それはひそやかな贅沢。
閉架式
本というものは贅沢だ。異国の田舎の片隅で暮らしていたハンスにとって、本が潤沢にあるというのは豊かさを示していた。牛を何頭も飼うことや、見渡す限りの何エーカーもの土地を持つこと、領主館で百人以上の使用人や捨てるほどに有り余る料理を食卓に並べること、ハンスはこれら全てと数え切れないほどの本を抱えた図書室というものを同等と捉えている。文字の波、文字の洪水、ページをめくる指先には、さながら絹地を撫でるが如くに丁寧で愛を込めていた。なんという幸せ!
田舎牧師の実家で暮らすよりはましと、このヤーナムまで遥々行く学者の従者になったのは大正解だったと今でも思う。ヤーナムにたどり着き、研究成果を着々と上げていた学者がハンスにお役御免を申し付けたのは、かれこれ十年、いや十五年は前になるだろうか。
「お前も学をつける頃だ、ハンス。私はこれより一人で行かねばならん。お前はここで一人で学びの道を行くのだ。本が好きなのだろう?」
「大好きです」
かくて学者は禁域の森に張り付きになり、いつしか森の奥の遺跡で姿を失った。なんの未練もなかったが、最後に会った際に随分と様変わりしていたことだけはよく覚えている。肩には禁域の森でよく見受けられる、あの恐ろしい大蛇を巻き、ズダボロの布としか言えない服を着ている。荒々しく唸る片手剣といい、どこか彼方を見つめる目つきと言い、最早学者というよりは異常者だった。ヤーナムにはこうした奇妙な風体の学者崩れがいる。一応は自分の師匠であった人なので、ハンスは彼の風体と名前を覚えておくことにしている。異常者ワラー。もしかしたらあの遺跡の奥底で、彼はまだ調査を続けているのかもしれない。
ハンスは今や学徒としてビルゲンワースで研究の道を歩んでいる。とは言え、未だ研究テーマは定まらない。あまりにも魅力的な事象が多すぎるのだ。教える側も教えられる側も好奇心の塊かつ突飛な個性を爆ぜており、まるで様々な国のメインディッシュを並べられたかのようで選びがたい。そのため、吸取り紙にインクを染みさせるようにしてハンスは今日も本を読んでいる。なんという贅沢。一日中本を読んでも許されるのだ!
「お、またメモだ」
本を書架から引き抜くと同時に、はらりと薄い紙が床に落ちる。拾い上げると、ハンスはそれを大事そうに上着の内ポケットにしまった。ビルゲンワースの研究室や教室棟の書架には、こうした謎めいた言葉の書かれたメモが挟まれていることがある。繋ぎ合わせれば意味があるのかもしれないと思える不可思議なもので、ハンスにとっては読書のおまけのお楽しみであった。
『ウィレーム先生は正しい。情けない進化は人の堕落だ』
今回のメモも意味があるようで意味がなく、矢張り意味があるのかもしれないものだった。噛み砕けば噛み砕くほどに虚無の味がする。ウィレーム先生とは、あの学長だろう。もう老齢と言っていいウィレーム学長は、教室で教鞭をとるよりも、今では月見台に置かれた揺り椅子でくつろいでいることの方が多い。かつてはワラーのように森を彷徨ったともいう。進化?ハンスは冷静に考えて小首を傾げた。情けない進化は退化の間違いではないか?そもそも今の人間に進化という概念は当てはまるのだろうか。
都会では進化論というものが浸透しつつあるらしく、ハンスも理解しないではない。だが自分の身の内でミリ単位よりも小さな変化が起こっていることと、数千年という途方もなさから見て取れる大きな変化は結びつけられず、ましてや人が進化の形を決められるとは思ってもいなかった。情けないも何も、人はずっと人ではないか?掌を見る。指は五本。七本にいきなり増えるようなことは理解できない。
「また腱鞘炎にでもなったのかな、ハンス君。本を読むことは我々の本分ではあるけれど、限りある肉体の檻には逆らえないのだからね。労わりたまえよ」
「ありがとう、ミコラーシュ。腱鞘炎の方は大丈夫だ。良い貼り薬をもらったからね」
