワーブは再び本を閉じた。表紙に咲く椿の花を撫でる。この花がしおれる頃に、お会いしましょう。




 ひどくさっぱりとしている。ここ数日クリーチャーは自分を取り巻く環境の何かが変わっていることに不調をきたしていた。まず、朝起きてからの目覚めの流れが緩やかになった。ひどく間延びしたように時間が過ぎゆく。そのせいでゲーム中もどこか緊張感が緩んで無駄な動きをしてしまった。エマに訴えかけることにさえ熱がこもっていないのは、多分忌々しいあの本のせいだろう。好いているならば身を引くことも大事だとセルヴェが指摘しているのは間違いなかったが、引いてしまったらどこに行けばいいかをクリーチャーは知らなかった。身の置き場なんてどこにもない、ここに来る前の穴が空いてスカスカになった自分に再び向き合う自信はまだ不足している。

「痛っ」
「大丈夫?うわ、血が出てるよ。待ってて、救急キット持ってくる」
「すまない、トレイシー」

考え事をしていたわけでもないのに、手元が狂ってじゃがいもの皮ではなくクリーチャーの指の皮がべろりと綺麗にめくれた。傷が浅くて何よりで、水道の蛇口をひねって水を出して血を流す。赤はだんだんと流しの中で薄くなり、水と交わっていった。まるで今の自分のような不確かな存在に思われて、慌てて医務室に出かけたトレイシー・レズニックが戻ってくるまでそうしてぼうっとしていた。どうしてこんなにもさっぱりとした、糸が切れた凧のようにふわふわしているのかをクリーチャーは薄々感づいていた。ナワーブだ。

「珍しいね。手元なんて見なくたって、今まで一度も失敗したことなんてなかったのに……何か心配事でもあるの?僕でいいならいつでも聞くよ」
「心配事なんてないさ。ないから困るんだ」
「あは、難しいことを言うんだね。本当におかしいよ。ね、もう後はパトリシアと僕でやるから、ピアソンさんは休んでて」
「これくらいできるさ、」
「僕にも心配させてよ」

あなただって僕を心配してくれたんだ、とトレイシーが畳み掛けた瞬間クリーチャーは目を見開いた。自分が?ただ必要性に裏打ちされた慈善行為に対する無垢な気持ちが胸に痛い。応急処置をされた指を撫でると、クリーチャーはまごつきながらも頷いて厨房を後にした。入れ替わるようにしてパトリシア・ドーヴァルが現れる。彼女の手料理はなかなか美味しく、母の味なのだと照れ臭そうに話していたことを思い出した。トレイシーはいささか不安なところがあるものの、二人揃えばきっといい食事ができるだろう。心配なんて、ないのだ。

 夕食時が近づいている館は黄昏て、黄金と青とが入りじまった紫の影を帯びる。廊下に人の気配はなく、実にさっぱりとしていた。館がこんなにも広いことを今更のように感じて首をひねる。確かに自分はここに来た当初、まるで何年も人が住まなくなった、死んだ建物のようだと思ったはずだった。それがあれよあれよと言う間に仲間が増えていき、今や館は一つの小さな村のごとく賑わいを見せている。物理的に埋まった以上に、館の隅々が生きていることを感じさせた。だと言うのにこの静けさは何だろう。自分が感じるスカスカとした虚はどこからくるのかーー階段の手すりをぎゅっと握ってクリーチャーは自分を叱咤した。これ以上考えるだけ無駄だ。

あれほど、自分の周りを飛び交っていたツバメのような青年はいつしか姿を消していた。この館にはまだいるし、朝も、昼も、夜も、会おうと思えばいつだって会える。ただ、以前のようには近しくもなく、あの熱さは病だったかのように感じられない。結局自分が弄ばれただけだったのか?

