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その目に光はあるか


見て。


 目、目、目。どこに行っても付きまとうそれは、ナワーブ・サベダーを常に苛立たせてきた。もちろん昔はそうではなかった――家族や友人に囲まれ、優しさをにじませた目に包まれる気分は居心地が良いものだったと今でも覚えている。異国の地に来るに当たって、じわじわと嫌な気持ちが穏やかさを奪っていったのだ。傭兵としての腕前を品定めされる目、未開人と決めつけて蔑まれる目、殺そうとこちらを狙う目、不信をあらわにした目、好奇心、恐怖、裏切り者を探し出そうとする目、全てが一つ一つ鋭い針となってナワーブに突き刺さった。個別に見れば無視はできても、数が増えれば針の筵だ。自然、意図して使う以外において他人と長く目を合わせる、ないしは目を向けられることには過敏になり不快感を催させる。なんだって、目だけなのだろう。言いたいことがあれば口で言えば良いのだ。

 荘園にやってきたのはあくまでも手元不如意の解消のためだが、何よりも手紙に書かれた文字ははっきりと全てを語っていたことが気に入ったからでもある。金が欲しければ危険を犯せと言うならば、これまでとなんら変わることはない。そして今までと同じようにきっと命がけなのだろう、だが金額は桁違いだ。もちろんうまい話には罠があるもので、鬼ごっこを一緒に楽しむ『仲間』たちはすこぶる面倒くさかった。医師、弁護士、『慈善家』(絶対に嘘だ)、『庭師』、あれは……魔術師にスポーツ選手の類か?サーカス興行ならばまだしも、命がけの鬼ごっこには到底ふさわしくないメンバーが待ち構えていたのである。ひょっとすると真っ当に生きられたかもしれない連中までもが取り込まれていると言うことは、全員訳ありで腹に一物を抱えていることは確かだった。探り合う目。お前は一体何が望みだ?薄っぺらい信頼関係。どれもナワーブがはたき落としたくなるような煩わしさだった。

一歩も二歩も引いて限りなく接触を避けて来たのだが、どうやら運命はナワーブ一人をアリ地獄から抜け出させるような甘さはなかったらしい。

「……ナワーブ・サベダー。傭兵だ」
「傭兵?それじゃあ、どこか戦場で一緒だったかもしれないな。僕はカート・フランク。戦役の後に冒険家になったんだ」

新しく来た人物にいきなり全ての扉を開かれ、ナワーブは思わず一歩後ずさった。今日は災難だ。全員ゲームに参加したり修繕やら家事やらに追われており、手持ち無沙汰でいられたのはナワーブただ一人である。新人が来るのだから迎えに行くように、と頼まれて断る理由をうまく見つけられず、仕方が無しに玄関ホールで待ちわびていればこの体たらくだ。夢見心地の目を輝かせたカートが語る冒険譚はどこか胡散臭い。話半分に聞いておくべきだ、と適当に相槌を打ちながらもナワーブはすっかり疲れてしまっていた。目が、自分が何者かを知りたくてたまらないと言う純粋な好奇心の目が胃袋を撫でてゾッとする。

「あんたの部屋はここだ。ゲームでの立ち回りとか、家事の当番とか色々あるけど……そういうのは俺より、」

誰に聞けば良いのか、と考えてナワーブは首をひねった。フレディ・ライリーは底意地が悪く、イヤミが多いのでカートとは相性が悪そうだ。エミリー・ダイアーも高慢なところがあるがいくらかマシか。エマ・ウッズは得体が知れず、ウィリアム・エリスやセルヴェ・ル・ロイに至っては系統立てて説明する気持ちがあるまい。前者は積極性はあるのだが、例えていうならば目の前に蝶々が飛んできたらばやるべきことを放棄して追いかけて行ってしまいそうな子供っぽさがある。カートと似ているかもしれない。ゲーム中二人を並べるのは失策だな、とつらつら考えてナワーブははたと思い浮かべなかった人物を思い出した。

「ピアソンさんに、聞いた方が良いと思う」
「ピアソンさん?どんな人だい」
「あー、」

どうして自分がこぼしたのかわからず、ナワーブは気まずげに突き当たりの向こうにでんとそびえる窓を見遣った。多分、今頃彼――クリーチャー・ピアソンはあそこから見下ろせる場所で洗濯物を干している。手慣れた動きで、一度見かけた際に惚れ惚れとしたものだ。思えばナワーブにあれこれ教えてくれたのは彼かもしれない。すっと枕辺に水が置かれるようなさりげなさで、必要な時にビスケット屑が足先にばらまかれていた。そこに落ちているのは情報だけだ。目は、ない。何故かはわからないが、ちょうど良かったのだと胡散臭い男の形を客観的に思い描く。御誂え向きなことにクリーチャーは『慈善家』だそうだ。喜んでカートだって導いてくれることだろう。

