バター溶ける夜
無知は、弱さだ。世の中仕組みを知って利用する人間の方が有利にできている。例えば法律や商売なんてものはまさにそうだ。だからこそ小利口にも機転をきかせて凌いできたものの、やはり補いきれないものはある。それをクリーチャー・ピアソンが自覚したのは、もはや手遅れの時だった。失敗も後悔も結末でしかない。
「ピアソンさんは、最近はあんまり怖くないの」
バナナケーキをつつきながら、意中の少女――エマ・ウッズの発した言葉に、クリーチャーは小首を傾げた。一体何の話だろう。場所はサンルーム、このところは穏やかにエマとお目付のエミリー・ダイアー、そしておまけのいく人かでアフタヌーンティーを楽しむ頃である。今日のおまけは終始黙するヴィクター・グランツで、妙に気を使わなくてよい点はクリーチャーのお気に入りだった。もし万が一利用するならば、こうした人畜無害で左右しやすい人間から手にかけるべきだろう。自分は他人に足をすくわれるほどぼんやりとしてはいないが、心を寄せるエマに対しては実に紳士的に対応してきたはずだ。止むを得ず彼女に暴力をふるったのも、必要だったからこその手段であって目的ではない。エマが自分を恐れる理由に思い当たらず、クリーチャーは怪訝そうに片眉を上げた。
「そうね。落ち着いて良かったと思うわ」
「何の話だかさっぱりわからないな。私は私だ、変わりはないさ」
「花だって色を変えるなの」
さりげなく話を流そうとすれば、エマが食い下がる。彼女が自分に対して言葉を尽くすことは珍しい。少しでも多くその囀りを聞こうと、クリーチャーは仕方なしに耳を傾けた。視界の端で、ヴィクターがバナナケーキのお代わりをいそいそと取っている姿に自然と笑みが浮かぶ。今回のバナナケーキは、苦めのキャラメルでコーティングしているので程よい甘さに仕上がっていた。前回これでもかと甘くした反省だが、どうやら功を成したらしい。意識して変えたものが違った結果を生み出すのは当たり前の話であり、自分が状況を掌握できているという証拠だ。誰かの掌の上で踊らずに済む。一方で自分が理解せぬままに生じた変化となると調子を狂わされかねない。
「花が色を?初耳だな」
「花にだって住処はあるの。土も、水も、栄養も、太陽の光だって変われば変わるの」
「そうね、何か良い影響のあることがあったのは間違いないわ。ねえ、ヴィクター」
「はい」
短くも簡潔な返事に、クリーチャーは目を丸くした。良いこと?ゲームに勝ったと荘園の主人が宣言して賞金を降り注いでくれることか、エマが自分をようやく理解して受け入れることか、はたまた他に何があるというのだろう。ちなみに、こうしたクリーチャーが思いつく限りのいいことは一つも起きていないことだけは確かだった。
「まさか。私は『慈善家』だぞ?優しくて当然だ。君たちにようやくそれがわかっただけさ」
「なんでもいいけれどね」
トットッと滑らかな音を立ててエミリーが紅茶を注ぐ。横からヴィクターがさっと手渡すのはデミ・バーボン推薦のブランデーだ。当たり前のような顔をして紅茶に流しこむエミリーはさながら海賊船の船長のような貫禄があった。
「そのままでいてほしいものだわ」
これまたヴィクターが嬉しそうに頷く。まるでクリーチャーを祝福するかのような様子で、ひどく居心地が悪かった。一体何があったというのか、自分は分かっておらず他人にはわかるとは何という失態だろう。幸いなことに、理由はまだ判明していないらしい。ならば突き止め、この変化を続けるべきか、更に変えるべきか検討せなばならない。
「好きにするさ」
精一杯の捨てセリフを吐くと、クリーチャーは先ほどの花の話を思い浮かべた。花の色を変える要素としてエマがあげたのは、どれも周辺環境の話である。貧乏人が、にわかに大金を掴んで人柄そのものが変わったことや、その逆もまた幾度か見ていた身の上としては十二分に頷ける内容だった。何かを得るか、失うか、大概はその二つである。ならば自分は?
