積もった時間を大切に。
ページめくり
ボーン、ボーン、クルッポー、ポー、ポーッ。脳を揺さぶるような不協和音にハッと目を覚ましたナワーブ・サベダーは、つい先ほどまで見ていた景色が夢なのか、それとも今自分が存在している場所が夢なのか区別がつかなかった。確か軍需工場の裏手で倒れ伏したところを美智子に見つかったように記憶している。だが、体のどこを見ても怪我をしている様子はなく、周囲もいつもの食堂だった。壁の中央にかかった鳩時計を見上げれば、時刻は四時、窓から差し込む光からまだ日中だと知れる。
ここはどこだ。いつもの、などとは言うがナワーブには心当たりのない場所だった。よくよく考えてみれば夢の中に出ていた軍需工場も、美智子も、得体の知れないゲームと呼ばれた惨劇も記憶にない。軍隊の中では、まま寝ずの番をする際に恐怖譚が語られることも多いので夢に出たのだろう。つまり、今は夢の中の夢というわけだ、とナワーブはすとんと納得した。あれこれ考えるのは性に合わない。夢ならば、目が醒めるまでーー再び戦場に立つまでを当たり障りなく過ごせば良い。
「……ナワーブ君、さっきはありがとう」
片肘をついて、さあこれからどうしようかと思案し始めた頃、ギーッと食堂の扉が開いた。現れたのは少しくたびれた、お世辞にも身綺麗とは言えなさそうな中年男性で、奇妙なほどに目が泳いでいる。自分の名前を知っているらしいが、夢の中ではどういう設定なのか、ナワーブは判然としなかった。
「別に、いいよ。ねえ」
この人の名前は?真っ直ぐに彼の顔を見て、ナワーブは両目の色が異なることに気がついた。片目は義眼らしい。
「あんた、誰?」
「……は?」
ぽかんと口を開けると、男は慌ててナワーブに駆け寄ってきた。わざわざテーブルをぐるりと回らなくとも顔は見えるというのに、である。あまりにもそば近くに寄られ、ナワーブはぎょっとして思わず後ずさった。夢の中とは言え、見知らぬ挙動不審な男に迫られて気分が良いはずもない。自分に危害を加えそうであるならば排除しようと腰に差したククリナイフを確認すると、ナワーブはもう一度だけ繰り返した。お前は誰なのか、と。ごくりと鳴った喉はどちらのものだろう。
「はは、冗談を言わないでくれ。さっき救助に失敗したからか?それとも昨日寝なかったから?なあ、ナワーブ君」
「それ以上近づいたら殺す」
「っ」
ナワーブが後ずさった分だけ近寄ろうとした男の体がピタリと止まる。ひょろ長く薄い男は、銃弾を浴びたらばすぐさま吹き飛んでしまいそうだった。戦場では役に立ちそうもない。それよりもこの男はなんと言った?ナワーブの救助に失敗したということは、どうやら先ほど見ていた悪夢は夢の世界の一部らしい。この男には到底無理だろう。あんな恐ろしくも美しい化け物に対してあまりにも無力だ。
「ピアソンさん、ナワーブ君。何してるなの?」
「う、うう、ウッズさん、」
曙光が射したように男ーーピアソンの目に明かりが灯る。ピアソンにつられて彼の背後を見れば、麦わら帽子にエプロンという、奇妙な格好の少女がこちらに手を振っていた。ピアソンがウッズという少女の名を呼んだ際、どうにも胸がチリリと痛んだことは奇妙極まる。ひょっとすると、夢の中の自分はウッズが好きでピアソンを疎ましく思っているのかもしれなかった。ウッズは瞳の虚ろさがやや気になるものの、客観的に見れば可愛らしいし、対するピアソンは変質者じみている。ウッズが現れた途端にしゃんと背筋を伸ばすところからして、この男が少女に好意を抱いていることは確かだった。
「ナワーブ君と喧嘩はしないで、ピアソンさん。ナワーブ君、さっきはありがとうなの。おかげで勝てたの」
