花と脳
大家の欧陽夫人が豆腐を持ってきた。豆腐と言っても滑らかさに磨きをかけ、つるりと胃袋へ直下降するような逸品である。欧陽夫人はこれが得意で、専門店から発注を受けることもあるのだという。真っ白い、まるで赤子の頬のような匂やかさを持つ豆腐は、朝がやってくる手前ほどに謝必安の手に委ねられた。
「あなたたちも、偶には体に優しいものをお食べなさいな」
「ありがとうございます」
どういうわけか、この夫人は大学生である謝必安とその同居人である范無咎は、ジャンクフードを好むものだと頭から決めてかかっているらしい。実際、味が濃いものを多く食べているには違いないので、謝必安は大人しく受け取るに留めた。この手の好意は素直に受け止めるに限る。
「なんだ、謝必安。今日はやけに早いじゃないか」
「起こされたんですよ」
部屋に戻るなり出迎えた、范無咎のあくび混じりの声に苦笑すると、謝必安は豆腐が浮いた桶を卓上に置いた。途端に青年の目は輝きだし、ほうとため息をついて桶を覗き込む。彼の頭の中に描いた絵面は容易に想像できた。
「早速、豆腐脳にしましょう。ちょうど昨晩のスープが残っていますし」
「いやいやいや。こんな良い香りのする豆花なんだ、生姜蜜をかけて食べれば美味しいぞ。ほら、謝必安は喉が痛いと言っていただろう?」
やにわに浴びせかけられた、矢継ぎ早の提案に謝必安は苦笑した。全てこの桶を手にした時に思い描いた通りである。酸辣湯に浮かぶ豆腐を口にする未来を想像しながら、謝必安は大の甘党である范無咎を制した。一挙に覚醒した目が炯々と光って豆腐を見つめている。油断も隙もない。
「豆腐脳です」
「豆花だ」
頑として譲らぬ様子は、少しも折れる素振りがない。范無咎の芯の通った強さとでも言うべきだろうか、己の道を信じて突き進む性質が謝必安には少々眩しかった。大学で学生部会が事務局と争った際も、彼は妥協することなく真っ向勝負で戦い抜いたのである。
謝必安は、と言えばそんな熱狂を冷めた目で見つめながら悠然と暗渠を揺蕩い、裏から手を回して范無咎の活動を支えたのだが――彼が知ることなかろう。閑話休題、ともかく今はまだ温かい豆腐をどうするかが問題だ。欧陽夫人が体に優しいものを、と言ったことは黙っておこうと心に決めて、謝必安はコツコツと額を指で叩いた。
折り合うならば、二品の料理を用意すれば良いだけであるが、目の前の桶はひどく小さい。二品作れば物足りなく思うのは目に見えていた。どちらかを強引に進めても、少なくとも今日一日は気がかりになるだろう。謝必安と范無咎は竹馬の友であり、喧嘩はせいぜい三日続けば良い方だった。とは言え胸にしこりが残らないでもない。正確には、謝必安の側が抱くのは負い目だ。朋友を悲しませると、何故だか二度と取り返しがつかなくなるような恐怖を覚える。忘れられぬ罪を背負うような気分は、決まって眠りの合間に悪夢を見せた。
いずくにぞ中道のあらんや。うんと唸って豆腐を見つめると、早く食べてくれと訴えるかのようにふるりと震える。だんだんと湯気が失われ、呼吸のできぬ苦しさがこちらに伝わってくるかのようだ。さながら見殺しにするかの如き後ろめたさを覚え、謝必安は苦し紛れの案を絞り出した。
「……これは先日、張剪から聞いた話です。彼の故郷では、黒蜜をかけて食べるそうですよ」
「浙江省から来た奴だっけか。あっちじゃ甘くして食べるんだな」
気が乗ったかと范無咎の声が弾む。否、話はこれからだ。
「その上から葱や搾菜をかけて食べることもできるとか。試してみても良いでしょう」
「黒蜜の上から」
想像もつかない、と言いながらも楽しそうだ。ああうまくやった、と謝必安はもっさりとした同級生を心の中で褒め称えた。たまには他人の無駄話に耳を傾ける甲斐があると言うものだ。落とし所に安堵した范無咎は、顔を洗ってくると鼻歌混じりに離れて行く。
これで良かった。後悔はない。次はもっと分けてもらえないかと欧陽夫人に頼むとしよう。やはり自分は酸辣湯に浮かべることを諦めきれないでいた。范無咎とて同じだろう。
今夜はよく眠れそうだと安堵して、謝必安はずっと堪えていたあくびをした。
〆.