ヴィクターが最後にこの語らいの中で話したかったことを手紙に認め回覧させると、今日のお茶の時間は終了となった。手分けをして厨房で茶器を片付けるのも、最早習慣化された動きである。少し多めに焼きすぎたのか、余ってしまったバナナケーキを油紙に包むと、クリーチャーはちらりと壁の時計を見やった。夕飯までには時間があるが、おやつにはいささか遅い。幸にして日持ちはする菓子なので、夕食後にでも砂糖なしのホイップクリームを添えて誰ぞに食べさせよう。食器棚の隅に置こうとすると、不意に泥棒の影が忍び寄った。
「良い匂いがする!」
「こら、勝手に取ろうとするんじゃない」
するりと手をかわせば、現れ出たのは欠食児童その一のナワーブ・サベダーである。他にこの面子にはウィリアム・エリス、ノートン・キャンベル、トレイシー・レズニックなどが肩を並べる。徒党を組んで厨房に現れては去っていく様を、いつぞやパトリシア・ドーヴァルがイナゴと呼んでいた。時折全ての流れを読み切ったイライ・クラークがおこぼれを頂戴しに現れることも忘れてはならない。故に、エマたちとのアフタヌーンティー用とは別にいつも作り置きをしておく必要がある。本当はそんなことまでせずとも良いとわかっているのだが、孤児院時代の習い性で、作ってやれる時にはくれてやりたかった。何もないのに与えることはできないが、安住の地でしばしの喜びを得るのは互いの利益になることである。信頼は飴と鞭で築き上げられるのだ。
今回、彼らのためにはロックスコーンをたんまり用意して皿に盛ってある。クリームティーに相応しい、ミューズリーのザクザクとした食感にレーズンが甘く香る満腹の一品だ。どんな子供もこれで夕飯まで駄々をこねることを忘れて口を噤む。断じて盗みに入ろうと立ち寄る余裕はないはずなのだが――どうやらナワーブの胃袋は底無し沼であったらしい。仕方なしに包みを広げると、クリーチャーは目をキラキラと輝かせる青年に中身を見せてやった。
「バナナケーキだ。ウッズさんのために焼いたものだが、他の奴に内緒にするなら君にもあげよう」
「良いの?」
「夕飯を残すなよ」
「もちろん」
全部食べるに決まってるでしょ、と喜んでナワーブの手が躍る。一切れ摘んで恭しく一口。無言で二口、三口と続けば瞬く間に消え失せる。口に合ったのは間違いない。ヴィクターほどには難しくないものの、ナワーブもまた彼なりのこだわりを持っている。安堵すると、クリーチャーは明日は何を作ろうかとレシピ本を手に取った。花の話で、昔そばにいた小さな少女が欲しがった砂糖菓子のことを思い出したのだ。あれは確かバターケーキの上に載っていたような気がする。バターケーキはややもするとボソボソとしがちなので工夫せねばなるまい。それともマジパンあたりで手を打つか、とナワーブの方を見れば、もう今日の名残はどこにもなかった。いっぱい美味しく食べました!と思い切り顔に書いてあるようなナワーブの表情は幼く、どこか憎めない。単に彼がアジア人であるという事実からだけでなく、中から滲み出るあどけなさが原因だとクリーチャーは分析していた。言わば、クリーチャーにはない――本質的な育ちの良さが漂っている。紅茶の残りも飲みきると、簒奪者は満面の笑みで歓声をあげた。
「すっごく美味しかった!今日出てたあのビスケットみたいなやつも美味しかったけど、こっちはなんだか……もっと丁寧な感じがする」
「その違いがわかれば十分だ」
なかなかわかったような口を利く青年に思わず笑みが溢れる。そうだ、この菓子はエマを想って作ったのだから当然だ。大量生産の腹が膨れれば良い代物よりも一手間二手間多くかかっている。当のエマよりも喜ぶナワーブに、クリーチャーは皮肉なものだと唇を歪めた。本命よりもその余りをつまみ食いする人間の方がよほど味がわかる上に喜びも深い。そういえば前回バナナケーキを作った時もほんの少し残ってしまって、もったいないと横から取られたのだった。そんなに食べたいのであれば最初からお茶会に来れば良いというのに、妙なところで遠慮がちらしい。