「……それはどうも」
「ウッズさんのことも忘れてるってことは、正気みたいだな」
絶望に塗れたピアソンの乾いた声が響く。なぜそんなにも悲しそうな表情をするのだろう。お前はただの夢の中の存在しない人間のくせに。夢には自分の一部が出ると誰かが言っていたが、ピアソンはごめんこうむりたい。自分の中にあるには余りにも寂しそうだ。無意識に差し伸ばそうとした手を引っ込めると、ナワーブは改めて自分が何も理解していないことを二人に伝えた。
「ロケットチェアの衝撃が強かったなの?」
「いや、荘園の主人が何かいじったのかもしれない。一応手紙だけは出しておこう」
「エミリーに伝えてくるなの」
「ああ」
少女が去っていくのを見届けると、ピアソンは改めて一つ向こうの椅子に腰掛けた。ナワーブのパーソナルスペースを尊重してくれるつもりではあるらしい。ぎこちなく笑みを浮かべるも、彼の顔から絶望は拭えない。しわがれた咳を数度すると、ピアソンはどこから話したものかと説明を始めた。
「私はクリーチャー・ピアソン。さっきいたのはエマ・ウッズと言って、この『荘園』で君と一緒にゲームをする仲間のようなものだ。他にも何人かいるから、あとでおいおい確かめていくと良い。君は一年ここにいて、傭兵としての経験を生かしたプレイでみんなと連携を取っていたんだ」
「ゲームって言うのは、化け物と追いかけっこをする奴のこと?」
「そうだ。わかるよ、正気の沙汰じゃない。けれども君も、他の人間も参加しているんだ。ゲームに勝てば巨額の賞金が出るからな」
「へえ」
金だけの目的で自分が恐ろしいゲームに参加するとは全く思えなかったが、ナワーブは短く頷くにとどめた。ふと故郷のことが頭に浮かんだのだ。東インド会社に勧誘されて外国へと飛び出して以来、もう何年も会話することもない。写真がなければ、戦場での恐怖に押しつぶされて記憶すら霞んだろう。そうだ写真、と思って懐を探ると確かに古びた写真が入っていて心の底から安堵した。クリーチャーが痛ましいものを見る目を向けてくることが苛立たしく、低く唸るとすっと目が背けられた。
「君の部屋に案内するよ。少し落ち着くと良い。もしかしたら何か思い出すかもしれない、」
「夢から醒めるかもね」
「夢か……はは、夢なら良いな」
再びチクチクと胸が傷んだが、ナワーブは全てを無視してクリーチャーについていった。
クリーチャー・ピアソンは、生まれて初めて神に懺悔した。神父はいないので頭の中で過去に出会った厳格な神父を思い描いたベッドの上での悔悟である。自分のしでかしたことを後悔したこともなければ、どんなに他人から悪だと指摘されようとも甘んじて受け入れてきた。しかし今となってはどうだろう、一時的にせよ与えられたエデンの園は一瞬にして消え失せてしまっている。まるで最初から何事もなかったかのように。
端的に言えば、クリーチャーはナワーブ・サベダーのおかげで生まれて初めて人を愛し、人に愛されるという無常の喜びを得た。なんの見返りもなく委ねる気持ちは体に羽が生えたかのような軽やかさで、恋人になって以降のナワーブの輝きを見たフレディ・ライリーに、お前も善行を施せるようになったんだなと評された程である。クリーチャーは自分には降りかからないと、降りかかってはいけないと躊躇していた全てをナワーブに許した。ナワーブがずっと自分に全てをくれていたのだから、なけなしの意地も捨て去ったし、一欠片も後悔してはいない。
