NOVEL
  / HOME




その目のなんと罪深い


瞳を閉じて


 一体何が脅威だろうか。だらしなくソファに寝そべる観察対象を眺めやると、エドガールは首を傾げた。ここはヤーナムの中でも極めて特殊な場所、隠し街ヤハグルである。建物たちが入り組む奥深く、上を行くのか下を行くのかはたまた右なのか左なのか、歩いて行くうちにどんどんとよくわからなくなる場所が本丸だ。メンシス学派という連中はつくづく遠回りの込み入った儀式の類が好きらしい。

宇宙は空にあり!ちらと本来所属する聖歌隊の謳い文句を思い出してエドガールは唇を歪めた。真理とは往々として簡潔なものであるべきだ。わかりやすさは多くの理解したつもりのものを生み信用と信頼と信仰を育み大きくして行く。嘘であろうとも真理は存在感を増し、最終的な目標の達成に大きく貢献するであろう。医療教会はまさしくその過程を経てヤーナムに大きく根を張った。ビルゲンワースだけではこうも拡大することは叶わなかったに違いない。

 そのビルゲンワースの孫組織と言うべき聖歌隊とメンシス学派は、今エドガールが身分を隠してメンシス学派に潜り込んでいるように利害の食い違い奪い合いを起こしていた。俊才と呼ばれたエドガールの見解によれば、行き着く先は同じなのだが、望む過程が異なるのだろう。聖歌隊が選んだのは空から落ちてしまった娘、あるいは空に与えられた星の娘のエーブリエータスだ。一方メンシス学派は御本尊とでも言うべきものはまだないらしい。少なくとも中枢まで食い込んだエドガールを以ってしても感知できてはいない。

それにもかかわらず、メンシス学派が強大に育っているのは目の前で寝転がる男の手による。細長い手足、疲れを知らないが疲れの溜まった体、不健康そうな顔色、どれをとっても狂気の中心人物には見えない。だが一度口を開けば誰よりも甘美な夢を見させる。ミコラーシュ。エドガールは目の前の男の見せる幻術を思い起こしてため息をついた。真理を深く理解して尚全てを軽蔑するエドガールでさえもこの男の語る夢は魅力的だ。

「ミコラーシュ。また風邪を引きますよ。檻を被れなくなっても良いんですか?」
「ふむ。それは我ら全員が困るだろうな」

ぱちりと目を開くとミコラーシュはもじゃもじゃとした黒髪を振った。記憶によれば二日は風呂に入っていない。せめて体を拭くくらいはさせた方がいいだろう。湯浴みの支度もできたらさせたいが、エドガールは報告書を書くので手一杯なのだ。表向きは研究報告書ということになっているが、棚に提出した後で別の間諜が持ち出し、聖歌隊本部へと運んで行くのである。それを本部がどうしているのか、これからどうするつもりなのかはわからない。沈みゆく船からは早く逃げるようにと聞いたくらいだ。

「エドガール。私の寝顔は楽しかったかい」
「いいえ。死んでいるのか確認したくなるほど顔色が悪いとは思いますが、それ以上ではありませんね。靴紐、解けてますよ」
「君は実によく見ている」

底光りのする黒目がぎらりとエドガールを射抜いた。この目が全ての魔術の始まりだ。当て所ない入り組んだ迷路から抜け出せるのに抜け出せないのも、全てはこの瞳が捕らえて離してくれないからである。彼に認められている、求められ必要とされているのだと、一体幾人が錯覚し身を滅ぼしただろう。この建物の外には、そうした尊い被験者の数々が横たわっており、聖歌隊よりも幅広い。たとえ無理くり人攫いに連れてこられたのだとしても、不思議と人々はミコラーシュの懐で体を丸めてしまう。全てを委ねて、心地よい悪夢の中に溶け込むのだ。

「安心したまえ。君に見られることは不愉快ではない。ああ!どちらかと言えば楽しいかもしれないな、エドガール!君の瞳はいつも物言いたげだ」
「……風呂に入って欲しいと思っていたことをお察しいただいたのなら、すぐに入ってもらえませんかね」
「君、必要なのは風呂ではない、瞳だよ。だがここは君の意思を尊重しよう。洗わなければ瞳も曇るというものだ。実は少々悩みがあってね」
「はあ」

あくまでも前向きなミコラーシュに、エドガールはこの男は本当は愚鈍ではないかと呆れた。どこが聖歌隊の脅威になりうるというのだろう?何故か途方もなく魅力的であることは事実だ。だがそれは本質ではない。夢は見るものだが、叶えなければただの妄想に過ぎない、そうではないか?

「悪夢の中に全て持ち込むことは必要だろうか?遥か高みで人を超えた会話をするのに、果たして現実はどれほど残されているべきだろう。ここにあるものはできるだけ取り込もうと考えているんだが、悩ましいものもある」
「例えば?」

ミコラーシュの妄言は残念ながら理解できない。まるで悪夢というどこか別の世界を創造するとは神の所業ではないか。エーブリエータスですら、そのような道筋を導くことはなく、故に道を違えたと思ったものは俗世で研究するのだと下野した程である。エドガールは興味がない。最終到達地点にこそ興味はあるが、実際そこにたどり着くことを心底望んではいない。今の観察者としてスリルを感じながら立ち振る舞う方が余程楽しく充実している。

 ミコラーシュはソファに座りなおし、ぴんと足を伸ばした。どうやらまたもや靴紐を結び直すことに手こずっているらしい。長い手指を持つくせに、この男の手先は意外にも不器用だ。だからこそ、気の回るエドガールが重宝され懐刀のような立場に立てているとも言える。仕方なしに席を立つと、エドガールは跪いてミコラーシュの足を捕まえた。また解けるよりはさっさと手伝ってやった方がましだ。

「例えば、気の回る観察者はどう思うかね。その瞳は宇宙にこそ相応しい!獣の愚かさを克服し、超次元を語るに相応しい!我らの祈りの行き着くところ、さぞや舌を噛んでも足りぬほどに語り明かせることだろう」

滑らかで異常に陽気な声音に、エドガールは小さく息を飲んだ。この男は、自分のことを丸のまま全て見通しているのではないか、と時折思う。大仰な手振りも奇矯な振る舞いも、目の前にさらけ出された不器用さだらしなさも全てはそれこそ見せかけで、瞳の奥にある叡智を覆い隠しているだけではないか?だが、それを暴くには観察者という立場を破り捨てねばならない。編上げ靴の紐を上まで結びあげると、エドガールは深くため息をついた。

「貴方は自分がしたいと思うことは止めてもするでしょう。私の意見など無意味だ。やりたいようにすればいいんです」
「なるほど君は尤もなことを言う。マジェスティック!もう片方も結びなおしてくれるかね?」
「そのかわり、終わったら風呂に入ってくださいよ」
「約束しよう、約束しようとも、友よ」

方便だ、とエドガールはこの茶番劇の締めくくりに相応しい言葉を心から蹴り出した。友?そんなもの、聖歌隊にすらいやしない。真理の前には不要だ、恐らくこの男だってわかっているはずだ。そのくせこの男は平気で本気のふりをする。耳から脳が腐り、瞳が濁る様を想像してエドガールは首を振った。

「風呂から上がったら新しい服を着るんですよ。靴はまた手伝ってあげても良いです」
「実にありがたい話だ。君は実に気が回る。いなくなればさぞかし困るだろうな」
「でしょうね。自分の靴紐を踏んで転ぶのがオチです」
「違いない」

狼の遠吠えのような声でミコラーシュが笑う。この声は悪夢だ、悪魔のような男にたぶらかされて全てがどうでもよくなってしまう。この男が消えれば悪夢の妄想もメンシス学派の脅威も砂上の楼閣の如く消え去るということは重々承知していた。承知しているのだが、エドガールの手はピクリとも動かない。

 代わりに、ミコラーシュの作り上げる悪夢とやらは一体どんなところだろうという想像が空へと羽ばたく。この男のことだ、きっと途轍もなく恐ろしく、背筋が震えるほどに輝いていることだろう。妄想は常に甘美だ。ミコラーシュを追い立てると、エドガールは床に落ちていたゴミを拾って窓から放り投げた。

昨日やってきた新鮮な瞳は既に濁り、遥か宇宙への道のりを失っていた。


〆.