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*短いので三本まとめて詰めてます。



雲間に晴れの兆しあり


 あの人が、ゴミ出しを手伝ってくれるようになったのはいつからだろう。一人暮らしなので溜め込むまでに時間のかかるペットボトルを入れたゴミ袋を見遣り、エスゲンはぼんやりと考えた。どうにも近頃、ふとした時に思いめぐらせてしまう。夫が亡くなり、一度挨拶したきりだった夫の上司という人は実に惚れ惚れとするような男ぶりの人物だった。すらりとした長身に無駄なく筋肉がついていると想像される体躯、片目こそかつて嗜んでいた競技で失ったといえども整った顔立ちとくれば、男女問わず人気があるという話にも頷ける。

ちなみにこの話は近所に住む夫の部下だった青年から聞いた話だから、さほど誇張ではないだろう。言葉数は少ないものの、きめ細やかな優しさはエスゲンの心に生まれた隙間を埋めるには十分だった。昨日はダイドゥクル、という名前を呼び捨てにして欲しいと言われて心臓が飛び出るかと思ったものだ。そもそも、同じマンションに住んでいることがわかったのは、皮肉にも夫の葬式の場である。一人では何かと不便だろうから、いつでも相談して欲しいという台詞を社交辞令だと受け流していたのに、ダイドゥクルは本当に親身になって世話をしてくれている。

 来週からは、ダイドゥクルの紹介で社員食堂の手伝いを始める予定だった。ゴミ捨てを手伝ってもらうせめてものお礼にと、手製の夜食を渡したのがきっかけである。 そこまで考えて、昨晩のやりとりを思い出し、エスゲンは不覚にも頬が熱くなった。

「お前は、もっと自信を持っていいと思うぞ。こんなにも美味い食事は久しぶりだ」
「ふふ。舌が肥えているダイドゥクルさんに言われると、照れますね」
「……できるならば、毎日食べたいくらいだ」
「え?」

はにかんだダイドゥクルの笑みは、年下らしい可愛さを初めて見せてくれた瞬間だった。同時に、なんということもない台詞を深読みしてしまいそうになって慌ててしまう。あれはどういう意味だろう?夫のことを忘れたわけではないが、薄曇りの日々に光が射したような心地だった。

「私の拙い手料理で良ければ、どうぞ」

自分の答えは、果たして正解だったろうか。今夜も来るというあの人を思い浮かべて、エスゲンは夕食の下ごしらえに取り掛かった。


〆.


秋の呼び声


 秋は豊穣の季節である。それまでに蓄えられたエネルギーが結実し、見事なまでの美味や滋味を供する。手塩にかけた甲斐があるというものだ。ダイドゥクルは農耕の民ではないが、刈り取るべき対象はきちんと育てている。が、時には見誤ることもあり、今正に軌道修正を迫られていた。

「エスゲン」
「どうかしましたか、ダイドゥクルさん」
「お前……少し、いやかなり体が緩んでいるだろう」
「えっ?いや、それは私は中年ですから元々緩んでますよ」

自分よりもはるかに白い肌。柔らかな表情。円やかな雰囲気、エスゲンの全てをダイドゥクルは気に入っている。故に、パートナー会社の社員たるエスゲンを上手いこと丸め込んでいたのだが、餌をやりすぎたようだった。エスゲンの手料理は美味い。近頃ではダイドゥクルの好みのものを選んで作ってくれているようだ。お返しにと言う名のデート(ダイドゥクルはそのつもりだ、だが何も言わぬ仲が進展するはずもない)で方々の贅沢な食事に連れ回したのだが、豪勢な味に付き物の高カロリーがエスゲンの代謝をはるかに上回っていたらしい。

 今日もエスゲンの家で夕食をとり、その余韻に浸っていたのだが、つい彼の身体を見つめていてようやく気づいた失態だった。椅子から立ち上がり台所のシンクで洗い物をするエスゲンの背後に移動すると、年長のはずの相手から緊張感が漂ってくる。ダイドゥクルには嗜虐の趣味はないが、エスゲンはいささか他人を煽るような人物だった。これではまるで子羊か生娘だ。

 ふっくらとしている。ダイドゥクルは迷わずエスゲンの頬をつまみ、ついで腹の肉を摘んだ。突然のことに対応できず、エスゲンがヒッと悲鳴のような声を上げる。込み上がる愉悦を隠しおおせると、ダイドゥクルは検分を続けた。エスゲンについたしっとりとした肉は、シャツの上から摘んでも分かる程に柔らかい。嫌いではないが、もう少し締まっている方が好みだ。

「エスゲンは、普段運動をしているか?歳を取ると代謝が落ちるから、気をつけるに越したことはないぞ」
「うう、事実なだけに反論できないのが悔しいな……御察しの通り、土日もついだらだらしてしまって何もしてないんです。ダイドゥクルさんは服の上から見ても筋肉がついてそうですね」
「ああ。別に減るものでもない、見せてやろう」
「えっちょ、良いです!良いですって!急に脱がないでください」

エスゲンの顔はますます赤くなって沸騰しそうだった。男同士だというのにこの程度で動揺してどうする、とも思うが、可愛らしいので問題はない。ブドゥガ社の社員であればノリに乗って共に脱ぎ始めていたことだろう。反対を押し切ってネクタイを解き、シャツを脱ぐ。アンダーシャツを脱いで見せれば、ほうとエスゲンの口からため息がこぼれた。日々鍛えているダイドゥクルにとって、あるべき賞賛の声である。

