BL NOVEL
  / HOME



泥の中より出る、いとらうたげなり



極楽にはまだ遠く


 どこからか水音が聞こえる。ギィッ、ギィッと聞こえるのは小舟に波が当たる音だ。故郷の水は綺麗だった。パチリと目を開くと、一面の緑が水底から伸び、天に向かってその生を言祝いでいる。ほんのりスウッとした匂いと同時に、岡田以蔵はここが一面の蓮池であることを認識した。夢である。こんなにも美しく悲しい、薄紅と黄色が入り混じった空の色を見たことはない。見る間にゆるゆると泥の中から蕾が頭をもたげ、パカッと目にも鮮やかな淡紅色を咲かせた。こもっていた空気を吐き出すような威勢の良さである。面白いと眺めているうちに一斉に他の蓮の花も咲き始め、池は実に賑やかになった。

「ああ、以蔵さん。やっと見つけたよ」

聞き覚えのある声に振り向くと、小舟に乗った男がゆっくりと池の中程に進んでいた。眩いほどに白い服、優しい声音、遠くからだってわかるそれは幼馴染だった坂本龍馬だ。夢の中にまで出るとは図々しい。同時に、夢の中では不思議とさして気に障らなかった。これは以蔵の夢だ。だから、以蔵の夢の中でだけ生きる龍馬なのである。煮るも焼くも自由とは可愛いではないか?

 だが、てっきりこちらを見つけたと思いきや、龍馬は小舟から水面に乗り出して大輪の花を大事にそうに抱えている。そういえばこの池の花は自棄に巨大だ。ちょうど人の頭くらいはありそうである。池を進んで龍馬を見れば、彼はひどく嬉しそうに花を抱えていた。

「泥の中に長くいたものね、辛かったろう。君が辛抱している間、僕はずっと探していたんだ」

夢の中だというのに、龍馬はやはり龍馬ということであるらしい。以蔵はここにいるというのにこちらを見ないし、勝手に決めつけている。何を辛抱した?自分の番はもう済んだ、呪わしい忌まわしい悲しく辛い苦しいことも全部あれで終わったのだ。裏切られたという事実も頂点から一挙に落とされたという事実も変わりはしないし、それに対する感情も変わらないのだが、以蔵は確かに終わったものだと理解している。時折、その過去を繰り返し生きるような気分になるが、それはまた別の話だ。

探したならばなぜわからない。自分はここだ、と言おうとして以蔵はハッと息を飲んだ。龍馬はその右手にひどく巨大なハサミを握っている。

「時間がかかってごめんよ、以蔵さん。もう二度と見失わないようにしなくちゃね。二度と繰り返さないようにするから、安心してくれ」

一瞬だった。その右手は綺麗に刃を開き、花を付け根から切り落とした。激しく首元が痛んだように感じて思わず以蔵は自分の首を触って確かめるも、こちらに異変はない。ただ過去の古傷が刻まれているだけだ。あんな幻想の中に自分はいない。

「こじゃんとおると大ごとじゃのう、以蔵さん。けんど、わしも気張るき、辛抱しとうせ」

懐かしい物言いをする龍馬の手の中に以蔵の頭がある。見れば、一面の蓮の花は皆全て以蔵の頭なのだった。どれもこれもが死んでいる。どれもこれもが少しも楽しそうではない。龍馬が欲しかったのはこんな自分か、と以蔵はひどく悲しくなった。以蔵はここにいるというのに、この男が取り戻したいらしい自分は過去においてきた腐ったものなのだ。意味がないとは言わないが、それは徒労だろうと思う。龍馬をあざ笑うように池はその体をどんどんと広げ、夏場の頃のようにわんさと緑が生い茂る。蓮の花に至ってはそこら中に咲き乱れ、中には見る間にしぼんで泥中に戻るものまであった。

