誰だって嘘が好き。
愚者の楽園
クリーチャー・ピアソンは嘘を愛している。嘘とは夢物語であり、偽りではなく時に優しい。とりわけ好きな嘘は、嘘だとわかる嘘だ。ありえないとわかっている、だがたまらなく嬉しい、そういったものならば大歓迎だった。なぜって、本物どころか嘘でさえも与えられず手に入れられずにいることが多いからである。故に盗みに走るものの、結論から言えば空虚、この一言にすぎる。必要なものは手に入るし、生活もできれば偽りによって名誉を得ることもできる。似たような境遇の子供を助けて自分を救ったような気分になることも可能だ。全部偽りで、嘘である。どれも本物にはならなかった。だから嘘で良い。嘘のままで良い。本物だと思った瞬間に消し炭になるよりもよほど優しいと言うものではないか?
ここ荘園に過ごすうちに季節はめぐり、当たり前のような顔をして万愚節がやってきた。若い者から老いたる者まで等しくそわそわしている。祭りの気分は全てを許してくれるようでクリーチャーは好きだった。今日ばかりは優しくしてやっても良い、と言いながら殴ってきたジョゼフは許せなかったが、真剣勝負中の心理的駆け引きに気を緩めた自分がいけないと思えば許容範囲だろう。おかげで殴られた背中が痛い。
「はい、湿布貼ったからあんまり動き回らないでね。剥がれたら貼り直さないといけなくなる」
「ありがとうな」
「いいよ、これくらい」
丁寧な手つきでクリーチャーの背中を治療するのは廊下で見つけたナワーブ・サベダーだった。ゲーム明けにまっすぐ医師であるエミリー・ダイアーに会いに行こうとしたのだが、クリーチャーが背中をかばう様子に気が付いたナワーブが彼の部屋での治療を申し出てくれたのである。同じチェイサーという役割であるため会話をすることはあるが、これと言うほど距離が近い仲ではなく、クリーチャーは意外な思いのままに頷きーーちらりと視界の端に親指を立てるイライ・クラークとウィリアム・エリスの姿を認めたのだった。どうやらお祭りの標的はクリーチャーであるらしい。さて何が来るだろうか。
シャツを羽織り、上着を身につけながらクリーチャーは背中に張り付いた目が何を物語ろうとしているのかわくわくしながら待ち構えていた。待つ。待った。待つ。深呼吸を何回か聞き、仕方なしにクリーチャーは帽子を被るために髪の毛を撫で付けながら後ろを振り返った。流石に時間を無駄にするのはお互い利口ではない。
「サベダー君。私に用でもあるのか?なければ、部屋に戻って一休みしたいんだが」
「あ、えっとその、ピアソンさん」
「うん」
扉の向こうに人の気配がする。二人、三人、と数えてクリーチャーはナワーブに続きを促した。クリーチャーの見えている方の目とナワーブの目がぶつかる。この若者は、本当に綺麗な顔立ちをしていた。戦場に立つ傭兵らしい体つきの精悍さと、東洋的な瞳の神秘さは並ぶものはないだろう。片方ずつを持つ人をクリーチャーは見たことがあるが、その両方を携えた人間には初めてお目にかかった。普段は朴訥で冷静沈着そのものと言えるが、実はその体幹をいかした奇矯な踊りを舞うなどなかなか面白いところもある。ナワーブの喉が痙攣するように動いた。
「ピアソンさん、俺、ピアソンさんのことが好きなんだ」
「ありがとう。私もだ」
「えっ」
間髪入れずに返せた自分をクリーチャーは心の底から賞賛した。呆気にとられるナワーブの表情が面白い。同時に、ぎゅうと胸が痛くなってクリーチャーは帽子を斜めにかぶった。わかりやすく、無垢な嘘であることは重々承知している。何しろ今日は嘘をついて良い日なのだ。普段嘘をつきなれない様子のナワーブに、やってこいと同年代の仲間たちがけしかけたのは目に見えている。クリーチャーならばこの手の嘘くらい優しく迎え撃つことができると見込まれていることもよくわかっていた。