「ここに最初からいる人だよ。一番詳しいんだ」
「なるほどね」

ならそうしよう、と言うカートはどこまでも無邪気で純粋だ。曇り一つない快晴のような笑顔に、じわじわとナワーブの心に陰りが差してゆく。何故だか、おかしいような気がした。目が泳いでいく。クリーチャーの目はどんな色だっただろう?どうしても思い出せない。避け続けて来た他の人間の目はすぐに思い出せる。エマの笑顔にも関わらず底知れない暗さを孕んだ鳶色、フレディの抱えた痛みを無理やり怒りに変換したような黒みがかった茶、思えば茶系の目が多かったように思う。目の前のカートもわずかに緑がにじむが茶に近い。それだけ多くの目に自分は囲まれていたわけだ。だと言うにも関わらず、自分にヒントを配った人間の目が思い浮かべないのは奇妙な話だった。胸の中がくすんでゆく。

 目なんて、どうせ気分が悪くなる代物だ。相手がどんな目で自分を見ているかなんてどうだって良いだろう。もしかしたら、クリーチャーも自分と同じように目を避けているのかも知れない。『慈善家』とはそんな生き物だったろうか?ナワーブの中で抱く慈善家像とは遍く人に手を差し伸べ、相手と正面で向き合うような生き方をする人であったものだから、やはりクリーチャーは慈善家たり得ない。ならば彼は何者か。これまでかけらも抱きもしなかった好奇心がむくりと起き上がり、ナワーブは心の底で慌てて追いやった。金を掴んで、無事に荘園から抜け出せさえすれば良い。クリーチャーなど荘園のあの扉を出たらば無関係の人間だ。余計な詮索は不要である。

無理やりに押さえ込んで鍵をかけると、ナワーブはクリーチャーならばあそこにいるだろうと窓の外を指差し、階段からどう進むべきかを伝えた。これでお役御免だ。意気揚々と出かけてゆくカートの後ろ姿を見送り、はあと溜息を零してナワーブは屋根上を目指して窓に手をかけた。ガラリと開き、すぐ横の雨どいに手を伸ばす。壁面を覆う石材の隙間と雨樋を駆使すればそのまま屋根上に登ることなど朝飯前だ。降りる際にはシューっと雨樋を伝えば良い。一度勢い余って手のひらが摩擦で火傷するかのように傷んだものだが、それ以外は不便さのない楽しみだった。何より景色が良い。

「お、無事に着いたな」

うろこ状の屋根を進み、下界を眺めると折しもカートがクリーチャーに声をかけたところだった。木綿のシャツやらアンダーシャツやらを引っ掛けていたクリーチャーが顔を上げ、戸惑う様子ながらも声をかける。声と声とが交互に投げられ弾む。そうして――その時は訪れた。

「え」

クリーチャーの顔は、目は、まっすぐにカートを向いていた。ナワーブの立っている場所から正確なところはわからないが、概ね把握できる限りにおいてクリーチャーとカートは他の誰もがするようにお互いを見ている。当たり前の人間の生業が営まれる様はありふれた日常で、それ以上でもそれ以下でもない。ただ、ナワーブが望んだようにナワーブの外でだけ起きていたというだけだ。心臓が掴まれたように吐き気がこみ上げる。見られないことへの居心地の良さは霧散し、違和感はナワーブの胸奥を引き裂いて剥き出しの疑問を陽の下に晒した。

何故クリーチャーはナワーブを見ないのだろう?




 目、目、目。クリーチャーにとって、目とは重要な情報源だった。目は口ほどに物を言い、衣服はその人の飾りたい価値を、手振りは心の一部となる。口で語られる言葉は概ね考えられず、時に心なく偽りでさえもある。その点目はあまりにも無垢で嘘がつけない。嘘をつこうとする目は大凡把握できた。培って来た審美眼でもってクリーチャーは自分自身を思うがままに振舞わせることもできた。結局失敗してしまった過去のことを今は忘れよう。荘園に来てからというもの、時折理性を裏切る気持ちの高まりから剥がれてしまうが、最低限の連携をとるには十分の信頼関係を築ける程度を保っているのだから合格と言えるだろう。

