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春聯


 街の外れ、今では田畑が連なる広大な土地に、何故だか急に豪奢な屋敷が立ち現れる。破風の広がり、連なる灯篭の多さ、何より漆塗りの門の巨大さは見るものを圧倒する。だが近づいてみればわかることに、全て古びてぼろぼろになって今にも崩れそうな様子である。吉祥文様の絵飾りは色落ちがし、仙人も動物も抜け出してしまったように剥がれていた。ギシギシとして引っ張ると犬の鳴き声を立てる扉は勿論ひび割れ、かつての面影はどこにもない。門の両脇に貼られた対聯の文字がいくつか欠けているものの、どのような祝い事があったのかをうかがわせていた。

ここは趙『大人』と呼ばれるにふさわしい、絹布の交易で成功した商人の屋敷跡である。元々古い家柄だったこともあり、街では知らぬ者はいない。そして、その趙大人の娘にまつわる世にも悲しい話もあまねく知られているのだ。

「確か、幽霊が出るんですよね」
「らしいな。儒家のあの煩い柳老師が言ってたんだ、親を敬わない子は一族を滅ぼしかねない、ってさ。その恨みが残ってるからあそこには誰もいつかないんだ」

謝必安は春節の後片付けをしながら、幼馴染の范無咎と散漫な話をしていた。先程駆け落ちするような様子の男女を見かけて昔話を思い出したのである。爆ぜた爆竹のように物悲しく、趙家の令嬢は下男と恋に落ちて許されなかった。のみならず、令嬢が孕んでいたことから男は怒り狂った一族の手により豚に食べられたと聞く。令嬢は痛哭し、よりにもよって商売道具の見事な絹布で天井から首を括って亡くなった。

 それから先はよく聞くような恐ろしい話で、屋敷中で豚の動き回る音がし、絹布は悉く虫が湧いた。幾人か絞め殺され、生き残った人々は怪事を鎮めることもできずに街を出たという。こうして趙家は一代にして身代を築き上げ、一代にして滅亡したのだった。

「親を敬わないと言っても、ただ好きなだけだったのに豚に食べさせるのは酷いと思いませんか?」
「それだけ許せなかったんだろうよ。見つかる前に逃げればいい気もする……ああ、母さんの話だと、二人は駆け落ちをしようとしたらしい」

だが、怖気付いた男は約束の場所に来なかった。家族に見つかった令嬢は縊死し、逃げようとした男は捕まり豚に食べられたのだ、と范無咎は身の毛のよだつような話を聞かせてくれた。街で流布している話では男が先に死んだが、実態は女が先らしい。どちらもあり得そうで、なんにせよ救いようがなかった。

「今夜あの屋敷に行ってみないか」
「嫌です」

唐突な提案に対し、謝必安は反射的に拒絶した。ニヤニヤと笑う幼馴染が憎たらしい。こういう時は大概ロクでもないことを考えているのだ。この子供染みた(十八を越えればもう十分に大人だろう)ところのある范無咎は、今回の春節でもやらかしたばかりである。爆竹をいくつも繋げ、范家と謝家のぐるりを取り囲んで一斉に火をつけたのだ。お陰で空から星が降ってきたのかと慌てふためいた范無咎の祖母が寝台から落ちて強かに腰を打ったのである。どうやら散々叱られたというのに、まだ馬鹿をやり足りないらしい。

「即答するなよ。幽霊なんていないっていつも言ってただろう?一回くらい見てみたいんだよ、なあ」
「いなかったら無駄じゃないですか」
「……やっぱり怖いんだろう」
「いいえ」

これまた反射的に答えて謝必安は心の中で舌打ちした。罠だ。案の定范無咎は嬉しそうな顔つきになっている。

「それじゃあ決まりだ。下午九点の鐘が鳴る頃に趙邸の前で会おう」
「あ、ちょっと待ってください!」
「約束だぞ!」

范無咎の祖母が呼ぶ声と共に、幼馴染はこれ幸いと姿を消した。後にはまだ残る爆竹の残骸と謝必安だけである。怒鳴り声が聞こえることから、恐らく范無咎はまだ他にもいたずらを仕掛けていたのだろう。あれでは当分許されまい。ため息をつくと、謝必安は掃除の続きを再開した。僅かに腕が震えるのは気のせいだ。怪異などあるはずもない。見えないものは、どこにもありやしないのだ。夜中に近い時間だろうと暗闇はどこまで行っても暗闇で、それだけの話である。

「待ってますよ」

どうせなら范無咎を物陰から脅かしてやろうと心に決めると、謝必安は頭の中からあらぬ想像を締め出した。




 さて、時は数える間も無く流れて夜である。時刻は九つ、飲み屋以外はひっそりと寝静まる頃だ。謝必安は約束通りに灯りひとつ、それと毛布と話梅と薄い酒の入った小さな甕を下げて田畑の海のような闇を越えた。当たり前のように星月のみがただ明るい。腰に下げた盃がチリン、と時折澄んだ音を立てる。奇妙なことだ、と謝必安は背筋を震わせた。虫の音さえしない、全てが闇に飲まれたかのように静まり返っていた。

「范無咎?来ましたよ」

ようやくたどり着いた頃には灯りの周りくらいしか見えるものはなかった。范無咎は先に着いたのだろうか。門扉が人一人、入れるほどに開いている。先に待ち構えて謝必安を脅かそうという心算かもしれない。ありそうな話だ。鼻白むように眺めると、謝必安は改めて門を見た。

「『迎春〇喜迎富貴』ああ、『迎』の字が抜けているんでしょう。だったらこちらは『接財〇福接〇』随分欠けてますね、范無咎」

対聯をなぞりながらわざと声を張り上げるも、屋敷の中からも付近の暗がりからも声はしない。腹の中がざわざわとして落ち着かない心地がする。本来、門の両脇に貼られる対聯は吉祥を綴ったものが多く、ここに書かれたのは春節にあちこちの家で見られるものでなんら珍しいものではない。だが肝心の文字がいくつか欠けていることはこの屋敷の不幸を強調していた。まるで福など受け付けない、金のためならばそれ以外は不要とも読める。

「范無咎、」

カタカタと音がし、謝必安はほっと胸をなでおろして門扉を押し開け中へと入った。埃っぽく人の気配の絶えた死んだ家の空気である。奇妙に軽い。中庭を抜けて闇を閉じ込める建物そのものに辿り着いたが、音はもっと奥から響いているようだ。全くいたずら好きにも困ったものである。後で酒を飲みながら愚痴をこぼすとしよう。

「出てきてください、そこにいるのはわかっているんですから。待ち合わせようと言ったのはあなたでしょう」

矢鱈と重い扉を押し開けると、見事な彫刻が出迎えた。何か獣のように見える。灯りを近づけ、謝必安はひっと小さく叫んだ。丸々と太った豚で、あの硬く細い毛までが再現された金属製のものである。大きさは謝必安と同じくらいではないだろうか。締め出していた不安と恐怖が一挙に押し寄せ、謝必安は吐き気を催していた。男は生きながらにして豚に食われたと聞く――

「范無咎、どこにいるんです范無咎!」

ブゴォ、と獣の鳴き声がし、取り落とした灯りと同時に謝必安の意識はすとんと闇へと転がり落ちた。




「謝必安、しっかりしてくれ謝必安!」

ゆらゆらと船のように揺らめく気持ち悪さから這い上がると、謝必安は目を丸くした。世の中が明るい。ついでに言えば、あれほど探していた范無咎が目の前にいる。見渡せば自分は自室の寝台に横たわっていたのだった。

「……豚はどこです」
「豚なんてどこにもいなかったぞ」

だらだらと額から嫌な汗を流す范無咎の目はおよおよと泳いでいる。隠し事が下手ということはなんとも悲しい。

「いたんでしょう。豚か、何か他のものが。あなたはどこにいたんです?」
「……ごめん、俺が悪いんだ」

あんなにも待ち合わせを強調していた范無咎なのだが、あの後祖母にこってり搾り取られた上に外出するとは不届きだと閉じ込められていたらしい。なんとか知らせなければともがいて脱出を図るももう既に真夜中を回った頃であった。暗闇を渡り切って辿り着いた先で、点々と散らばる謝必安の持ち物に悲鳴を上げたという。その声を聞きつけた近隣の農家から人が出て、共に屋敷の中を探し回ってようやく見つけ出したのだ。

「お前は厩舎に転がってた。……昔から、そこで豚を飼っていたそうだ」
「っ」
「俺が約束を守りさえすればこんな目には合わせなかったのに、ごめん、ごめん謝必安、ごめんなさい、」

息を詰まらせた謝必安を見て取り、范無咎がしがみつく。泣きたいのはこちらだというのに、嗚咽を上げるのは范無咎だ。そう、いつだって泣き虫はこのかっこつけて力強い風を装う范無咎の方なのである。だから謝必安は気が抜けないのだし、ここで倒れてはならないと改めて思うのが常だった。范無咎の背中を撫でさすり、謝必安は部屋の片隅に笑う女を見たような気がしてさっと青ざめた。待たれていたのか。待ち合わせをするものを、求めていた男を。

 だが、自分の待ち合わせる相手はいつでもただ一人なのだ。はあと長く長くため息をこぼして、謝必安は范無咎の背中を叩く。

「私との約束は絶対に守ってくださいね、范無咎。必ずですよ」
「する、約束する」

お前が一番だからと喚く范無咎の背中越しに、謝必安は女に向かって嘲笑ってみせた。自分には大事な相手がいる。欠けることのない対聯、右手と左手、白と黒、ちょうど互いが共にあってこそ意味を成すように。


〆.