ORIGINAL NOVEL
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 twitterで、「#ふぁぼした人を創作キャラ化する」というタグをやっていたものです。一つの世界にいる奇妙な人々を書く、という体にしたかったので、一覧表示になっています。順番はふぁぼ順です。


■閃光屋 

 閃光屋は賑やかし屋の一種である。人生には華がなくてはいけない。だが悲しいかな、生まれ持った華ではいささか寂しい場合がままある。そんな時に力になってくれるのが閃光屋だ。彼らは文字通りに閃光となって依頼主を照らし出す。どんな路傍の石でもダイアモンドのように虹色の輝きを放ち、ありとあらゆる人を魅了する。時たま、往来で閃光屋を身に纏った人が結婚や交際を申し込む様を見かけることがある。どんな場合であっても、閃光屋の前では無力だ。

だが勿論、忘れてはいけない。閃光屋が離れれば、残されたのは依頼主本来の華だけだ。一瞬目を奪った後も長続きさせるのは本人の持ち分ーー当たり前の話だが、どうにも人はこの一瞬の昂揚に身の程を忘れてしまうらしい。無惨な様子を呈する人々を、世は花火と呼ぶ。打ち上がってしまった後の無惨さは見るに耐えない。

 閃光屋も白袴同様、その眩しさばかりが目についてしまうが故に正体は謎のままだ。人の人生を彩る仕事、当の本人が目立ってはいけないということなのかもしれない。描き出す鮮やかな閃光を持つ、その人物こそが至上の魅力の持ち主ではないかと思われるのだが、未だに謎に包まれたままである。


■茸ハンター 

 この世界で何よりも問題になるのが茸害というやつである。湿気の多いこと、多いこと、多いこと!湖沼地帯が多いのだから仕方がないが、これでは健康にも害があろうというものである。何よりも茸だ。茸はありとあらゆるところに現れるーー地面、階段、床の裏、靴の中から、大事な情報が入った電算機まで。とりわけ社会的にも被害の大きいのが電算機に掬う電磁茸だ。本当に小さな点のようなものから見る間に大きく広がり、電磁茸を拠点にバグが大量発生する。物理的にも、中の情報としても破壊活動が活発化し、哀れ情報は闇の向こうへ、ということにもなりかねない。

そこに颯爽と現れるのが茸ハンターだ。勿論事態が発生するよりも遥かに先に、その鋭い嗅覚で茸の存在を察知しなければならない。現れ出た茸ハンターが、特殊な折り畳みナイフをぱかりと開くだけで、すぐさま茸達は群れを為して逃げようとする。それを許す我らが茸ハンターではない。完膚なきまでに捕え、蒸し、焼き、茹で上げる。残されたのは茸が根絶やしにされた美しい、あるべきものだけである。

 茸ハンターは手間賃以外にはさして要求しない。だが、その場で売られる茸料理は絶妙で、誰もが高額と知りつつも手を出さずにはいられない。茸ハンターの茸料理は格別だし、何より彼らが狩る茸は滅多にお目にかかれるものではない。特に、セットで売られる杏茸のジャムはこれなしでは生きて行けなくなる程だ。

茸ハンターは、鷲のようなするどい鼻と、長く太い二つのお下げ髪が目印である。髪色は杏茸のように赤い。目はいつも瞑っているのでよく見えないが、きっと綺麗だろう。膨れ上がった装備で解り難いのだが、実は若い女である。


■鳩屋の女 

 鳩屋の主。鳩屋とは、ありとあらゆる情報を届ける電信サービスである。サーバの不具合も、容量の過不足もウイルスも何もかもが鳩の前では無力である。電子鳩は注文に従って網の目をかいくぐり破り抜いて宛先へ情報を届ける。勿論目玉が飛び出る程に高額だが、各国の要人含めて様々な組織の御用達であるため、鳩屋は未来永劫安泰である。

昔は鳩屋の妹と呼ばれていた。姉と仲良く鳩を育てている姿が散見されたのだが、ある時姉はどこかへと飛び出て行ってしまった。噂では鴉屋に嫁いだそうである。些か顔に対して大き過ぎる眼鏡は、姉のものではないかと言われている。灰緑色の髪に、ピンクがかった灰色の瞳がつぶらに光る。可愛らしさに騙されてはいけない、彼女は稀代の商人でもあるのだ。


