商売人に腹の数を聞いちゃいけません、腹を探るのはお止しなさい、駄目ですって。
最高の勝負
ずるい、ずるくない、無理をしない、頑張らない、いいえ単に頑張りすぎない、それだけ。長く時間が経つうちに、身についたのは諦念と、肩の力を抜ききった現状に対する言い訳だった。三年目で自分の能力が頭打ちになったことを知った時から、どれほど努力したところで思うような報いはないのだと正しい理解をしている。そうであれば、矜持を守れる範囲で留めて置く方がより幸せではないか。これも言い訳だ、わかっている。だから、エスゲンは今日も笑うのだ。
「帰ってくれんかね!うちではそんなものはいらんのだ、諦めて帰った帰った」
「そこを何とかお願いします!お話だけでも良いですから」
自分にとってのわずかな領分であり、気楽に過ごせるドマに往訪した道すがら、馴染みの店の前で激しいやり取りを耳にした。店主とは長い付き合いだが、これほど激しい口調は滅多に耳にしたことがない。これから立ち寄るというのに厄介だな、と店先を覗けば、まだ若いアウラの青年が必死に頭を下げているところだった。
「どうしたんです?珍しいな、他所のお客さんですか。ああ、今日はこの前仰ってたシリンゴルを持って来ましたよ。お嬢さんと食べてください」
瞬間、するりと口からついて出たセリフは全く計算のない心からのものである。青年が驚いてこちらを見ていた。彼の、湖のような深い青の肌をした部族を束ねるある会社のことをエスゲンは知っている。エスゲンの所属するオロニルと何かと張り合ってくる好戦的な会社で、食肉やその加工食品、工芸品などを主に取り扱っていた。オロニルでも食肉や加工食品を取り扱っていることもあり、その界隈では激しく火花を散らしている。実のところ、お互いの社長同士がどういうわけだか個人的に仲も悪かった。
だが、それらは全てエスゲンには関係のないことであり、むしろ同じアウラという人種の青年が苦境に立たされいることをなんとか支えたいという思いを強おく感じていた。何よりも、エスゲンには眩しかったのだ。自分が放棄してしまった必死さを、ひたむきさを、この青年は全面に押し出して扉を開けようと試みている。誰も自分の後ろにつくことのないエスゲンにとってはある種の後輩のようなものでもあった。
「おお、ありがとう。娘が喜ぶ姿が眼に浮かぶよ!今茶を出させるからそこで待っていてくれ。……そっちの人は帰ってくれないか」
「ありがとうございます。怪しいものでも売りつけられたんですか?前にナマズオに騙されたって怒ってらっしゃいましたよね」
「覚えていてくれたのか!あれは全くひどい話だ」
店主と慣れた会話をし、ついでに青年の自己紹介を聞いた。やはりドタール社の人間で、マウシというらしい。マウシ君だね、と自分の名を名乗ると、青年は驚きとともにはにかんで感謝した。誰かに心から感謝されるなど、一体どれくらいぶりだろう?もちろん、取引先から感謝されることはあるが、無関係の他人に言われることなどエスゲンの人生では滅多にない。
マウシ君。教えれば喜び、感謝し、エスゲンに無常の敬意を抱く青年。胸を打たれない者などいないに違いない。いつしかエスゲンは応援したいという気持ちとともに何もかもをマウシに教えていた。社中の人間に知られたならば、戒告は優に受けるだろう。企業秘密らしいものこそエスゲンは知らないが、今以上に印象が悪くなることだけは確かだ。とはいえ、エスゲンはもう自分の外聞など気にもしていないし出世も期待していない。全て諦めてしまった。突き抜けるほどに頑張れないのだから仕方がない。故に、これはそんなリスクと引き換えにしたって十分お釣りのくる最高の取引なのだった。
マウシと過ごし、マウシに会いに行くのを何よりも楽しく思い、そのために今まで以上に仕事に身が入り始めたころ、臈たけたエスゲンが自分なりの回答にたどり着くのはそう難しい話ではない。柄にもなくはしゃぐ自分を見た守衛が言ったではないかーー恋をしているのですか、と。冷や水を浴びせかけられたような心地だった。伊達に窓際的扱いを長年受けていた訳ではなく、エスゲンは自分の価値に見切りをつけている。だからこそなんとか耐えていたのだし、マウシという希望に癒しを得たのだった。この先の未来にまたこうした希望を目にする機会などそうないに違いない。
それからというもの、仕事のアドバイスをするのも、行きつけの店に連れて行くのも、眺めの良い場所を教えるのも、全てに一層の力が入った。自分にできることはそれくらいしかなかったからというのもあるが、マウシがエスゲンを見る目は日増しに輝き、さらには敬意だけではない意思のようなものを散らつかせ始めていく。喜んだエスゲンがどうにかしてこの可愛い青年に尽くしたいと更に気合を入れたのは当たり前のことだった。
自分が声をかけて、振り返るマウシの顔がどんなに輝いたか、共にいる時間をどれほど喜び、別れる際にどれほど寂しい顔を見せたか、その全てをエスゲンは頭に刻み込んでいる。自分がもたらし、自分に与えられた幸福を手放したくなくて、どうしたらばこの状況を続けられるだろうかと必死に考え続けていた。エスゲンとて営業の第一線で働き続けた人間なのだから、相手が何を求めているかはわかりそうなものである。だというのに、読み取れる情報から導き出される要望に確証を得られないのは、どうしても自分の欲が重なってしまうからに違いない。
もし間違っていたならば、自分は全てを失ってしまうのだ。今後の人生で得られることなど絶望的だというのに、失ってしまったらそれこそ自分は生きる意味がない。考えるだけで胸が張り裂けてしまいそうだった。これまで様々なものを失い、諦め、捨ててきたエスゲンが想像するだけで疼痛を覚えるのは初めてのことである。本社のオフィスに戻り、押し付けられる雑用をこなしながらマウシを思い、どれほど胸が軽くなったろう。会えるからと時折ちらつく寂しさや虚しさを乗り越えられたのは何度あったろうか。もはやエスゲンにとって、マウシはなくてはならない唯一無二であり至高のものだった。
しかし人間は欲深くもできているため、エスゲンは手に入れられるか入れられないかの間で揺れずに一歩を踏み出して手に入れたかった。そうだ、どうせそうであれば試せば良い。できる限り安全なやり方でやろう。自分はなんのためにここまで生きてきたというのか。頑張りすぎない、ずる賢さを磨き抜いたのだ、使わない手はない。
ドタールが得意とする食肉を大量消費するであろう、軍部の輜重担当との会談を終え、マウシとエスゲンは実に上機嫌だった。それぞれがそれぞれの会社で得意とするものを細く長く取引できるよう、入り口を作ることに成功したのである。二人で手にした成功と言って良かった。ならば祝杯をあげようと酒家に出かけたのも道理だろう。マウシは勢いよく飲んだし、エスゲンも普段よりも飲み過ごした。あまり酒を嗜まないエスゲンが飲み過ごしたのは、多少の計算の上でもある。
「マウシ君、ここまで来れたのも君のおかげだよ。マウシ君がいなかったら、おじさんの私は途中で諦めていたと思う」
「……エスゲンさんがいなかったら、俺は契約どころか話し合いもできなかった。そもそもエスゲンさんがいなかったら、ドマには二度と来なかったよ?だから、そんな風に俺を拝まないでよ。お互いできることをできるだけ頑張ったんだし!それにね、エスゲンさん」
「ん?なんだい」
「交渉するときのエスゲンさんってさ、すごくかっこいいんだ。俺、側で見ててどきどきしちゃった」
「う」
なんというセリフだろう!打算のない純情さにエスゲンは別の意味で胸が苦しくなった。自分がずるいというのは先刻承知だが、手を汚しているという感覚は好きではない。ましてや相手がこんなにも綺麗であれば躊躇してしまう。その辺りがエスゲンのエスゲンたる人の良さでもあるが、当人はただただ自分を情けなく思うのみであった。一方マウシは全く屈託無い様子でエスゲンの良いところ、尊敬するところなどをつらつらあげていく。エスゲンが思う以上にマウシはエスゲンを見ていたのだ、という事実にカッと体が熱くなった。
「エスゲンさんは、」
エスゲンさんが。自分の名前を何度も呼ばれたように思う。だが舞い上がった心とアルコールが手を取り合って踊り始め、エスゲンには何が現実で何が妄想なのかもわからなかった。マウシの手が頬に、首筋に触れた、半ば担がれるようにして顔が近づいてーーそれ以上は本当にわからない。
ただ、翌日になってホテルで目覚めたエスゲンは、一つの確信を得ていた。問題はいつそのカードを切るかで、これはエスゲンにとって一世一代の賭けでもあった。
「……君と一緒にいると、ここから帰りたくなくなってしまうよ。駄目だね、君もここには仕事で来ているのに」
本心から告げるこの切り札を、エスゲンはそれから密かに手元に置き続けーーこの勝負に勝ったかどうかは、ご存知の通りである。
〆.