そんなもの、嘘だ。
おばけ
スパゲッティが絡んだフォークの向こうで、髪の毛が見える。うっすら透明で柳のように揺れる髪は、当たり前のように現実のものではない。食堂のテーブルから付かず離れずの距離にある『それ』を無視し、ナワーブ・サベダーは麺を手繰り寄せた。美味い。緑鮮やかなジェノベーゼとかいったイタリア料理は、青々とした爽やかさを口にもたらしてくれる。時折歯に当たる豆や、松の実が飽きさせない。うっすらレモンの風味もする。美味しい。もう一度嘆息すると、ナワーブは意味ありげにこちらを見る目に焦点を合わせた。
「美味しいよ」
「な、ならいいんだ」
おどおどとした所作が可愛げよりも胡散臭さを醸すこの男は、クリーチャー・ピアソン。ナワーブが新たに足を踏み入れた荘園の仲間である。古株だとかいうクリーチャーは、本日の食事当番であったらしい。当初は毒でも入れられるんじゃないかと(賞金を頭割りするのであれば、断然人数は少ない方がいい)疑っていたものだが、今は純粋に味わうことができる。どうやら荘園にいる多くの人間にとって、料理は気晴らしの一環であるらしかった。
さて、そんなクリーチャーの近くには、先ほどから小さな影がぴょこぴょこと跳ねてまとわりついている。どうやらクリーチャーのスパゲッティを食べたいようで、透明な未発達の手は皿へと伸ばされていた。クリーチャーが皿を動かし、幼児の手から遠ざける。目はナワーブの方を見たままだというのに、自然な所作で避けるとは無意識だろうか。
見えているのか、いないのか――――それが問題だ。ナワーブには幽霊が見える。限定するまでもなく死んだ人間たちで、恨みがましいものもあれば楽しげなものもありピンキリだ。見えるようになったのはいつの頃か忘れたが、他人に話したことはない。ただ冷静に、あああれはここにいない人だ、と思うだけだ。少し嘘をついた。戦場にいた頃は、ありもしない相手を殺そうと必死だった。今でもあれは生きている人間を殺したのか、死んだ人間をもう一度殺したのかが分からない。どちらも消えた。
もしかしたら、自分の頭は少しおかしくて、ありもしない幻覚が見えているのかもしれない。通信音が高鳴るたびに額に浮く脂汗は、ナワーブに自分がまともではないと思わせるに十分だった。今でも暗号機の解読には手間取る。頭の柔らかい連中が揃っていて本当に良かった。美味しさを忘れて全て平げ、空の皿を持って流台へと運んでゆく。食堂の戸口で妖艶な美女がナワーブの体を通り抜け、後ろから身幅のある生身の男が出てきた。脇に避けると、紳士は優雅に挨拶をして見せた。
「今日は麺ものか。伸びてないといいんだが」
一分の隙もなくめかし込んだセルヴェ・ル・ロイは本日最後のゲームに参加していたはずだ。身なりを気遣うが故に、風呂やら何やらに長々と時間を費やしたのだと思われる。立ち込めるムスクの香りは、ウィラ・ナイエル謹製の香水だろう。
「自分で茹でたら?美味しかったよ」
「だろうな。クリーチャー!」
手を上げると、他人を使うことを当たり前とする所作でセルヴェがクリーチャーに向かってズンズン歩く。美女は面白そうにそれを見送ると、ナワーブに片目を瞑って見せた。彼、いつもああなの、困っちゃうわよね。とでも言いそうな表情だ。残念ながらナワーブに彼らの声は届かない。むしろ生きている人間に不審に思われないよう、努めて無視する必要がある。扉の向こうでは、狩猟の最中崖から落ちた友達が手を振った。今日も賑やかだ。
ふと思いついて振り向くと、クリーチャーがセルヴェと交渉する傍で、その腰に小さな手が絡んでいる。左手だけなのは、右手がないからだ。クリーチャーの服の裾を引っ張る子供は両目に包帯を覆っている。奇妙な話だが、クリーチャーの近くにいる幽霊はほぼほぼこうしてどこか欠けている。『慈善家』だなんてとんでもない嘘だな、とナワーブは首をふった。あれはひょっとしたら殺人鬼だ。
幽霊から、その対象をあれこれ想像するのは無意味と知りつつも気になってしまう。セルヴェの横に立つ女性は、昔のショーで助手を務めたのだろうか、あるいはパトロンないしは婚約者か。幸せな様子からするに、彼女にとっては満足のいく別れだったのかもしれない。確かめる術はないので、全ては想像だし、そもそもナワーブに見えているものが事実かも怪しい。この国に来てから耳にする癲狂院の恐ろしさは、警戒心を抱かせるに十分なものだった。そもそも異邦人である自分がまともな対応をされるとは考えにくい。いかれていると烙印を押されては一巻の終わりだ。
「そのままで良い。後でまとめて洗うから」
思考の隙間に入り込んだ声に、ナワーブは慌てて現実に戻った。クリーチャーがこちらを訝しげに見ている。どうやら、いつの間にか厨房にたどり着いていたらしい。皿を流台に置くと、ナワーブは鍋を支度するクリーチャーに場所を譲った。子供がケラケラと笑っている。睨みつけると、ビュンと急いでクリーチャーの背に隠れた。
「……ありがと。それなら、後で手伝いに来るよ。ロイさんの分、作り直してあげるんだ?」
「あいつが蓄えてるスコッチ2杯で手を打ったよ。変な話だよな、セルヴェときたら魚を捌くのは上手いのに、そこから先はダメなんだからさ」
「魚を?」
そうだ、とクリーチャーはうなずいた。鱗を取るのも上手いぞ。これはまた意外な話だった。釣りを嗜む男は多い。そして捌いたり焼いたりなんだりしてその場で食べるのがまた乙なものだ。しかしセルヴェは開ききった魚は扱いあぐねると言う。手を汚すのを厭うのであれば、そもそも鱗取りもしないだろう。鍋になみなみと注がれた水がだんだんと湯に変わり、暖かな湿った空気が漂い始めた。
「あれはただの飽き性だよ。好きなところまでやって、後は他人に任せられるなんて贅沢なもんだ」
「なるほどね」
乾麺を鍋に回し入れて、塩を少々。クリーチャーの動きは無駄がない。ソースはもう一度温め直され、驚いたことに別に取り置かれていた茹で豆が冷蔵庫から出てきた。芸が細かいという意味では、クリーチャーも十分意外性を持った男と言えよう。レモンが新たに切られ、ゴロンと転がった半身に下から手が伸びる。クリーチャーが間髪入れずに奪い取った。
「ねえ、あんたさ」
「うん?」
もう一度切ると、クリーチャーは黙って小さなかけらを床に落とした。一斉に子供たちが群がり、レモンの酸っぱい香りが厨房に広がる。まるで犬をあしらうようにサラリとこなすクリーチャーに、ナワーブは思わず息を飲んだ。
「あんた、それが見えてるの」
「なんの話だ」
麺を鍋からかき出してソースに絡める。迷いのない動きは、合間に邪魔を避けながら行われる。見えないものに気を使う必要なんてまるでないと言うのに、この男はひどく優しい。『慈善家』、なるほど言い得て妙かもしれない。新しい皿を取り出して、盛り付けて最後にレモンを絞って果汁を振りかける。何もかもが日常の延長線上にある、自然な流れだった。
「幽霊が見えるんだね、ピアソンさん」
「馬鹿らしい。見えないものなんて、あるわけがないだろう。これ、セルヴェに持っていってくれないか?私は片付けをする。君は手伝わなくて良い」
「ピアソンさん」
「大丈夫だから」
誰に向けての言葉だろう。普段感じ取れない推しの強さに、ナワーブは気圧されるようにして後ずさった。幽霊たちがざわめいている。あそこはとっても賑やかだ。
それからナワーブの観察は続いた。クリーチャーの周りにはいつも誰かがいる。生きている人間も、死んでいる人間も。彼は一人でいると言うことがないようだった。その癖妙に寂しい表情を浮かべる。ナワーブの周りにたむろする幽霊たちも、そんな自分が珍しいのか一緒になってクリーチャーを見ていた。だが、彼らは寡黙なので助けにはならない。例えばクリーチャーに話しかけでもしてくれたらば、話はもっと簡単なはずだ。
「おばけ探しなんて、ほどほどにした方がいい」
「あんたに言われるとは思わなかったよ、ノートン」
「ピアソンさんに昨日愚痴られたんでね」
お茶を一口啜ると、ナワーブは訝しげに相手を見返した。だが、表情が目に映らないノートン・キャンベルは平然としたままだ。シーツの中に手を入れて相手を探すような、そんなもどかしさがある。見えないと言えば、ノートンの周りには何も見えない。ひどい落盤事故に巻き込まれたという割には、取り巻くのは虚無だ。