獲物に優しく声をかける狼を思い出しながら、ハンスは同僚の顔を見やった。同じ学徒の中でも、とりわけ才気を放つミコラーシュを知らぬ者はいない。彼とは以前、たまたまミコラーシュが探していた本をハンスが読んでいたことから知り合ったと記憶している。恐らくハンスにはミコラーシュを楽しませる要素はない。だが、それが却って相手には良かったらしく、未だに声をかけてくる。ハンスにとってはいい暇つぶしなので問題ない。
「輸血液ではなく?」
「あれは苦手なんだ」
ふうん、と意味ありげにミコラーシュが笑う。ビルゲンワースと袂を分かったローレンス先生が設立した医療教会は、研究機関というよりも最早輸血液の生産工場かつ医療機関だと民衆に捉えられ、崇拝されている。それに胡散臭さを覚えてしまうハンスは旧弊的なのかもしれない。新しいものを次々と取り入れては捨て、何かを作ろうとしているミコラーシュとは対照的だ。ふと、ハンスはミコラーシュは輸血液を使ったのだろうかと考え、どうでも良いと棄却した。使っても使わなくてもハンスにとってなんの意味もない。
「君の頭の中には、ここにあるすべての本が詰まっていると聞いたよ。あらかた読んだという噂は本当かな?」
「ある意味ではね。僕は人の考えが好きだから……こういうものまで集めてしまう」
「ふむ、良い趣味だ」
先程拾ったメモを手渡すと、ミコラーシュはアハハア!と手を打った。大仰な身振りを見ていると、ハンスは段々と一流の研究者というよりも出し物を見せられているような気持ちになってしまう。彼のこの奇抜さは真実だろうか。それとも見せたくて見せているだけのものなのか?
「進化というものを考えるならばね、我々はこの檻を抜け出すことが一番の近道だろうと思うよ」
「君にしては随分と叙情的な表現だな。肉体的な檻を失ったら、きっと僕らは人ですらないだろう。生物は宿るものがあるからこそ生きている、そういうものじゃないか?」
「まだ諦めるには早い。ハンス君、君の研究テーマは?」
「決まっていないね」
正確には、自分は研究を放棄しているのだとハンスは自覚しつつあった。本を読むのと同じで、ハンスは他人の考えに興味がある。全てを読んで味わいたいのであって、それを自分なりに変えたいであるとか何か新しいものを作るといったことには興味がないのだ。自分の考えは少しも面白くはない。もっと先、ハンスにとって進化と呼べるものは恐らく他人の中にこそある。
「素晴らしい!君は自由だ、だからこそ君は檻を自覚しなければ。君の頭の中の書架を万人に開きたまえよハンス君!君が思うよりも遥かに広く遍く上位の事物が待ち受けているぞ。もっと瞳を!瞳を与えたまえよ!君は君自身の先にあるものを知るはずだ、素晴らしいだろう?生きている実感とは檻の外にある」
意味がわからない。意味は全くわからないのだが、ハンスにはミコラーシュの台詞がひどく魅力的に感じられた。進化の先にある面白いものを知ることができたならば、自分は初めて自分自身に興味の矛先を向けられるかもしれない。触れられるだけのすべてのものを詰め込むだけ詰め込んできたこの頭という檻の中に、ハンスの生き甲斐があるのだとしたらなんと甘美で面白いことか!
「興味があるという顔つきだね。君ならば理解してくれると思っていたとも。共に檻を抜け出そう、同志よ」
「……まさか、ミコラーシュ。君にはもう実現の目処が立っているのか?」
「まだだ。だが、君の頭の中の書架さえあれば実現できるとも」
なるほど、彼にとって自分はある意味魅力的というわけだ。にんまりと笑うと、ハンスはソファに先ほどのメモを放り出した。こんなものよりもよほど面白そうだ。
「良いだろう。何が知りたい?」
「マジェスティック!全てをだよ、ハンス君、全てが必要だとも!」
かくて檻は現れた。ミコラーシュの笑い声を聞きながら、ハンスは先のことを思ってうっとりとした。
そして、ハンスは理想の果て、檻の開けた先の地獄を見ることとなる。
〆.