ただ、唯一計算外だったのはクリーチャーにも他愛もない喜びを得たいという願望があったと今更気づいたことである。人に好かれたい?あれほどのことをしでかしておいて誰が望めると言うのか。手に入らないことなどとうに承知して放り投げ出したはずの、なにものにも守られることのない柔らかな自分をクリーチャーは恐れた。嘘を重ねてきた分だけ嘘で傷つけられたような気分はただの錯覚にすぎない。すぐさま自分を覆い隠すと、クリーチャーはまだ固まったままのナワーブの肩をぽんと叩いてやった。
「次はこのベッドを利用しようとでもお誘いをしてくれるつもりかい?生憎私は奥手なんだ、そういうのは段階を踏んでくれなくちゃ困るな」
「な、な、」
「それじゃ、治療をありがとうサベダー君。いい一日を」
ゆっくりと立ち上がり、一気に扉に近づいて開く。どっとなだれ込んできたのはトレイシー・レズニックにウィリアム、イライ、ついでにエマ・ウッズと同年代の少年少女のオンパレードだ。若干のいまいましさを覚えるも、クリーチャーは迷わずに慈善家らしくうやうやしい挨拶をして見せた。
「君たちもな」
へへへ、と決まりの悪そうな笑みを観衆が浮かべるのと、ナワーブの叫び声を後ろにクリーチャーは華麗に退出した。泥棒の大人とは、嘘であってもかくも優雅にありたいものである。
ナワーブ・サベダーは嘘が下手である。と、言うよりも嘘をつくためにあれこれもっともらしいことを考えるのが面倒なだけで、多分真剣に考え込めばでっち上げることだってできるという心持ちではあった。嘘は頭を使う。つく限りには嘘だとばれない方が良いとナワーブは考えていた。あからさまにばれて一体なんの意味があるか理解できない。嘘をつかないで本当のことについて口をつぐんでいればいいだけの話で、嘘を真実に見せかけるためにあれこれ考える労力は無駄だと一刀両断していた。
「エイプリルフール?」
「そそ。さっき美智子さんとささやかな和解ができたのもそのおかげだな」
可愛らしかった!と歓喜の声をあげるのはカヴィン・アユソである。先ほどナワーブと一緒に(どうして男と一緒に行かなけりゃならないんだとナワーブを睨んでいたが無視した)ゲームに参加し、何やらハンターの美智子と親しげに会話を交わしていたのはいつものナンパのお誘いとは一味ちがっていたらしい。荘園領主相手の遊びだ、とカヴィンは話した内容を明かさずに歌う。不可解な現象にはあ、と首を傾げているナワーブに補足説明をしてくれたのは今日唯一吊られてしまったトレイシーだった。
「実はずっと黙ってたんだけどさ、僕は男なんだよね。体が弱い言い訳にしたくてずっと黙ってたんだ」
「嘘だろ」
思わず目を見開くと、ナワーブはトレイシーの華奢な体を観察した。声質は少女にしては低く、声変わり前の少年の可能性を秘めている。体つきは平坦で、言うなれば女性らしい曲線は今ひとつ見出せない。自己申告の通り、彼女は足が遅いし、と考えこんではたとナワーブは動きを止めた。カヴィンがヒイヒイと腹を抱えて笑っている。
「嘘か」
「少し考えればわかるだろ?俺がトレイシーと一緒に解読しに行くの、見てなかったのかよナワーブ」
「まあまあ。どの辺りで信じ込んだのかはつっこまないでおくよ。ともかく、こうしたわかりやすい嘘を当てっこしたりして遊ぶ日なのさ。気晴らしのようなものだね」
「気晴らしね……」
どちらかといえば今のナワーブが味わったのは気苦労だ。眉間にできた皺を指先で伸ばすと、ナワーブはこの催し事から免れる方法を考えて放棄した。すでに自分は目をつけられているのだから、簡単なものをひとつこなしてやり過ごす方が頭の良いやり方というものだろう。案の定トレイシーがナワーブも嘘をついてみたら良いよ、と言い始め、悪ノリしたカヴィンの声を聞きつけたウィリアムやイライが加わり、気づけばエマがにこにこと椅子に座っている。完全に詰んでいた。我ながら良い見立てである。
「わかったわかった。で、どんな嘘が良いと思う?」
