なんて掴みどころのない話!
雲を掴んで
掴もうとすれば、逃げる。ナワーブ・サベダーは今日もままならぬ思いに悶々としていた。従軍中にウナギという生き物に出会ったことがあるが、目下の標的であるクリーチャー・ピアソンはまさにウナギのように掴みにくい。少し草臥れた、ややもすると不気味なこの中年男にすっかり参ってしまっているのはもう腹を括っている。色とりどりの花のような女性から美青年までいても、ナワーブを惹き付けるのはクリーチャーただ一人なのだった。
好きだというこの衝動的な思いはすでに本人に伝えてある。思い立ったが吉日で、ナワーブはすぐさまクリーチャーの元に馳せ参じたのだった。カート・フランクとセルヴェ・ル・ロイ、それにウィラ・ナイエルと共にすごろくに興じていたクリーチャーの顎がぱかんと開いたことを覚えている。ウィラから無理やり香水を奪って矢鱈とみんなに吹き付けていたが、ナワーブには全く効果が出なかった。否定の言葉よりも先にそんな照れ隠しをするなど可愛いではないか!自分の目は間違っていなかったとナワーブは心の底から歓喜した。
「お、お、お前が俺をからかってる、こ、ことくらいわかってるんだぞ」
「俺、こういうことで人をからかうほど落ちてないよ」
「うううう嘘だ!」
呆気にとられる面々から連れ出して、改めて伝えるとクリーチャーは顔を真っ赤にさせながらぶるぶると震えていた。普段の温厚な慈善家ぶった振る舞いではなく、手負いの獣のようでさえある。抑えきっていた吃音まで復活させたクリーチャーを抱きすくめて何度も言い聞かせたが、かえってクリーチャーを頑なにさせただけだった。ならば毎日言えば良い。彼が信じるその日まで、ナワーブはいくらでも自分の長所である辛抱強さを発揮するまでだ。
掴もうとしては逃げようとする獲物を追いかけることで、ナワーブの中に眠るどう猛な本能が呼び覚まされていることをクリーチャーは気づいているだろうか。段々と投げかけられる愛の言葉に慣れたクリーチャーが震えもせずに正面から弾き飛ばし、逃げようとしても尚ナワーブは追いかけた。今日も今日はで逃げられる。悶々とするがやめる気など毛頭ない。
「やめてくれないか、こういうことは」
「やだね」
「本気で私に言っているのか?君の正気を疑うな。エミリーに診てもらった方がいい」
恋の病は医者にも治せないんだよ。こうして幾度も睦言を繰り返すナワーブにはそれなりの勝算があった。クリーチャーはナワーブの思いを疑い、否定して、拒絶する。
だが、彼の口からはナワーブを好きという台詞も嫌いという台詞もついてではしないのだ。
「同情と愛情を勘違いするのは趣味が悪いわね」
若者に尻を追いかけ回される(文字通りの意味で現在大変な危機だ)クリーチャーが泣きの一手で縋った先は、海千山千の医師であるエミリー・ダイアーだった。お互いの素顔を知っているだけに、エミリーの言葉は誰よりも辛辣で心地が良い。紅茶を飲むエミリーの仕草は実に品良く、微かにクリーチャーの劣等感を刺激した。
クリーチャーは即物的なものを信じている。目に見えないものはあやふやで、本当に手に入れたかも分からなければ雲のようにただ手が掴んだ気持ちになった端から逃げ出してしまう。ならば見えないものはないと思った方が簡単だ。クリーチャーはあれこれ日々思い悩むなど真っ平御免だった。
「でもね、愛情と同情を勘違いするのも趣味が悪いわ」
「……同じことじゃないのか?」
「要は物の見方よ。右目と左目で見てる世界は違うものでしょう」
それを言うならばクリーチャーは完全に片手落ちなのだが、ここは黙って話を聞くことにした。エミリーは率直にものを言い、自分の目的のために他人を出汁にすることも厭わない。だが彼女の利己心の外で、時折医者が持つべきらしい広い心とやらを発揮することがある。今がちょうどその時に思われたのだ。
「あなたは彼が同情していると思ってるけれど、あの子はあなたになんか同情しないわ。大体最初の頃は軽蔑されてたんじゃないかしら」
