惑わされたのは、どちらなのか。
Yumyum!
ちょっとした興味だった。暇を持て余した時、無聊を慰めるに相応しいつまみ食いができる相手を求めていた。空に飛んでいった風船のように軽はずみな好奇心で、後先考えぬ行為だ、だからどハマりして仕舞えばどう動けば良いのかわからなくなってしまう。そういうものがあるとは知らず、ナワーブ・サベダーはただ自分を満足させることを選び取った。これは、一人の愚かしい男の幸せな話である。
きっかけはある日の昼下がり、遅い昼食を楽しもうと食堂にたどり着いた時のことだ。本来の昼食はもちろん食べてはいたが、ガンジ・グプタと食後のクリケットをこなしたところ、あっという間に胃袋が空になってしまったのである。一緒に動いたはずのガンジは燃費が良いらしく、そのまま悠々とゲームに出かけていった。顔立ちからして同じくらいの年頃だろうと睨んでいたが、存外若いのかもしれない。
荘園の良いところは、異なる生活時間を持つ者たちが複数集まっているため、つまむ程度のものならばいつだって用意されている点である。世界各国の郷愁が、一枚の皿の上に載るのは圧巻だ。今朝方、クリーチャー・ピアソンがノートン・キャンベルの要望に応えて(もちろん有償だ)ドーナッツを揚げていたのは既に確認済みである。チョコレートにアーモンドクランチに、はたまたついでに作られたアップルダンプリング、どれも食べたいと欲張ったところで、背後で新たな来客に叱責が飛んだ。
「ちょっと、トレイシー。油まみれの服で席に着いちゃダメだよ」
「あー、忘れてた。ごめんね、パトリシア」
見れば、悪びれもしないトレイシー・レズニックは何をやっていたのか、服の所々に黒い機械油をべったりとつけたまま着席していた。彼女がグローブを嵌めた手を置いた後には、テーブルクロスにくっきりと手形が残されている。パトリシア・ドーヴァルは染み抜きが大変だ云々と解きつつ、トレイシーに着替えるよう命じた。呪術師なる、凡そ日常生活に縁のなさそうなこの女性は、こうした細々としたことに気が回る。母の面影を脳裏に過らせ、ナワーブはさっくりとしたドーナッツの食感を楽しんだ。軽やかな仕上がりで、それでいてどっしりと胃袋を満たしてくれる。素晴らしい。
パトリシアの家庭的な側面を遺骸と呼ぶならば、ドーナッツの製作者についても同じことが言える。クリーチャーは見るからに怪しげで、胡散臭く、信用ならぬ抜け目のない男だ。生き延びるに当たって、彼の生存本能とでも呼ぶべき勘は頼りになるものの、外の世界でお近づきになりたいかと言えば答えは明確に否である。エマ・ウッズに対して動揺した挙句に口汚く罵り、あまつさえ暴力を振るわんばかりだったというのは彼の素性が伺えた。
そんな男が、である。彼の生み出す料理は暖かで美味い。特段凝ったものではなくとも、誰しもが安心して口の中に迎え入れることのできる料理の数々を生み出している。誰だって驚く、そうだろう?ナワーブも最初は罠ではないかと敬遠していたほどである。彼と旧知の仲だという(正確には『腐れ縁』だそうだ)エミリー・ダイアーが認めていなければ、今でも口にしないままだった。
口と言えば、手先に反してクリーチャーはともすれば吃り、さして上手くはない。フレディ・ライリーとくだらない喧嘩をする際、罵倒する語彙があまりにも貧困で、ヘレナ・アダムズが見えない目で哀れみの眼差しを向けていた。だから暴力に訴えるのだ、と言いたいところだが、彼の膂力はウィリアム・エリスが易々と取り押さえられる程度のものである。つまり、彼は普段の生活において勝ち目のない勝負で虚勢を張っている――と言えるのかもしれない。ナワーブにしてみれば、こうして美味しいドーナッツを食べられるのであればなんだって良い話ではあるのだけれども。
「パトリシア、もう諦めたら良いわ。貴女、毎回トレイシーに注意しているけれども、あの子が言うことを聞いたことなんてないじゃない」
「それは違うよ、ウィラ」
どうやら話はまだ続いていたらしい。おっとりとしながらも、冷たい響きを持たせるウィラ・ナイエルの物言いは至極上品だった。彼女の香水にも似ている。黄色いパンケーキに似た何かを食べるウィラは、先程のパトリシアたちのやりとりが無駄に思えるらしい。確かに、ナワーブも幾度かトレイシーが注意される場面に出くわしたが、これと言って改善されたようには思われない。トレイシーは発明以外の何もかもを母親の体内に置いてきてしまった少女で、ややもすると食べることだって忘れてしまう。その点、遅ればせながらも食事にやって来たのはちょっとした進歩と言えるかもしれなかった。
「何度も同じことを繰り返して言えば、自然と刷り込まれるでしょ?まあ、私が煩いからやめておこうって思うのかもしれないけど、結果は同じだよね。今日だってご飯を食べに来たし」
「一理あるな。ウィラ、忘れっぽい君より見込みがあるんじゃないか?」
「余計な口を挟まないでくださる、フィオナ・ジルマン。私は忘れたいことを忘れられるだけよ」
「へえ」
挑発するようなフィオナの口ぶりがまたふるっている。それからは舌鋒鋭い応酬が耳の中で踊った。ナワーブは右から左へと聞き流しながらも、刷り込み作戦に興味をそそられていた。先ほど自分が思った通り、トレイシーが自ら食事にやって来たのはパトリシアの成果であるらしい。人の生活習慣を変えるのは中々のものだ。恐らくトレイシーは生まれてこの方あの調子だっただろうと想像されるだけに、尊敬に値する。ならば、ならばだ――他の人間にも応用できるのではないか?