「べこのかあ」

どんなに騒いだとてここは夢の中、届くことはない。ならば今はどうだったろう、と以蔵も泥の中に戻った。




 地獄のように暑い日だ。こんな日は涼んだほうがいいのだと坂本龍馬は知っている。故に出先に涼しげな池を見つけたので寄ったのは必定だ。人気のない、うっすらともやが出た池の畔にはうってつけの小舟まで用意されている。さぞやこれは優雅な涼みができることだろう。この程度の小舟なぞ、龍馬の前では玩具に等しい。意気揚々と乗り込み、座り込んで櫂を漕ぐ。池の水からひんやりとした空気が上がってくるのは実に心地がいい。

「いい気持ちだなあ。以蔵さんはどうだい」

自然と口をついて出た言葉に、龍馬はおやと首を傾げた。ここには一人で来ているはずだ。他に誰かがいるはずもない。現に振り返って見れば、小舟には龍馬ただ一人が乗っている。目を前の方に戻して首をふると、いつの間にやら池は蓮の緑で埋め尽くされようとしていた。今度は茎がぐんぐん伸びていって天を覆うように日陰を作ってくれる。こんないい具合はそうない。思いながら、龍馬は漸くこれを夢ではないかと考え始めた。今の自分はどこかもっと遠くにいるはずなのだ。牧歌的な場所に、宝具であり半身でもあるお竜もいないまま歩き回ることなど考えられない。

 確か、自分は何かを探しに来たはずなのだ。あるいは誰かを。櫂に絡まる泥土の重さに、龍馬は顔をしかめて動きを止めた。こんなよくわからない状態でとどまるというのはどうにも落ち着かない。泰然自若と構えようとしても、なにがしかの焦りが背中を揺らすのだ。

「え、」

水面をくるくると回る何かに、龍馬はハッとして猛然と櫂を漕いだ。あれはなんだ?まるで花のようにも見えたが、到底そんな可愛らしいものではあり得ない。蓮の葉やら茎やらが絡まって邪魔臭く、龍馬はいつの間にか握っていた鋏でちょきちょきと切っては進んでいった。無残な死骸が散らばる様も気にはならない。あれは、仕方のないこと、本来の自分であれば拾い集めなければならないあらゆる事物、夢の中ではそれよりもずっと大事なものを優先したって許される。無我夢中で近寄り、掴んだのは正に今開いた大輪の花、もとい

「ああ、以蔵さん。やっと見つけたよ」

岡田以蔵の頭、だった。大切な、大事な幼馴染。すくい上げることのできなかったどうしようもないもの、可能であるならば取り戻したいと何度も過去に思いをはせずにはいられない探し物だった。彼はどこかで首を落っことしてしまったのだ。斬首されたのだから当然で、ならばこの首を大事にとっておくのは自分の使命であると龍馬は自認した。

「泥の中に長くいたものね、辛かったろう。君が辛抱している間、僕はずっと探していたんだ」

彼が苦しみ泥の中に眠っていた間、確かに龍馬は辛かったのだ。自分自身を振り返ることは許されもせず息もつかせぬ怒涛の流れに揉まれていたのだ、たった一つの巨大な穴に気をとらわれるわけには行かない。けれども、忘れることまではできなかった。何より忘れたくはなかったのだ。

「時間がかかってごめんよ、以蔵さん。もう二度と見失わないようにしなくちゃね。二度と繰り返さないようにするから、安心してくれ」

自分のためにも、どうにかしなくてはならない。そうすれば自分は必ず自分の幸せと皆の幸せを同一に捉えて安寧をえるだろう。仏はあらゆるものを救うという。ならば自分はせめて目の前のカンダタに糸を垂らそうではないか。大事に抱きかかえた以蔵の頭を一撫でし、龍馬は先ほど道を切り開いた鋏でもってチョンとその首を切り落とした。抱え込める安心のなんと心地の良いことか!手に入れた以蔵の頭を掲げて目を除けば、蜜色が揺れて喜んでいるようだった。清らかな頭を膝に置き、感慨に浸っていたが物事は簡単ではないらしい。