だが常々恐れていたことに、神はクリーチャーに天罰を与えた。今のナワーブは何一つ覚えていないどころか、荘園に来たばかりのあの誰も信用できないという様子で、あまつさえ今ここにいることを悪夢の一環だと考えているらしい。一年ほど前であれば平気で受け流した殺害予告は、クリーチャーの胸の奥深くまで刺さって夜中をとっくのとうに回った今でさえも元に戻せない。人を愛した罰か。あるいは本当はナワーブが自分との関係に後悔していたという可能性すらある。ぶるりと身を震わせると、クリーチャーはぎゅっと枕を抱えた。
クリーチャーの部屋はそこかしこにナワーブの気配が漂っていて、全部幻だとしたら自分の頭は他人が言う以上に狂っている。ナワーブに一通り荘園内の関係について説明したものの、とうとう恋人であった過去を話さずじまいだった。刺すような目つきで見る青年には受け入れがたい事実だろう。他の皆にも事実関係は伏せるようにと頼んだので、罰の初日はつつがなく終わった。
「ナワーブ」
彼が言うように、これまでの全てが夢であれば良かった。本当は夢だったのかもしれない。なんて都合がいい世界だったのかと思えばため息が出る。ひもじく寒さに震えた幼い日々も、野良犬よりも邪険にされて傷ついた気持ちも、諦めきってなりたい自分を作ろうと立ち上がり、それを全部崩されてしまった悔しさも夢で、心蕩かす出会いも描けやしない。どうにも寝付けずに唸って立ち上がると、クリーチャーは食料庫へと繰り出した。どうせ明日は休みなのだから、深酒をしても許される。そろりと廊下に出ていくつか曲がり、複雑な屋敷の構造を抜け出れば食料庫だ。泥棒に入った時のように扉をゆっくり押しあけると、以外にも先客が酒盛りをしている最中だった。
「こんばんは、ピアソンさん」
「こ、こんばんは、イライ君、フィオナ」
「そう警戒しないでくれ。これもまた運命というものさ」
くるりと鍵をかざしてフィオナ・ジルマンが微笑む。横に座るイライ・クラークはポートワインを飲んでいるらしく、目隠しの下はほんのり赤く色づいていた。仕方なしにクリーチャーがセモリナ粉の入った箱の蓋に乗ると、フィオナがギネスビールの瓶を投げてくる。ぱしりと受け取って栓を開け、クリーチャーは喉を埋め尽くす泡に束の間苦悩を忘れた。
「それじゃ、君たちには今日のことがあらかじめわかっていたわけだ」
「知りませんよ。あなたたちの犬も食えない仲なんて、いちいち見る暇があるわけないじゃないですか」
「見ようとしないものは見えないからな」
「ごもっともな話をありがとう。……で、私はこれからどうなるんだ?」
情け容赦のない客観的な事実にクリーチャーは顔を歪めた。運命論者であったことはこれまでの人生で一度もなかった。神にすがることも、占いの結果に一喜一憂するような悩ましさなど持たずにいられたのである。それがこのざまで、凹んでいるのはクリーチャーばかりだ。だが、酒に酔った二人はゆっくりと首を振った。
「運命を自分で掴み取ろうとしない人間にかける言葉はないな。クリーチャー、君は一度彼の全てを受け入れたんじゃなかったのか?」
「君たちに隠し事をするのは無駄だから言っておくが、その通りだよ。だからこの先なんて恐ろしくて考えられやしない」
彼らに話しかけるのではなかった。ウィラ・ナイエルに頼んで全部忘れさせてもらった方が随分と気が楽ではないか?誰だって、できるならば地獄から逃げ出したい。一度逃げだせたならば、もう二度とあそこには戻るまいと思うものである。舐めた甘露は極めて完美で悩ましい。一気に残りのビールを呷ると、クリーチャーはしゅわしゅわと弾ける頭で運命とやらを見ようとした。手で望遠鏡の形を作ってあちらこちらを見回す。どこもかしこも壁だらけで、出口はどこなのか見当もつかない。これでどうやって運命を掴めと?
「一度できたんでしょう」
ぽつりとイライが呟いて林檎を投げてきた。酔っていようとも確実に受け取ってみせると、クリーチャーはかすかな知識を呼び起こす。林檎は確か知恵の樹の実と呼ばれていたような気がする。
「もう一度やり直してみたらいかがですか」
なるほど、悪くない案だった。
夢がいつまでも終わらない。何日も寝ては起きを繰り返し、それでもなお荘園に居続けている。ナワーブは顔をしかめると、配られたカラメルカスタードを口にした。まろやかな卵と乳の味わいにはちみつが混ざり、カップの底から苦いカラメルがせり上がってくる。作ろうと思えば故郷でも作れそうな代物で、素材のままを形にした味わいがナワーブのお気に入りだった。作ったのはあのクリーチャーだと言うから意外な話である。
そう、そのクリーチャーはやたらと親切だった。君が生き延びることは皆のためになるのだとナワーブに論理的に説明し、ゲームの中での立ち回りを教え、箱の開け方や数々の”舞台”の特徴なども伝授する。さらには実際のゲーム中にも実演して見せてくれるのだ。彼は慈善家らしいので、ナワーブも援助の対象とみなしているのかもしれない。夢の世界に来てから何度か参加したが、根本的な恐ろしさは変わらずナワーブを襲っている。それでも生きのびられればと活を入れるのは傭兵という性に依るものだろう。褒められたいと思ったことはないものの、何かを達成する都度クリーチャーや他の仲間の称賛に預かることはナワーブのプライドをくすぐった。
さらに彼は、他の仲間たちに馴染めるようにさりげなく遊びにナワーブを誘う。お節介だとわかっているのか、つい嫌悪の感情が先立ってしまうナワーブから当の本人はするりと抜け出していた。今だってそうだ。おやつを大量に作って配り終えたクリーチャーはどこかに雲隠れしている。カラメルカスタードをスプーンですくい、口に運んでナワーブはため息を零した。そろそろ自分も素直にクリーチャーに感謝を捧げるべきだろう。故郷の母ならばナワーブの不義理を叱り飛ばしているところだ。それにーー彼の不在は不思議とナワーブの胸を痛ませた。
「ナワーブ、お前カラメルカスタードは嫌いだったか?なんなら俺が食べてやるよ」
「親切なふりをして俺の分まで食べようとするのをやめろ、ウィリアム。好きだよ」
ずいっと近寄ってきた影に、ナワーブは警戒してカラメルカスタードの防御にかかった。このウィリアム・エリスという快活さを人間に仕立て上げたような男は、好青年ではあるがこと食料に関しては思いもよらぬ狡知を駆使することは学習済みである。前にもそうしていたな、と懐かしく思ってナワーブは首を傾げた。これは、この世界は本当に夢なのだろうか?
「んな怖い顔すんなって。本当、お前ってピアソンさんの作るものなら何でも好きなんだな」
「まさか」
反射的に返し、ナワーブは再び首を傾げた。思い返すと、ウィリアムが言うことは正しい。クリーチャーは的確にナワーブの好みの食べ物を作り出してくれていた。そのくせ感想を聞くことも、敢えて礼を受け取ることもしないでさっさと消えてしまう。以前はナワーブが食べきるまで待っていてくれた、はにかみながらナワーブの賞賛を受けていた姿はどこにもない。ハッとしてナワーブは思考から舞い戻った。好きだと当て込んでいたエマ・ウッズにも、他の人間にも乱れない心は度々クリーチャーで乱されている。
「ウィリアム。ピアソンさんがどこにいるのか教えてくれ」
「お前の方が詳しかったのになあ。中庭とかにいそうだけど、イライに聞いた方が早いと思うぜ」
「人を便利な迷子案内所にしないでほしいですね」
すでにこの展開を呼んでいたのか、空のカップを手にしたイライが席から手を振ってよこした。ついでにピュイ、と彼の肩に止まっていたフクロウが飛んでナワーブの周りを旋回する。何を確認しているのか察したナワーブはしばし迷いーーまだ半分は優に残っているカラメルカスタードをイライに捧げた。なべて神託には供物が必要なのである。
「結構結構。そうですね……むむ、ピアソンさんは今ロイさんとポーチにいますよ」
「了解。ありがとな」
セルヴェ・ル・ロイのこちらを見透かしたような表情を思い出し、ナワーブはむうと唇を歪めた。カート・フランクの世慣れた穏やかさとはまた違った胡散臭さと、ナワーブが知らない自分自身のことを知っているらしいそぶりがどうにも鼻につく。彼の見せてくれる手品は一級品で、毎度目を輝かせて見てしまうのだが、芸事と仕掛け人とはまた別物と考えたい。
談話室を抜けて廊下を二度曲がり、西側の扉から外に出ればポーチがひらけている。イライの言った通りに、そこではセルヴェとクリーチャーが並んでベンチに座っていた。すぐさま声を掛けることは躊躇われて、ゲームの最中と同様に身を潜めて近付く。何を話しているのか、自分の前では曇った鏡のような表情を見せることの多いクリーチャーは腹を抱えて笑っていた。どうして。
「……それで私は言ってやったんだ。私を捕まえたいなら、監獄が丸々一個必要だとね」
「傑作だな。たかが酔っ払いだと思ったらあのセルヴェ・ル・ロイだとわかって向こうも肝を冷やしたんじゃないか?」
「ああ。信じられないようだから鍵をとって、丁寧にご当人の浮気の話を指摘してやったよ。おかげで余計な手続きなしに出してもらえたさ」
どうやら昔の失敗談を聞いているらしい。セルヴェの話がひとしきり終わると、今度はクリーチャーに水が向けられた。しゃがみこんだ姿勢は窮屈でならない。さっさと木立から飛び出て礼を言えば済むはずなのに、ナワーブの足は根が生えたようにびくりとも動かなかった。ただ耳だけは何倍にも大きくなって羽の舞い落ちる音すらも拾おうとしている。
「いつあのことを伝えるつもりなんだ、クリーチャー。それとも向こうが言ってくるまで待つのか?」
「……いつかは言うつもりでいるよ。エミリーにも『奇跡が二度起きると思ったら大間違いよ』ってどやされたしな。おかしくないか?奇跡っていう意味じゃあもう二回起きてるんだ。まさに神よ私を呪いたまえ、だ。彼がどんな目で私を見てるか知っているだろう」
「お世辞にも我らが慈善家殿は清廉潔白には見えないからな。仕方がないさ。ところで一つ聞いて良いか?お前は一体いつ彼を好きになったんだ」
彼とは誰だろう。心臓がハンターに近づかれた時のようにドキドキと高鳴り、ナワーブはぎゅっと拳を握った。てっきりクリーチャーはエマを好いているのだと思ったが(それはそれで不愉快な話ではある)自分の気持ち同様に深読みのしすぎだったか。クリーチャーがへにゃりと相貌を崩し、ナワーブはあっと息を飲んだ。あの表情を自分はよく知っている。人が、誰か愛しいものを思う時に見せる顔つきだ。
「わかってたら苦労はしないな。彼に言われてから何度も考えたよ。ただ、今思うと言われた頃にはもともと好きだったような気はしているんだ。最初からとまでは言えないがね。セルヴェ、あんたの方が私なんかよりも経験の一つや二つも重ねてるんだ、わかるんじゃないか?」
「一本取られたな」
と、ちらりとセルヴェの目が一瞬ナワーブの方を向き、きゅっと眇められた。気づかれている。どうするつもりかと固唾を飲んで見守っていると、セルヴェはごくごく自然な様子で帽子をかぶり直した。
「前々から疑問に思っていたことを聞いても良いか?お前はあの子がお前のどこに惚れたんだと思う」