■白袴 

 白袴は、所謂<<兄弟達>>の一種である。双子のようによく似た人間が、いつでも二人一組で働いている。どうしようもない汚れが生じた際、人々は白袴の下に行く。白袴ではありとあらゆる汚れを落としてくれるのだ。衣類、家具、身体、そして記憶まで。故に、白袴は恐怖の象徴である。彼らの前に秘密は存在し得ない。ありとあらゆる汚れは彼らに留まり続け、彼らがそれを何かに利用していることだけは確かだ。

白袴は、紺屋と組んでいることでもよく知られている。白袴の構える店の隣はいつだって紺屋だ。憶測ではあるが、白袴に集められた汚れが紺屋に売り渡され、紺屋の染め上げに利用されているのだろう。紺屋は全てを闇夜のような紺色に染め上げる。

 残念ながら白袴の顔を覚えている人間はいない。『双子だった』『いや、双子のように見えるが他人だ』『袴が白い!白かった』と散漫な記憶が寄せられているものの、はっきりと彼らがどんな姿形をしていると言える人物はいない。白袴の前では、彼らに関する情報もまた、白く洗い流されてしまうのだ。


■剪定者

 選択肢が多いというのは考えものである。世に可能性は無限大、さながらもうもうとした砂漠の中にぽつねんと置いて行かれたような心地、途方に暮れた人は数知れずであろう。せめて某か、どこが自分にとって最善かを教えて欲しい、と先達やら占いやらに頼るのだけれどもいっかな決まらない。優柔不断であるのも深謀遠慮であることも何も悪いことではないのだが、物事は一つも進まない。だが日は過ぎてゆくばかりなのだ。

このような時には剪定者に会うと良い。小さな細く鋭い鋏の持ち主は、その刃を静かに研いで客の訪れを待っている。注文は只一つ、自分にとって良い枝振りを残して欲しい、これで良い。剪定者は速やかに客の可能性を全て調べ上げ、良い枝のみを残すべく鋏を振るう。ぱちぱちと鋏が鳴ればあら不思議、悩みは払拭され、客は速やかに満足のいく決定をなすことができるのだ。

 しかし、自身の運命を他人に委ねるというのは危険ではなかろうか。本当に残された枝は良いものなのだろうか?落ちた枝をろくろく確認もせずに決断して良かったのだろうか。ここで知れるのは、存外人は自由というものを窮屈に思っているらしいということである。自由という体は大事だ。だが、自由とは面倒くさくも力を要することなので、結局他人に某かの形で委ねることで自分の責任からも何からも目くらましされることを望んでいる、そういうことだろう。

剪定者は、落ちた枝葉を報酬に受け取ることが常、はてそれは何を意味するのだろうか。


■指屋

 昨今、指の消費が激しい。流行云々もそうだが、粗忽者乱暴者、指をぞんざいに扱う人間が増えているように感じられる。一昔前ならば呆れられたことだろう。さて、指屋である。指屋は独自の技術により、天然の指を養殖することに成功した者である。知られているように、かつては指はそこら中で採れるもので、地面からにょきにょきと生えていたものだ。

だが、昨今の都市化に伴い、指にとって街は暮らし辛くなったようである。今では天然ものの指は非常に高値で取引されている程だ。とりわけ天然ものも、流行や出来不出来によって値段が左右される。指屋はそうした天然ものの指を、当代の流行にそって生やし、育て、速やかに客に提供する一大事業なのだ。何しろ指というものは、人間の身体に装着するものなので相性が命である。素敵な指を買ったはいいものの、自分の身体に上手く合わず、泣く泣く捨てた古い指を探した、という話もちらほら聞く。剣呑な話だ。指屋はその点、養殖ものなので多少は融通が利く。実に便利である。

 噂に寄れば、指は庭をぐるりと囲む垣根のようなものに、びっしりと生えるそうである。一つの塊で同種類の指が育てられる。細くて白い、少し曲がった人差し指の塊は全て同じ指が納まっている、という訳だ。普段つけ外しもする便利な指だが、考えてみれば些か不気味な話にも聞こえる。



■ワニ泣かせ 

 ワニの目にも涙、とは言うものの、ワニは滅多に泣かぬ強情な生き物である。故にその涙石は宝石に比する価格で取引される。ワニの涙はただ薄灰色に緑がかった、下手をすればそのあたりにも転がっていそうな石なのだが、大変な薬効があるのだ。この涙石なくしては治らないという病は大量に溢れかえっている。しかしワニは泣かない。ワニ屋はあがったりである。

ワニ泣かせ、はワニを泣かせることにかけては右に出る者がいない。一見すればただワニの傍に居て、どうとでもない話をしているように見えるのだが、見る間にワニの目にはじわりじわりと涙が滲み、ぽろぽろと涙石を零すのだという。ワニ泣かせは天分の仕事なのか、あるいは技術的なものであるのかは職業上の秘密ということで未だに明かされぬままだ。

 優れたワニ泣かせは、ワニの大泣会を開き、優に五十匹を越えるワニ達を一堂に集めて泣かせることができるという。恐らくそれは、ワニの共感を産んでいるのだろう。さながら潮騒のようなワニの鳴声は、一度耳にしたものの脳裏に焼き付いて離れない。実に罪な職業である。



■埋める人 

 人は空虚を抱えている。人間とは社会的な生き物であると言うから、自分一人では埋まらない部分があるのだろう。それが何であるのか解る人は稀だし、解った所で埋められる人も少ない。故に、人はもがき、求めて前へと進むのである。飢餓からの欲求は何よりも強く、人を促進するだろう。だが、それが過大なものであったとしたら?他人を害してでも満ち足りようとしたら?それは社会的には害悪だろう。

 埋める人は、そんな社会の困りごとを減らすために、文字通り”埋める”人なのである。彼らは一体どんな姿形をしているのか、全く解っていない。ただ確実に存在はしている。例えば、朝方にまま見受けられる、「こんな人生を繰り返すならば生きてゆきたくなどない」と嘆く者がいるとしよう。この手の輩は過度になれば厄介で、他人も巻き込んで死に向かおうとする。本来の目的は死ぬことではない筈なのだが、見失う程に絶望しているのだ。しかし、ふと見ると彼らはうなだれたままではあるものの、毎日を繰り返すべく職場や学校へと向かっていくのである。

 これを、先代マイダン教授は”埋められた瞬間”と呼び、学会で正式に認められた。勿論この他にも多くの事例が報告された上での確かな話である。虚無とは、実際の物理的な飢餓に生じるものから恋煩いまで様々である。だが、それが過度になったが故に社会に悪影響を及ぼした人物は年々減る一方である。埋める人の働きが正に効力を発揮しているのだと言えよう。

埋める人は、何を以てして埋めているのだろう?あるいはそれは、埋めるのではなく、欲求を、人々の希望とも推進力とも言えるものを差し引いているのではないか?一説に依れば、埋める人は政府が遣わした公務員だというのだがーー謎もまた、埋められたままである。



■被り物 

 被り物は、聖なる生き物である。ひょいっと現れて人間の頭の上に載り、その人間を大いに力づけるのだ。勇気や知恵を授け、恐らくは宿主本来の力を大いに引き出す力を持つと考えられている。緊張していた演台での発表、結婚の申し込み、大義ある決闘などで出現が報告されており、「突然成功する気がおりてきた」「天からお告げを受けた」などという感想が述べられている。いずれにせよ、どれも”降って来た”という表現を用いているところが肝要である。

 被り物を被った人は皆、その効能を口にはするものの、具体的にどのような生き物であったのかを説明できない。自分の頭の上に載っているものなのだから仕方がない。だが、周囲の人間からは全く何も見えていないというのだから不思議な話だ。いるのだがいない。いないのだがいる。そういうことになっている。だがこれが生き物であることの証左に、被り物が載るか載らないかは全く以て被り物の”御気分次第”なのである。被り物を被ろうと思っても被れるものではないのだ。

時折、罪を犯した者が「被り物に言われたんだ!私じゃない、違う!」などとでたらめなことを言うと聞く。だが、被り物は聖なる生き物、邪悪なことなどおかまいなしである。それはただ自身の心に従っただけに過ぎないのだから、人は自分の身の中に飼っている獣をこそ飼いならすべきだろう。もし、そんな懸命な姿を被り物が気に入ったならば、きっと載って来てくれるに違いない。