「あり得ますね」
人でなしの質問に対し、即答したのは頼りになるイライ・クラークだった。軽食を楽しんだ後、フクロウの散歩に出かける頃だと見計らって庭に出たらばすぐ様尋ねびとは見つかった。何故か横でウィリアムとアンドルー・クレスが草むしりをしていたのは、多分何か後ろ暗いことをした罰なのだろう。哀れな虜囚には触れず、ナワーブはイライに刷り込みに関してそれとなく尋ねた。占い師という胡散臭い(そういう意味では如何わしい連中ばかりが荘園に住んでいる)商売を嗜んでいたせいか、イライはこの手の人間心理に聡い。ナワーブの心中を知ってか知らずか、すぐさま得たい答えを与えてくれた。求めよ、さらば与えられん。
「言葉には意味があります。どれだけ聞き流そうとしても、言葉が意味を持って耳に届く限り、頭の片隅に残ってしまうんです。しばらくすれば忘れるものでも、何度も繰り返せば残り続ける。そのうち、まるで最初から自分のものだったように錯覚していくとも言えるでしょう。言葉だけで人を呪う方法もあるそうですから、パトリシアは知っているのかもしれませんね」
「……俺、パトリシアには逆らわないようにしておこう」
情けない声を上げたのはウィリアムだ。きっと今の状況と関係があるのだろう。遠い目をした相棒をよそに、アンドルーは小声で罵っていた。やや社会性のない彼のことだ、恐らく巻き込まれた結果なのだろう。さっさと逃げれば良いにもかかわらず、大人しく刑についているのは生来のお人好しさ故だとナワーブは見ていた。そうでなければ、こんな荘園に足を踏み入れることもなかったに違いない。
毒づいた言葉が自分を突き刺さぬように捨て去ると、ナワーブはどんなことでもか、とイライに再度尋ねた。誰であっても、どんなことであっても?ナワーブの意図を知ってか知らずか、イライは目隠し布の向こうから透けて見るような仕草をし、肩へと舞い戻ったフクロウにおやつを与えた。ぶよぶよとした虫のように見えたが、薄気味悪いそれをどこにしまっていたのか、さっぱり見当もつかない。如何わしい手品を目にしたような気分だ。
「信頼関係は大事でしょう。トレイシーだって、パトリシアを信じているからこそ、耳を傾けるんです。何もない場所から始めるには、時間が必要でしょうね」
「つまり――できないことじゃないんだな」
「可能性は無限大ですから」
未来はたった一つの道のりへと収束されると託宣を受ける人間が言うには、あまりにも皮肉なセリフだった。イライは本気で信じているのだろうか?運命というものを信じる癖に、何が望みなのだろう。何某かの愚かさと同時に人間臭さを覚え、ナワーブは故に柔らかくなる自分の眼差しを自覚していた。こうでなければ、ゲームで背中を預けるには値しない。
「ナワーブ」
「うん?」
上機嫌で去ろうとする背中に、静かな声が地面からかけられた。振り向かずに気配だけ追うと、地面の下と語り合ってきた男は如何にも人付き合いが下手そうな物言いをした。
「面倒ごとには巻き込むなよ」
「自分から巻き込まれない限りはね」
フィオナのことを笑えない。小声で毒づくアンドルーに小気味良さを覚えながら、ナワーブはさてどう料理しようかと新しい遊びの全体像を描いた。相手は誰にしよう?社交的な人間は他人の助太刀が入る可能性があるので却下、愚鈍すぎるのもつまらない。からかっても罪にはならず、寧ろ周囲も喜ぶような相手でなければ、最後まで楽しむことはできないだろう。趣味が悪かろうとも、荘園に居続ける限りにおいて保身は大事だ。
「だ・れ・に・し・よ・う・かー、なっ」
幾人か候補を思い浮かべて指をさしてゆく。そうして並べてみれば、意外にも誰かは誰かに慕われているものだと知った。借宿暮らしの人々は、存外人間らしい生活を営んでいるらしい。自分自身もまた、友情めいたものを抱いているのだから、他人であってもありうる話だろう。一人、また一人と候補を消して、最後の最後に残ったのは――
「決めた」
クリーチャー・ピアソンだ。彼の料理は人を魅了するが、身の安全を心配するほど慕われてはいない。エミリーさえも、彼のことを友人とは思ってはいないのだ。恐らくエマに対するクリーチャーの執着が暴力的であることが理由だろう。同様にして、彼の粗暴さは他の誰からも敬遠されているようだった。その一点を除けば、世慣れた風のあしらいができる男にとって致命的な欠点である。それがなくなれば?もちろん皆喜ぶはずだ。良いだろう。
「優しい人になれるといいね」
それが自分もまた望む姿だ、と思い浮かんでナワーブは首を振った。