茶会に他人が参加することについて、クリーチャーに否やはなかった。自分にはエマが必要で、エマには自分が必要だと思う。にも関わらず、二人でいる時に交わされるのは怒号と悲鳴と空中分解する音の連なりばかりで、タガが外れた時には物が壊れていた、だなんてしばしばだ。クリーチャーにだってこのやり口がまずいことくらいはわかる。エミリーが加わったが、この三角形はただ歪さを増すばかりだった。何しろエミリーは最初からエマに傾いているのだし、エマもまた同じように寄り添うのだから、明らかにクリーチャーが異物となる。だから、誰かが参加する必要があるのだ。当初は少しばかりだった菓子たちも数を増やし、カップも予備を増やした。知る人ぞ知る、ささやかな茶会かどうかは知らないが、穏やかな時間を過ごす日々が続いているところからして成功と言えるだろう。そうしていつか、自分はエマと向かい合ってあるべき場所にたどりつくのだ。
「次はさ、オレンジの奴が良いな。ほら、先週一緒に干したやつ。まだ食べてないよね?」
「目ざとい奴め。そうだな、そろそろ食べてもいいだろう」
レシピ本を閉じると、クリーチャーはアフタヌーンティーのメニューは明日考えることにした。そもそも明日明後日はエマとエミリーがゲームに出かけるため、のんびり茶をすする時間はない。ならば気分転換をするのも手だ。手伝いを申し出るナワーブとパントリーの棚を漁りながら、クリーチャーはフードを降ろした青年の顔をぼんやりと眺めた。パサついた紅茶色の髪が揺れる。以前はこんなにも無防備な背中など見る由もなかった。と、ナワーブがくるりとこちらを向いて不思議そうに首を傾げた。
「どうしたの?」
「いや、色男だなと思っただけさ」
「からかわないでってば」
「お、分かったか?」
「だってあんた、顔の綺麗汚いで人を判断しないでしょ。わかってるけど、好き嫌いで見ないっていうか」
これまた意外な言である。ナワーブが指摘する通り、確かにクリーチャーは他人の美醜を好みとしては眺めていない。どうせみんな皮で肉で骨で血だ。生き物にそれ以上の何があると言うのか。ただ、こうして改めて見れば見るほどナワーブの顔はすっきりとしていて整っていると知れて気分が良かった。最初は堅い殻に篭って誰もを拒絶し、目を合わせても死んだように感情のない色合いにどん底まで連れて行かれそうなほどに暗かったと言うのに、今はどうだろう?くるくると変わる表情は何よりも柔らかく、声は山で遠くにいる仲間に呼びかけたという程によく通って明るい。ちょっとわがままで、元気が有り余る生来の善さを思わせる男だと判明した時には誰しも戸惑ったのではないかと思う。
変わった、とはナワーブのような人間を指すのだ。花が開くように彼は変わった。『慈善家』の仮面よりもよほど確固たる優しさがエマに向けられていたらば葛藤もしたろうが、現時点でエマとナワーブに親密な接点はない。よって、クリーチャーにしてみれば安心して荘園生活を営み、ゲームに勝つための駒が増えたというのが所感だった。チョコレートを探し当てたナワーブの輝く顔にうなずいて見せると、クリーチャーは再び厨房へと舞い戻る。明日のお楽しみを増やすのだ。
あの人は随分変わった。罪な味のするチョコがけオレンジをウイスキーのロックと交互に楽しみながら、ナワーブはカウンターの向こう側を見やった。デミが作った簡易バーは今宵も大盛況で、バーカウンターにはくたびれた人々が一日の疲れを癒すべく止まり木に腰掛けている。出されるツマミはナッツやチップスと簡素なものが多い中、ナワーブだけはオランジェットを摘む。隣でマティーニをつるりと流し込んだウィラ・ナイエルから目だけで求められるも無視をする。これは自分にだけ与えられた特権なのだ。