「僕の秘密を君に教えてあげるよ。この本には僕の冒険が全部詰まっているんだ」
「本当か?一冊書き上げるなんてすごいんだな、あんた」

嬉しそうに満面の笑みを見せるカートが良い例だ。ぎゅっと抱えていた大判の本を取り出すと、カートは乳児を自慢するように冒険の絵図を語り始める。荒唐無稽な物語はこの荘園にふさわしい欺瞞に満ちているが、楽しい空想だった。この男が何を求めてたどり着いたかは不明だが、大方次の『冒険』とやらの活動資金を得たいのだろう。空想だけでは食べてはいけない。そうであっても空想を前面に押し出せることは豊かさの証拠だ。自称冒険家の背後に穏やかな過去を見遣ってクリーチャーは目を細めた。好意的な目が絡んで煩わしい。見るな、とクリーチャーは柔らかく荘園での生活について説明しながら観察を続けた。自分の情報を読み取られることは嫌いだった――誰からも自分を盗まれはしない、弱さを見出された日には目も当てられない。土砂降りの雨を凌げるのは自分の才覚一つきりだととうに承知している。クリーチャーは空想に溺れず地に足をつけていた。

 かつて、誰かに見てもらいたいと願っていた頃があった。クリーチャー・ピアソンという(もちろんこんな名前ではなかった、今となっては不要な単語だ)人間を同じ生き物だと認めて、見出される日が来るはずだと信じていた頃もある。答えを知るにそう長い時間は要さず、クリーチャーは他人の眼差しを読み取ることができるようになった。見える目たちの傍若無人さよ!片方の目がそうした煩雑さを失った今は尚更強く思う。もう誰も見ずとも良い。世界を盗み見ることができるのは自分だけだ。欲しいものはなんだって手に入れるだろう。

人の少ない荘園は、自然と目が向けられるものだから閉口していたが無事に泳ぎ抜けている。おまけにこのところは弾みをつけるようにして人が増えており、千客万来とはこのことだ。本当に自分たちは富豪の気まぐれで遊んでいるだけだろうか?本当はもう外に出ることなんてできなくなっているのではないか。生活の隙間に入り込もうとする不安は締め出し、クリーチャーはただ人の目が自分から分散していくことを歓迎することにした。カートが来た後には続々と追加がやって来る。カウボーイ、機械技師、調香師に祭祀に占い師、納棺師とくれば冠婚葬祭を全て取り仕切ることも可能である。直近では探鉱者に呪術師、航海士に配達夫まで紛れ込んできた。小さな町が作れそうな程に種々雑多で、その誰一人もが表立って犯罪者の看板を下げていないことだけが少々残念だった。もちろん、人は叩けば埃が出るものだ。目を見ていればきっとわかるだろう。

 戸惑い、同時に安堵したのはヘレナ・アダムスだった。心眼という二つ名を背負った少女は文字通り盲目だったのである。自分は半分だが、彼女は完全に澄んだ水の中に住んでいた。もはや不安もないのだと語るヘレナはいっそ羨ましささえあったが、だからと言ってクリーチャーはもう片方の目まで手放す勇気は持ち得なかった。ただ、ヘレナを眩しく見てできうる限りの支援をしてやりたいと『慈善家』らしく振る舞うまでである。

 今日もクリーチャーはヘレナの白杖を預かって、磨り減った石突きを交換してやっていた。サンルームから射し込む日が背中を温かく撫でる。もう何度目かの行為で手馴れたものである。寄り掛かかるすべ、頼るべき導きを手放したヘレナは黙って紅茶を飲んで少し離れた椅子にくつろぐ。会話はなく、ただ当たり前の空気が流れいく時間はクリーチャーにとって解放される僅かな瞬間の一つだった。エミリーに言わせれば奇跡だそうで、どうせあの女に自分のことなどわかりやしないと鼻で笑えてしまう。器用にはちみつをカップに垂らしたヘレナが息をこぼす。いつもと全く同じ物の配置にしておいたはずだが、何かおかしかったろうかと顔を上げると、ヘレナがクリーチャーの顔のあたりの空虚を何も映さない瞳で眺めた。

「ピアソンさんはいつも、私の目をまっすぐ見るんですね」
「……わかるのか?」
「あなたの声だけはずっと正面から注ぐものだから、そうだったら良いなと思っているの」

ああ、この人も空想に遊んでいる。クリーチャーは今更のようにヘレナの出自が折り目正しいことに思い当たって心中舌打ちした。どこかで彼女と同じ立場で、ほんのちょっぴり上の場所を飛んでいた自分の驕りがベシャリと潰れて落ちる。腐った臭いを放つ自尊心から顔を背けると、嬉しそうなヘレナに意識を戻す。クリーチャーを見ることのない人間が、わかりもしない自分を進んで好意的に受け取るなど落ち着かなくてならない。足元をすくわれるような心地でめまいがしそうだ。だがこんなことは序の口であることをクリーチャーはすぐさま思い知った。

