くまよりこわいものがある。
森のくまさん
今日はバレンタインデー。恋人や親しい人、普段お世話になっている人にその温かな思いを伝える日である。孤児院を経営するクリーチャー・ピアソンも、そんな思いを伝えようと胸躍らせている一人であった。孤児院に入り浸る(正確にはわざわざ足を運んで手伝ってくれているのだが、態度が悪いので素直に認められない)エミリー・ダイアーと子供たちとで思い思いにチョコレートやらクッキーやらの菓子を作り、丁寧なメッセージカードも作るなどして準備は万端である。
普段ならばどうにも声をかけづらい、森の中に住んでいる愛しいエマ・ウッズにせめて一言何か伝わればとクリーチャーは態々ハート型の凝った箱まで手に入れてチョコレートボンボンを詰めたのである。メッセージカードは流石に添えられなかったけれども、少しでも喜んでもらえたら、いやひょっとしたらお礼に頬にキスくらいはしてくれるかもしれない。そんな下心もちょっぴりありながらの出陣だった。
「やっぱり怖いなあ」
ただ障害はつきものというべきか、一歩街から出ると物寂しい、鬱蒼とした森はなんとも不気味だった。実際このところは大きな熊が冬眠から間違って目覚めてしまったとかで、先日も怪我をした人が出ると聞いたから恐ろしい。熊に出会って戦える自信は全くなく、逃げ回れるかもしれないが所詮は人間だ。食われる方が確率としては高い。お願いだから見つかりませんように、とドクドクと鳴る心臓に縮みあがりそうになりながら道無き道を歩いていると本当に帰りたくなってしまう。絶好の機会は今日しかない。噂では熊よりも怖いエマの父親が、最近娘に悪い虫がつかないかと警戒を高めているらしいのだ。その点、今日は一応の理由が立つ。孤児院に花を届けてくれる優しい彼女へのちょっとしたお礼。そう言い張ることができるのだ。
「ヒッ」
ガサガサと草むらが揺れた、と思うと眼前を何かの残像が過ぎる。もともと片方の目しかまともに使えないクリーチャーには一体何かわからなかったし、生き物だとなんとか身構えようとした時にはもう地面に倒れていた。熊か。逃げる間もなく捕まるとは情けない。生き物が乗った背中がみしみしと悲鳴をあげている。
「どうかウッズさんが俺の死体を見つけませんように」
「変な奴だな。あんた、まだ死んでないぞ」
「へ?」
思いもよらぬ人語に驚き、おそるおそる背中の上に乗った生き物を見れば、熊というよりも犬のような狼のような生き物だった。どちらにせよ自分は食われてしまうようで、クリーチャーは再度絶望しかけたがなんとか自分を奮い立たせた。話せるということは交渉の余地があるということだ。あるいは少しの隙を作り出して逃げられるかもしれない。
「熊が出るとは聞いていたが、君みたいな奴が出るとは聞いていなかったなあ」
「熊?ああ、熊ね」
人の話を聞く気があるのかないのか、いたって気まぐれな様子で狼(いや狼人間?と言って良いだろう)はいるねえと頷いた。彼はまだ見かけていないらしい。
「それで?あんたは何しにその危ない森にのこのこ来たんだ」
「森の中に住んでいる女の子に会いにね」
「ふうん。……ねえ、あんたが森を行き来する間、俺が守ってあげようか」
「生きて帰れるなら良い話だが、どうせロクでもないことを要求するつもりだろう。言ってくれ、何が望みなんだ?生憎私は貧乏だから、金目のものならばろくにないぞ」
「金は別に良いかな。代わりに、あんたの体で二個持っているものを一つ欲しい」
目とか、耳とか、腕とか、脚とか。舌なめずりをして言う狼人間はまさしく獣だった。ぞわりとクリーチャーの全身に鳥肌が立つ。こうなったらば義眼を差し出すしかないか。高価だが、きっといつか代替品を持てるだろう。バルクには相当ふっかけられそうだ。などとあれこれ計算していると、狼人間がじっと自分の手元をみていることに気づいてクリーチャーは首を傾げた。倒された時にとっさに前に腕を伸ばし、潰れないようにと守っていたハート型のチョコレートボックスである。
「それがいい。あんた、心臓を二つ持ってるんだ?だったら、一つくらい俺にくれても大丈夫だよね」
「いやこれはウッズさんに……」
「こっちの心臓とそっちの奴、どっちか選んでよ」
「ぐぁっ」