オランジェットの出どころはあの人、ことクリーチャー・ピアソンである。出会った当初は信用ならない男として鼻白み、同時に軽んじて軽蔑さえしていたものだが、なかなかどうして、人とは面白い。今のクリーチャーはまるでバターが溶けてすっかり液体になったように、柔らかく人当たりが良く、『慈善活動』さえも本物らしく感じられる。胡散臭さや挙動不審さは残るものの、踏み込む場所を間違いさえしなければ付き合いやすい人間とさえ言える。今だって、トレイシーに頼まれて倉庫で部品探しをしているのだ。何が原因かはわからないが、こうして美味しいおこぼれに預かれるようになったのは望外の喜びである。明後日の方向を眺めてオランジェットをかじっていると、ウィラが今度こそ間合いを詰めて音を発した。
「一つ私にもくださらない?」
「断る」
すかさず拒めば、肩をすくめた淑女はカクテルグラスをカウンターに置くとするりと地面に降り立った。まるで鳥が飛び立つ支度をするような優雅で俊敏な仕草である。ゲームでは散々ハンターを翻弄するチェイス風景を思い起こさせ、ナワーブは目を細めて虚実を見分けようと試みた。彼女のお得意の幻戯にかかっては全て夢にされかねない。
「じゃ、いいわ。ピアソンさんが作ったのでしょう、もらいに行くわ」
「……少しだけなら」
「ありがとう」
なぜだか、クリーチャーが彼女に分け与える絵面は気に食わなかった。大方自分が食べきったのだから残りはないはずだが、万が一ということもある。おまけにいくらクリーチャーが気にしないとは言っても、ウィラの方が味をしめて近づくようなことだってありうるのだ。誰が何にどう興味を抱くのか知れたものではない。そこまで考え、ナワーブは小首を傾げた。自分もなかなか食い意地が張っている。今のクリーチャーならば、快く誰にでもせがまれるままに菓子を配りかねない。
慎重に選り分けてウィラに渡せば、嬉しそうに花の顔がほころぶ。本当に綺麗で、彼女が身に飾る花にもよく似ている。自分の好みではないのか、ナワーブがときめくことはなかったが、世間一般として好まれ受け入れられるだろうことくらいは理解できる。現に向こうに座るカヴィン・アユソがホセ・バーデンと席を交換してウィラの隣に収まろうと涙ぐましい努力をしている様が見える。一度酒に溺れたホセは簡単には引き下がらず、今日は笑い上戸らしくてよく笑い声がホールに響いた。
「美味しいわね。今度私もお願いしてみようかしら……あら、そんな顔をしたって駄目よ。あの人は別にあなたのものじゃないんだもの」
「深読みのしすぎだ」
そんなことは自明の理で、本当にナワーブには一切無関係の話である。クリーチャーがどこで何をしようか自分は何を思うと言うのだろう。それでもウィラがこうしてクリーチャーに興味を抱くとなればもやもやとしたものが胸に広がってゆく。グラスを揺らして、氷がゆっくりとウイスキーに交わってゆく様を眺める。ゆっくりだが確実に、この氷は酒に紛れてゆくのだ。当たり前のことだが何度見ても不思議な気持ちになる。
クリーチャーの変化が何によるものかはわからないが、この変化は溶けゆく氷のようにいつしか自然のものとして受け止められるだろう。最後の一滴まで飲み干し、おかわりを要求すると、デミがゆっくりと首を振る。今日はここまでにしておけという意味だ。強奪してまで飲んだくれたい気分でもないので、オランジェットを残りカスまで綺麗に平らげて今夜はお開きにするとしよう。
「あなたのものじゃないにせよ、居心地の良い場所は大事にしておいた方が良いわ。……忘れたくなったら、いつでも手伝ってあげる」
「今日のウィラは随分おしゃべりなんだな」
甘く響いた声に驚けば、ウィラのアルコールに溶けたらしい瞳の奥で底の見えない黒々としたものが渦巻くのがチラ見える。居心地の良い場所?何の話だ、と言うほどナワーブは洞察力に欠けていなかった。クリーチャーの側は確かに居心地が良い。気負わず、今こうしてウィラと話している時のように何かを勘繰る必要もさほどない。クリーチャー自体は単純明快からは程遠いため奇妙ではある。だからこそ貴重とも言えた。ウィラはどこかで失ったのだろうか。忘れたくて、けれども忘れ難い場所への憧憬を思い遣ってナワーブはよくわからぬ優しさにわかったと答えた。