「ふふ、良いことを思いついたわ」
自分で考えられない時の良い対処法は、餅は餅屋で他人に考えさせることだ。ナワーブはすかさずイライに水を向けると、打てば響くように返したのはなぜかエミリーだった。エマにクッキーを持ってきたらしいエミリーは他の面々にも少量ずつ配りながら笑っている。正直なところ彼女には凄みを感じるのでナワーブは苦手だった。治療に良い思い出がないためなのかもしれないが、必要な時以外には関わり合いになりたくないとさえ思ってしまう。改めて見れば、医師にも関わらず看護師のような服装を身にまとう彼女は嘘そのものだ。
「クリーチャーに愛の告白をするっていうのはどうかしら。普段他人に愛を囁いているんだから、たまには誰かに言われても良いわよね」
「うえ」
「かなりえげつないですね……」
「しっ、黙っておいた方が良いぞ」
ウィリアムやイライが蒼白になり、カヴィンも顔を引きつらせながら青年たちに黙るよう指示する。かなり距離をとって座っているイソップ・カールもどこかエミリーに恐怖を覚えているようだった。なぜこのような提案がなされたかは、普段エマにまとわりつくクリーチャーを見ているから十分に理解できる。この機会に残酷なしっぺ返しをしてやろうというのだろう。エマにハエのようにまとわりつき、時に暴力に及ぶような狂気を見せるクリーチャーの姿は愛を乞うものからは程遠かった。ナワーブが知る限り、愛とは腐った臭いがする醜いものを受け入れにくい。そもそも、クリーチャーはエマを本当に愛しているのかすら危ういとナワーブは考えていた。なんというか、嘘なのである。それもひどく下手なものだ。
「いいよ」
そんな嘘つきなら、自分の下手な嘘も笑って流せるだろう。傷つけなければ明日以降も問題なく過ごせるし、周囲も納得して自分も解放されて万々歳だ。良いではないか。楽しめるかは不明でも、初めて祭りを過ごすにしては上手な身のこなしには違いない。いたって軽く請けあうと、ナワーブはちょうどゲームを終えたという放送を聞いて腰を上げた。
「ピアソンさん」
薄い姿に声をかけ、ナワーブは違和感に目を瞬かせた。クリーチャーの特徴はその軽快な身のこなしである。だが今の彼はどうだ、どうにも不自由そうなぎこちなさで歩いているように見える。実際、ナワーブの声に反応したクリーチャーは痛みからか頬を引きつらせた。チェイスを担うため、怪我はいつも付いて回る。おそらく背中に強い一撃をくらっているのだ、と冷静に考えながらもナワーブはクリーチャーから目を離せないでいた。普段のうさんくさい穏やかさが剥がれた瞬間は鮮やかで、目の前に絵の具がぶちまけられたような心地になってしまう。
こんな顔をするだなんて一度も思ってもみなかった、否そもそも興味などなかったのだから当たり前の話だ。怪我の手当を申し出て、近場の自分の部屋へと招き入れる。機械的に救急箱を探し出し、クリーチャーが戸惑いながらも上着を脱ぎ、シャツを脱ぐのを緊張しながら見守っていた。笑えることに、ただの中年男性が上半身裸になることがとんでもない冒涜的なもののような気がしていたのだ。薄い、骨が浮き出たような背中である。真っ赤に腫れている場所から羽が生えるのではないかと想像し、ナワーブはぶんぶんと首を振った。馬鹿げているにもほどがある。薬を塗り、指先から返ってくるクリーチャーの体の情報がどんどんとナワーブの頭の中に取り込まれていく。よく咳き込んでいるのは知っていたが、元気にチェイスする姿が想像しにくい程に頼りない体だった。
自分はクリーチャー・ピアソンという男を知らないのではないだろうか。一通り治療を終えたナワーブは、神聖な儀式を終えた司祭のように恭しく指を組んだ。本当にこの男は嘘だけだろうか?嘘という霞の向こうに一体何を隠しているのか、それを知らないままでいることは勿体無いような気さえする。面倒ごとになるだけだぞ、と理性が叫んでいたし、扉のわずかに開いた隙間からトレイシーたちがいつ嘘が発動するのかとチラチラ見てきていることもわかっていたがナワーブはただ目の前にある男の背中だけを見ていた。
「サベダー君。私に用でもあるのか?なければ、部屋に戻って一休みしたいんだが」
「あ、えっとその、ピアソンさん」
「うん」
物言いたげな自分の様子に気づいてか、クリーチャーがせっついてくる。クリーチャーは他人の気配に聡い。ナワーブが何をもたもたしているのか、外には誰がいるのかまで概ねお見通しのはずだ。この時間をもう少し続けたい。クリーチャーの背中を撫でそうになる手を押しとどめたナワーブから出たのは、恥ずかしいほどに不恰好な台詞だった。
「ピアソンさん、俺、ピアソンさんのことが好きなんだ」
嘘、である。嘘、なのだがナワーブはとてつもなく後悔していた。自分が何を考えているのか、どうしたいのかは不明だが、今の自分は間違っていると明確に言うことができる。道を踏み外しかけているのだが、どこに正解があるのかはわからない。思考が雪崩こんでナワーブをかき回す。だがそんな混乱をよそに、おそらくは間髪入れずにクリーチャーは答えを打ち返してきた。
「ありがとう。私もだ」
「えっ」
嘘なのだ。クリーチャーがこの祭りを知っていることも、こうした返し方をすることもエミリー達から聞いている。だと言うのに、どうしてそれが自分の心を舞い上がらせるのか、同時に目の前が真っ赤になる程悲しいのかがナワーブにはわからない。わからないと言えばクリーチャーの目も奇妙だった。吸い寄せられるように彼の瞳に見入っていると、奥底の子供のような寂しさに触れるような心地がする。笑って済ませる男のする目とは到底思えなかった。とるものもとりあえず待ってほしいと訴えかけた矢先、クリーチャーはぽんとナワーブの肩を叩いた。
「次はこのベッドを利用しようとでもお誘いをしてくれるつもりかい?生憎私は奥手なんだ、そういうのは段階を踏んでくれなくちゃ困るな」
「な、な、」
「それじゃ、治療をありがとうサベダー君。いい一日を」
ひらひらと掌からすり抜けて風に舞ったハンカチのようにクリーチャーが逃げ出してゆく。確かにあの体をじっくりと確かめたいとは思ったがーーいや、だが今のはもしかすると大変美味しい状況ではなかったかとナワーブは嘘に踊らされそうになる。嘘、嘘、全部嘘、自分だって嘘をついたのだ、クリーチャーも嘘をつく。うんざりだった。
「XXXX!!!!」
禁じられた四文字を大声で叫ぶと、ナワーブは肘当てを駆使しながら中庭へと失踪した。仲間達との罪のない罪だらけの遊びに興じることは耐えられなかったのである。
人間は社会的な動物と言うらしい。孤児院を開く際に、学者先生がしかつめらしく説明をしてくれたところによると、人は一人では成り立たないのだそうだ。共同体の中での自分と個としての自分をより善くしてゆくのです、という説明は一つも頭に入らなかったのだけれども、クリーチャーにとって面白くない話であることだけははっきりしていた。確かに誰かはいた方がいい。だが絶対ではない。そうでなければ、どうして自分は一人で生き抜かねばならなかったのか?自分に共に生きる『誰か』がいなかったことは、誰か自分を必要とする人もいなかったということになってしまう。
実際必要となどされたことはなかったのだけれども、クリーチャーは自分を肯定するためにこの理論を否定するしかなかった。率直に言えば、認めた端から寂しくなってしまうことが嫌だったのだ。寂しさは何も生まない。面倒ごとは御免で、クリーチャーは抜け目なく生き抜かねばならないのだ。生き抜くこと、それはクリーチャーにとって自分の生き方の証明とも言えた。
嘘をつかれた翌日になっても、クリーチャーの中には嘘が尾を引いていた。生まれて初めて誰かに嘘でも必要とされたのだ。明らかな打算ではなく、ただ嘘をつくだけという可愛らしいものはクリーチャーを喜ばせてくれる。取引のない、ただの冗句はきらきらと輝いていて宝物のようだった。多分、このまま死んだらば自分は必要とされた喜びを反芻するだろう。同時に嘘だとわかっているが故に途方もなく悲しくなるのだけれども、この幻影をクリーチャーは愛することにした。神がいなければ自分で偶像を作り出すしかない。朝食の席に向かったクリーチャーは軽く頬を叩いて自分を叱咤した。
「おはよう、ピアソンさん。イングリッシュブレッド?ライ麦パン?それともクロワッサン?どれにするの」
「いや、急に言われても困るな」
おはようという挨拶の言葉を口の中でもごもごさせると、幻影から飛び込んできた現実にクリーチャーは首を傾げた。滅多に声をかけてこないナワーブが話しかけてきたのである。時計を確認したが間違いなく時間は昨日から今日へと移り変わっていた。万愚節は消え失せ、残るのはいつも通りの嘘と偽りと真実だけである。籠に盛られたスコーンを取ろうとすると、ナワーブは周到に手を回してクリーチャーから奪い、オーブンに移動させた。どうやらわざわざクリーチャーのために温め直してくれるつもりらしい。とんでもない天変地異に、側近くにいたカート・フランクが目を見開いている。お上品にコーヒーをすすっていたセルヴェの口からコーヒーが溢れた。
「ありがとう、サベダー君。ええと、今日はボーイスカウトの日だったか?君にこんなにしてもらうようなことを私は何もしていないと思うんだが」
「別にいいんだよ。だって俺たち、お互いに好きなんだからさ」
「は?」
思わず地が出そうになったのを押しとどめ、クリーチャーはナワーブの顔を観察した。恐るべきことにこの顔はどこにも嘘がない。昨日の嘘はあんなにわかりやすかったのだから、一日で巧妙な嘘つきになる道理もなければ理由もなかった。つまり、ナワーブは本気でクリーチャーと彼が相思相愛の仲だと理解しているらしい。だが昨日のあれは確かに嘘だったはずで、では一体何がどうなっているのだろう。クリーチャーの思考はどんどん渦を巻いていき、スコーンは焼きあがって誘導されるままにクリーチャーはナワーブの隣の席に座らされていた。席順は固定で自分はエミリーとカートの間だったというのに、どうして移動させられたのかもわからない。この青年が何を考えているのか、恐ろしいことにクリーチャーは皆目見当がつかなかった。
「ジャムと、クロテッドクリームはこっち。ピアソンさん、牛乳入れるんだっけ?」
「……何を考えているんだ、君は」
「あんたが知りたい」
じ、っと罪のない目がクリーチャーを捕らえる。嘘つきのくせにとんでもない奴だ。自分のからかいに対してこれはあまりにも手酷いしっぺ返しで、クリーチャーはやりきれなさのままに牛乳をなみなみとカップに注いだ。本来ならば四分の一も入れれば十分だったはずが、気づけばカップ半分程も注いでしまっている。紅茶を濃いめに淹れるようにしているものの、これでは紅茶風味の牛乳になるだろう。ため息をつきながら薄いミルクティーもどきを一口飲むと、クリーチャーは目だけでナワーブを促した。
「昨日あんたと話して、今までちゃんと話したことがなかったんだってわかったんだ」
紛れもない事実で、クリーチャーは腹を割って話す相手は一人もいない。腹を探り合いながら話し合う剣呑で楽しい仲間は幾人かいるが、あとは薄っぺらい慈善家らしい振る舞いに止まっている。エマはーーエマは例外だが、あれもまたクリーチャーの抱える嘘だった。ナワーブは最後のグループに入っていて、取り立てて深い話は不要と判断していた。無防備な自分を見せて良いことなど、クリーチャーの人生では一度もなかった。背中を見せれば刺されるし、寝入った隙に大事なものは盗まれてしまう。自分は自分しか守ってくれないし、自分しか必要としてくれないし必要ではないのだから他人など、どうだって良いのである。嘘つきめ、と胸の奥で昨日覚えた甘露が笑う。スコーンを割る手が震えた。