どん、と心臓のあたりを上から押され、クリーチャーは口から心臓が飛び出すかと心底焦った。もはや躊躇はしていられない。バレンタインデーは来年も来るが、自分の命は失ってしまえば今日これきりだ。仕方なしにチョコレートボックスを差し出すと、狼人間は心底嬉しそうな顔をして受け取る。そっと懐にしまい込むところなど、見れば見るほど人間に似ている。重みが外れ、代わりにふわりと抱きかかえられたものの、もはやクリーチャーは抵抗しなかった。狼人間はますます人間に似て見える。ただ、頭からしっかりかぶった巨大な狼の毛皮や立派な犬歯、人間にしてはやけに青白い肌はただの人とは違うのだと教えてくれていた。
巨大な森の番人のような鹿がいるとは聞いていたが、こんな生き物は聞いたことも見たこともない。ただクリーチャーを運ぶ手つきは恭しく丁寧で、なぜだか打ち解けるような気がしてくるものだから不思議な話だ。エマのいる小屋まで案内され、戸を叩いたが完全に留守だったことも落胆には繋がらない。また会えるよ、と言ってくれる狼人間はひどく優しかった。
街の入り口近くまで無事に送り届けてくれた狼人間は本当に親切で、クリーチャーに名前や、街の様子、どんな風に日々を過ごしているのか等をあれこれ聞くばかりだった。クリーチャーの方が何も質問をせずにやり過ごそうとしている自分を恥じたほどである。生き物は見た目によらない。人間と同じで、個々の中身を開いてこそ価値がわかるのだ。最後になってようやく、クリーチャーは狼人間にたった一つの質問を口にした。
「君の名前を聞いても良いかな。もしあれば、だが」
「俺はナワーブ。ナワーブ・サベダーだよ、ピアソンさん」
ニッと笑った顔は存外端正で、クリーチャーは思わずくらりとしかけた自分を叱咤した。顔がいい男に弱かったことはこれまでにない経験である。近くの占いの館や葬儀場にも近所で評判の美青年たちが集っているし、なんならば得体の知れない写真館の主人はすこぶるつきの古式ゆかしい美形だ。どれも出会ったところで綺麗だな、という客観的な感想に終わったというのにどうにも頭を離れない。
ぼうっとしたまま孤児院に戻り、子供達に囲まれてお茶の時間を過ごす。チャリティー・オークションに出すガラクタの修理を手伝ってくれているトレイシー・レズニックも加わって賑やかなお茶会となった。彼女は近頃犬を飼い始めたとかで、今日も連れてきた子犬に孤児たちが群がっている。
「君たち、ガジェットに食べ物をあげるのはいいけれど、チョコレートだけは絶対にあげないでくれよ。僕たちは平気でも、ガジェットには毒なんだ。少しでも食べたら苦しくなって死んでしまうからね。わかったかい?」
「はあい」
親を亡くした瞬間を目にした子も多く、死ぬという究極的な発言に対して神妙に受け入れられたようだった。犬に対してチョコレートが毒とは聞いたことがなかったので、クリーチャーもなるほどと一つ学びを得ーーはたと止まった。犬に駄目ならば、もちろん狼にだって駄目だろう。あんなに優しいと言えども狼人間なのだから、きっと彼は箱を開けてクリーチャーの”心臓”と信じているものを口にするはずだ。待ち受けているのは死、のみである。殺すつもりなど毛頭なかった。確かに出会った時には恐ろしかったのだけれども、ナワーブは対等に人間のように語り合う相手である。友人と呼んでもいいかも知れない。それを殺してしまうとは、流石のクリーチャーも罪悪感で胸が潰れそうで思わず椅子から立ち上がった。
「どうしたの、ピアソンさん」
「急用を思い出したんだ。子供達を頼んだぞ、トレイシー」
「よくわからないけど了解だよ。頑張ってね」
親指を立ててくれるトレイシーは男前と言って良い頼もしさである。帽子も正しく被らずにずれたままで走り出すと、クリーチャーは陽がだいぶ傾いていることに舌打ちした。もうこんなに暗い。夜は特に視界が悪く、霧が出たとなれば最悪の自体を招くのだ。霧の住人は昼間の人間とは違ってひどく冷たい。ナワーブも出会ってしまったらどうなるだろうと思うだけでヒヤヒヤする。森の入り口にたどり着いた時にはもうすっかり世界は暗闇に包まれていた。
「ナワーブ!ナワーブ君、いるなら返事をしてくれ!」
「忘れ物でもしたのかい」
五分は叫んだだろうか。手にしていた懐中電灯を必死でカチカチと光らせていると、ようやく奥からナワーブが出てきた。傍目から見れば具合は悪くなさそうである。