酔いを覚ましがてら、ポーチに出て館のぐるりを歩き始める。ウィラはカヴィンに譲り、ホセとセルヴェ・ル・ロイのいかさまカードで遊ぼうと誘いかけも断った。今日はこれ以上、他人と過ごす時間は欲しくない。時に人は孤独である方が都合が良いこともあるのだ――思えばつい最近まではいらぬ面倒に難儀する世間に交わるよりも孤独の方が良いと考えていたことを思い出して、ナワーブは軽く目を見張った。自分自身の変化に気づいたのは戦場を去って以来である。
かつて、ナワーブは故郷で友人連中と馬鹿騒ぎをするのが好きだった。祭りではマリーゴールドをかき集めるのに必死だったし、市場に出れば誰を嫁に取ろうかと争った。小さな世界では何もかも持ちつ持たれつだったから、喜びも悲しみも他人と分かち合うことは呼吸をするように当たり前だったのである。戦場に赴いた際には随分と差別に面倒な思いこそすれども、自分の能力を最大限生かせる場所に滾る血に何もかも忘れて打ち込めた。余計なことさえなければ、多分ずっと人の側に居続けただろう。結論から言えば、戦場はナワーブに変化せざるを得ない状況を作ったのだ。それすら随分と忘れてしまっていて、今になって思い出すとは皮肉なものだ。荘園に来る前に思い出せていれば、迷わず故郷に向かったはずだが、帰らない理由を探すかのようにこの地獄にのこのこと赴いている。
そしてこの地獄はすっかり肌に馴染んでおり、居心地の良さはクリーチャーを筆頭にあげることができそうだった。ウィラの指摘は正しい。ウィリアムやイライ、あるいは寡黙ながらも力強いイソップ・カールとふざけ合うのも楽しいのだが、年近い彼らと擬似的な友情を織りなすよりも心安らかな時間を過ごせているのはクリーチャーの側にいる時だけだ。自分にとって、クリーチャーは何と呼ぶのが相応しいだろう。仲間と言うには不十分で、友達と言うには違和感がある。相棒と呼べるほどには頼りにするでなし、まさか母親ともなれば(この発想はもちろんクリーチャーに与えられる食べ物から来ている)間違いも甚だしい。
考え込んでいるうちにアルコールはすっかり体の中に溶け切って、夜気の冷たさばかりが肌を刺す。気づけば再びポーチに出ていたので、館をぐるりと一周し終えたのだろう。もう考え事は十分だ。ナワーブはあっさりとどうでも良い思考の泡を放り投げて、微睡の促すままに動いた。
何を得て、何を失ったのか。バナナケーキの翌日、クリーチャーは部屋の掃除をしながら未だ答えを見出せない自分の変化とやらを探っていた。まずは所持品に当たってみようというわけである。ぐちゃぐちゃであった所持品の山を並べて、棚に綺麗に並べる。この世で初めての自分のためだけに他人が用意した携帯品や衣装の数々は、見れば見るほどため息が溢れた。この箱庭でしか着れないものも多いが、即席の魔法はお気に入りである。中でも先導者なる名のつけられた装束は、宝石や金貨に塗れていてお好みだった。もし賞金を得られず苦杯を舐めるとしても、これらの品々を持ち帰れば将来の足しになるかもしれない。ちょいちょい道具箱から拝借してきた用具や機械部品もそれなりの値段で売れる算段だ。持ち帰るには大きな台車で一山ほどになるだろう。それほど多くのものを自分個人のものとするのは人生で初めてかもしれない。
が、この荘園では所持品の量など他の面々と同程度のものだ。余裕があるとしてもまやかしだと承知しているのだから、決定打に欠ける。充実した日々の生活、明日の食事や寝床を心配せずに済む日々は確かに大きいが、かつて一度は手にしたものでもある。第一、エマやエミリーの態度からして、荘園で過ごすようになってから大分時が進んでからの出来事であるらしい。