「多分、ナワーブもそう。変よね、あの人はあなたよりもずっとよそを向いてばかりなのに」
「サベダー君か……確かに、前よりはましになった気もするが」

剽悍な青年の姿を思い起こし、クリーチャーはクスリと微笑んだ。ナワーブはヘレナに次いで一息つける数少ない相手である。どこか他人を閉ざした青年で、荘園に来た当初は中世の甲冑を着込んでいるのではないかと思うほどに心に誰も入れまいと油断のない目を見せていた。他人を切り捨て、目的のためにだけあろうとする姿は嫌いなものではなく、むしろわかりやすい姿にクリーチャーは安堵したほどである。どこか恐れて一歩も二歩も距離を取ろうとする面々と彼の橋渡しのようなものをしたのは、クリーチャーがナワーブを役に立つと見込んだことと――ちょっとした安らぎによる。

 ナワーブは、見られることを嫌っていた。恐れてさえいる節がある。避けようとする姿勢は当然クリーチャーにも適用されるので、こちらは安心して相手を観察することができるという訳だった。今では彼の口から放たれる言葉以外の情報は知り尽くしていると言っていいかもしれない。未だに必要に迫られて真っ直ぐに見る振りを必要としない相手は気安い。見られない相手に心を開いているのだとしたら、まさしくクリーチャーの読みは当たっているということだ。

「この前気づいたのだけど、ピアソンさんと話す時もナワーブの声はまっすぐ響くの。きっとあなたは居心地が良いのね」
「まさか」

とんだ青天の霹靂だった。先ほど挙げた最低限のことを為す以外、クリーチャーが意図して行動したことは一つとしてない。ただ目をつぶっていられる、それだけの時間が流れ行くまでである。石突きにヤスリをかける作業を再開すると、クリーチャーは改めてナワーブとのやりとりを思い起こしていた。仕入れた食材の仕分けに剥がれた廊下のワックス掛け(これは思った以上に面倒くさい力仕事だったが大雑把なウィリアムには任せられなかったのだ)、ゲームでの連携、勝利の祝杯を庭先であげたこともある。どれも当たり前の日常で、彼が自分をまっすぐに見るほどの価値があるとは思えなかった。彼がどんな表情をしていたのかはうまく思い起こせない。当然だ、クリーチャーは最早わかりきった彼の顔など見ていなかったのだ。少なくとも、彼の顔がこちらを向く瞬間には気付きさえしない。見られていた?ぞくりと背筋が震える。一体なんでまた。

「私も今こうしてここにいることが好きだから、なんだか嬉しかったの。内緒にしておいたほうがよかったかしら?」
「……いや、良くも悪くもないな。他の人間に話さないでくれれば、それで良い」

きっと誰もが受け入れがたい、理解し難いものを飲み込もうとする表情を浮かべるだろう。ナワーブがそうであるように、クリーチャーもまた他人を近づけさせることはなかった。ただ、当たり障りない振りをしているだけで、相手にも無意識下で刷り込まれている。まるでチェスの駒が決められたマス目を進むようにして当たり前のようにすれ違うのだ。一時の幻のような場所である荘園にはふさわしい振る舞いと言える。ヘレナが何を考えているのか知らないが、クリーチャーには貴重な情報であった。今後は用心する必要があるだろう。知られることほど恐ろしいものはないのだ。例え――今は失うものがないのだとしても。最後の仕上げを終えると、クリーチャーは再びヘレナの手へと杖を返した。ゲームにおいては皆を勝利へと導く女神に威厳さが漂う。トン、と強く床を打つとヘレナは満足そうに微笑んだ。

「ありがとう、ピアソンさん。……ナワーブなら今、バーデンさんとポーカーをやっているみたいよ」
「それが?」
「あなたがクッキーを焼きすぎたから、ちょうど良いかと思って」

確認をしてみたら、とでも言うようなヘレナの賢さにクリーチャーは思わず舌打ちをしそうになってとどめた。多分、そんな自分の気持ちの揺らぎなど彼女にはお見通しだろう。ただ、フィオナ・ジルマンやイライ・クラークのように面倒な物言いをしないだけましだ。善意、善意、善意!全く慈善行為とははるかな山の高みにある。裾野を歩き始めた人間に対してなんと傲慢で優しいことか。

 クッキーを焼きすぎたことは事実だったし、元より食堂で遊びに興じるような面々に配るつもりであったから、何もヘレナの言いなりになるという訳ではない。あくまでこれはクリーチャーの予定通りなのだ。できうる限り不安と緊張を押さえつけると、クリーチャーはいたって平然とした様子でサンルームを出た。




 古来博打とは心理的駆け引きである。運命の女神にだけ祈っている人間はいつまで経っても彼女から独り立ちすることはできない。数学的知識、心理的見知、そしてここぞという機会を見抜く勘は天性のものに加えて無駄なく吸収された経験からの判断が勝利を運ぶのだ。さてナワーブは、というと、他人の気配に敏感であることを応用するかのごとく得意であった。当初はハエを追い払うように扱っていた荘園の住人たちとのやりとりも、些細な賭け事で時間つぶしができる程度には取り繕えるようになっていることが良い証拠だ。チップがわりのクォーツをテーブルに並べると、ナワーブはまた一つ、手に入れたものを山の上に乗せた。相手側――ホセのチップはだいぶ心許ない。根こそぎ奪い取ることは不要な恨みを買う可能性がある。どの辺をやめ時とするか、が今のナワーブの思案のしどころだった。

「まだ続ける?」
「もちろんだとも」

酔眼を揺らめかせるホセは間髪入れずに答え、ナワーブは舌打ちしたくなった。これだから自分を困難に立ち向かえると思うだけの経験がある人間は厄介だ。そうした意味ではこの荘園に住む人間はどれも同じ穴の狢だが、酔っ払いのように見せかけてしたたかなホセは些か面倒でさえある。どうして勝負に乗ったものか、とナワーブは食堂を見回して犠牲者を探した。カートは熱狂しすぎるので引きずり込まないようにと先日フレディから忠告を受けている。チラチラとこちらを興味深そうにみているが素通りし、何を考えているのかよくわからない様子で磁石を弄っているノートン・キャンベルに目を移す。元炭鉱夫と聞いているので、博打の類には馴染みがあるだろうが果たして声をかけたものか迷った。なぜだか時折、その端正な顔を歪めた傷跡を見ていると心臓を冷たい手でなぞられたような心地になるのである。

と、かすかに甘い焼き菓子の香りが漂いナワーブはカードの山を整える手を止めてそちらに頭を向けた。開けっ放しの扉からまずは匂いが、そして熱本体がやってくる。クリーチャーだ、とナワーブは気分が上向くのを感じた。勝負を切り上げるにもちょうど良い。ナワーブが動き出すよりも早く、縫い物をしていたパトリシア・ドーヴァルが顔をあげて立ち上がった。自然、クリーチャーの目はパトリシアへと向けられ、ナワーブは今度こそ心の中で舌打ちをした。

「や、やあ。良かったらクッキーでも食べないか。焼きすぎてね」
「本当?ありがと、ちょうどお腹が空いたところなんだ。待ってて、お茶入れてくるから」
「だ、だったら、台所のティーコジーに入っているポットを持ってきてくれ。多分ここにいる人数分くらいは足りると思う」
「至れり尽くせりだな」

会話の合間に滑り込もうと見守るうちに、別の誰かが入ってゆく。気づけばクリーチャーとの距離を詰めていたノートンに、ナワーブは軽く目を見開いた。クォーツの山をザラザラと崩して袋に入れる。例えこの荘園の中でしか通用しない児戯のような貨幣だとしても、価値は価値だ。クリーチャーほど執着することはないが、みすみす取りこぼすことは愚かだった。ホセはお茶の時間へと変貌した空気を読むようにして黙っている。

 気づいてしまった時から、ナワーブはずっと内臓をかき回すような気持ちの悪さを反芻していた。何故、クリーチャーの目はあたかもナワーブが見えないかのようにすり抜けてゆくのだろう。彼の瞳を見るのは叶ったが、いつだって隙間を縫った僅かなきらめきに過ぎない。淡い太陽が焦げた色と、透き通った青空の色がナワーブの瞳にカチリと合わせられることはなかった。誰にでも注がれる当たり前のものが自分にはない。たかが胡散臭い、この場限りの関係にある人間の何を惜しむかは未だに答えを見つけられずにいるが、自分が強く欲しているのは確かだった。恐らく、ナワーブがこんなにも正面から見つめ続け、見つめられようとする相手は今、世界にクリーチャーただ一人に違いない。

「サベダー君も食べるかい。オーツクッキーもあるぞ」
「もらう」

カードが配られた時と同じように、ナワーブは急に飛び込んできたクリーチャーの声を慎重に掴み取った。テーブルの真ん中にクッキー皿を置いたクリーチャーの正面に立つ。パトリシアはお茶を運んできており、カートがカップを並べ始める。ノートンはすでに気に入りのクッキーがあるのかさっさと抓み始めていた。ホセもクッキーをワインに浸しながら食べるという些か背徳的なおやつを楽しんでいる。今ならば誰にも邪魔されるまい。す、と小さく呼吸を整えてナワーブは一手を打った。

「ピアソンさんのお勧めはオーツクッキー?他には何があるの」
「チョコチップだったんだが……」
「悪いね」

クリーチャーの目が揺らぎ、その先に続くノートンが自分の取り分を見せつけて笑う。先ほどと言い、どうにも読み取りにくいが敵意はないだろう。反射的に沸き起こった警戒心をなだめてクッキー皿に指先を滑らせた。まだまだクッキーは始まったばかりだ。意図してクリーチャーを真っ直ぐ見つめようとすると、ぐらぐらと動いていたクリーチャーの目玉が逃げるかのように泳ぐ。