「こじゃんとおると大ごとじゃのう、以蔵さん。けんど、わしも気張るき、辛抱しとうせ」

見渡す限り、この蓮池に咲き乱れるのは以蔵の頭だ。なんという体たらく、彼は何度落とせば気が済むのだろう。だが、これを全て取り尽くせば彼も自分も安心というものだ。どの以蔵も楽しそうで腹立たしい。自分はこんなにも不安だったというのに、否、いずれ自分も混じるのだ、今は余計なことは考えまい。鋏を振りかざし、切り取った頭を小舟に載せる。載せた端から以蔵たちは陽気な端唄を歌うなぞする。呑気なものだ。

 まるで昔のようだった。何も失っていない、何も持っていなかった全てをかき集めたような素晴らしさだ。今全力で取り戻している。それが望まれている。それを望んでいる。これを幸せと人は呼ぶのではないか?

「こんべこのかあ、人の話を聞きや!」
「痛っ」

不意に端唄に雑音が混じった、と思うと同時に後頭部に火花が散った。もやのかかった空に花火が打ち上がる。顔が池に浸かり、龍馬は見る間に池の底へと沈み込んでいった。

まだ取り戻せていないのに。

「以蔵さん!」
「ようやっと起きゆうか、龍馬。遅いんじゃあ、おまんは」
「……ごめん」

視界が開けた先は泥の中ではなく、宵闇の砂浜であった。そうだ、自分は確かカルデアのマスターに連れられて以蔵や他の者と共に素材を取りに出かけたのである。手分けしてあちこち探しているうちに散歩は夢に変わった。正確には、サーヴァントは夢を見ないので幻想世界を遊んだというべきか。ズンと横に立つ以蔵は、じっと龍馬を見ると小さくため息をついた。取り戻せていないな、と胸の内に陰りが出る。夢の中ですら思うようにいきはしない。

「えい。蛇女が、ますたあに連絡しちょったき、おまんは座っとれ」
「お竜さんが?そうか、彼女には苦労をかけるな。以蔵さんは大丈夫だったかい?敵の攻撃だと思うんだ、まだ近くにいるかもしれない」
「龍馬」
「うん」
「わしは天才じゃ、いらん心配をせんで他のことに頭を使っちょれ」

それは自分の心配が迷惑ということか、と龍馬は以蔵の目を盗み見た。これは独りよがりな考えだとわかっている。彼の意に沿わない形で取り戻そうとするなど図々しい。だが、以蔵の目には不思議と軽蔑や怒りといったものは見当たらなかった。少なくとも後者は年中見てきただけに意外である。どちらかと言えば、彼は見たことがない程に拓けていた。泥の中から太陽が生まれたような驚きで、龍馬の頭は自然と垂れる。垂れ下がる。自分が見てきたものはなんだったのか?

「龍馬、夜明けじゃ」
「嗚呼」

偽物とも本物ともつかない世界が宵闇を光に明け渡す。これは過去の終わりなのか、感傷的な自分の罪悪感をただそれだけだったのだと嗤う者なのか、龍馬にはなんともわからなかった。ただ以蔵の顔は穏やかで、それは摘み取ってきた数多の以蔵の頭にも見られないほどに尊い。やっぱり頭は体にくっついているに限るのだ。立ち上がって砂つぶを落とすと、龍馬は夜明けから隠すべく、そうっと以蔵の頭を抱えるように抱きしめた。


〆.


あとがき>>
 とうとう書いてしまった。初出はtwitterですが、他に書くこともなかろうなのでさっさと供養として移動しました。絵として思い浮かんだ情景だったので描こうと思うも、結局イライラしてしまってさっさと小説に落とし込んだ代物です。一見まともそうだけれども、龍馬の方が闇も狂気も深い(といいなあ)と思っています。過去に止まっているのはどちらかといえば龍馬で、以蔵の方は過去の事実を忘れたわけでも流したわけでもないけれども、それを踏まえた上での今を受け止めている気がする。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました!