流れよ銀河
生憎の梅雨空により、人々が盛んに楽しみにしていた七夕は文字通り空の彼方に流れることとなった。情人節とも呼ばれるため、愛しい人と結ばれたいと願う乙女たちをたいそう悲しませたことだろう。元々は技芸を願う日だったな、と范無咎は道端に落ちた五色の糸巻きを見て懐かしく思った。范無咎の母親は息子に似て豪快で、こと繕い物にいたっては母よりも父の方が上手い。散々祖母が文句を言う様を見てきたが、打ちひしがれることなく他の優れた点で打開する母を范無咎は心から尊敬していた。そう、多少の欠点がなんだと言うのだ。できるものとできないものとで補い合えばそれで良い。
「昨日は織姫と牽牛は会えなかったみたいだな」
「あなたの口からそんな話が出るとは意外ですね」
「外が騒がしかったからな。ため息で、それこそ川ができそうなくらいだ」
いつもの通りに謝必安の家に遊びに行くと、手遊びの絵を描いていた青年がにこりと笑って筆を置いた。たった一本の線をどこまでも繋げて描き出す世界は見事で、これがただの趣味だとはもはやもったいないとため息が出る。紙の上で鳥は囀り風は歌う。水はどこまでも清らかで山は峻険でありながらも足を踏み入れる人間を迎え入れるかのごとく鷹揚だ。と、山間の細道をわずかな荷物を手にして歩く二人連れを見て范無咎は目を細めた。
「これは俺たちか?小さいのに、よく似ている」
「いつかは旅に出たいと言っていたでしょう?ここよりも遙か遠くの景色をあなたと二人で見れたら、きっと楽しいでしょうね」
「見れるさ」
勢い込んで言いながらも、范無咎はその難しさを承知していた。商人や中央に出るならばいざ知らず、二人はこれより地方官になることが望まれており、そうなるべく歩んでいる。要するに、何処へも行けない、のだった。常に空想の只中に自由はある。絵の中で山間には川が流れ、二人の旅人は橋を渡るらしい。いかにも雅やかな曲線を描く橋は幻想的で、桃源郷へと向かうかの如くだ。謝必安の心はどんなにか羽ばたきたいだろう。せめて彼一人ならば行けないか、と思って范無咎は咎めるような目にぶつかって慌てて打ち消した。
「行くならば二人で、ですよ。一人で行っても寂しいじゃないですか」
「旅は道連れだと?」
「何よりもあなたと。離れてごらんなさい、牽牛と織姫の二の舞になるかもしれませんよ。世の中、何が起きても不思議ではありませんから」
虚空を見上げる謝必安の眼差しの向こうには、昨晩の雨空で何もかもがかき曇った星の海が広がるかのようだった。雨で氾濫した星の川はさぞや荒ぶり、恐ろしいだろう。とは言え、仮にそうなったところでなんだと鼻で笑えるほどの自信が范無咎にはある。ぎゅっと謝必安の鼻をつまむと、幻想の世界に入り込んだ目がぱちぱちと瞬いて現実に戻ってきた。
「ひゃ、ひゃひをふるんれす」
「お前が珍しく気弱だからさ。そうだな、謝必安はあまり泳ぎが上手くないからあれを渡るのは大変だろうよ」
だが、できないものを片方がやればなんと言うこともない。濁流の音を幻に聴きながら、范無咎は真正面から謝必安の顔を見た。
「俺が、泳いで渡って行く。どんな波でも泳ぎ切って見せるから見ててくれ」
「……無茶をしてあんまり私を心配させないでくださいよ?」
「言ったな?」
「ふふ」
くすぐり合って笑った日のことを、後々范無咎も謝必安もよくよく思い返していた。わずか数秒、分すら数えないかもしれない間、銀河は轟々と流れ行く。
その河は涙でできていた。
〆.