「じゃあ、その次」
「……珍しいな」
「何が?」

今ならば、針が落ちる音だって聞き取れるだろう。機能的ではない、行方知れずの会話に胸を高鳴らせながらナワーブは相手をもっとよく見ようと目を向けた。目、母を見ていた、友を見ていたその時の自分の目が重なる。クリーチャー、と心の中で呼びかけてナワーブは戸惑った。自分はどんな言葉を続けようとしているのかがはっきりしない。迷いが胸の中のわだかまりを増幅させてイライラしてしまう。その瞬間だった。意思を持ったクリーチャーの目が片方だけナワーブを真っ直ぐに射抜いた。

「っ」
「君が食べ物に興味があるとは知らなかった。いつも何も言わないだろう?硬い方が良いならオーツクッキーがお勧めだ。さっぱりした味が良いなら、こっちのジンジャークッキーも良いぞ。甘ったるいものが好みだったらこのバタースカッチクッキーがお勧めだ」
「……味くらいわかるよ」

言いながら、ふてくされた子供のようなセリフしか思いつかなかった自分が気恥ずかしかった。確かに毎度の食事に此れと言う感想を顔にも言葉にも表さず、食べられさえすれば良いと思っていたのは事実である。毒でなければ、栄養があればそれで良いではないか。そんなナワーブの気持ちを読み取ったかのように、クリーチャーは口元に笑みを滲ませた。一枚ずつ抜き取って取り皿に載せる様はまるで母親のようでさえある。

「それじゃ、好きな味を見つけてくれ」
「待てよ」

存外力強く放った言葉は効果的だったらしく、驚いたように瞬きが早くなるクリーチャーの目にナワーブは心の底から満足した。やはり片方の目だけが動いている。なるほど、そういうわけなのだ。道理で。ナワーブの変化に気づいたクリーチャーが断りの言葉を紡ごうとするが、今度こそナワーブは機会をつかんだ。

「俺に味がわかるか、感想を言うからピアソンさんはここにいて」
「感想なら後で聞いても良いんだが……わかったわかった、珍しい頼みごとだからな」

聞いてやるよ、と肩を竦めるクリーチャーはいつも通りの余裕があるようだがぎこちなさは拭えない。その間も目は目を捕らえて離さない。広がりゆく満足感に、ナワーブは自分の中に鎮座していた黒い塊がくしゅくしゅと小さく縮んでゆくのを感じ取った。他人にばかり向けられていた瞳が、ようやくナワーブを、それも他人に向けるものとは異なった色合いで与えられるというのはひどく気分を高揚させる。今ならば肘当てで月の河公園を三往復は優にできるに違いない。

「いただきます」
「どうぞ」

正面に向かい合って座り、クッキーを口に運ぶ。パキンと良い音で割れるほどに硬いのはオーツクッキーだ。ザラザラとした触感が舌を滑り、パンをよく噛んだ時のような柔らかな甘味が口の中に広がる。ボリボリと噛む姿をただ眺められるというのも奇妙な話だとは我ながら思う。もっと奇妙なのは、こんなにも好奇心に満ちた目で見られても尚不快な心地にならないという事実だった。

「美味しい」
「安心したよ」
「ピアソンさん、バタースカッチ3枚ちょうだい。もうすぐフィオナがゲームから帰ってくるの」
「もうそんな時間か?他の奴の分も合わせて適当に持っていくと良い」

せっかく会話が積み重なろうとした瞬間にパトリシアの元気な声が割り込む。もう少しで掴みかけたかも知れない答えが遠ざかり、クッキーの味も淡く溶ける。子供が次々と連れて行かれた後の皿はガランとしてどこか寂しい。いっそのこと全部持ち去ってくれたならばこんな心地にはならなかったのだ。中途半端に残ったならば、自分の期待の残骸を見せつけられることになる。再び他者が煩わしくなり、ナワーブは乱暴に紅茶で残りを流し込んだ。まだ、1枚目だ。パトリシアは出て行ったし、クリーチャーは残っている。

「そんな顔で睨むな。次はもっと多く焼こう。ただし、君が手伝えばだ」
「睨んでない」

クリーチャーの目がぎゅっと細まる。それでも向けられるのは片側、彼の生きている目だ。こうして間近で見つめ続けることが叶ってわかったのだが、クリーチャーの片方の目はとうに光を失っている。理由は知らないが、表立って語られない(例えばホセの片目が義眼であることはよく知られた事実だ)からには隠したい事実なのだ。無防備に晒された秘密に触れて、ナワーブの口に放り込んだバタースカッチの味が舌を溶かすほどに甘くなる。自分の味覚は狂ってしまったのだろうか?美味しい、を芸もなく嘘偽りなく繰り返しながら、ナワーブは自問した。風に翻る旗のように変わる味わいは初めての経験だった。

「どれが一番気に入ったんだ?」

全てを食べ終えた後の質問に、ナワーブは不意にこの時間の意味を悟った。クッキーは確かに美味しい。あれが良い、これが良いと言うこともできる。味くらいは自分にだってわかるのだ。だが、自分がこの席で見つめあって感じたものは遥かにその上を飛んでいた。

「全部。手伝うから、また作ってよ」
「良い返事だ」

小さくなったカートが皿の前を横切る。誇らしげに半分に割られたクッキーを背負って移動する様は小動物のようで賢くも微笑ましい。カチリと再びクリーチャーと目を合わせて、ナワーブは小さくうなずいた。




 何も見えない。四方八方全てが暗闇の中に包まれ、ややもすると自分が地面を歩いているのか飛んでいるのか(ロケットチェアで幾度も飛んだ故にわかってしまうのだ)さえもあやふやになりそうだった。クリーチャーは冷や汗をかきながらもゆっくりと腰のあたりを探る。いつものようにベルトに固定していた懐中電灯は今は役に立たない。わかっていたが、確かなものにすがりたい心地を抑えることはできなかった。

全てはウィリアムの発言に始まる。このところ負け続きである中、彼なりに原因を分析した結果、もっとハンターの存在に過敏になった方が良いのではないか、と方策を打ち出してきたのだ。てっきり走り回ることばかりが脳だと思い込んでいただけに意外で、かつ妥当な提言である。思えば彼は集団スポーツの選手なのだから連携方法やチームでの勝利について考えることも十分あり得た。話を聞いていた他の面々も一理あると認めた、ここまでは良い。問題はどう訓練するかと言う話だ。

誰かがハンターの代わりになれないのだから、存在自体を把握できるようになろうと話は転がる。例えば目隠しをしても感じ取れるようになれば、視覚に頼らず感覚を研ぎ澄ますこともできるはずだ。軍隊経験者のカートが言い始めたのか、あるいはこのところ進んで集団に関わろうとするようになったナワーブが言い始めたのかは曖昧だが、結果はこの目隠し祭りである。参加者は今回男性のみ、うまくいけば次回は女性のみで行う。万が一の事故を防ぐための配慮は褒めてしかるべきだろう。

参加者は軍需工場に集合し、目隠しをして始める。相手を気配だけで見つけ、追いかけ、捕まえるか、誰にも見つからずにうまく避けきることができれば合格だ。出来るだけ声はあげないこと。イライはフクロウなし、ビクター・グランツは犬なし。全ては公平を期すためであり、目が見えるものからは馬鹿げた光景に映るだろうが良さそうだと誰もが納得した。多分、疲れていたのだと今は思う。負けることに疲れてしまって、当たり前になるのが怖かった。いつ終わるとも知れないこのゲームが、突然今終了を宣言されたらば全員の身に今よりも恐ろしいことが起きる可能性が高い。ゲームや試合と呼んでも、これは命と金を天秤に掛けた、気まぐれでどす黒いものなのだ。

 何度も飽きるほどに訪れ、目を瞑ってもチェイスができると踏んでいただけにこの状況はクリーチャーを混乱させるに十分だった。今、自分はどこにいるだろう?足元に絡む草の感触を辿るようにして手を虚空に泳がせていくうちにザラザラとした段々の起伏がある壁に触れる。土嚢だ。大まかに自分の位置が判明したことに安堵しながらも足取りは緩慢で、そこら中に潜むカラスを刺激せぬように進む。目が見えない中、自分の目は何に向けられているのだろう。ヘレナはこんな環境にずっといたのか。

見えるものへと思いを馳せると、自然と考えはこのところ注意しているナワーブへと向かう。ヘレナに唆されて試したのは正解だった。ナワーブは、自分にだけ意図的に目を向けている。他人からの目を避ける風である青年にしては驚きの行動だ。では、クリーチャーが彼を見たらばどうか。ナワーブは真っ直ぐに見返してきた。それも、ひどく柔らかい気配を漂わせて。

入り込ませるな、利用できる程度の距離で止めろと理性がクリーチャーに忠告する。長年生き延びてきた中で積み上がった経験値と、他人の姿で学んだ確かな判断だ。だが、口をついて出たのはいなす言葉ではなく、むしろ積極的に相手の気を引くようなセリフだった。クッキーを焼くのを手伝って欲しい?何のために。理由もなく語る意味をクリーチャーは理解できない。こんなことは初めてで、自分の人生とは無縁の出来事のようですらある。ふと、他人の視線を受け取ったような気がしてクリーチャーは舞台の真ん中へと頭を向けた。フクロウを持たぬクリーチャーに天啓は訪れず、いつものように神は程遠い場所に存在する。いや、違う。神もまた盲目だ。

