春嵐
寒く寂しく枯れ果てたような冬があった。言い知れない冷たさを一面の雪が美しく覆い隠したが、ゆるりと解けてゆく時の流れに逆らうことはできない。野の草花が、獣が、自ずと目覚めるようにして賑わいの訪れの支度を始める。彼らが装いを正して初めて人は知るだろう。暦を失えば人は瞬く間に時の長さを感じずに通り抜けるのだから。
謝必安が衣替えの頃だと衣類の綿を抜き始めたのは、ちょうど庭先の梅が開こうと膨らみ始めたのを認めたためである。庭には春の匂いが漂い始めていた――暖かく、どこか湿った空気は啓蟄という言葉が的を射ていると知れる。春。季節の移ろいに浮き足立つ程に幼くはないものの、何とはなしにそわそわとした心地になるのも確かだ。
「今日からか」
春の辞令に合わせ、遥か遠くの地方から移ってくる職場の人間を思うと、どんな日々が始まるのかと想像が広がる。この地方はさほど実入りの良い大きなものではなく、ごくごく慎ましやかなものなので強欲な人間は来るまい。精々、近頃隣県との端境で跋扈する山賊をどう扱うかという悩みの種があるくらいだ。謝必安は若手であり、他の人間よりも武芸に長けているということからまま山賊討伐に繰り出されがちだった。中央に禁軍が設置されて以降、地方ではみだりに兵を増やすことが許されない。とは言え自分だけで治めるには些か気の重い話である。せめてあと一人いれば、と願うのは無理からぬことだろう。
「おはようございます」
「おはよう、謝必安」
いつものように早めに出仕すると、珍しくも直属の上司がすでに待ち構えていた。すわ厄介ごとかと不安がよぎったのも束の間、謝必安はすぐさま事態を読み取った。上司の隣にスラリとした青年が一人佇んでいる。まるで若竹を彷彿とさせる美しい背筋に謝必安は軽く目を見張り、期待に胸躍らせた。もしかして。
「徐州から任官された范無咎だ。年も近いことだ、共に働くことも多かろう。世話をよろしく頼む。范無咎、謝必安は昨年就任したばかりだが、山賊退治に名を馳せる剛の者だ。頼りにすると良い」
「かしこまりました」
「ありがとうございます」
これで用事は済んだばかりと消え失せる上司に、一礼する范無咎の顔は実に硬い。心の底で舌打ちする音が聞こえてきそうだった。完全に足音が消えると、謝必安はくっくと音を立てて笑った。
「あれで扱いは楽な人なんです、期待しなければ問題ありませんよ」
「顔の割に随分きつい物言いだな」
「あなたより一年多くあの人の下にいますからね」
改めて相手の顔を見、あちらもこちらを見るうちに謝必安は不可思議な懐かしさに包まれて小首を傾げた。浅黒く日に焼けた肌を持つ青年に似た人物など知る由もないが、どこかで出会ったような気がする。
「……お前、どこかで会ったことはないか?」
「え、」
「あ、いや、おかしなことを聞いたな。そんなはずはないとわかっているんだが」
もしかして、と范無咎が幾分柔らかな表情で残念そうに言う。謝必安も全く同じ思いだったものだから、このやり取りにさえ懐かしさを感じて涙が出そうだった。まるで何年も探し求めていた相手に出会えたような。物語の読みすぎだ。
「中を案内します。胥吏(しょり)にも面通ししましょう。ここの胥吏は質も良い」
「それは期待できそうだ」
官僚の手となり足となる胥吏について触れると、范無咎の表情が明るくなる。前の任地がどこであったかは知れないが、謝必安はここが然程悪い場所ではないと知って欲しかった。ようやく出会ったのだ、楽しく過ごせるに越したことはない。ようやく?自問自答しながらまだら色の記憶を探る。やはり范無咎など、自分の過去には影も形も無い。
執政官の居場所、執務室、胥吏たちの溜まり場に住民の訴えを聞く場所、牢屋、こじんまりとした所内を巡るのは実に易しい。そうしてその一つ一つを范無咎と共に歩くと奇妙にも思い出がよぎるのだ――例えば自分が虜囚で、彼が邏卒であると言うような。痛切な呼びかけの声すら耳を打つ。全く馬鹿げている。
最後に自分の気に入りの場所、南園の梅林まで足を運ぶ。見れば微かに甘い芳香から、こちらの梅は既に開花し始めていた。春だ。隣に立つ范無咎も嬉しそうに頬を緩めており、謝必安は自分の気に入りの場所が受け入れられたことに密かに安堵した。しかし、すうと深呼吸をした范無咎の表情はガラリと厳しいものへと変わる。
「良い眺めだ。気に入ったぞ、謝必安……なあ」
「ええ」
「あの樹の下には、立たないでくれよ」
何故とは聞かずに謝必安は頷いた。多分、彼には同じものが見えている、そんな気がするのだ。樹下にぶら下がる謝必安が風に揺れる。幻はどうしようもなく現実味を帯びていて恐ろしい。
「あなたも、気をつけてくださいね」
「ああ」
今度こそ。そんな台詞を互いに口にし、ぷっとどちらからでもなく吹き出した。馬鹿馬鹿しい。二人は出会ったばかり、任期満了までもまだ日があるというのにだ!どうして別れる時ばかり、それも不穏なことばかりが頭をよぎるのだろう。風が強く吹きつけ、ようよう開いた花弁を押し流してゆく。湿った香りは嵐の前触れだ。
思えば、この時既に心は決まっていたのだ。出会ってしまえば必ず別れは来るものだと。ただ少しでも花が散り切るのは先、そんなふうに思っていたのもまた確かである。
春が、来たのだった。
〆.