「それこそ、神が与えたもうた奇跡さ。あんたが言う通り、私を選ぶやつなんてそういない。客観的な事実だ。……最初は、私が作るソアケーキが好きだと言ってくれたな。できたてのケーキを見る私の目と手つきを毎日見たいって言ってた。てっきりつまみ食いの理由だと思ってたよ。あとはなんだっけな、足が早いところか?彼はな、セルヴェ。私以上に私の良いところを知ってたんだよ」
クリーチャーの声に導かれるようにして、ナワーブは一つ一つの光景をなぞった。”彼”が誰かはわからないが、同意できる。今日半分ばかり口にしたカラメルカスタードの甘さと苦さはまだ舌に残っているし、クリーチャーが粗熱がとれるまでカップを見張っていた時の様子はどこかナワーブを安堵させた。一足先に盗み食いをしようとしたノートン・キャンベルの手が叩かれたのを小気味好く思ったものである。なぜだか、クリーチャーが厨房に立っている姿を側で見ていると、母親とはまた違う熱を感じた。”彼”もそうだったのかもしれない。
それからも思い出話は続くが、クリーチャーの口から”彼”の名前は神の名前のようについて出なかった。一つ光景が浮かび上がるたび、ナワーブの胸に暖かさが広がると同時に締め付けられる。夢の中がこんなにも現実味を帯びて感じられるとは思ってもいなかった。否、これはやはり夢ではーー
「お前にそこまで言わせるなんて、ナワーブ君は幸せ者だったな」
「ありがとう。私も、幸せだった」
不意に自分の名前が飛び込んできて、ナワーブは強く頭を殴られたようにぐらついた。”彼”は”誰”でもなく自分だったのだ。道理でこうも胸が落ち着かなくなるわけである。これ以上クリーチャーの泣きそうな顔を見ていられず、ナワーブは肘当てを使って自分の部屋へと戻った。今こそ、現実と向き合う時なのだ。不気味に思って全く手をつけていなかった自分の日記を読んでみよう。事実はきっと、足跡を残しているに違いなかった。
思い出を語る時、どうして乾いた事実だけでなく、湿った感情までも引っ張り出されてくるのだろう。自分の頭が今ひとつ理解できず、クリーチャーは自分のベッドに腰掛け靴を脱いだ。用意していた金だらいに水さしで水を注ぐ。古い枕カバーを利用した布巾を浸して遊ばせると、ぎゅっと水を絞り出した。一緒に自分の中に残った思い出も締め出したいが、こちらはどうにもできそうにない。
布で足指を丁寧にぬぐいながら、クリーチャーは心底セルヴェを恨んだ。流石舞台で聴衆を虜にしただけあり、魔術師の話術は完璧だった。自分でも言うつもりはなかった、奥底に閉まったままの本音の全てを連れて行かれたような気がする。軽薄なようでいて他人の秘密を守る誠実さのある男が相手で本当に良かった。旧知のエミリー・ダイアーあたりに知られたが最後、ゲームで怪我をするたびにお小言と一緒にオブラートに包まれた何かがねじ込まれかねない。
爪切りを取り出しながら、景気付けに鼻歌を始める。いつぞやナワーブが教えてくれた、彼の故郷の調べだ。ゆりかごに入れられてゆっくりとゆられるような、眠りを誘う音階はクリーチャーの頭を柔らかくした。またこの曲をナワーブの口から聞きたい。そのためには自分から真実を言わなければいけないと認識しているものの、あと一歩のところで躊躇してしまっている。だんだんとナワーブの態度は軟化しているが、以前のような好意を自分に傾ける偶然が発生するかは定かではない。
明日。明日こそ言おう。言わなければ結局何もないことと変わらない。生煮えの地獄で過ごし続けられるほどクリーチャーは夢に生きていなかった。ここにあるのは現実ばかり、書き綴った日記たちがでんと聳えた時間を物語っている。自分の喜びを、怒りを、戸惑いを、そして悲しみをおし包んだ時間たちはわけもなく愛しい。片足の爪を切り終わり、もう片方に取り掛かろうとしたところで突如大きな爆発音が起こり、クリーチャーはハッとして顔を上げた。扉がこちら側に向かって倒れているように見える。はて爆弾魔なぞこの荘園にいただろうか?ぞっとしながら爪切りを掴んだままでいると、扉の残骸となった穴から乱暴な仕草で人間が飛び込んできた。
「ピアソンさん!」
「な、ナワーブ君、なんでこんなことを、いやなんで来たんだ?」
ひとまず爪切りをサイドボードに置き、クリーチャーは敵意のないことを示そうと両手を上げた。まさか殺害予告を今更実行するという話ではあるまい。自分は殺されるほどのことはしでかしていないはずだ。肩で息をするナワーブは見る間に近づき、クリーチャーの目の前に仁王立ちになる。たとえ惨劇前だとしても、この距離でいられることにほのかな喜びを感じてしまう。君は知らないんだろう?