自分が自分でもどうしようもなくなる。長年生きていたクリーチャーにとって、凸凹の激しい自分の気性は手に負えない代物だった。だが直すには余りにも色々なものを否定せねばならず、いっそ自分自身を失うことに繋がりやしないかと落ち着かない。むしろそんな自分だって良いだろうと、がむしゃらに突っぱねることで生き抜けた節がある。一度激情にかられた結果に対して、帳尻を合わせるような行いをしたところで、他人は忘れてくれやしないことくらいはわかっていた。それでも、取り繕うのはハリボテのような自尊心故である。
「作りすぎたな」
大量のビーバーケーキを前にして、クリーチャーは深々とため息をついた。使った材料の量は考えたくもない。作る前までは冷静で、いくつ作ろうかと思案していたはずである。それがどうして巨大なオーブンいっぱいにまで増えてしまったかは、全て事前の言い争いに基づくものだった。
ビーバーケーキ(Belvoir Cake)は、切り口にその名の通り美しい眺め(Belvoir)を呈するレーズンパンである。ただのレーズンパンではつまらないので、ナッツやドライフルーツ、ついでいくつかにはスパイスを効かせるのがクリーチャー流だ。ケーキの名を冠するものの、あくまでパンであるため、ふわふわの食感も忘れてはならない。因みに注文主はルカ・バルサー。彼はパネトーネなるイタリア菓子を注文してきたのだが、レシピが見つからなかったため、話の内容から似たようなものを作りに至ったのである。見返りはもちろんお金だ。金はいくらあっても困らない。
金額分だけ作る予定のクリーチャーが、食料品庫に向かう途中で出会したのはエマだった。彼女は奇妙にも自分の気を昂らせる。可愛らしくも謎めき、他にも数々の美女がいる中でも特別に思えるのは何故だろう?それが恋だよ、とは何故かカヴィン・アユソは言わなかった。恋などしたことのないクリーチャーにとってはいずれにせよ見当のつかない話である。愛など自分の人生には不要だ、愛がいざという窮地を救ってくれるのか?感情はその場限りの幻に過ぎない。
それでも情動が備わったクリーチャーは、可能な限り優しい声音でエマをお菓子作りに誘った。我ながら賢い考えだと思ったのだ。彼女と二人きりで話せば、もしかしたら自分も何か答えを得られるかもしれないし、彼女の中で生じた勘違いを晴らしてくれるのではないかと。自分のしでかしたことは間違ってはいないが、衆人環視の前で暴力を振るったのは不味い手だった。うまく取り消しておくに越したことはない。
「嫌なの」
「う、ウッズさん、ほんの少しだけで良いんだ」
「嫌」
返ってきたのは強い拒絶で、それから自分が何をしたかをクリーチャーは忘れることにした。都合の悪いことをいつまでも覚えていたところで無意味だ。結果は、現場をノートンとガンジに取り押さえられた挙句の食料品庫への監禁である。食べ物は尊重せねばならないので、クリーチャーは黙々と材料を選び、釈放された際には看守を使って厨房に運ばせた。その結果がこの惨状である。オーブンからは生まれたての命が、たまらなくいい香りを放っていた。欠食児童が多いので、さぞや喜ばれるだろう。
「良い匂い。今日は何作ってくれたの」
「さ、サベダー君か。びっくりさせないでくれ」
ゆっくりとオーブンの中から取り出したところで声をかけられ、クリーチャーは危うくトレーを取り落とすところだった。するりと飛び出して背を支えたのは、何故かナワーブである。彼の出現にも驚いたが、何より他人に優しく触れられたことは俄に信じ難い。がっしりとした腕は、クリーチャーを捕まえるでも殴るでもなしにしゃんと立たせると離れていった。
「あー、その、有難う」
「良いんだよ。下心があってやったんだからさ」
恩に着せるでもなく青年は返すと、チラリとトレーの上を見やった。なるほど、彼が助けたかったのは菓子の方らしい。作り過ぎた料理の数々を一番消費する男であることを思い出し、クリーチャーは思わず苦笑した。戦場での経験は、普段の索敵能力にも活かされているのだ。
「今度は誰に頼まれて作ったの?」
「ルカだ。と、言っても彼が頼んだものは作れなくてね。似たようなものさ」
「美味しい?」
「私は食べられるものしか作らない。美味しいかどうかは、君が勝手に決めれば良い」
ナワーブの意図が読めない。こんなやりとりは初めてだった。反射的に突き放すような返事をしてしまい、クリーチャーは顔を顰めた。ご機嫌取りのつもりで菓子を作ったと言うのに、真逆のことをしてどうする。だが、青年の機嫌は寧ろ上向いたようだった。唇が弧を描き、そろりと手がビーバーケーキへと伸ばされる。間髪入れずに叩き落として、クリーチャーはいっそどうとでもなれとやけくそのような気分になった。
「痛っ」
「すぐに食べようとするんじゃない。口の中を火傷するだけだぞ。お茶を淹れるから、君はそこで見張っていてくれ」
「……ピアソンさんってさ」
「今度はなんだ」
さして仲の良い相手ではないためか、警戒心が先立つ。ささくれ立った心を笑うかのように、ナワーブは腕を組んで見せた。つまみ食いをしないという意思表示だろう。エミリーならば上手く謎解きをしてくれそうだが、あの上品な女性はゲームの真っ最中だった。否、いたところでクリーチャーの狼狽える様を面白がるだけに違いない。ポットに水道から水を入れると、小さく呼吸をしながら火にかけた。
「意外と優しいんだね」
「な、な、何を、きゅきゅ急に言い出すんだ、気、気は確かか」
寝耳に水とはまさにこのことである。ポットを手放していて本当に良かった。今度こそ取り落としていたに違いない。優しい?それこそクリーチャー側の下心なしに言われたことがないセリフである。『慈善家』は恩を売る商売である。優しいと思って欲しい相手に思ってもらえればそれで良い。せっせと頭を使い、身を粉にして働く先にあるのは自身の利益だ。自分は彼のために何かしてやっただろうか?何をしてもらおうか。クリーチャーの混乱に対して、発言者はどこ吹く風で話を続けた。
「だってさ。ルカに頼まれただけなら、こんなにたくさん作らなくて良いでしょ」
作り過ぎただけである。有り体に言うならばむしゃくしゃしたのだし、ついでに他の人間のご機嫌取りのためでもある。彼らでさえも、手放しに優しいとは評さないだろう。その程度のことはクリーチャーも織り込み済みである。
「それに、俺が火傷しないように注意してくれたし。お茶なんて淹れるつもりなかったのに、俺のために淹れようとしているよね」
「……私も飲みたかったからな」
ようやく及第点の答えを絞り出すも、クリーチャーは最早異論を挟む気概を失った。寧ろ好都合ではないか。本当は優しい人間だと周囲に思い込んでもらえたらば、それこそ緋文字も打ち消せるだろう。新たな活路が見えた瞬間だった。
なかなかどうして、自分も捨てたものではない。もちろんこのクリーチャー・ピアソンは悪いものではない――自分一人くらいは思わねば生きていけない――が、客観的に冷静に判断できるようになったのは確かである。思い込みでも妄想でもなく、クリーチャーは長年生きてきた中で初めて見出した長所に満足していた。やはり無意識ながらも、『慈善家』という体裁を考えたのは自然の摂理だったのだ。
周りくどい言い方は止そう。何と驚くべきことに、クリーチャーは『優しい』人間だったのである。無自覚に振る舞っていたとは我ながら情けない。否、勝手に享受しながらも感謝の一つもよこさなかった相手が悪いのだ。涼しい顔立ちでイラつきを抑えると、冷蔵庫の中身を確認する。思った通り、仕込んでおいたタフィーが良い具合に固まってきたようだ。今日は夜食用に包んでおくとしよう。夜中にこの手のものを食べるのは歯に良くないそうだが、知ったことではない。
当初は疑い、否定し、聞き流してきたのだが、何度となく誰からをも言われるようになれば話は別だ。いつもより少しだけ、他人に心を傾ける、ないしは知らぬうちに傾けていた行為は数え切れないほどにあったらしい。有難うと言われ、優しさを讃えられ、クリーチャーはすっかりいい気分になっていた。面映ささえなく、抜け抜けと『慈善家』なのだから当然だ、とまで言える程である。善人とまでは言わないが、優しいクリーチャー・ピアソンという看板は魅力的だ。
「これって食べ物?」
「ああ。歯が解けるほどに甘い」
いつの間にやら後ろから覗き込んで来たナワーブに答えるのも慣れたものだ。賞賛の声と同じように、冷蔵庫の扉を閉めながら堂々と受け止めることができる。思えば最初に自分の良さを告げたのは彼だったかもしれない。感謝の気持ちは少しも湧かないものの、クリーチャーは彼には多めにタフィーを与えようと心に決めていた。それくらいはしても良いだろう。
「全員分あるから、心配しなくて良いぞ。もう少し冷えたら配る予定だ」
「全員分ね。優しいんだ」
「ああ」
字面は優しいにもかかわらず、棘のようなものを感じてクリーチャーはナワーブを振り返り見た。幼い顔立ちは静かなもので、なんの感情も読み取れない。何か自分は間違っていただろうか?他人に基準を求める無意味さは理解しているが、それでも彼が何を思うかは気になって仕方がなかった。最初に優しさを教えてくれたのはナワーブだ、と思う。ならば否定するのは大いなる裏切り行為に等しい。ナワーブは自分を拒んではいけないのだ。
「どうかしたのか?甘いのは好きだろう」
「好きだよ。後で食べるの、楽しみにしてる」
「なら良かった。夕飯、残すなよ」
「当たり前でしょ」
お代わりだってしてみせる、と言い放つナワーブの顔は晴れ晴れとしていて安心をもたらした。先ほど過った暗雲は杞憂であったか。ならば問題はない。タフィーをどうやって包もう。元々欲しいと話していたのはメリー・プリニーで、虫と過ごす夜更かしの常習犯は頭を使い過ぎて糖分が欲しくなるらしい。直接要求されたわけではないが、ちょうどウィラの要望でメレンゲを制作している最中だったこともあり、ついでに作っても良いだろうと片手間に作業を始めたのだ。トレイシーは飾らぬ女性で、そのあたりにある布巾で包んでも喜ぶだろう。だが他の人間はそうはいかない。