「……だから、私の事情を知って悪い気がしたんじゃないのか?」
エミリーの話はなるほど痛い点を突いていた。ナワーブが荘園に来た当初、慈善家というクリーチャーを見る目は『この胡散臭い人物の差し出す薄っぺらな慈善の押し売りはいらないし信じられない』というものだった。チェイスを補い合い、冗談を言って夜中にフレディが溜め込んだ秘蔵の酒を盗み飲みし合って漸く信用しても良い、程度になったとは思う。
だから、クリーチャーは油断をしてしまったのだ。異物感が気になって左目の義眼を外した姿を見られたのは、酔いつぶれて並んで寝た朝のことだった。クリーチャーの顔にぽっかりと空いた空洞を見つめるナワーブの顔に浮かんだのは恐怖、そして悲哀と憐憫で、大概の人にありがちの反応である。ただ、それ以上はなかった。普段のクリーチャーは何事もなく日々に戻ると言うのに、どういうわけかぺろりと彼に理由を話したのである。彼との沈黙を埋めたかったのは確かだ。
だが、こんな捨て去った過去など話す必要があったろうか?同情をひきたい相手ではない。ではないが、ナワーブに話した瞬間にクリーチャーは許されたような心地になったのである。こんな自分であっても良いのだと、毎日何とはなしに思っていた当たり前のことに理由をもらった気さえした。生きていく中で他人がいないことが大前提だったと言うのに、ナワーブの存在はひどく魅力的に感じられる。
「あなたにも傷つくなんてことがあるのね。考えてもご覧なさいよ。ヘレナは両目が見えないわ。トレイシーはあまり多くを話さないけれども、父親を良くない形で亡くしてる。あんなに若いのにね。ウィラが、すぐになんでも忘れることにも理由があるでしょうね。ここにいる人は何かがおかしいのよ。あなただけに同情する程彼は不公平かしら?それともあなたが特別なのかしら。あの子は多分、肩を並べても上から手を差し伸べるようなことはしないでしょうよ」
「……耳が痛いな」
自分だけが極め付けに不幸であるつもりはなかったが、こうして荘園にいる人間をつらつらと上げられれば閉口してしまう。本当のことなど何一つとして知らない。だが、ナワーブがクリーチャーにだけその感情を向けてくることは事実だった。同時に、自分にはまだ傷つくような箇所が残っていたのかと苦笑する。他人の勝手な同情や憐憫などいくらでも受けてきたし、利用さえしてきたというのに何を今更傷つくと言うのか。
「さ、お話はこれでおしまい。次はザッハトルテだったかしら?この前トレイシーが話していたケーキを持ってきてちょうだいね」
「食い意地の張った医者だな」
「美食家と言いなさいよ。あなたの作るケーキが美味しいから体重が増えたってマーサがこぼしてたわ」
「それは身に余る光栄だな」
菓子や軽食を作るのは一種のおもねりと、ゲームで少しでもうまく連携できるようにという打算によるものだが、受け入れられれば喜ばしい。計算通りだ。ナワーブだけが計算からこぼれていく。彼はどうして、自分の思うような形で接しないのだろう。愛などわからない、自分でさえ手に負えていない代物をぶつけてこられて、一体どうやって返せば良いと言うのか。
気づけば調理場に立ってキッシュを作っていた。ほうれん草にチーズとベーコン、奇しくもナワーブが先日美味しかったと満面の笑みを浮かべたもので、クリーチャーは思わず耳を赤くした。ふとした瞬間にナワーブのことを考えている。何故なぜどうして、どうしたら。仕掛けたオーブンにキッシュを入れ、焼き上がりを待つ。こんな風に心も分かりやすければ、自分は迷うことなく返すだろう。心は目に見えない。
目に見えないものを掴むことはできやしないのだ。
なんとも食欲を誘う香りに足を止め、ナワーブは撞球室から自室に戻る足を調理場に向けた。今日のビリヤードはなかなか良い仕上がり具合だった。お前の腕に肘当てが嵌ってるんじゃないだろうな、と何度も指南役であったカヴィン・アユソが確認してきたほどである。最初はあんな小さな穴にボールを入れることのどこが楽しいものかと馬鹿にしていたが、なかなかどうして面白い。技の磨きようもあると言うものだ。
手先だけでなく頭も使って疲れたならば、その分だけ栄養摂取をすることが最適解だろう。調理場に足を踏み入れると、開けた窓辺にもたれたクリーチャーがタバコを吸って煙を吐いていた。長々と吸って、その成分を全て肺に収めようとするのが彼の吸い方である。貧乏人の吸い方だな、といつしかフレディ・ライリーがせせら笑っていた。
「お、君が一番だな」
タバコをグリグリと棧に押し付けて火を消すと、クリーチャーは吸い殻をゴミ箱に捨てた。火の消し方はぞんざいだが、妙なところで丁寧なのだ。好きだ、とナワーブは思う。こんな些細なところまでが頭の中をクリーチャーでいっぱいにする。オーブンが出来上がりを知らせ、クリーチャーがゆっくりとオーブンの蓋を開けた。
「この前俺が好きって言ったやつ!」
「当たり」
ニヤッと笑うと、クリーチャーは丁寧に中身を取り出し大皿の上に乗せた。キッシュだ!バターのとろけた香ばしい香りに、ベーコンやほうれん草が踊っている。きっとチーズもぎっしりと入っているに違いない。クリーチャーが作るキッシュは絶品で、母親の作る手料理と並ぶ美味しさだとナワーブは心密かに思っていた。
「ピアソンさん、大好き」
「私の作ったキッシュを、だろう」
「違うって」
何度も繰り返してきた遣り取りに、ナワーブは少しぞんざいな物言いで返すと切り分ける皿を取り出しにかかった。イライ・クラークやウィリアム・エリスと言った育ち盛りの面々に見つかる前に自分の分を確保しなければならない。本当はまるまる全部欲しいのだが、ぐっとこらえるのは子供っぽくなどないとクリーチャーの前で格好つけていたいからだ。
「……これは、食べたらなくなるんだ」
「うん?」
不意に響いた静かな声に、ナワーブはウナギの尻尾を垣間見た。クリーチャーの右目が揺れている。深い湖の青の向こうに見えたのは、狂おしいまでの葛藤だった。
「このゲームが終わったら、私も君も赤の他人なんだな」
絶望的な未来の話に、キッシュを切り分ける手が止まる。まだ足りないのか、とまたもやもやしたものが胸の内に広がった。今の自分たちがここだけでしか肩を並べられないと?外の世界には持ち出せないという根拠など、どこにもないではないか。モヤモヤとしたものは怒りに変わり、ナワーブはキッシュに使っていた包丁をクリーチャーに向けた。
「言う台詞を間違ってるよ、ピアソンさん」
「これは事実だ」
「けど、あんたは本当のことを言ってない」
いつでもそうだ。クリーチャーは逃げていく。彼の気持ちは宙ぶらりんに揺れていて、ナワーブの手に届きそうで届かない。自分だけが安全な場所に身を置くだなんて不公平だ、とナワーブはナイフをキッシュに突き立てた。びくりとクリーチャーの肩が揺れる。言葉がぶつ切りになって宙を漂う。
「お、お、おおお前が、ほ本気なら」
「うん」
「ず、ずっとここにいてくれ、永遠に」
あんまりにも飢えた叫び声に、ナワーブの視界は弾けた。吃音を抑えて続けられた言葉はクリーチャーの心の奥底から取り出されたものだと全身で訴えかけてきている。ナワーブが欲しがる以上の欲望が両手を広げて待っていた。
「馬鹿だね、ピアソンさん」
そうでもしなければ信じられないクリーチャーが愛しくてたまらない。自分が何を言っているのか本当に理解しているのだろうか?逃げ去ろうとするクリーチャーを捕まえて強く強く抱きしめると、ナワーブは快哉をあげた。
「あんたが嫌でも、あんたが骨になってもずっといるよ」
「それは見ものだな」
背後で拍手とピーピーと指笛が鳴らされる。キッシュにつられて住人たちが集ってきたらしい。慌ててもがき出すクリーチャーに無理やり口付けると、ナワーブは大袈裟に観衆に一礼して見せた。何せ、捕まえられなかったウナギをようやく捕まえたのである。栄誉と賞賛と賞品の全てを手に入れたナワーブは、右手にキッシュを、左手にクリーチャーを携えて堂々と部屋を出た。
〆.