暁光
本当は、煤けていることを知っている。目の前にある背中を撫で、そのなだらかな曲線を楽しみながらナワーブ・サベダーは微笑んだ。手のひらにゴツゴツとした背骨が当たるのがなんとも心地いい。クリーチャー・ピアソンの体は今や全てが白日の下に晒されていた。スウスウと穏やかな寝息がカーテンの隙間から溢れる朝日を祝福している。クリーチャーは”慈善家”として誰にでも胸襟を開いているようで、こんな風に無防備な背中を誰かに見せるなどまずありえないことをナワーブは承知していた。だからこその満足感が胸いっぱいに広がる。この世で彼に許されるのは自分だけとは実に甘やかだ。
相手を気に入ったのは多分、自分が先だった。刹那的な日々を過ごした経緯から、伝えたい時に伝え、手に入れたい時に手にいれる信条のナワーブが行動を起こすのは納得の流れだろう。奇襲を受けたクリーチャーが戸惑い、ためらい、ついであたかも自分の方が上手だと懸命に虚勢を張っていた姿はなかなかいい眺めだった。疑り深いクリーチャーを全て取り込めたのは、ナワーブが自分について包み隠さずーー話したいものだけをーー語ったことによる。自分の唇の端にまつわる忌まわしい話をも教えたナワーブに、クリーチャーは目を伏せて聞いていたものだ。
どれほど語り尽くしても、クリーチャーは自らについて語ることはほとんどない。それでも良いとナワーブはあっさりと割り切っていた。この荘園にいる人間には誰しも隠し事がある。そして土足で入り込むには今ひとつ工夫が必要だった。ナワーブは面倒ごとを全て省いたーー聞き込み調査をしたのである。それも相当に慎重に、密やかに進行し、断片的な情報をつぎはぎした頃には客観的に言えば無残な話が紡がれた。煤だらけのひどい過去だ、なるほどナワーブに過度な明るさを描くクリーチャーでは貝のように口を閉じるのも道理である。言うなれば、人間のクズと言っても良い。
こんなにも頼りない背中をしているくせに、平気で暴言を吐き暴力を振るうのは、目的に対して真っ当だと思う手段がねじれているからだろう。正しいことは、正しいやり方を知らねば狂ってしまうのだ。よって、ナワーブが抱いた感情はずばり嫌悪よりも道場だった。およそ中年男性に、それも恋人に向けるものではない。クリーチャーが知れば激怒し、羞恥で全ての扉を閉ざしてしまうだろう。一度、彼は荘園を抜け出ようとしたことがあると聞く。不成功に終わった試みだが、せっかく捕まえた今行動されては困る。秘密は秘密のまま、ナワーブが知っているという事実が大切なのだ。もしかしたら、いつかはクリーチャーが話してくれるかも知れないのだけれども、ナワーブはあまり期待せずにいる。
クリーチャーの腹に手を伸ばし、ぎゅっと抱きつく。寝ている間にかいた汗の匂いがほんのりと漂い、生きている実感をナワーブに伝えてくれた。一つ一つ、クリーチャーの中に溜まった煤を取り払って、自分といる未来だけを見るように仕向けるには、あとどれくらいの日々が必要だろう。何十日、何ヶ月、何年かかっても構わないから、ずっとそばにいて欲しかった。いたずらに脇腹をくすぐると、ううん、といううなり声が漏れる。多分よだれが垂れているだろうな、とナワーブは無性に顔が見たくなった。
「ピアソンさん」
「んー」
昨晩のクリーチャーは相変わらず狡猾で、いじましくて愛しかった。本当に秘密は秘密のままで良い。いつか話せる日が来るかも知れないと恐れ、怯え、惑っている分だけクリーチャーはナワーブを想うだろう。二、三度揺するとごろりと体がこちらを向く。やっぱりよだれが垂れていて、ナワーブは迷うことなく口づけをしてやった。
「おはよう、ピアソンさん」
「……君は犬か?飼い主はもう少し寝かせておいて良いんだぞ」
「うー、わんわん!」
「わかったわかった」
からかいに対して負けじと犬の真似をしてやると、クリーチャーの手が伸びて、くしゃくしゃと頭を撫でてくれる。その手が好きだった。誰にでも差し伸べる手だけれども、ナワーブにだけは特別優しい、お気に入りの手だ。ついでぐいと引き寄せられてちゅっちゅと口付けられる。まだ寝ぼけているせいか積極的な様子が微笑ましい。もっと、と追いかけるとへにゃりとクリーチャーの体から力が抜けていく。二度寝を決め込もうとする体をなぞって、ナワーブは昨晩残した痕を確かめた。カーテンを引いて、もっとはっきりと見られないことが苛だたしい。
「起きないと、このまましちゃうよ」
「朝食はフランス方式で良いな」
「やだ」
「いいじゃないか、カフェオレにクロワッサンだぞ?ウィラが喜ぶ」
うっすらと目を開けたクリーチャーがクスクスと笑う。わかっていてやっているのだ。金色と空色の瞳が、まるで朝に広がる空のように美しい。全部ナワーブのものだとはなんて素敵だろう!
「オムレツとスクランブルエッグのどっちが良い?」
「オムレツ。マッシュルームが多めのやつ」
「注文を承りました、ご主人様」
こうして、今日が始まる。明るく、新しい日々の第一歩を踏みしめる。愛しい人を煤から引き起こし、ナワーブは改めておはようを告げた。
〆.