「……ナワーブ」

彼の前では一度として呼ばなかった名前を口にすると、如何しようも無い重たい空気がクリーチャーの胸を締め付けた。泳ぎの中で息継ぎに失敗したようになんどもゲホゴホとひどい咳を繰り返すも、苦しさは癒されなかった。思えば、名前を呼ばないのは彼だけなのだ。クリーチャーは親しみを持たせる目的で敢えて皆の名前の方を呼ぶようにしているのだが、自然と距離を置いてかナワーブは頑なに苗字で呼んでいた。それをどこか寂しそうに耳にする表情が好きではなかったが、気恥ずかしさの方が優ったのである。それほど慎重に遠ざけていた自分が何を今更求めよう?ナワーブが姿を見せず、自分に求愛するそぶりを見せないことに苛立ちを覚えるような権利はどこにもない。約束も、試すことも、クリーチャーには最初からもぎ取られた権利だ。だからこそ得たいものは自分で手に入れてきたし、最初から欲しくなかったのだと次善のものへと切り替えることだって容易い。

「はは、バカだな」

まるで最初から彼を欲しがっていたような思考の道筋にヘドが出る。愛は失われるもので、人の心は移ろいやすい、だからこそ彼を遠ざけて、当たり前のものだと思わないようにしてきたはずがなんと愚かか。手に入れる前に失った気持ちになるだなんて無駄でしかない。もし自分の心が目に見えたらば、この指のように表皮が剥けて熱い血が流れるだろう。そして日常の中で薄まっていく。痛いのは今だけだ。ふらふらと当て所なく動かした足はいつしか庭へとクリーチャーを導いていたらしく、気づけばあのむせかえるようなジャスミンの香りに包まれていた。その向こうに、星のようにして白い椿の花が踊る。初めて見た時のように花に手を触れると、まるで首が落ちるようにしてぼとりと丸のまま地面に花は墜落した。ひゃらひゃらと笑い声が聞こえたのは気のせいだろう。落ちた花を拾って弄ぶと、クリーチャーは戯れに手のひらの上に乗せた。収まりの良いこの花を、かの貴人は試金石に利用したのだ。

「その花、俺に頂戴」
「っ」

唐突に響いた声に振り向けば、庭の戸口に久方ぶりの姿が佇んでいた。ナワーブがそこにいる、たったそれだけで空気は質量を持ち世界は埋まる。そんな風に自分を変えてしまった青年が恨めしく、クリーチャーはモゴモゴと口の中で言葉を弄んだ。詰れば良いのか縋れば良いのかわからない。近づいてきたナワーブがす、と跪いてクリーチャーを請うように見上げてくる。瞳の熱で溶けてしまいそうだった。ガーゼに包んだ指先をナワーブがそっと撫でる。掌が熱い。

「頂戴よ」

花だけで良いのか。本当は何が欲しいのかを言って欲しいと願う自分が嫌だった。掌の上に包んだ椿の花を握りしめてぐしゃぐしゃにしたら、気が済むような、もっとめちゃくちゃになって狂ってしまうような残酷な気持ちでいっぱいになる。一度離れていたものが戻ってくる奇跡などクリーチャーは知らない。ぎゅ、と花を握るとナワーブの顔が苦痛で歪む。少しだけ溜飲を下げて、クリーチャーは身をかがめた。

「え?」
「これでおあいこだ」

ふわりと掠め取った唇はいつぞやよりも鮮明で、かさついた感触はいつまでも残った。あっけにとられたナワーブの頭の上に置いた花はくしゃくしゃになって、既にしおれた花のようにも見える。他に言葉を思いつけなくて笑っていると、バネのように弾けたナワーブの腕がクリーチャーをがんじがらめにした。全く恋は魔物だ、身が焼けるほどの熱ささえ嬉しく感じてしまうなんて!

「なんであんたはーーずるいよ、俺なんて我慢できなくなったのに」
「君にそんなことができるだなんて意外だな」
「俺は忍耐強いのが売りなの。知ってるでしょ?」

好きだよ、という言葉に乗った音で心が見えるならば、自分はどこまでも信じられるだろう。胸に響く音は紛れもなく本物で、クリーチャーは今、世界中の花がしおれて枯れてしまえば良いとさえ思った。そうすればずっとそばに居られる。ナワーブのギザギザに歪んだ唇の端を指でなぞると、クリーチャーはそっと囁き声を流し込んだ。

〆.


あとがき>>
 長めに書くのは久々〜で、好きなテーマの椿姫を持ってきました。華々しさの中に漂う虚ろさや、見えないものを確かめ合うようなやり取りが好きです。(いつもの)椿姫と違って、傭兵と泥棒は一度手に入れたならばどこまでも手放さずに頑張ろうとしていたら良いなあと思いながら書いていました。

最後まで読んでくださり、ありがとうございます!