優しさは、少なくともクリーチャーにとっては目に見える形で相手に伝わらなければ意味がないのだ。今ならば、この優しさの貯金が将来の自分を助けてくれる可能性があると信じられる。優しいという形容詞が板についてからというもの、普段の生活でもゲームでも自然と人がより集まって手助けを申し出ることが随分と増えた。ナワーブのようにあからさまな期待を込めて厨房を彷徨く人間もちらほら出ている。
先日は盗み食いを果たしたマイク・モートンを荘園中追いかけ回すハメになったが、その際にはノートンが助けてくれた。磁石で吸引されたマイクを搾り上げたのはセルヴェ・ル・ロイで、優しさのお返しとして豚肉とパプリカのテリーヌを作成させられたのは記憶に新しい。あの男はなかなかどうしてちゃっかりしている。この荘園にいるのはそんな人間ばかりだ。
エドガー・ワルデンが手慰みに作ったパターン印刷の紙がどこかに残っていたはずだ。あれをヘレナが得意な折り紙で折ったら、ひねりの効いた逸品になるかもしれない。彼らとて、声をかけられて嬉しいだろう。エドガーは他人を突き放す人間だが、彼だけの役割を与えられると満更でもない様子を見せる。ヘレナは――ヘレナは、『優しい』人間で、彼女に優しくすることは他人に優しさの連鎖を示す良い機会だ。計算に計算が飛び交い、頭を埋め尽くし心躍らせる。良いぞ、クリーチャー。この調子で外の世界に出れば、紛れもなく成功が待ち構えているだろう。
「なあ、サベダー君。包み方は……どこに行ったんだ?」
長く考え込んでいるうちに、呆れたのかナワーブの姿は消え失せてしまっていた。彼には彼の生活があるのだから当然である。エドガーの居場所を思い出しながら、クリーチャーはもう一度だけタフィーの具合を確認した。完璧な出来栄えだった。
本当に刷り込みなのだろうか。首尾よく運んだ現実に、ナワーブは混乱を隠せないでいた。クリーチャー・ピアソンを『優しい』人間へと変える思いつきは大成功である。最初こそ不審がられたものの、今では当たり前のように『優しい』という評判を受け止められるようになった。ナワーブの企画はイライ達に持ち込まれ、更には荘園全体のお遊びと化している。最早参加者達は今の生活を当たり前のものと思い、遊びであることを忘れたらしかった。それもまた刷り込みの効果と言えるだろう。
最初はナワーブだけの遊びだった。それらしい理由を並べて、クリーチャーの気持ちをほぐしながら『優しい人間』という幻想を植え付けてゆく。警戒心の強い野生動物のような怯えた目が、段々と緩くなる様を見るのは気分が良かった。イライが言うところの信頼関係ができた証と言えよう。厨房に顔を出すのは時間潰しにもなり、ついでに慣れてくればクリーチャーがつまみ食いを許してくれるので役得である。
「面倒なのにさ、一から教えてくれて有難う」
「良いんだ。私は『優しい』からな」
いつのことだったか。話の隙間に滑り込ませ、クッキー生地を一緒に伸ばしながらナワーブは暖かな気持ちを抱いていた。優しくさせるためには、自分も優しくあらねばならない。賢しらな相手の物言いは成功の兆しだった。本来ならば喜びが滲み出すべき瞬間である。が、麺棒を転がしたナワーブの胸の内に去来したのは正反対の苦さだった。
「自分で言う?」
「君がいつも言ってくれるからな。『優しい』君がね」
皮肉ではない証拠に、クリーチャーは照れ臭そうに目を泳がせ、唇を歪めていた。以前であれば読み取れなかった表情である。思えば、初めて自分が刷り込みをかけ始めた時も難しい顔つきをしていた。恐らく誰かに温かい言葉をかけられることに慣れていなかったのだろう。それがナワーブの手によって受け入れられるようになったとは!達成感にじわじわと胸に喜びが広がり、誤魔化すようにしてむにゃむにゃと返事をした。初めて聞くクリーチャーの笑い声は、存外快活だった。まだ自分しか知らない。自分だけが知っている。
「ピアソンさんって、優しいんだね」
固い鍵をこじ開けた宝箱は、すぐさま他の人間にも知られることとなった。ナワーブだけの特別は、当初の見込み通りに周囲の人間にも受け入れられる結果を迎えたのである。最初に気がついたのは誰だったか、トレイシーだったようにも思う。朝食と呼ぶには些か遅い時間にやってきたトレイシーは、わざわざ着替えたらしい様子で満足そうに席に着いた。手に提げた布袋はやたらと重たそうで、軽やかな室内着と不釣り合いである。二度目の朝食を楽しんでいたナワーブは、成果を喜ぶパトリシアに片目を瞑って見せた。
「急にどうしたの、トレイシー。ピアソンさんと何かあった?」