きっちりと点検を終え、失ったものはないと判断するとクリーチャーは小首を傾げた。驚くほど大量のものたちを棚に戻せば、まるで最初からそこにあったかのように収まりが良い。心もそんな風に把握し整理することができれば、余計な悩み事は大分減りそうだが、現実は実に歯痒い。次に考えるならば人間関係あたりか。エマにエミリー、フレディ・ライリー、もはや腐れ縁にして戦友にも近い(我ながら言い得て妙だ)面々以外はと言えば、欠食児童たちが懐いてきたことは大きな変化と言えるかもしれない。餌が欲しいとピィピィ啼く雛よろしく厨房をうろうろする存在は微笑ましかった。とりわけナワーブは具体的に何が食べたいかを強請るほどになっている。だんだんとクリーチャーの作る料理に関して微細な違いを理解しつつあるのは面白い変化だった。それほどまでにナワーブがクリーチャーに馴染んできたということだろう。
思えばエマ以外で誰かについてとくと考えることは初めてだった。オランジェットを作ったのは彼の労をねぎらう目的もあったものの、そもそも誰かのために何かすること自体が目的となることが珍しい。エマにケーキを焼くのは、彼女を安心させて近づくためだ。一方でナワーブにはただ食べさせてやりたくて作っている。ナワーブは十分に懐いてきているのだから、本来は無駄な手間である。クリーチャーは自分が気まぐれ以外で何か余計なことをするのを嫌っていた。
自分は何かナワーブに期待するものがあるのだろうか?今以上に得られるものなど考えつかない。荘園を出たらばさようならする相手だ、ゲームで役立ち、荘園での生活を潤滑にする目的は十分果たせている。現に、ウィリアムがどんなに強請っても今のところ受け付けてはいない。彼の能力は素晴らしいが、十二分に発揮される状況だと踏んでいる。ナワーブを贔屓する理由は何か?そう、贔屓だ。本棚にずらりと並んだ日記帳を手に取ると、クリーチャーは事細かに綴った日々を振り返る。ゲームの内容から食事や睡眠まで、あらゆる出来事が閉じ込められた一級資料だ。過去の自分の粗探しをすれば何かわかるかもしれない。
「なんだかなあ」
ある日のクリーチャーはナワーブがホットサンドを初めて知ったと書き綴り、次回はピーナッツバター&ジェリーサンドウィッチを作ってやろうと決意している。その計画は後日履行され、大層喜んでいたと上首尾に満足した旨書かれていた。エマ、エミリー、ヴィクター、実は食欲旺盛のカート・フランク、ナワーブ、ナワーブ、ナワーブ。自分はエマのことばかり考えていたはずなのに、数え上げれば日記におけるナワーブの登場回数がそろそろエマを超えそうだった。彼と出会ってからの期間を考えれば特筆すべき事項である。
エマに執着しすぎるからこそ、彼女との関係を上手くコントロールしきれていなかったことくらいはクリーチャーにも分かる。なるほど、どういう理屈かはわからないが自分の中でナワーブの存在が大きくなってきているらしい。妄執が程よく薄まったが故にエマに歓迎されるとは皮肉な話だ。それ以上遡るのは止め、クリーチャーは思考を放棄した。もう十分だ。自分は本来の目的から逸れようとしていて、今が修正する絶好の機会だろう。
「感謝するよ、サベダー君」
今の自分のままでいれば、エマは受け入れやすいと見た。気まぐれにかける余分なコストを切り上げ、今後は彼女に集中しよう。次のアフタヌーンティーは一段引き上げて豪勢にするのだ。クラブケーキにフリッター、耳を落としたキュウリのサンドウィッチ、スコーンにトリュフチョコにオレンジゼリー、今から仕込めば間違いなく最高の時間を提供できる。作りすぎないようにしよう、と心に決めてクリーチャーは部屋を出た。これで完璧だ。
時間だ。鳩時計よりも正確な体内時計に従い、ナワーブは自然と厨房に向かった。日課と言って良いほどに染み付いた動きで、気づいた時には洗い物の山に囲まれるクリーチャーの姿が目に入る。皿の多さからして、今日のエマとのお茶会は大盛況だったらしい。かしこまった席も、エマとクリーチャーとの間に流れる微妙な空気も苦手なために近付かないが、いつかはおこぼれではなく完全な形を口にしたいとは思う。そこまで強請るのも図々しすぎると頭で理解しているので恐らく叶う日は来るまい。クリーチャーが椅子に座り込んだまま手をつけてない姿に顔をしかめると、ナワーブは今日も徒労に終わった男に声をかけた。
