ご覧よ、君に馴染んでいくその様を!
給餌
食べる、という行為は生き物にとって切っても切り離せないものだ。自分に課せられた運命以外に深くものを考えることのなかったマウシが、このところしみじみと感じいるのは日常生活の一部一部である。正確には、これまで自分とは何であるべきかに囚われていて他に何も考えられなかったのだ。眠り、夢に落ち、目覚め、食事をし、体を動かし、再び眠る。覚醒をする限り食事は取るし、何より腹が減っては何とやらで、動くことすらままならない。味音痴ではないものだから、母が与えてくれる食事に文句を言わず、感謝をしながら美味しい美味しいと食べていたものだが、この度改めてマウシは食事の意義を考えていた。
「美味しいよ、エスゲンさん」
「本当かい?今回は初めて入れるスパイスがあったから正直美味しいか、心配だったんだ。君にそう言ってもらえて嬉しいよ。作って良かったな」
「嘘をついたって意味がないって知ってるくせに。もっと自信を持った方が良いと思うな……エスゲンさん、おかわり!」
「はいはい、たくさん用意したから気がすむまで食べてね」
目の前に並べられたのは、スパイスが香ばしいショルログ、一口食べれば舌の上でほろほろと具が溶けるスープに、もちもちと蒸しあげられたほんのり甘さを感じるボーズだった。どれも一見すれば母に与えられてきたものと同じだが、全く異なることをマウシは誰よりも知っている。作り手であるエスゲンが、スープのおかわりをよそい、急場凌ぎのテーブルとした岩の上に置いてくれた。黄金色にてらてらと光る様を見るだけでつばきがこみ上げて来る。腹を鳴らしたマウシに、エスゲンは食べ盛りだねえと微笑んだ。
このところ、マウシはアジム随一の料理人であるエスゲンのお相伴に預かってばかりいる。エスゲンは、マウシが属するドタール族と対立するオロニル族の人間であり、早々馴れ合うことなどは決してない。少々込み入った経緯があってのものだが、マウシは部族間のことなど御構い無しにただただエスゲンを慕っていた。事情を知らない同族の者が見れば、胃袋を掴まれ飼いならされたと謗るだろう。だが、互いにそんなつもりはないし、一方は優しさを与え、一方は受け取るという実に合理的で心地よい関係を築いていた。少なくとも、マウシはそのつもりである。
「エスゲンさんのご飯、この先毎日ずっと食べられたら良いのに」
「……大袈裟だなあ、マウシ君は。そのうち私のご飯より食べたいものが出て来るかもしれないよ?それまでは毎日は無理だけど、できる限りは作ろう」
エスゲンが作る料理よりも食べたいものなど出るはずもない、とは反論できなかった。頬に当たる風が冷たくなるように、草原は変化に富んでいる。マウシ自身も大きな変化を迎えたし、エスゲンの方にだってありうるだろう。それでも約束したいと望めばエスゲンは困るに違いない、とマウシは珍しく考え込んだ。二人の関係は友情と呼ぶにはまだ薄く、知人と呼ぶには有り余るほどに濃かった。自分の体は着実にエスゲンの料理に染まり、作り直されていくような感覚すらあるというのに、二人の距離はどうにも縮まらない。そこまで考え、マウシは微かに眉を顰めてスープに口をつけた。本当に自分は、ただこの美食のためだけにエスゲンを求めていると言い切れるのか?
「どうしたんだい、マウシ君。君が黙り込むなんて珍しい」
「ううん、今何か……何かわかりそうな気がしたんだ。エスゲンさん、一つ聞いても良いかな」
「構わないよ。私で良ければ、君の役に立てたら嬉しいな」
「エスゲンさんは、どうして俺にご飯を作ってくれるの?」
根本的であまりにも馬鹿げた問いかけである。それこそ、日々の食事と同程度に看過されるべき事象だった。今更それを聞くのかい、とエスゲンの泳ぐ目が尋ねてくる。君はこの時間が嫌なのか、と。どうしても音に乗せて欲しくなって、マウシも負けじとエスゲンを見つめ返す。しばし、風が鳴る音だけが耳に木霊した。
「あまりおじさんをからかうものじゃないよ、マウシ君!でも、そうだね……私は君に会って、こうして話しているのが好きなんだ。私に向き合って話してくれる人は、そう何人もいないし……寂しさを紛らわせると言ったら君には迷惑かもしれないけれど、幸せのような気がするんだよ。気持ち悪いかな?」
要するに、食事は口実でエスゲンはマウシに会いたいと、ただそれだけだと言うのだった。自分のそばにいることが幸福だなんて、なんて、なんていじましいのだろう!かつてない気持ちがどっと押し寄せて、マウシは思わず立ち上がってエスゲンの肩を掴んだ。マウシとはまるで異なり、円やかな肉がついた肩の心地よさを初めて知ると同時に、どうしようもない程に愛しさを覚える。自分に寄せられるエスゲンの目は、彼がマウシによって変わったことをーーマウシに染め上げられたことを確かに示していた。
「エスゲンさん、どうしよう、すごく嬉しい」
「マウシ君?」
「もっと言ってよ、エスゲンさん。あなたのことを聞かせて欲しいんだ」
おかわりだ、とマウシはいつもの調子で強請った。子供がするような物言いだが、まるで異なることをエスゲンはわかっているに違いない。すうっと目が細められ、そうして微笑まれる。それはおかわりをよそって渡す時とまるで同じ表情だった。
「……良いとも。恥ずかしいな、この歳で、その、初めてなものだから」
温もりが嬉しいのだ。与えられるもの全てが暖かくて眩しい。エスゲンも感じるだろうか、感じて欲しい、この気持ちは互いに行き交って欲しいものだった。勢いのままに抱きしめて、マウシはこの関係を何と呼ぶのか考えてーー放棄した。腹一杯になるまで食べきって、それから考えても遅くはないだろう。
〆.