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毎日が祝日


 バレンタインデー。それは大切な人にプレゼントを贈り合う、冬の最後を飾るイベントである。先日新年を祝ったばかりのように思うが、人々はひと月たりとも無為に過ごせないものであるらしい。日々に潤いを、次のイベントへの希望をと言うわけだ。

 こうしたイベントごとに引きずられるようにして、日常にもそこここに非日常が紛れ込む。今回題にあげたバレンタインデーはその最たる例であり、普段は敬遠しがちな菓子作りという難敵に立ち向かう人々が引きも切らず厨房を訪れていた。普段から出入りしているクリーチャー・ピアソンに至っては、ちょっとした休憩さえも許されずに師範役として引きずり戻される始末である。贈るよりはもらって食べることにのみ想いを馳せるナワーブ・サベダーは、心中密かにクリーチャーに同情していた。

 クリーチャーのお陰で、自分の口に入る菓子の品質は年々上がってきている。生まれて初めてこの祭りに触れた際には、もしかしたらば度胸試しの場ではないかと思えるような悪夢の食卓が待ち受けていたものだ。それが年を追うごとに少しずつ菓子らしいものへ、更には玄人はだしの高みにまで上り詰めようとしているのだから面白い。個人的には凝りすぎた芸術品よりは、腹に貯まる素朴な逸品の方がナワーブの胃袋を満たしてくれるので、ほどほどにしていただきたいところである。何にせよ、作り手ではない人間が語れることなどないのだ。

 明日はここ数日の努力の結晶が口に入る日であり、ナワーブはせっせと鍛錬に精を出しては万全の体制を整えていた。食べる側にも修練は欠かせない。全てのものを美味しいうちに腹に収める。簡単なようでいて、実際手をつけてみれば難しいことがわかるだろう。美味しいけれども、もうお腹がいっぱいなんだ、と断る残酷さよ!準備不足ゆえに去年は苦い思いをしたが、今度こそ乗り越えて見せる。燃え立つ思いで走り込みをすれば、向かい風さえもが自分を応援しているかのように感じられた。エミリー・ダイアー曰くは、ただがむしゃらに運動をするだけでは不十分だそうだが、あれこれ考えるのは得意ではない。荘園の巨大な館をぐるりと一周したナワーブは、厨房の窓からだらりと身を乗り出した人物に気づいて手を挙げてみせた。

「……お疲れ様、ピアソンさん」
「全くだ。ま、今日が終われば暫くは楽ができるから良いさ」

濡れた新聞紙のようにぐしゃぐしゃになったクリーチャーは、近づいて見れば一層悲惨な様子だった。流石のナワーブも、これには同情を禁じ得ない。近づいた窓からはむわりと甘い香りが漂い、向こう側で何やら巨大な装置がチョコレート色の噴水を噴き上げているのが目に入った。恐らく、トレイシー・レズニック辺りが開発した発明品だろう。

「もう準備は大体終わったの?」
「ああ。あとは決まった時間に物を取り出しておしまいだ。だからこうしていても許される。そうでなけりゃ、君と話もできやしないさ」

ふにゃりとクリーチャーの相好が崩れ、ナワーブは誘われるようにしてその頬に手を伸ばした。ざらりとした手触りに、砂糖がペトリとこびりついている気がする。

「髭が生えてる」
「今朝は剃る暇もなかったからな」

いつもよりも早起きだったのだとクリーチャーは言う。疲労感だけでなくうっすらとした満足感が透けて見えて、ナワーブは彼が存外この苦境を楽しんでいるらしいことに気がついた。大方愛しのウッズさんとお近づきになれると踏んで悦に入っているに違いない。愚か者め。ぎゅっと髭を摘むと、短いながらも生えた生命の切れ端はぶちんと千切れた。

「いだっ!きゅ、急に何をするんだ!」
「ん?だらしない顔してるから、気合を入れてあげようと思って」
「もう私のすることは終わったんだ、別に休んだって良いだろう」
「ならさ」
「うわっ」

身を乗り出すと、ナワーブはぐいとクリーチャーの背中に腕を回した。厨房の窓はやや高い位置に設られている――西洋建築はこれだから嫌だ――ので苦労したが、なんとか相手の体を掴むことに成功した。そのまま腹に力を込めて引きずり出せば、クリーチャーが今更のように慌て始める。普段であれば、早い段階で抵抗を見せただろう。こんなにも反応が遅いのは疲れ切っている証拠に他ならない。薄い体を運び出すのは簡単で、抱きつくようにしてクリーチャーを抱えるとナワーブはさっさと走り始めた。慌てたクリーチャーがモゴモゴ抗議をするが、知ったことではない。もう役目を終えたのならば良いだろう。

「はい、降りて良いよ」
「き、君はどうしていつも説明がないんだ」
「話してたら時間がかかるでしょ」

辿り着いたのは、中庭のベンチである。クリーチャーを降ろして無理やり横にならせると、ナワーブは間に入り込んで彼の頭を膝枕できるように整えた。こんなにもわかりやすい優しさを示してやっているのだ、文句を言うよりも先に感謝を捧げていただきたい。

「ピアソンさんは俺の恋人なんだからさ、早く返してもらわないと困るんだよ」
「ふふ」
「何で笑うのさ」

そう、これはナワーブの独り相撲などではなく、真実クリーチャー・ピアソンはナワーブ・サベダーのの恋人なのである。恋人が他人に鼻の下を伸ばしたり、健気に優しく接している様など、そういつまでも静観できはしない。そこまでナワーブの人間はできていないのだ。狭量と笑われようが、今はただこの愛しい愚か者を休ませてやりたかった。

「案外、私は君にあ、愛されているんだと思ってな」
「あんたさあ」

盛大なため息をつけば、びくりと相手の体が震える。宥めるように頭を撫でてやり、ナワーブは鼻を摘んでやった。

「愛してるに決まってるでしょ。バレンタインデーがなくたって、俺は毎日言っても足りないくらいなんだから。わかる?」
「……恥ずかしい奴」
「ピアソンが俺専用に後で素敵な物をくれるのも知ってるし」
「それが目当てか?現金だな」
「さあ」

ナワーブ・サベダーのバレンタインデーは、いつも少しだけ遅れてやってくる。理由は単純で、愛しい恋人がゆっくりと時間を割けるのが祭りの後でしかないからだ。初めてこそは戸惑ったものの、今では毎年の楽しみとなっている。否、そもそも自分にとっては彼と共にある日々全てがお祭りのような物なのだ。

「少し寝なよ。夕飯の支度までには起こしてあげる」
「ありがとさん」

何よりも、今の彼に必要な贈り物は時間だった。何者にも煩わされず、ただゆっくりと寛げる時間。チョコレートも花束もメッセージカードも、今この時には敵わない。

今年は何を贈ろうか。後日やって来る特別な日に想いを馳せて、ナワーブは恋人の寝息に耳を澄ませた。

〆.