「触って確かめてみたらどうだ。ここまでとは言わないが、お前も多少は鍛えると良い」
「正直に言えば羨ましいですし、私の身体は恥ずかしいですけれども、そんな、触るだなんて」

あまり強要してはセクハラに当たるだろうか。今更常識の声が脳裏に響いて、ダイドゥクルはからかいをやめてアンダーシャツを戻しかけ、はたと止まった。

「……うわあ、本当に硬い。毎日鍛えてらっしゃるんですか?」
「エスゲン」

概ね毎日だ、という返答は声にならず、ダイドゥクルは轟々と唸る己の血潮を制することで精一杯だった。エスゲンの乾いた掌が己の筋肉に触れている。腹をなぞる手に意図などないというのに、こんなにも動揺するとは思ってもいなかった。とんだ計算違いである。どうしてくれようか。きゃっきゃと喜ぶ果実を前に、ダイドゥクルは刈り取り時期を見定めた。


〆.


微笑み返し


 過分な幸福である。朝からため息をついて、エスゲンは洗濯物をたたんでいた。亡夫の上司、から既に馴染み親しんだ知人(友人と呼ぶには何故か躊躇いがある)であるダイドゥクルは、実にエスゲンによくしてくれる。家事を手伝い、職場を世話し、寂しさを埋めるように食事を共にしている。近頃では、エスゲンの緩みきった身体を締まらせるべくジム通いまで共にしている程だ。鍛えられあげた身体が示す通り、トレーニングを熟知しているダイドゥクルがパーソナルトレーナーとして指導までしてくれている。本来ならば謝礼を払うべきだろうが、エスゲンの提案にダイドゥクルは首を振るばかりだった。

 こうしたやり取りについて、先日出会った亡夫の部下に話したところ、それは下心があるのではないかと揶揄されたことを思い出してエスゲンは顔をしかめた。あの礼節を重んじるダイドゥクルにそんなことはないーーだが、そうであっても厭わしくはない。寧ろ夫がいた頃のような楽しさを享受しているエスゲンの方こそ、彼と共にいたいと、その機会が増えてほしいという下心を持っているのだ。こんな浅ましい気持ちを持っているとは知られたくなくて、エスゲンは今日も理性と欲望を戦わせていた。どうにかしてさりげなく、ダイドゥクルにこの感謝の気持ちを伝えたい。貴方のおかげでどん底の淵から這い上がれたと伝えられたらどんなに良いだろう。最後のバスタオルをたたみ終えて、エスゲンははたと気づいた。

「ダイドゥクルさんは、一人暮らしだものね」

そして勤め人だ。毎日パリッとした、彼のために誂えられたかのように似合うスーツを着ている。シャツの様子からして、きっとクリーニング屋に夥しい量の洗濯物を持ち込んでいるに違いない。亡夫のシャツにアイロンを当てるのは、エスゲンの仕事であり、ちょっと得意に思っていることだ。これくらいならば、厚かましさもないだろう。微笑むと、エスゲンは静かに夜を待つことにした。




「シャツを?しかし、そんなことまでエスゲンにしてもらうのは気がひけるな」

もはや日常となった夕食をダイドゥクルと共に過ごした後、昼間から企んでいたことを告げれば、案の定彼は狐につままれたような顔をしてみせた。いつも泰然自若としているダイドゥクルにしては珍しい。矢張りおかしいだろうか、と焦りながらも、エスゲンは少ない勇気を掻き集めてなんとか切り返した。

「あ、嫌だったら良いんだ!その、私は手が空いているし、クリーニングって結構お金がかかるものだから、少しでもお返しができたらなって。こう見えても私、アイロン掛けの腕は確かなんだよ?あの人も」

あの人、という単語がぽろりと口からこぼれた瞬間、エスゲンはたまらなく自分が悪いことをしているような気分になって来ていた。死んだ人間に対して裏切りというものはないと理性が言うものの、沸き起こる罪悪感は拭いきれない。うまく続けられなくなってしまったエスゲンを救ったのは、矢張りダイドゥクルだった。

「すまない。お前を疑うつもりはないんだ……ただ、嬉しくてな。喜び過ぎたら、エスゲンが妙に思うかと心配した。早速だが、明日からお願いしても良いか?」
「もちろん!」

優しいなあ、とエスゲンは胸がキュンと鳴るのを聞いたような心地になった。これだから、ダイドゥクルに会うのはやめられない。共にいる時間を増やしたくて仕方がない。

 だが、二人は別々の人生を歩んでいる。別の部屋に暮らしていて、エスゲンがダイドゥクルに思うような気持ちをダイドゥクルも持つとは言えない。寧ろエスゲンに対してダイドゥクルは同情しているだけかもしれないのだ。エスゲンが元気になりきったら、もしくはもっと気になる人がでにれば、この時間は無くなってしまうだろう。そんなことがあったら、エスゲンは今度こそ立ち直れなさそうだった。

「おやすみ、エスゲン。また明日」
「おやすみなさい、ダイドゥクルさん」

ひとしきり話して、扉の前に立つ瞬間がエスゲンは嫌いだった。帰らないでと頼みたくなってしまう。彼のいない喪失感が恐ろしくて、エスゲンはぎゅっと拳を握った。

「また、明日。ダイドゥクルさんの好物を作っておくから、楽しみにしていてね」
「ああ」

エスゲンが小さく笑って手を振る。彼の家へと、エスゲンの知らない世界へと去ってしまうその背中を、エスゲンはいつまでも見つめ続けていた。


〆.