■雨粒拾い

 雨に唄えば棒にも当たるという。非常事態にのんきなことをしていると危ない、という至言だ。だが、それに準じた行為をする者がいる。雨粒拾いだ。彼らは<<兄弟達>>よりも厄介な連中で、簡単に言えば一攫千金を狙う夢を追いかける冒険者である。一旦雨が降り始めれば、膝丈までにざぶざぶと波打つ水が押し寄せるというのは知っての通りで、実に困った話である。ただ、雨というものは中心となる雨粒を追いかけて集まる習性があるので、その雨粒さえ他所に運んでしまえば難を逃れることができるのだ。

 この、主たる一滴を探し出すのが雨粒拾いである。主たる一滴は歌を好むと言われ、彼らはややもすれば自身も流される可能性があるというのに大声で歌っている。がなるもの、こぶしをまわすもの、踊るもの、様々だが、矢張り上手さに比例して雨粒が寄って来るようだ。雨粒を拾い上げると、彼らはそれを結晶化して他所へと運んで行く。干ばつ地帯では逆に雨粒が必要とされているからだ。

 昼日中、通りで歌を聴くことがある。物悲しい、涙を思わせるその歌こそ、雨粒拾いが練習する魂の歌なのだ。



■誘いかけ 

 「え、今何て言ったの?」この台詞を、人は何度口にし、また耳にするだろうか。我々の耳は完璧ではない。聞こうとしなければ聞こえない、肝心なことを聞き漏らすことすらある。仕方がないのでもう一度繰り返し話してみたり、聞いたりもするのだが、聞かれなかったままの声というのはどこかに残る。受け皿を失った声は地面に落ち、埃のように風に乗ってどこかに連れて行かれるのだ。

 当然ながら、天気が良ければ落ちていた声も舞い上がる。受け皿を求め、一斉に舞い上がった声は切れ切れになって様々な耳へと潜り込み、受け入れてくれと頼むのだ。これぞ、”誘いかけ”である。勿論多くの台詞は呼び水でもなんでもないのだが、往々にして”誘いかけ”と呼ばれる。全く関係のない、恐らく見ず知らずの人間の発言であることが多いだろうに、何故だか人々は「死んだ母親の声がした」「家で待つ子供の声がした」などと戯言を言う。

 どうやら人々は、誘いかけの寂しさに乗って、自身の寂しさの声を聞いているようだ。音は頭の中で、知っている誰かの声に変換される。そして驚いた人々はこう言うのだ、「え、今何て言ったの?」と。


■犀の目売り 

 犀は運命に立ち向かう者の象徴である。古来より、犀のようにただ一人歩み、運命に向き合って己が道を全うせよと戒められてきた。しかし、多くの人間が忘れがちなのだが犀は現存する生き物である。動物屋ではなかなか見られないため、実に希少な生き物のように扱われている。だが、実際には犀は大量に自然に溢れているし、逆に言うならば我々が住み暮らす場所が、外の世界に比べて実に狭いというだけのことだ。

犀の目は、そんな生き物の目である。転がる眼球は真っ黒で、どこかしっとりとしている。光が当たればぬらぬらと虹色に光る様が不気味だ。掌の上に握ると、ゆっくりと光の波紋が揺れ動き、一つの模様を形作る。これぞ、犀の目が一流の占い道具として持て囃されている訳だ。犀の目こそは唯一、真実を告げてくれるものなのである。

 犀の目占い屋が最も多く店を並べているのは列車の駅舎である。知っての通り、我々は迷いやすく、優柔不断なものだから、出かけようと決めてもなかなか行き先が決まらない。決まらないままに一日が過ぎ、最終列車もなくなってしまうことすらある。これでは鉄道会社も商売上がったりだ、という訳で公式に占い屋が軒を連ねることになったのだ。人々は余程の事情がない限り、まず占い屋に寄り、行き先を決めてから切符を買って列車に乗る。どの客も晴れ晴れとした顔をしている。実に犀の目様々である。

 犀の目売りは、如何せん裏方の商売なので我々の目に触れることは、まずない。彼らは外の世界で犀を狩り、その目をとって帰って来る勇者だ。彼らのお陰で、我々の生活は日々進んでいるのである。