「何があったと思う?ピアソンさんがくれたんだよ!この前欲しいなあって思ってた部品のこと覚えててくれてね。今朝のゲームで取ってきてくれたんだ」
「お願いしてないのに?珍しいね」
言いながらもパトリシアは懐疑的だった。クリーチャーが依頼もなく下心なしに誰かに手を差し伸べることがあるだろうか?凡そ善意の塊とは言い難い人物である。ジリジリとしながら待っていると、驚いたことにトレイシーはパトリシアの疑念に指を振って見せた。
「有難う、って言った時のピアソンさんの顔を見たらパトリシアもわかるよ。あ、エマに対してみたいな態度じゃなくてね」
「そう……」
聞き手は半信半疑の様子だが、ナワーブは自分の勝利を確信していた。刷り込みが効果を発揮している!彼は本当に優しい人らしい行動を振る舞えるようになったのだ。成功以外の何物でもない。フォークを持つ手が震え、ナワーブは束の間滑り込んだ落胆を押し留めた。がっかりするような要素はどこにもない。今は一人祝杯を上げ、これからも観察と刷り込みを続けてゆこうと決心を新たにする場面だろう。にも関わらず、食べかけのキッシュが俄に冷たさを増していた。
「面白いことをやっているようですね」
「わかっている癖に聞くなよ」
フォークで美味しさを感じなくなったキッシュを突いていると、イライ・クラークの声と共にふわりと隣に梟が舞い降りた。どうやらおこぼれをいただきたいという要望らしい。飼い主の意味ありげな視線を無視すると、ナワーブはキッシュのかけらを全てくれてやった。作ったのは確かイソップ・カールだった。正確にはウィラが担当であったところ、手を動かすのは別の人間だとイソップをうまく使ったのである。彼が心中何を抱えていたかは杳として知れない。
「良い話じゃないですか。『優しい慈善家』は大歓迎されますよ」
「……何が言いたい」
「僕もお手伝いしましょう。ほら、手はいくつあっても困りませんからね」
要するに、面白そうだから一枚噛ませろ、と言いたいのだ。せっかくここまで進めた駒を、盤面諸共崩されてはたまらない。参加者は寧ろ有難いもののはずだが、ナワーブの気分はいっかな晴れなかった。イライが参加すれば、他の人間も巻き込み、やがて荘園全体にも広がってゆくことは容易に想像される。当初の目論見通りにことは運び、クリーチャー・ピアソンは本当に『優しい』人間になるのだ。良いではないか、万々歳だ。それのどこに不満を抱こう?
そして現実は進行し、ものの見事にクリーチャーは変わった。押し付けがましくなく、さりげない気配りが好意的に評価されるようになるまで、さして時間もかからなかった。あまりにも滑らかに進むので、ナワーブの方が流れについていけなかった程である。クリーチャーの明るい声を聞くことは増え、エマとさえもかつてのような衝突は減った。あるいは問題が起きても大事になる前に収まるようになったのだから、驚異的と言わざるを得ない。
作り出した日常が当たり前のような顔をして歩き始めると、途端に感覚は麻痺し出すもので、クリーチャーの癇癪癖はとうの昔に色褪せていた。優しくない彼を思い浮かべる方が難しいかも知れない。否、元々彼は優しさの片鱗は見せていたのだ。変化は受け入れやすい形になるよう、各々の頭の中に勝手な物語を描いたらしかった。ナワーブも混乱の余り、現実と幻想の端境に連れて行かれてしまいそうになる。自分だけは、自分だけは全てが絵空事だと知っている。胸が軋むたびに言い聞かせ、ナワーブはゲームを続行した。勝っている最中に降りるなど愚かしい、どこまで行けるか良い見物ではないか。
薄氷を履むような危うい均衡にヒビを入れたのは、クリーチャーだった。
「これって食べ物?」
「ああ。歯が解けるほどに甘い」
いつものように厨房に顔を出し、甘い匂いを嗅いだ。今日も優しい人は、誰かのために手を動かしているらしい。それが当たり前になってしまったから。ナワーブが見つけた初めてのものは、もう自分だけのものでは無くなってしまったから。優しいという台詞を恥ずかしげもなく受け取り、面と向かって差し出すような人間を、ナワーブは別人を見る思いで眺めていた。
「全員分あるから、心配しなくて良いぞ。もう少し冷えたら配る予定だ」
「全員分ね。優しいんだ」
「ああ」
言うつもりのない皮肉が口をついて出て愕然とする。喜ぶべき場面に湧き起こったのはどうしようもない苛立ちで、誰よりもナワーブ自身が信じられない事態だった。望んだ通りの結果に自分は何を求めているのだろう。クリーチャー・ピアソンは『優しい』人になったのだから、誰にとっても優しいのは当たり前なのだ。それを、それを自分は、
「どうかしたのか?甘いのは好きだろう」
クリーチャーが不審がるのも当然だ。自分はこれまで、彼を手懐けるために裏表のない優しさを示してきたのだ。本当はずっと、相手をおもちゃにして遊んでいたに過ぎないにも関わらず、この男は虚像を信じて歩んで来た。誰よりも優しくはないナワーブを『優しい』とさえ評したのである。眩しいほどの純粋さは鋭く胸を穿ち、口の中には益々に苦いものが満ち溢れた。
「好きだよ。後で食べるの、楽しみにしてる」
「なら良かった。夕飯、残すなよ」
「当たり前でしょ」
好きだった。声に出した瞬間、記憶の底から甘酸っぱさが蘇る。自分がまだ荘園での生活に慣れず、誰をも信じられなかった頃、打算も込みだろうが根気強く接し続けていたのはクリーチャーだった。彼が散りばめたパン屑を拾って、いとも容易く団欒の中に入り込めたのである。目的はナワーブの能力だったのだとしても、何もかもを切り捨てた身の上には心底優しさが染み入った。面と向かって感謝をすればはぐらかされ、ついで照れたようにぶっきらぼうな突っぱね方をするクリーチャーを歯痒く思ったものだ。どうして忘れていたのだろう。
何度も跳ね除けられて、寂しさと苛立ちを募らせナワーブの方も彼を拒んだきり、二人の間には余所余所しさだけが漂った。刷り込まれていたのはナワーブの方だったのである。今や繰り返してきた行為の意味は明白だ。クリーチャーの優しさなんて今更の話で、失われたものをまた得たいとどこかで望んでいたのだろう。そうでなければ、どうして彼が赴く先を把握し、どうすれば彼と信頼関係を築けるかを考えて踏み切ったと言うのか。選んだ時に言い訳のように考えた通り――クリーチャーを慕う人間など一人もいないと言うのに。単純な話だ。好きだから、良い人であって欲しかった。好きだから、優しさを求めた。もう一度やり直すことを願った。
だから、他人のことばかり考えるのは計算違いだ、と言えば益々子供じみて惨めったらしい。自業自得だ。人を良いように操作しようとした挙げ句の果てを、故郷の母ならば嘆かわしいと悲しむに違いない。その場に留まり続ければ自分の醜さばかりに目が行きそうで、ナワーブは静かに離れた。
日々はくるくると快調に回り、クリーチャーは新しい生活にすっかり馴染んでいた。今や心身共に『慈善家』になりきった達成感でいっぱいである。賞金を手にすれば、夢はさらに堅実なものとなるに違いない。前途洋々たる未来を掴むのは、時間の問題であるかのように思われた。ようやく本当のあるべき生活を手にできるのだ、自分を嘲笑った連中を出し抜いて!
「作り過ぎたな」
にも関わらず、気づけば山盛りのヤムヤムを前に頭を抱えていた。これでもかと言わんばかりに捻ったドーナッツはどれも狐色に揚がって香ばしい。習い性で粉砂糖を奮って、シナモンやレモンフレークを用意するも、何故作ったかさえ記憶になかった。誰からも要望はなく、誰かが欲しがっていたことさえも知らぬ菓子である。では自分にか、と言えば答えはもちろんノーだ。
むしゃくしゃしていたには違いない。優しい自分に慣れきって、何をしても上手くいく状況に不満を抱くのは余りにも我が儘だ。そうやって自分に言い聞かせ、誤魔化して来たが、嘘をつき続けるのは難しいらしい。昔はいくらでも虚勢を張れたというのに情けない話である。『優しさ』が自分を弱くさせたのだろうか。
賢いが故に、クリーチャーは自分が抱く不安の原因を承知していた。タフィーを作ったあの日以来、ナワーブが厨房に顔を出さなくなったことである。厨房だけでなく、そもそも顔を合わせる機会はぐんと減った。荘園中の信頼を勝ち取りつつある状況下で、唯一奏でられた不協和音は放置し難い。そうして一人離れたナワーブの姿を見るのは、彼が荘園に来た当初以来のことだろう。抜き身のナイフのような鋭さを突きつけた青年を思い出し、クリーチャーは別人のようだと舌を巻いた。当時から、うっすらと素地の良さがあると睨んでいたものだが、自分の審美眼は間違っていなかったらしい。
言わば、ナワーブはお買い得品だった。傭兵という経歴に加え、若さも幼さも都合が良い。彼の世話を焼いたのも単に自分のためである。ただの優しさなど自分にはなかった。それを優しさに変えたのはナワーブだ。
「勝手な奴め」
自分を変えておきながら逃げ出した意図は不明だが、クリーチャーは直感的に怒っても良い立場だと判断した。間違いなく、今の自分はナワーブが用意した陥穽に陥っている。ぬるま湯のような新しい世界は悪くはないが、肝心の仕掛け人が姿を消すのは卑怯だろう。壁にかかった時計を見上げ、クリーチャーはナワーブがどこにいるかを思い巡らせた。傭兵は生活のリズムを大きくは変えまい。ならばどこにいるかは、記憶を辿ればすぐさまわかる話だった。
「良い匂い!ねね、食べてもいい?」
弾丸のようにして現れ出たのは、頬に機械油をこびりつかせたトレイシーだ。少なからず落胆した自分に苦笑すると、クリーチャーは大皿を取り出して紙を敷いた。レモンフレークを振ったヤムヤムに蜂蜜をかけて皿に載せる。シナモンを振りかけたものは手元に残して差し出すも、相手の手袋も汚れていることに気づいて顔を顰めた。
「トレイシー。手を洗ってからなら良いぞ。後で食堂に持っていってくれ」
「そっちのは?」
「これは売約済みだ」
片目を瞑ると、人間関係に疎い少女は柔らかく微笑んだ。
「ナワーブによろしくね」
「な、な、な何でそれを」
「見ていたらわかるよ。一緒にいる時、楽しそうだったよ。あー、パトリシアならこう言うかな。『早く仲直りしなね』」
じゃあね、と魔術師のように華麗に消えてゆく背中は存外たくましい。見ていたのか。見られていたのか、そんな風に。崩れそうになる背をシャンと伸ばし、クリーチャーはどうにか矜持を保ってみせた。ドーナッツは熱いうちが一番美味しい。口の中に入れても火傷をしない程度の温かさを保った、シナモンを振りかけた悩ましい味わいは彼のお気に入りだ。
初めて声をかけた時も、こうして手土産を持っていった。やり直すにはおあつらえ向きだろう。
大勢と暮らす中で、一人の時間もまた肝要だ。孤独ではなく、独立した自分を静かに保つことで得られるものがある。自室で静かに片足を上げ、もう片方の足の膝上に張り付かせる。すっと一本の芯が通ったような立ち姿のまま両手を上げて組めば、さながら大樹のような安定感が生まれた。母国独自の運動、ヨガは木のポーズである。体のバランスを確認するにも適した動きで、ナワーブは一日の中で一度はヨガをする時間を確保していた。
近頃はお遊びに夢中でサボっていたためか、ふらついている。精神の均衡が現れると話したヨガの行者を鼻で笑ったものだが、どうやら知者の言葉は本物らしい。深く息を吸って、吐いて。胸いっぱいの空気を押し出して取り込めば、開け放した窓から清涼な空気が自分を浄化してゆくだろう。有象無象の悩みを捨て去り、いつしか平穏が取り戻されるのだ。吸って、吐いて、吸って、雪崩れ込む空気に俄に甘さが入り混じる。甘さ?閉じていた目を開き、ナワーブは眼前に広がる現実に体をぐらつかせた。
「相変わらず体が柔らかいんだな」
「ぴ、ピアソンさん?」
「ノックはしたぞ」
死んでいるのかと思った、と笑えない冗談を口にしたのは本物のクリーチャー・ピアソンで、悩ましい甘さを小脇に抱えた紙包から放っている。まるで思い出を再現するかのような場面に、ナワーブは束の間言葉を忘れた。ゆっくりと脚を下ろし、根を張る。自分というものを見失わないように、間違えた現実を噛み締めるために。
「試作品を食べてもらおうと思ってな。最近は味見をしてくれる奴が来ないんでね」
「……食べたがる人は他にもいるよ」
「君の感想を聞きたい」
君は嘘をつかないから。純粋無垢な眼差しで、奸計を張り巡らせた男が笑う。紙包を差し出すぎこちない手つきは見覚えがあるもので、ナワーブは今がいつなのかを忘れた。もう随分こんな時間はなかった。
「ピアソンさんは意地悪だ」
「『優しい』んじゃなかったのか?」
「優しくなんて、なくて良いよ」
誰にでも優しくするくらいならば、彼は孤独でいた方が良い。良さなど自分だけが知っていれば良いのだ。吐き出しきれない醜さが気持ち悪い。クリーチャーには意味不明の言葉だろう。呆れて出て行ってもおかしくはなかった。が、優しい男は尚もそこに立っていた。
「そうだな。君にだけはそうしよう」
「は?何でだよ」
「たまには私も意地悪をしたいのさ」
一緒に食べよう、と甘い声が誘う。こんなに意地悪な優しさがあってたまるか。自分にだけ与えられる特権に、ナワーブの胸にはじわじわと喜びが込み上げていた。同時に小腹が空く。本能は現金なもので、ナワーブはそろりと紙包に手を出した。
「……好きだな」
甘くてしょっぱくて、忘れ難い。なるほど自分はとうの昔から刷り込まれていた。これが恋だ。サクサクとしたドーナッツを口にして、自然と頬が緩む。
「大袈裟だな。まあ、気に入ってくれたなら何よりだ」
「好きだからね」
念を押すように繰り返す。パトリシアは繰り返すことが大事だと言った。ならば今度こそ間違えずに伝えるとしよう。逃げ出せなくなるほどに染み込んで、自然に口からついて出るように仕向けるのだ。その日の完成を思い描いて、ナワーブは次のドーナッツに手を伸ばした。
〆.
あとがき>>
後から恋を自覚するパターンも好きです。と、言うわけで、ピアソンさんを優しい人間に変えようとして大失敗するナワーブのお話を書きました。繰り返して耳にしたことが忘れられないならば、与えられたものも忘れることはないでしょう。タイトルはお菓子の名前ですが、「Yum(美味しい)」を二度繰り返すのは余程美味しいものなんだろうなあとニコニコします。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!