銀製のポットに、幽霊の指が触れるが姿は映らない。奪い取るようにしてポットを持つと、ノートンはたっぷり紅茶のおかわりをカップに注いだ。波打つ水面にも、きっと幽霊は映らないだろう。彼らはいつもそうだ。自分の目、生きた鏡にしか映ることはない。だからこそ、幻覚なのかもしれないという疑念が拭えずにいるのだ。ある意味、クリーチャーにも同じものが見えていると証明されることは、自分の正気も保証されることになる。だからこそ、会うたびにそれとなく尋ねたり、証拠を得ようとしたりしているのだが、現状は軽くいなされるばかりだ。
酔い潰れた際、ノートンに幽霊の話をした自分はバカだった。淡々と話を聞くのがこれほど上手い男だとは思ってもいなかったのである。ノートンはわずかな相槌だけにもかかわらず、ナワーブはするするとこのところ特に気がかりな幽霊の話を溢してしまっていた。ちなみに、ノートンは当たり前のように信じてはいないし見たこともないらしい。幽霊がいたらば、もう少し役に立ってくれたっていいだろうとまで言いさえしたのだ。生きている人間の方がよほど重要だと。
「あの人さ、誰にでも優しいんだ。生きてても、死んでても。なのになんで、時々おかしくなるんだろう」
「そういう人だっているさ」
クリーチャーは幽霊にレモンのかけらをくれてやる。エマ・ウッズの肥料運びの手伝いを、細腕のくせに無理して頑張って腰を痛めるなどもする。だが一方でエマが自分の意のままにならないと叫んで暴力を振るったり、フレディ・ライリーとひどい罵り合いなどをするのだ。首尾一貫には程遠く、まさにクリーチャーこそが精神に異常をきたしていると指摘できそうだった。頭がおかしいから幽霊が見えるのだとしたら、こんなひどい結末はない。
「俺には優しくない」
「君は優しくされたいのか」
初めてノートンの目に感情が浮かび、ナワーブは唇の端をあげた。いっそ死んでいると言っていいほどに表情が動かないノートンにしては珍しい。毒を食らわば皿まで、いっそこのまま全てに巻き込もうという気分で、ナワーブはクッキーを摘み上げた。今日のおやつはパトリシア・ドーヴァルが、クリーチャーと作ったぺカンナッツ・クッキーである。少し苦味のあるナッツに、メープルシロップらしきサラリとした甘さが絡んで美味しい。焼き上がりも好みの硬さで、夕方のゲームに少し持っていきたい。
「他の人には優しいのに、俺だけダメなんだ」
スパゲッティを食べたあの日から、クリーチャーはどこか冷淡になり、ナワーブが問いを重ねるたびに扱いは軽くなっていった。あのスパゲッティ以前、自分がどんな風にクリーチャーと交流を図っていたのかはもはや思い出せない。今はまるでいなかったかのような対応をされることさえある。昔の自分がクリーチャーに興味を抱いていなかったのは確かだ。今はどうしようもなく欲しい。逃げ水を追いかけるように、果てしなく捕まえようという気概が湧く。
だって、この世界で同じものを見られるのは彼しかいないのだ。向こうはどうかは知れないが、同じ変な場所に潜り込んだ者同士、多少わかり合っても良いではないか。だと言うのに自分ばかりを弾き出そうとするのは間違っている。本当のところ、幽霊なんてもうどうでも良いのかも知れなかった。なぜ、クリーチャーには子供ばかりがまとわりつくのか。なぜ、彼には幽霊が見えるのか。なぜ、なぜ、なぜ、自分と語り合わないのか。ノートンに苦情を述べたと言うのだから、一応クリーチャーの中にナワーブの存在は残ってはいるらしい。
「ナワーブ。君に重要な忠告をしておこう」
「もうやめろって?」
「それもそうだ。俺から言えるのは、他人のおばけを探すのはやめといた方がいい、ってことだ」
「……まるで心当たりがありそうなセリフだな」
ノートンの返事はなかった。
今日も煩くてどうしようもない。夜中になっても少しも眠れず、クリーチャーはベッドを這い出して屋根の上に登った。ここは風がいい具合に吹いて全身を流してくれる。ついでに周りの連中も吹き飛ばしてくれればいいのだが、そうは問屋が卸さないらしい。クリーチャーについてきた小さな影はぴょんぴょんと登って屋根を鳴らした。
幽霊はいつでもそこにいる。物陰とか、道の向こうとか、自分のすぐそばに。クリーチャーが脚を止めていると、一人が片足を引きずりながら戻ってきて、パジャマの裾を引っ張った。仕方なしに従うと見る間に頬が緩む。この子の名前がなんであったかは覚えていないが、記憶のどこかにある笑顔だ。数年前かも知れないし、自分も同じくらいの背丈だった頃か知れないが、確かに思い出の影だった。
彼らがいつからそばにいたのか、これまたはっきりとしたことは覚えていない。気づいたら当たり前のような顔をして存在していたし、だからと言って他人と共有することもない、極々個人的な現象である。最初は驚いたが、生活の足しにならないと分かった時点で興味は失せた。自分の手足の次くらいには身近で、空虚な存在たちは昼も夜もひっきりなしに現れる。
中には自分の心当たりがある生き物もいたものの、クリーチャーになんの感慨ももたらさなかった。もしかしたら全てはただの記憶の切れ端と妄想で、どれも現実ではないのかも知れない。頭がおかしいとされたらば、積み上げてきたもの全てがダメになるのでクリーチャーは彼らを現実の一部と捉えることにした。他人には知られずとも良い。変に勘ぐられて、面倒くさいのはごめんだ。
「ん」
先ほどとは違う子供に引っ張られて下を覗き込むと、中庭で同じく眠れないのか、涼みに来ている人間が見えた。あの位置はうつらうつらしていると虫の餌食になるのだが、声をかけてやる義理はないだろう。誰なのかは雲が月の前をよぎっている最中でよく見えない。夜が明るくなってゆく。一体誰が迷い出たのだろう。見守っていると、クリーチャーはあ、と小さく声をあげた。ナワーブだ。
「間抜けな顔してるなあ。こっちの気もしらないで」
ナワーブは渦を巻くようにして色々な人影を引きずっていた。自分もなかなか騒がしいが、彼も忙しないのではないかと思う。見えないならばともかく、あの青年には幽霊が見えるらしい。見えなくても良い、他人と共有する気のなかった面影たちは矢庭に歓喜した。声さえなくとも存在が煩い連中が一層活気づいたのは言うまでもない。一方クリーチャーは恐怖した。
別に、なんだっていいのだ。他人に幽霊がついていることも、いないことも、見えないことも。だが自分の幽霊――――自分には微かな記憶しかないものたちを、自分の一部として見られたり、探られたりするようなことは避けたかった。見せたいものだけ見せるように努力している意味がまるでない。幸いなのは、ナワーブもまた他人に自分が見えるものについて黙しているくらいだろうか。
「ピアソンさん、それ見えてるんでしょ?」
「何も見えないな。疲れてるのか、ナワーブ・サベダー。元気が余ってるなら、横断幕片付けてきてくれ」
見ようとしていないものを敢えて話してどうするのか、クリーチャーには到底理解不可能だった。金になる話ならともかく、幽霊を挟んで何を話せばいい?ここは現実で、お互い生きている。死んだ人間の、しかも互いに知らない人間の話をするなど不毛極まる。何度もかわし、話をそらしたがそれでもナワーブは執拗に食い下がるのだから難儀な話だ。自分に何を求めているのか。あるいは何か自分にとって不利なものをすでに掴んでいるのか、深読みをしてしまうではないか。散々イライラしながら何事もないフリをするにも疲れて、ナワーブそのものをいないものとして扱い始めても尚彼は問いかける。
そんなに幽霊の話をしたければ、幽霊と話せば良いのだ。期待、希望、好奇心、微かな恐怖、問いかけるたびに浮かぶナワーブの表情は全てクリーチャーに向けられたものではない。多分、幽霊がなければ彼は自分と話すこともなかっただろう。自分でなくたって、良いではないか。一言声をかけられるたびに、吐かれた問いかけが黒いもやとなって胸の中に溜まっていく。いつか火事場泥棒をする際に大きく吸い込んだ熱い空気のように体の中を燃やすのだ。
「何も見てないんだ、あれで」
目の前にいる自分ではなく、周りを取り巻くありもしないものばかり見る青年をどう扱ったものか。いっそ、違う話をしてくれたらばと思う。どんな話を?子供たちが首を傾げ、クリーチャーも首を傾げて苦笑した。眼下でナワーブが首を振る。虫を追い払って、そのまますいっと空を見上げた。目と目が合う。光の向こうは真っ暗な闇だった。
「ピアソンさん」
「……私が見えるのか」
どうせ自分の表情はよく見えまい。皮肉に笑うと、ナワーブはどこか慌てた様子で目を擦り始めた。ゴミでも入ったのだろうか。
「あんた、生きてるよね」
「生きててほしいか?」
「な、」
つい口から滑り出たセリフは随分と馬鹿げていた。ゲームではないのだ、生存を望む謂れは誰にもない。クリーチャー個人の生存を願う人間を求めるとはなんとまあ軟弱なことだろう。他人がどう思おうとも自分は好きなように生きれば良い。
「なんでもな「当たり前だろ!」
取り下げようとして、クリーチャーはナワーブの大声に全てを持っていかれた。あたりを見渡し、誰か起きてこないかと冷や冷やする。幸いまだいないようだが、怒鳴り込まれるのも時間の問題だ。慌ててナワーブに落ち着くよう身振りをしたが、何せ屋根の上と地面のやり取りはもどかしい。舌打ちして雨樋に向かうと、クリーチャーは意を決して滑り降りた。擦れる掌と、何よりも腹の奥底が熱い。グラグラと煮えたぎる理由は見当たらず、ただクリーチャーはナワーブを諫めるべく彼の前に立った。
「落ちたらどうするんだよ?なんであんたはそうなんだ、いつも」
「良いから落ち着けって。これくらい平気だろう」
どうして、とナワーブが子供のように繰り返す。クリーチャーの後についてきた透明な子供たちはナワーブの周りをグルグル回ってバターのように溶け合った。明日のおやつはドロップドスコーンでも作ろう。バターをたっぷり染み込ませて、ジャムを塗りたくるのだ。ナワーブががしりと肩を掴んで来て痛い。今振り払ったらばどんな顔をするだろう。自分ではないが、うっかり逆上して殴りかかってくることもありうるし、クリーチャーは彼に抵抗できるほどの膂力がない。一発殴られるだけで済めば良いが。
「なんで俺にだけ優しくないんだよ」
「……なんの話だ?」
「とぼけるな」
まるで寝耳に水で、クリーチャーは目を白黒させた。自分が?ナワーブに?そもそも彼に『だけ』とは、自分が誰にでも優しいかのようではないか。必要に応じて適当に波風立てずに生きている、それのどこが優しいのか理解不能だ。慈善家の看板に恥じぬ振る舞いができているのかと、踏ん反りかえるには観客が物足りない。おまけに相手は鬼気迫る表情で、少し間違えたらば命取りになるような気さえした。
「俺とだけ話そうともしない。話せるかと思ったら危ない真似までされて、あんた俺をどうしたいんだ?俺がどんなに嫌な気持ちかわかる?こんなこと話せるの、あんただけなのに」
「サベダー君、」
「あんただけなんだよ」
子供の手が縋り付いてくる。幾つも幾つも、まるで花畑のようにして地面から生えて揺れる。どの手を握ろうとしてもすり抜けるばかりで、クリーチャーが捕まえられるのは目の前のたった二つだけだ。間近で見た顔はひどく頼りなく、クリーチャーはようやく素のナワーブに出会ったような心地がした。
「……君は、私と話したかったのか?」
心臓がバクバクと鳴ってうるさい。ああ、生きている人間のなんと騒がしいことか!幽霊なんてやっぱり見えないものに過ぎないとつくづく思う。こんなまやかしは、地面に吹き散らされた木の葉と同じようなものだ。今、ナワーブの目に映っているのはクリーチャーだけだった。
「あんたと話がしたいんだ、『クリーチャー』」
それはゾッとするほど確実に心臓を鷲掴みにした。幽霊よりもおぞましく、湿っていて、ひどく熱い。ひょっとしたらば、自分はおばけよりも余程恐ろしいものに手を出したのかもしれないと、今更のように後悔の2文字が頭を過ぎったがもはや手遅れだ。囂々と血がざわめく音を聞きながら、クリーチャーはゆっくりと頷いた。何から話そう。幽霊ではなく、もっと現実的で自分らしい話か。
「今日は、月が綺麗だな」
話を重ねる。生きた人間にだけ紡げる言葉を連ねて、一人の人間を作り上げる。おばけの入り込む余地はどこにもない。だってあれは見えなくて、存在しないものなのだ。
「こういう日には思い出すことがあってさ」
君と話をしよう。
〆.
後書き>>
夏を迎えたので、おばけのお話です。見えたとしても、生きている人間の方がずっと恐ろしいことを知っている荘園の面々は誰もあまり怖がらないような気がします。そんな人間はどんな反応をするんだろう?世界に自分たちだけが見える幻覚の中で、どんな風に過ごすのかが気になって書きましたが、思えば相手に対する特別な感情は二人だけの幻なのかもしれません。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!