「今日はたくさんだったんだね。洗うの手伝うよ」
「いや、一人でできるから良いんだ」
どこか苛々とした様子のクリーチャーは、顔も上げずにぼんやりとしている。お茶会で何かあったのだろう。何が?辺りを見回せば、空の皿よりも残ったものの方が余程多いと知れる。エマたちが残したのだとしたら、随分口がおごったものだ。あるいはとんでもない失敗作なのか、いずれにせよクリーチャーが望む形にはならなかったことだけは確かと言える。茫然自失の体のクリーチャーを他所目に、手付かずのサンドウィッチに手を伸ばせば、ぴしゃりと速やかに叩かれた。
「それは君の分じゃない」
「でも、残ったんでしょ。もったいないよ」
「君の分はないんだ」
空気が壊れた。彼の言葉は正しく、自分が出過ぎたことをナワーブはじわじわと理解してゾッとする。居心地の良さはどこへやら、このクリーチャーはナワーブがよく知る男ではない。結局、他人は他人なのだとナワーブは自分の甘えをせせら笑った。気遣わなくて良い?どこがだ。サンドウィッチよりも何よりも、今ここにあったはずの、あって欲しかった空気を求めて息を吸う。
「何があったのか、聞いても良い?」
「君に聞かせる話はない」
にべもなく跳ね除けられ、流石に唇がへの字に曲がる。同時にこんな無駄な時間は放り投げた方がましだと理性が訴えた。クリーチャーがナワーブを拒んでいて、自分も彼なんていなくて良いのだから、こだわる必要などどこにもない。視界の端で、宝石のようなオレンジゼリーが煌めく。自分だったらば、歓声を上げて迎え入れて、一つも残さないだろうになんだって塵芥のような扱いを受けたのかとお茶会の参加者に苛立ちが募った。自分は参加することなど、きっとないだろう貴重な場所が恨めしい。なんだってクリーチャーは蟻地獄の中を滑るように足掻くのだろう。振り向くことのない彼女たちに費やす全てをもしこちらに傾けてくれたなら――ハッとしてナワーブは思考を止めた。同情にしては行きすぎたジョークだ。
「……じゃあね」
返事もない。去り難い自分の気持ちを蹴り付けて、ナワーブは変わったのだと廊下で嘆いた。取り戻すには遅すぎる。掴み取るには程遠く、自分には何もかもがなかった。
「残しておけば良かったな」
気軽に受け入れて作ってもらったオランジェットが恋しい。記憶を味わうようにペロリと舌で唇を舐めるも、通り過ぎるのはひんやりとした空気ばかりだった。
作り過ぎてしまった。どっさりと残った奢侈の山に、クリーチャーは途方に暮れていた。作っている最中に薄々気づいたものの、最早引き返せないと作りきったのは完全なる過ちだ。アフタヌーンティーの支度をしようとテーブルに並べて、乗り切らなかった様に目を丸くした面々を思い出して頭を抱える。今日もエマにエミリー、そしてアンドリュー・クレスとフィオナ・ジルマンという神秘的な人々が加わって開かれたお茶会は盛況だった。あの厭世的な趣のあるアンドリューでさえも、このオレンジゼリーは絶品だと手放しで褒めそやしたし、フィオナはトリュフチョコに夢中で終始無言という珍しい風景が見られたくらいである。我ながら美味で非の打ちどころのない出来栄えで、会話もよく弾んだ。ただ、残ってしまった食べ物たちが静かにクリーチャーを追い詰めているだけの話である。
「誰のためなんだか」
すまないがもうお腹がはちきれそうだと謝られたところで、わかりきった筋書きなので然程気分に変化はない。動揺はアフタヌーンティーの前に始まっていたのだ。大成功はすっかり惨めさに取って代わり、皆の手伝いを断って一人厨房に戻ってもなお気分は沈鬱なままである。砂を噛むような時間が終わったことだけは確かだ。エマの笑顔も思い出せず、ただ作りすぎた自分という敗北感でいっぱいになる。今回の敗因は明確だ。自制できないほどに作りたいという気持ちが勝ったのだ。ものを知らなかった自分であっても薄々答えはわかりそうなもので、だが認めたくもなくもがく。こんなことならば知らないままの方がよほど良かった。