世界を作ったのは神かもしれないが、この世界はどこまでも不完全で不条理で滅茶苦茶だ。神には心がない。人ではないのだから当然で、ならばそんなものにすがって何になる?神の目を盗み見ることさえ叶わない。視線が絡みついてくる。自分にあちらはわからないが、向こうは自分に気がついている節がある。咄嗟の判断で走り出し、記憶の中の地図を頼りに土嚢の塀から立て板だらけの場所へと逃げ込む。目に頼らないとは言え、遮蔽物が多い中探し出すには時間がかかると踏んだ。呼吸音。自分の喉からゼイゼイという荒い音が漏れ出していることに気がついてクリーチャーは思わず手で喉を抑えた。

「……ピアソンさん」

視線の方角から声がする。どうしてわかった?耳朶を打つたびにスパイスが弾けるような心地になる音はナワーブのものだ。ハンターから感じる寒気にも近いが、より暖かで確かめてみたくなってしまう。見つめようと顔を上げ、壁伝いに動けば相手も動いた。心の中を探り合う動きに目が伴わないのは初めてで、そのくせ心は凪いだ海のように静かである。心臓がゆっくりと音を立て、クリーチャーは確かにナワーブを『見た』。いつかヘレナが話したように真っ直ぐと。

「捕まえた。これであんたは俺の虜だ」
「まるで私を探していたような口ぶりだな」
「探してたんだよ。それに、あんたの目なら見なくたってわかると思ったんだ」

今は見られなくて残念だ、という小声には笑みがにじんでいる。真っ直ぐに飛び込んでくる言葉は同時に手となりクリーチャーの腕を捉えた。無防備で、弱く、状況判断すら危うい状況で捕らえられるとはなかなかの窮地である。目が、見たい。彼の琥珀色の瞳に映る自分の姿はどんなものだろう。ナワーブの手が滑り、クリーチャーを邪魔していた目隠し布を緩慢な動作で外す。お返しとばかりにクリーチャーもまた、闇雲に手を伸ばして彼の顔をなぞった。端正な顔立ちを思い出せる起伏の向こうから布を剥ぎ取る。胸が痛くなるほどの視線が全身に突き刺さり、クリーチャーに余すところなく彼の無言の情報をありありと伝えてきた。もっと見ていたい、知りたい、見られたい、知ってもらいたい、何よりも――この瞬間が楽しい。ヘレナの言うことは本当だ、もう離れなくてはいけないと分かっていても尚クリーチャーは動かずナワーブを見てしまう。

「……そんなことを言うのは君くらいだろうな」
「だと良いけど。ねえ、ピアソンさん」
「ああ」

重要な質問だ、とクリーチャーは直感した。今、ようやく言葉に乗って真実が伝えられようとしている。逃亡するという選択肢を跳ね除け、クリーチャーは本気でナワーブを正面から見つめた。

「俺を見て。今も、帰った後も、明日も、ずうっと先までさ。あんたに見られるとなんだか幸せな気持ちがわかる気がするんだ」
「君なら他の方法でだってわかるだろう」

理性を含んだ回答を呟きながら、クリーチャーは血を吐くような思いだった。ちょっとした安らぎが無防備な言葉で引き裂かれてゆく。むき出しになった自分は、知られたらば全く違う生き物だと軽蔑されるだろう。確かに彼を見たいと、見られたいとも思うが限度というものがある。ナワーブの目はどこまでも透き通って真正直で、クリーチャーは訳もなく泣きたくなってしまった。知らずにいた自分はなんと幸運だったのだろう。そんな目を見てしまったら、もう逃げ出せないではないか。

「ピアソンさんだからわかるんだ。だってピアソンさんも、きっと同じ気持ちだよね」
「人の気持ちを読むのはイライ君だけだと思っていたがな」
「言ってよ」

最後には言葉がものを言うのだから。まるで誓いの言葉を強請るようなナワーブのセリフに、クリーチャーはこの目が自分のものとなることを確信した。目、自分が許し、許される唯一の目。

「私を見てくれ、サベダー君。穴が開くくらいでも良いぞ」
「了解」

結局この気持ちをなんと呼ぶかは未定のままだ。おいおい全てはわかるだろう。避け続け、素通りしていた目はとうとう出会ってしまったのだ。柔らかく抱きしめられ、クリーチャーは降参するように両手を挙げた。何せここは軍需工場、馬鹿げた訓練の最中である。

「脱落だ。私たちは降りる」

そして新たな舞台に登る。共演者の目をしっかりと見つめると、クリーチャーは誇らしげな笑みを浮かべた。


〆.


あとがき>>
 他人の顔をじっと見つめ続けることは意外とないもので、とりわけ傭兵と泥棒の来歴からして難しそうだな、と原点に立ち戻ってみました。些細であっても重要なものを与え合える、そんな関係が生まれるならば何より得難いもののように思います。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました!