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知恵の樹の実を食べたらば


りんごといえば、そのまま。あるいは焼いて、煮て、干して、混ぜて、すりつぶして飲み込んですっかり体に取り込める。なんて便利で優れた果実!ウェールズあたりでは一日一個のりんごは医者いらず、などと呼ばれてもいた。健康にはりんご、という印象はその赤々とした色彩も相まってクリーチャー・ピアソンの脳裏に刷り込まれている。

そのため、今回の出会いは実に唐突で、いきなり横っ腹に飛び込んできたような形となった。場所は月の河公園、まさに数日間限りの夏祭りの会場である。ジェットコースターはハンターでもサバイバーでも乗り放題、サーカス小屋ではマイク・モートンやジョーカー、マルガレータ・ツェレなどが曲芸や軽業で人を沸かせ、見世物小屋ではセルヴェ・ル・ロイやホセ・バーデンが手品や催眠術を披露する。普段ならばお目にかかれない奇妙な乗り物の数々はバルクがわざわざ引っ張り出してきた特別製の発明品たちだ。一体この荘園にどれほど多くの人がいたのだろうかと思えるほどの賑やかな様子には、普段裏方であるナイチンゲールとその手下たちの活躍がある。ハスターを筆頭とした露店で売り子をするのは皆一様に鳥の頭を模した不気味な仮面や被り物をしていた。幾人かは客の役割も果たしている。ここでは誰もが演者で誰もが観客というわけだった。

 クリーチャー・ピアソンは手癖でスリをせぬようかたく自分に戒めつつ露店を見て回り、めまぐるしい風景の贅沢さにため息をついた。荘園が余裕の塊であることはゲームに参加した時点でよくよく承知している。とはいえ、こんなにもあからさまに資源が溢れかえっていると、かえって辟易してしまう。まるで現実味のない、どこか遠くの世界の出来事のようだ。例えば、死後の世界であるとか。縁起でもないと首を振ると、ポケットにいつの間にか滑り込んだ金貨にため息が溢れる。ああこんなにも自分は優秀だ。さてどうしたものかと近場の店を覗くと、ずらりと並んだ菓子を前にしてウンウン悩む男ーーナワーブ・サベダーの姿が目に入り無意識に足は近寄ってゆく。年相応に菓子を前にして悩む風景がひどく心地よかった。

「サベダー君、何を悩んでいるんだ?」
「あ!ピアソンさん」

自分の声ひとつでそんなにも明るく顔を輝かせないでほしい。いつもの服とは少し様子を変えて、薄青い夏らしい色合いがよく似合っているな、とクリーチャーは夏らしい装いのない自分を少しだけ恥ずかしく思った。奇妙な話で、これまでの自分であれば服など着られさえすればよかったはずである。あるいはもっともらしく見せられる服であればいいだとか、なんにせよ目的ありきのものだ。だというのに今の自分はたかだか洒落ていないことを気にしている。ヨレヨレのシャツの裾を引っ張って心もちシワを伸ばすと、クリーチャーは改めて並んだ菓子たちを見やった。どれもひどく大きく、丸い。上には棒が墓標のように立っている。チョコがけ、クランチつき、マシュマロにキャラメルにブラウニーもとゴテゴテに着飾ったものまで眺めて、最後の最後でクリーチャーは答えを得た。透明な飴を纏ってキラキラと輝く姿は紛れもなく慣れ親しんだ姿だ。

「すごいな、全部りんごなのか」
「そうそう!りんご飴って言うんだって。どれも美味しそうでさ……ただ、大きいから一個が限界だと思うと迷うでしょ?」
「君なら三個は余裕だろう。今更何を言っているんだ」
「だってさあ」

ナワーブが身振りで示した先を見て、なるほどとクリーチャーは頷いた。公園を端から端まで埋め尽くすほどに長い露店にはいく種類もの食べ物がずらりと並んでいる。この無礼講は数日間の儚い命だ。可能な限り口にしたいと願うのも最もだろう。いきなり着飾った美しいご婦人方に囲まれておたつく思春期の少年のような心地になってしまう。ナワーブの初々しくも欲深い様子を素直に可愛げがあると目を細めて、クリーチャーはポケットから取り出したコインを店員に手渡した。

「私にこれをくれ」
「承りました」

大仰な仕草で店員は頭を下げると、お釣りと共にクリーチャーが選んだ菓子をつまんで手渡す。見れば指先までもが鳥の鉤爪で、ますます人間と無縁の異界を思わせた。これは夢だ。そうとも。受け取ったりんご飴は最後に見かけた飴がけされただけのもので、クリーチャーは心の底から気安く表面を舐めた。予想に違わずひどく甘い。だが、この先に知るありのままの美味しさと合わさったならばどうだろう?

「ピアソンさんはそれで良いの?」
「これが良いんだ」

着飾ったものよりも、結局自分にはこの姿がちょうどいい。華美な姿は自分には不釣合いで、どうしたって飾りの方が目立ってしまう。りんごは、クリーチャーにとってりんごであればそれで良かった。ナワーブは腕を組んでさらにしばし考え込んでいたが、ようやっと店員に金を払って菓子を受け取った。意外なことに、クリーチャーの選択に不満があった様子のくせに選んだのは同じくただの飴がけである。

「君こそ、それで良いのか?」
「ピアソンさんと同じ気持ちになりたくて」

そこで一つのものを分け合おうとは言わない彼の配慮が嬉しくもあり、歯がゆくもあり、クリーチャーは黙って花火を見上げた。時折こうして、自分にはない余裕を持っているナワーブがひどく眩しく感じられる。

 かつての自分は、手に入れたものは自分のものだった。自分のもの自体が中々得られず、すり抜けてゆくばかりであれば心が狭くなっても当然ではないだろうか?分け与える役目を担ってもなお、心のどこかで自分の分は決めていたし、それは確実に手に入れていた。子供達に注がれる愛情は、間接的には自分に向けられたものであり、子供達の愛情は全て自分のものだーーそれが幻想であると指摘されてどれほど空虚な思いをしたことか。最初から手に入らなかった、そんな滑稽さすら自分の人生には山ほどある。

確かなものを手に入れるための手段を得ようと、クリーチャーは荘園にやってきた。ここを出て初めて自分は揺らぐことのない安寧を手に入れるのである。そのためにならば命を危険に晒すくらいがなんだと言うのだろう。偽善で慈善を気取って、欺瞞で優しさを振舞って、そうして今はーー今は、手に入れようと努力をせずして転がり込んできたものに怯えている。

「行こう。向こうで映画を始めるって、さっきジョゼフがチラシを配ってたんだ。俺、映画って初めて見るんだよね」
「恐怖物じゃないことを祈るよ。あいつが作ったものなら、相当具体的だろうからな」
「だったら怖い方がいいかな。怖かったら俺にしがみついても、変じゃないでしょ」

あんたは中々甘えてくれないから、などと不遜なことを言いながら、ナワーブが空いた手をクリーチャーの方に伸ばしてくる。その手を受け取ることに、どれほど意味があるかを彼は知らない。手に入れることを疑わない人生が広がる道のりを邪魔する手立てをクリーチャーは知らなかった。花一輪ほどにも飾らない、飾ることのできない手で掴むと、満足そうな笑顔が返ってくる。

勢い良くかじりついたりんごは、ひどく硬くて酸っぱかった。

〆.