「あのなあ。扉を破壊したんだから、説明くらいはしてくれたって良いんだぞ」
「日記、読んだんだ。ここは、夢じゃないって、わかった……夢じゃないんだよね?」
「ふ」
すがるようにこちらを見るナワーブの瞳に、不思議と笑みがこぼれた。呆気にとられるナワーブの前にぴ、と人差し指一本を掲げてみせる。
「知ってるかい、ナワーブ君。私は君が好きだし、愛してるんだ」
「もっと早くに言ってよ!」
「はは。これでもだいぶ勇気を出したんだぞ。私がものをなくすのを嫌いなことは知ってるだろう?ま、もう少し早くに拾いに行けば良かったのは認める……わっ」
犬のようなうなり声が聞こえたかと思うと、クリーチャーは勢いよくベッドの上に押し倒されていた。これ以上愛しいものはないというようにナワーブの左手がクリーチャーの見える目を、頭を撫でる。ナワーブのもう片方の手はクリーチャーの手指に深く絡められ、これまで離れていた隙間を埋めるように額に、頬に、鼻にと口づけの雨が降る。呼吸困難になりそうなほどの近さにクリーチャーの脳裏で花火が打ちあがっていた。
「全部思い出したってわけじゃないんだ。でも、あんたをまた好きになってるし、そのうち全部思い出すよ……ね、キスして良い?」
「聞いてからするような奥手だったか、坊や、んっ」
「もう」
知らないからね、とナワーブが容赦無く唇に噛み付く。目を見ながらするのをやめてくれと前に言ったことを思い出しながら、クリーチャーは反射的に目を閉じた。唇に触れるぎざぎざとした縫い目の懐かしさ、かじりついてくる歯の硬さ、どれもこれもがひどく愛しい。思い出なんかよりもやっぱり現実だな、とクリーチャーはすがりつきかけた脳内の神を捨て去った。
どろどろになる脳みその中で、クリーチャーは明日はソアケーキを作ってやろうと心に決めた。そうして日記に書くだろう。明日も、明後日も、そのずっと先も抱え続けていくために。
〆.
あとがき>>
twitterで「#リプきたイラストや写真から妄想SSを送り返す」に、ぽめおさんからリーサルウェポン絵を受け取ったので、この絵に込められた幸せはどこからくるのかを辿りながら書き上げました。目の前にあるものを現実だと信じ続けられるのは、本当はとても奇跡的なのではないでしょうか?自分の幸せを、そしてそれがどこからくるのかを知っていて離さないのは尊いように思います。泥棒は足元をすくわれても、ふとした時に年長者の余裕のようなものを漂わせて欲しい……ぽめおさん、素敵な作品をありがとうございました!!
そして最後まで読んでくださり、ありがとうございます。