「今日はたくさんだったんだね。洗うの手伝うよ」
「いや、一人でできるから良いんだ」
ぼんやりとしているうちに、いつもの時間に突入したらしい。耳に馴染む声はナワーブのものだ。今となっては彼の顔を見るのも耐えられず、クリーチャーはとっさに拒めるだけ拒んだ。どれほど自分に良い効果を、それこそエマが喜ぶ変化をもたらした原因だとしても、これ以上は受け入れ難い。進むにはあまりにも多くの勇気が必要だった。気まずい空気が流れ、ナワーブの戸惑いが伝播する。どうかここで運命が引き裂かれますように。当たり前の日常が戻ってきますようにとクリーチャーは強く念じた。だと言うのにナワーブの指先は勝手知ったる様子でサンドウィッチに伸びる。可能性を潰すように叩き落とせば、パタンと力なくパンが一枚剥がれて中身がむき出しになった。しんなりとしたキュウリはまるで今の自分そのもののように惨めだ。
「それは君の分じゃない」
「でも、残ったんでしょ。もったいないよ」
「君の分はないんだ」
そうだ、多く作ったのはもちろんナワーブのためだ。だがそれが何になる?どうして彼に食べて欲しいのか、そんな風に変わってしまったのかだなんて余りにもわかりやすい。日記で紙幅を多く割いたことが正に事実を物語っている。ナワーブは何を考えているのだろう。並大抵の人間であれば面倒な気配を察して引き下がるところだ。誰だってそうするに決まっている。どうかそうしてくれ!
「何があったのか、聞いても良い?」
「君に聞かせる話はない」
食い下がる連中は皆碌でもない会話をもたらす。心配などしないで欲しい。もう関わらないで、この作りすぎた罪の山の中に放置して欲しかった。祈りが届いたのか、ナワーブはじゃあね、と呟くようにして厨房を出て行った。多分、彼は傷ついた顔をしているのだろう。嫌悪ではなく傷つくあたりは『今』のナワーブらしい。そうだ、彼も変わったのだとクリーチャーは苦笑した。一体誰のためなのかは知らないが。
「何だ、恨むなら地獄で罵っておいてくれ」
残骸たちをせせら笑って椅子から立ち上がる。嗚呼、なんて無駄!もしこれをナワーブが口にしたらどんなに喜んだだろう。その姿をどこかで思い浮かべながら作ったものたち。クリーチャーの気持ちを柔らかく、バターのように溶かした原因を憂いて、クリーチャーは小さく舌打ちした。こんな惨めさには耐えられない。
「サベダー君」
廊下に出て、声をだす。小さく、そして大きく。返されたのは声ではなく音で、たったと足音が近づいてくる。予想通りにむすくれた、ちょっと傷ついた青年の顔は、かえってクリーチャーを喜ばせた。
「……やっぱり、食べてくれないか」
「良いの?」
さてどうしようか、と迷うのも無駄な話だ。こほんと一つ咳払いし、クリーチャーは見えない手を差し伸べた。
「君は美味しそうに食べるからな」
まだ、全ては言えない。けれどもいただきますには十分なセリフで、ナワーブが満面に浮かべた笑みからも答えは明らかだ。もっと正しい言葉なら、この気持ちが馴染んだ夜にでもゆっくりと話すとしよう。
〆.
あとがき>>
Twitterタグ募集で、さがみさんよりいただいた『繋いだ手から』(ばっくなんばー)をイメージして書きました。変化した気持ちに気づかず、手放した時に気付いて後悔する切ない歌詞が印象的です。自分では気づかなかった変化を受け入れられないと思い、その上で手放そうとしたらば一層辛いのではないかと考えながら書いていました。ケーキになじんだバターのように、美味しい日々の一部になったら良いなあと願ってやみません。素敵なお題に感謝です。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!