「俺はね、ピアソンさん。昨日の嘘を嘘のままにするのはもったいないって思ったんだよ。もっとあんたを知って、あんたに俺を知ってもらってあんたの嘘も取り下げて欲しい」
セルヴェが呻いた。カートは小さくなったのか姿が消えている。クリーチャーはじくじくと痛む胸を押さえて、小さく咳き込んだ。嬉しいなどと思ったところで許されはしない。ナワーブのごつごつとした手が伸びて、スコーンにクロテッドクリームとラズベリージャムをのせる。一つ一つの動作に無駄がなく、クリーチャーは差し出されるままに受け取った食べ物を口に入れた。聖餐は美しく、清く、クリーチャーの体の中から明かりを灯すように暖かい。
「……知っての通り、私は嘘つきなんだが。君も大概だぞ」
「ピアソンさんが信じるまでは嘘でも良いよ」
その方が気が楽なんでしょ、などと核心を突かれてクリーチャーは唇を歪めた。馬鹿にするなと罵って食事も全部ぶちまけて怒鳴って殴って無理やり引き剥がすのは簡単だ。だがこの青年は与えられた難所もやすやすと乗り越えてぬけぬけと嘘を言って退ける胆力がある。前言撤回だ。ナワーブは嘘が上手い。嘘をつくと決めたならばそれを本物にしようとする愚か者でもある。
もし、自分の全てをさらけ出して安らげるならば、それでも良いと思わないでもなかった。真実が目の前から消え失せるまで、ずっと優しい嘘つきごっこをできるのならば、少しは幸せになる権利を勝ち取ったと誇れもする。嘘ならば、堂々と愛せた。そして万が一にでも先の先、未来の果てで自分は真実をも愛せるかもしれない。クリーチャーはナワーブのぎざついた口の端についたアプリコットジャムをナプキンで拭いてやってちらりと笑って見せた。
「それじゃ、せいぜい良い嘘を聞かせてくれよ」
「嫌だって言っても聞かせるよ。言質とったからね」
瞬間、ナワーブの目の奥から化け物が飛び出したような気がしてクリーチャーはわずかに後ずさった。彼の嘘の向こう側は一体何が隠されているのだろう。ナワーブの指先がクリーチャーの背中に伸び、昨日の傷口をすうっと撫で上げる。絶妙な触り方に首元がぞわぞわと震えた。
「で、あんたが奥手だっていうのは嘘?本当?」
「……さあなあ」
セルヴェの姿も消えている。残像すらないので本当にこのやりとりを聞きたくないと席を立ったのだろう。がらんとした食堂には二人きりだ。どこかに潜んでいる人間の気配もしない。クリーチャーはようやく分量が減ったミルクティーもどきに紅茶を注ぎ、ちょうど良い味わいに戻すことに成功した。ナワーブの目がじっとその動作を追いかけている。
「今の所は本当だ」
賢い男はそれだけで意味を悟ったらしく、ぱっと顔を明るくしてクリーチャーに抱きついた。偽りのない心音が耳元でうるさく生命を叫んでいる。福音が届いたような気持ちにクリーチャーは目を閉じた。この嘘をいつまでも、死ぬ時までも信じていたい。それをくれたのは彼だけだったし、結局のところ自分もまんざらではないのだから良い嘘つきのパートナーになれるだろう。
明日はどんな嘘をつこうか。ナワーブが投げかける、率直でクリーチャーの素顔を一枚一枚剥がしていくような質問を聞きながら、クリーチャーは日々に差し込んだ光に目を細めた。
〆.
あとがき>>
エイプリルフールネタを呟いて、書こうか書くまいか迷って腰をあげるのが遅く、エイプリルフールとその翌日の話を書きました。嘘が本当になったら良いな、と思いながらお互いわかりきった嘘をつく関係もまた傷つけないのであれば幸せの一つの形かもしれません。臆病な泥棒がいつか押されて嘘でなくとも幸せになれたらば、その時に愚者の楽園は愚者だけのものではなくなるでしょう。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!