「さっきあげた私の心臓を返して欲しいんだ」
「駄目だよ。これはもう俺のものだからね。ピアソンさんが嫌だって言ってもだめだ」
「代わりに私の目玉をあげよう。ともかく……それは私の心臓なんかじゃない。開けてみてくれたらわかるが、君にとっては毒になるものなんだ」
「本当かなあ」
ぼんやりと言うなり、ナワーブは取り出した箱を開けて一粒取り出した。ココアパウダーとシャンパンの匂いが漂う。粉末を吸うくらいならば大丈夫だろうか。
「やめてくれ!」
「うわっ」
そのままなんのてらいもなく口にしようとするのを必死で撥ね飛ばすと、クリーチャーは勢いのままに箱を奪い取って中身を地面に投げ出した。受取手のなくなった哀れな愛情が塵に変わってゆく。悲しいけれども必要なことだから仕方がない。唸るナワーブに、目玉だけでは足りないことをクリーチャーは悟った。ならば、自分は何を差出せるだろう。どうせ死んでしまいかけていたこの身の上なのだ。出せるものなど決まっているではないか。
「ナワーブ君、君は私の心臓が欲しかったんだろう。良いとも、ここから取ると良い」
「……あんたは正直なんだな」
「君が優しかったからな」
ほだされたのだ。森の熊のことなど頭からすっかり抜けて暗がりに懐中電灯をかざすなんて真似をするくらいにはイかれている。本当は、エマからもらうはずだったのだけれども、これはこれで悪くはない。ナワーブはクリーチャーの薄い体をぎゅうと抱きしめると、背中の側から心臓のあたりを何度も撫でてきた。
「これは俺のものなんだね」
「ああ」
「じゃあ、あんたは一生俺のものだ」
「……そう言われてみるとそうかもしれないな」
妙な雲行きである。話の行く先が見えないままに抱きしめ返すと、スンスンとナワーブはクリーチャーの首筋を嗅いで満喫していた。食べるための前準備にそぐわない行いのようだし、第一すぐそばにあるナワーブの心臓の鼓動がやたらと早く高鳴っていて体が熱くなってくる。
「あのね、ピアソンさん。俺は一応人間だよ?チョコレートくらいじゃ死なないって。まあ、あんたが毒を仕込んでたなら話は別だけど」
「待て待て待て」
続けられたセリフに、ピアソンはナワーブから離れようとして失敗した。さあっと顔が青ざめる。自分はとんでもない間違いをしたのではないだろうか。
「こんなに心配してくれるなんて幸せだなあ。言質とったからね。新しい森の番人が来たって、知らないピアソンさんが悪い」
「つまり君は私をはめたのか」
「ピアソンさんが勝手に勘違いしただけでしょ」
「私は本気で君を心配して……!」
「うん」
だから、恋しちゃった。そんなことを言われてしまえば、クリーチャーには打つ手がない。そんなことは、生まれてこのかた誰にも言われたことがなかった。まっすぐに向けられる慈しみの情なんてものは知らない。悔しいことに、クリーチャーは心臓よりも決定的なものを渡してしまったらしい。嬉しいと何度も素直に喜ぶナワーブの頬を軽く引っ張ると、精一杯の抵抗を見せる。何と言っても、今日はバレンタインデーなのだ。情を伝えるには最適の日である。
「熊より怖いものがあるって、街の奴らに教えてあげないといけないな」
「あんた限定でね」
しれっと畳み掛けるのはやめにしていただきたい。相手は変わってしまったが、当初の目的は果たされたわけだ。クリーチャーは長い長いため息をつくと、地面に落ちたチョコレートがかわいそうになってしまった。どうせだったら食べてもらえばよかった。実に勿体無い。
「……明日また、作り直して持ってくるよ。君は食べても平気なんだろう?」
「ピアソンさん」
「ああ」
「あんたって本当に最高」
愛してる!とナワーブが叫び出すのを抑えようとし、失敗したことは翌日孤児院に顔を出したエミリーが何よりもよく知っている。
〆.
あとがき>>
イベントものを書くのが一年ぶりにして前回同様に遅刻した……なぜです!キットカットのオンラインチョコで、森に狩人をしに出かけたピアソンがとってきた熊チョコが贈られたことに着想したお話です。このナワーブは感染衣装を着ているので、クリーチャーおじさんはあっけなく騙されてしまうのでした。甘いものをようやく書けて何より安堵しています。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!